妙一女御返事(事理成仏抄) 第三章(真実の即身成仏を示す)
弘安3年(ʼ80)10月5日 59歳 妙一女
夫れ先ず法華経の即身成仏の法門は竜女を証拠とすべし、提婆品に云く「須臾の頃に於て便ち正覚を成ず」等云云乃至「変じて男子と成る」と、又云く「即ち南方無垢世界に往く」云云、伝教大師云く「能化の竜女も歴劫の行無く所化の衆生も亦歴劫無し能化所化倶に歴劫無し妙法経力即身成仏す」等云云、又法華経の即身成仏に二種あり迹門は理具の即身成仏・本門は事の即身成仏なり、今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり、此の法門は一代諸教の中に之無し文句に云く「諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云。
現代語訳
まず法華経の即身成仏の法門は、竜女の現証を証拠とすべきである。法華経の提婆品にいわく「瞬間のうちに、正覚を成ずる」と。またいわく「変じて男子と成る」と。また云く「即ち南方無垢世界に往く」と。伝教大師云く「能化の竜女も歴劫の修行が無く、所化の衆生もまた、同じく歴劫修行を必要としない。能化所化ともに歴劫修行を経ていない。妙法蓮華経という経も力によって即身成仏したのである」と。また法華経の即身成仏に二種類がある。一つは迹門の理の即身成仏であり、もう一つは本門の事の即身成仏である。今本門の即身成仏とは、当位即妙・本有不改と決定する所のものであり、凡夫の肉身そのままの姿が、本有無作の三身如来であるというのはこの事をさしているのである。この即身成仏の法門は釈尊一代四十余年の諸教の中においては説いていない。したがって天台大師も、法華文句の中に「諸教の中では、この即身成仏の法を秘して伝えていない」といっている。
語句の解説
竜女
竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
南方無垢世界
竜女が成仏した時の南方にある国土の名号。無垢は汚れがないこと。
能化所化
能化とは能く他を化導・教化する人。所化とは化導・教化を受ける人。すなわち師匠を能化といい、弟子を所化という。仏を能化といい、総じて一切衆生を所化ともいう。
歴劫
歴劫修行の略。爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこと。
迹門は理具の即身成仏
法華経迹門では爾前経の二乗不作仏・女人不成仏を打ち破り、一切衆生にことごとく仏性があることを明かした。これはあくまでも未来における成仏の可能性を説いたもので『理具』といわれている。
本門は事の即身成仏
法華経本門に於て釈尊は釈尊は始成正覚を打ち破り、久遠実成をあらわし、釈尊自身の上に即身成仏の事実の相を示した。しかし、釈迦仏法では本迹ともに理の上にすぎず、本門寿量品文底秘沈の南無妙法蓮華経によらねばならない。
当位即妙
あらゆるものが、その立場・あり方のままに真理にかなっていること。煩悩をもつ凡夫のあり方が、そのままで仏の真理に一致していること。
本有不改
九界の衆生が各自の位を改めることなく、そのまま即身成仏すること。
本有無作の三身如来
本有とは、久遠から常住していること。無作はもとからそなわっていて他によって作られたものでないということ。三身は一切衆生に本来そなわっている無作常住の法・報・応の三身をいう。無作三身と同意。本有とは修正または修成に対する語で、本来ありのままに存在するもののこと。法身は所証の真理、報身は能証の智慧、応身は衆生に慈悲を施す力用をいう。この三身如来を修行によって顕現することを譬えて膚を磨くという。
講義
法華経の即身成仏は竜女の成仏をもって明らかであることを説き、その即身成仏にも本迹二門があるが、本門の即身成仏こそ真実の当位即妙・凡夫即極の法門であることを明かされている。
法華経の即身成仏の法門は竜女を証拠とすべし
法華経の提婆達多品第12で、それまで女人は不成仏とされてきたのが、竜女の成仏をもって初めて女人成仏が許されたことを述べられている。大日経やその他の経典では即身成仏の言葉はあっても、具体的な現証は述べられていない。法華経にこそ竜女成仏の現証があることを強調されている。
釈尊42年間にわたる爾前経の説法において、女人はことごとく嫌われ、徹底して弾圧を受けてきた。
