妙一女御返事(事理成仏抄) 第四章(末法流布の時を明かす)

妙一女御返事(事理成仏抄) 第四章(末法流布の時を明かす)

 弘安3年(ʼ80)10月5日 59歳 妙一女

又法華経の弘まらせ給うべき時に二度有り所謂在世と末法となり、修行に又二意有り仏世は純円一実・滅後末法の今の時は一向本門の弘まらせ給うべき時なり、迹門の弘まらせ給うべき時は已に過ぎて二百余年になり、天台伝教こそ其の能弘の人にてましまし候いしかどもそれもはや入滅し給いぬ、日蓮は今時を得たり豈此の所嘱の本門を弘めざらんや、本迹二門は機も法も時も遙に各別なり。
 問うて云く日蓮計り此の事を知るや、答えて云く「天親・竜樹・内鑑泠然」等云云、天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得んや、安楽行品に云く末世法滅の時」云云、此等の論師人師・末法闘諍堅固の時・地涌出現し給いて本門の肝心たる南無妙法蓮華経の弘まらせ給うべき時を知りて・恋させ給いて是くの如き釈を設けさせ給いぬ、尚尚即身成仏とは迹門は能入の門・本門は即身成仏の所詮の実義なり、迹門にして得道せる人人・種類種・相対種の成仏・何れも其の実義は本門寿量品に限れば常にかく観念し給へ・正観なるべし。

 

現代語訳

また法華経の弘まる時は二度ある。それは釈尊在世と末法とである。修行にもまた二つの意味がある。仏在世に弘まるのは純円一実の法つまり法華経二十八品であり、滅後末法の今の時は、ひとえに本門の肝要である南無妙法蓮華経の弘まる時である。迹門の弘まる像法時代は既に過ぎて二百余年になる。天台・伝教こそ、その教えを弘める人であったが、いずれも、もうこの世を去った。今はまさに日蓮が末法の時を得たのである。どうして末法にかなった本門・南無妙法蓮華経を弘めずにはおられようか。法華経の本門と迹門の二門は、衆生の機根も法も、説かれた法も、流布される時においても天地はるかに相違がある。

問うて云う。日蓮大聖人だけがこの事を知っているのか。

答えて云う。「天親・竜樹は内鑑冷然で心の中では十分知っていたのである」天台大師云く「末法の初めの五百年は遠く妙道に沾うであろう」伝教大師云く「正法・像法もやや過ぎ去って末法が大変に近くにある。法華一乗によって救われるべき機根とは正しく今の時である。何をもって知る事ができるのであろうか。安楽行品には『末世法滅の時に』等と説かれている」。これらの論師・人師は、末法の闘諍堅固の時に地涌の菩薩が出現され、本門の肝心である南無妙法蓮華経が弘まるのを知って、その時を恋い慕って、このような解釈をされたのである。

なお即身成仏とは、迹門は能入の門であり、本門は即身成仏の実義そのものを説いている。迹門で得道したとされている人々も、また種類種・相対種の成仏も何れも即身成仏の実義は、本門寿量品に限るのであるから、常に深く確信して信心に励んでいきなさい。それが正しい悟りなのである。

語句の解説

在世と末法

在世は釈迦在世、末法は釈尊の仏法の功力が消滅・隠没する時。

 

天親

05380597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

内鑑冷然

心の中では十分知っているが、外には言い出さないこと。開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189:02)とある。

 

論師

阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

 

末法闘諍堅固の時

人間間の対立・分裂・増悪が盛んに起きる時。

 

地涌出現

法華経従地涌出品第15において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち(法華経452㌻以下)。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第21で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。法華経従地涌出品第15において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち(法華経452㌻以下)。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第21で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩といい、この菩薩の出現するときは末法の始めである。

 

