妙一女御返事(事理成仏抄) 第一章(一大事の即身成仏の法門を示す)
弘安3年(ʼ80)10月5日 59歳 妙一女
去ぬる七月中旬の比、真言・法華の即身成仏の法門、大体註し進らせ候いしその後は、一定法華経の即身成仏を御用い候らん。さなく候いては、当世の人々の意得候無得道の即身成仏なるべし。不審なり。先日書いて進らせ候いし法門、能く心を留めて御覧あるべし。
その上、即身成仏と申す法門は、世流布の学者は皆一大事とたしなみ申すことにて候ぞ。なかんずく予が門弟は、万事をさしおきてこの一事に心を留むべきなり。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣べたる法門繁多なりといえども、詮ずるところは、ただこの一途なり。
現代語訳
去る七月の中旬の頃、あなたからたずねられた真言と法華経の即身成仏の法門の違いについて、大体説明して書き送りました。その後はきっと法華経の即身成仏の法を用いておられると思う。もし、そうでないならば、今日、世間の人達が考えている無得道の即身成仏となってしまうであろう。気がかりなことである。先日書いて指し上げたこの法門を、よくよく心にとどめてご覧なられたい。そのうえ即身成仏という法門は、世間で著名な学者は、皆、最も大事な法門であると心得ているところである。まして、我が門弟においては、全てこのことをさしおいて此の即身成仏の法門に心を留めるべきである。
立宗宣言をした建長五年から、今、弘安三年に至る二十七年の間、様々な所で申し述べて来た法門は数多くあるが、究極はこの即身成仏の法門に尽きるのである。
語句の解説
真言・法華の即身成仏の法門
即身成仏の法門は真言・法華の二宗が立てているが。真の即身成仏の法門は法華経にしかない。
講義
本抄は、弘安3年(1280)10月5日、再度妙一女からの即身成仏に関する質問に対して、したためられた御返事である。前回、7月のお手紙に続き、更に深く法華経の本迹二門の即身成仏について説かれている。
まず即身成仏の重要性については、立宗宣言の日から27年間大聖人が説いてきた最大の眼目であり、大聖人の門弟はこの一大事に深く心をとどめ、通達しなければならないことを述べられている。
中段では、華厳宗・真言宗・法相宗等の学者達の、即身成仏に関する誤った見解を指摘し、真実の即身成仏の法門はただ法華経のみに説かれていることを、竜女の成仏を挙げて証明されている。
また法華経の即身成仏についても迹門は理・本門は事であり、本門の事の即身成仏こそ当位即妙・本有不改であり、凡夫は凡夫のまま、本有無作の三身如来となることを明かされている。
後半にかけては、法華経が流布される時に二度あり、修行に二意があることを説かれ、日蓮大聖人こそ末法という時にかなって本門の肝心、南無妙法蓮華経を広宣流布される御本仏でることを、天台・伝教等の未来記を引いて強調されている。
最後に女性の身でありながら即身成仏という本質的な法門に取り組む妙一女を激励されて、「教主釈尊御身に入り替らせ給うにや」とその求道心をたたえられている。
即身成仏と申す法門は世流布の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ、就中予が門弟は万事をさしをきて此の一事に心を留む可きなり
即身成仏の法門は、仏法の学者なら誰人であっても、皆一様に仏法の究極の法門であると認識していることであり、なかんずく大聖人の門弟は、他の何ごとよりも重視すべきであると仰せである。
ところで、なぜ、即身成仏の法門がそれほど大切なのかについて少々述べておきたい。
仏教ではその言葉から明らかな如く、“仏の教え”であると同時に衆生の側を中心にいえば“仏になる教え”である。そして、釈尊から方便品に一大事因縁として明言しているように、衆生の誰人であろうとも、差別なく仏にすることが仏の世に出現した目的であり、そこに仏法の眼目があるのである。ここに、永遠に人間は神にはなりえないとするキリスト教・イスラム教等の一神教とは異なる仏教の独自性がある。“仏の教え”とは衆生の中から仏陀になった人が、他の衆生を全て仏陀にするためにこそ説法した教えということができる。
しかしながら、仏教が衆生を全て仏にする教えであることはわかっても、問題は、どのようにすれば仏になりうるのかということであり、またどれだけの修業年数が必要なのか、という点にある。確かに仏になり得たとしても、その時点が未来永遠の彼方であっては、成仏は衆生の単なる希望に終わろうとし、それまでに要する無数の年月修業期間を思って、仏道への求道心を失うものは、衆生・凡夫の偽らざる心情であろう。
ここに、衆生が凡身のままで成仏できうるのは、いかなる法門であるかが最大の関心事になる理由が存する。
釈尊の説いた八万法蔵という膨大な仏教の教えの中でも、いずれの経が即身成仏を可能にするかということを大聖人が論じられたゆえんもそこにある。
日蓮大聖人は、当時の八万法蔵を読破され、その結果、法華経こそ即身成仏の法門を秘めた最高の経典であると断定された。その理由は、即身成仏という言葉そのものは大日経やその他にはでてきても、即身成仏の哲理と現証には法華経しかないことを洞察されたからである。
究極するところ、即身成仏を可能にするものは、根源の仏種であり、それは、三大秘法の南無妙法蓮華経である。この仏種を秘めているのが法華経であるが故に、法華経の重要性を強く訴えられたのである。それ故に「就中予が門弟は万事をさしをきて此の一事に心を留む可きなり」と述べられているのである。
「万事をさしおきて」の厳しい言葉にも表れているように、大聖人の仏法は衆生が即身に成仏することをさし置いては本質を見誤るという意味である。ここに、大聖人の仏法が学問仏教でも、山岳仏法でもなく、苦悩に沈む衆生一人一人に光をあて、全てを即身成仏させずにはおかないという大慈悲がみなぎっているといえよう。