種類種

あらゆる衆生に共通かつ本然的に具わる仏性。正因・了因・縁因の三因仏性のこと。相対種に対する語。薬草喩品には「此の衆生の種、相、体、性」の種の字を天台大師が解釈したもの。法華文句には「若し類に就いて種を論ぜば、一切の低頭挙手は悉く是れ解脱の種なり」とある。御義口伝に「種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり下の種の字は南無妙法蓮華経な」(0795:一薬草喩品:03)とある。

 

相対種

衆生の生命に本然としてそなわっている煩悩・業・苦の三道のこと。就類種に対する語。薬草喩品には「此の衆生の種・相・体・性」とあり、法華文句ではこの「種」のじを訳して、おおむね「此の三道も妙法を信ずることによって即、法身・般若・解脱の三徳と開くことができ、これを成仏という」と、述べている。

講義

この章では、竜樹・天親・天台・伝教等の未来記を引かれて、日蓮大聖人こそ末法の時期にかなった本門の肝心たる大法、南無妙法蓮華経を弘通する末法の本仏であることを明かされている。

そして、あくまで即身成仏の本義は、本門寿量品に限ることを確信するのが正しい悟りであると教えられている。

 

又法華経の弘まらせ給うべき時に二度有り所謂在世と末法となり、修行に又二意有り仏世は純円一実・滅後末法の今の時は一向本門の弘まらせ給うべき時なり

 

釈迦仏法と日蓮大聖人の仏法を比較されて、弘まる法自体の相違と、その修行、実践の違いについて述べられた御文である。

法華経の弘教の順序次第については、通常正像末の三時に分けられる。そのなかで、釈尊滅後第二の1000年である像法時代は法華経迹門が流布すべき時で、中国においては天台大師が出現している。

天台は五時八教の教判をもって法華経第一と立て、当時の南三北七の邪義を破折して仏教界を統一し、摩訶止観の理の一念三千によって衆生を化導した。

一方日本においては伝教が法華経をもって南都六宗を破折し、迹門の戒壇を比叡山に建立して広宣流布した。しかし日蓮大聖人は本抄において、法華経流布の時は在世と末法の二度であるとして、天台・伝教の像法時代を加えていない。その理由を日寛上人は、撰時抄文段に五意を挙げ明らかにしている。

一には、像法はこの経の利生がいまだ盛んでない故に。

二には、像法には、諸大乗経の利益があり、ただ法華経のみが唯一無二の即身成仏の大法でるとの妙能が明らかでない故に。

三には、像法には正直の妙法を弘めない故に。

四には、像法には事行の三千を顕わさない故に。

五には、像法にはいまだ深秘の大法を弘めない故に。

このように像法時代は、奪っていえば真実の法華経流布の時ではなかったのである。

さて、釈尊在世と末法と、法華経の弘まる時に二度あるといわれるが、その法華経の内容においては天地雲泥の差がある。すなわち在世の法華経とは、釈尊の出世の本懐である法華経28品をさす。

19歳で出家した釈尊は、難行苦行を経て30歳の時、宇宙・自然・人間存在を貫く絶対真理の法である、いわば「生命の法」を悟った。それ以後釈尊は生命の永遠、一念三千の悟りを大衆の機根に合わせて様々な角度から説いた。それが後に八万四千の法門といわれる膨大な量の経典として結集されたのである。

釈尊の法華経は、成仏の核体・南無妙法蓮華経の本尊を久遠に受けて、しかもこれを忘失して永く迷って来た人々に、もとの法を覚知せしめるためであった。故に純円一実の法を説き、また久遠の仏身を示して、衆生の内心境界の久遠下種の妙法を知らしめたのである。したがって、その化導の姿は、悟りを主とする関係上、表面に下種の本尊が確立されず、その実践方法も、所詮明確にされなかった。

しかし滅後末法に至って日蓮大聖人が出現され、釈尊がその悟りの実体については明らかにし得なかったところの核心を、南無妙法蓮華経であると喝破し、それを一幅の曼荼羅として初めて御本尊を開顕された。

日蓮大聖人の出世の本懐として三大秘法の御本尊を図顕あらせれたのは、生命の究極を本源的に解明し尽くされた法即人のただ一人の久遠元初の御本尊だからである。

「滅後末法の今の時は一向本門の弘まらせ給うべき時なり」との一向本門とは、法華経28品における本門ではなく、大聖人の独一本門の南無妙法蓮華経であり、大聖人の仏法は釈迦仏法とは本質的に異なるものである。上野殿御返事には「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)とある。

この大聖人の仏法こそ真の即身成仏の法門であり、受持即観心の法である。世俗を捨て出家して法を求める必要はなく、我々は現実社会の中で三大秘法の御本尊を広宣流布し人間革命していくのである。

 

即身成仏とは迹門は能入の門・本門は即身成仏の所詮の実義なり、迹門にして得道せる人人・種類種・相対種の成仏・何れも其の実義は本門寿量品に限れば常にかく観念し給へ・正観なるべし

 

即身成仏ということについて、迹門と本門との相違を示された文である。

釈尊は42年にわたって爾前経を説いた後、出世の本懐である法華経を説き、即身成仏の法門を明らかにした。

すなわち迹門方便品において、諸法実相に約して理の一念三千を説き出し、二乗の成仏、女人成仏、悪人成仏の原理を表わした。このため迹門を能入の門という。

更に本門寿量品では、本因・本果・本国土の三妙合論が説かれ、五百塵点劫の顕本の上に事の一念三千が明かされる。すなわち迹門で説き明かされた一念三千の理論を根本として、現実に仏の生命を顕わした釈尊の振る舞いの上から即身成仏の本義を明かすので、本門を事の一念三千という。

しかし、日蓮大聖人は文上法華本門に説き示されているところを、更に一歩掘り下げて、釈尊が五百塵点劫において、凡夫から仏に成った根源の法を取り出されたのである。この根源の法が寿量品に内包されているが故に「本門は即身成仏の所詮の実義なり」と述べられているのである。ただ文上本門をさして「成仏の所詮の実義」とされているのではない。

釈尊の法華経は、成仏の種子を説き明かす日蓮大聖人の仏法からすれば、その根源の種子の説明ないし、そこから派生した法門として位置づけられ、本門・迹門といっても、共に迹門理の一念三千と名づけられるのである。

大聖人は釈尊が法華経をもって説明したところの、成仏得道の根源種である南無妙法蓮華経を一幅の曼荼羅にあらわされた。草木成仏口決には「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(1339:13)とある。末法の一切衆生はこの本尊を信ずることによって即身成仏しうることができるのである。

なお種類種・相対種の成仏について簡単にふれると、種類種とは、地獄界・餓鬼界・畜生界等のあらゆる衆生に本来そなわっている仏性のことである。種類種の成仏とは、御本尊を信じて題目を唱えることによって、人間全てがもともと具足している正因・了因・縁因の三因仏性を開いて成仏していくことである。

始聞仏乗義には「其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云」(0983:02)とある。また御義口伝には「種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり下の種の字は南無妙法蓮華経なり種類種なり、十界三千の草木各各なれども只南無妙法蓮華経の一種なり」(0795:一薬草喩品:03)とある。なお前分の「就類種」は「種類種」と同意である。

相対種とは、一切衆生があらわしている煩悩・業・苦の姿のことである。相対種の成仏とは、これら不成仏の因ともいうべき煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳と転換して即身成仏するころをいう。

始聞仏乗義に「其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり」(0983:03)とある。また御義口伝に「されば此の品には種相体性の種の字に種類種・相対種の二の開会之れ有り、相対種とは三毒即三徳なり」(0795:一薬草喩品:02)とある。

種類種の成仏、相対種の成仏いずれにしても成仏の実義は本門寿量品文底の南無妙法蓮華経に限るのである。

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