一代五時継図に「四十余年の諸の経論に女人を嫌う事・華厳経に云く女人は地獄の使なり能く仏の種子を断つ外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」「又云く一び女人を見れば能く眼の功徳を失う縦い大蛇を見ると雖も女人を見る可からず」「銀色女経に云く三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無らん」「華厳経に云く女人を見れば眼大地に堕落す何に況や犯すこと一度せば三悪道に堕つ」(0675:14~18)等々と、その文証が示されている。
法華経の説法において初めて釈尊は、悟りの究極である十界互具一念三千の生命を明かした。それがいかにすぐれた最高の法であるかの具体的な証拠として、それまで徹底して退けられていた二乗と悪人と女人の成仏を許し、記別を与えた。
すなわち九界のいかなる衆生にも自在無碍の浄らかな仏界が本来そなわっていることを、事実の上に示したのである。
提婆品に説かれた竜女は、大海の娑竭羅竜王の娘で八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心をおこし、霊鷲山の釈尊の前で「忽然の間に変じて男子と成って」また「須臾の頃に於いて、便ち正覚を成ず」とあり、いずれも竜女の即身成仏を説明している。竜女の変成男子は、いわゆる「即身」ではないようにみえるが、爾前経の場合と異なるのは、死を経て男に生まれ変わったのではなく「忽然の間に」変じたという点である。さらに根本的には畜身の身を改めずそのままというところに即身成仏の本意がある。
しかも日蓮大聖人は開目抄に「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす」(0223:07)といわれ、竜女の成仏の例をもって挙一例諸として、御本尊を受持する一切の女性もまた成仏できるとされている。
竜女が身をもって成仏を示し得たのは「我大乗の教えを闡いて苦の衆生を度脱せん」との真の大乗精神に立った決意をし、「普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説」するという実践に立ち上がったからこそ、仏より記別を与えられたのである。
男女を問わず、人間は本来自己愛が強いものであるが、利他の目的に目覚め、宿命的な自己の劣性を克服しようとする強い主体を確立する時に、初めて真実の成仏の蘇生がなされ得るのである。
妙法を持った女性の姿について、薬王菩薩本事品第二十三では次のように説明している。「若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の大菩薩衆の囲繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生繞ぜん。復貪欲に悩され繞じ、亦復瞋恚、愚癡に悩まされじ。亦復憍慢、嫉妬、諸垢に悩されじ」と。
末法今時においては大聖人の仏法を信じ求めていく中で、初めて女性は自らの内に尊極無比の仏界があることを知り、主体的に自己を変革すると共に、一切の人々を救い、社会をも変革しゆく主体に立つことができるのである。
今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり
日蓮大聖人の法門における真実の本門の即身成仏とは、当位即妙、本有不改と決定する法門である。すなわち、一念三千の御本尊を受持することによって、凡夫の身でありながらそれを改めることなく、そのまま成仏できるのであり、煩悩の当体である肉身そのままで、本有無作の三身如来と開くことができる。
身は九界の衆生であり一凡夫であっても、その本地は久遠元初に仏と共に存在した常住の当体なのである。それを確信し、生命の永遠を感得して不動の境地に立脚することが、成仏の境涯である。
当位即妙本有不改
成仏というと、一般通念として、何か特別なかわった力をもち通常と異なる姿をとるように思いがちであるが、これは爾前経の観念であり、明らかな誤認識である。その特別な姿の典型が、釈迦仏法で説く32相80種好で、仏は必ずこうした相好を具えて衆生から尊敬されるとしている。
しかし、真実の成仏は自身の内なる仏界の生命を開くことである。日蓮大聖人の仏法では、仏とは通常想定されるような完成された超人的形態や容姿をいうのではなく、あくまで、凡夫自身の内なる仏界の生命をいうのである。
また、成仏の“成”とは「ナル」と読まずに「ヒラク」と読むのである。
したがって、成仏とは、凡夫自身の内なる仏界の生命を開き顕わすことをいう。
釈迦仏法の成仏観は、仏のイメージを固定的に自分の外側に置き、これを成するために修行したのであるが、日蓮仏法のそれは、仏を自らの内にあってダイナミックに躍動する宇宙生命ととらえ、この輝ける生命を自分の奥底に事実上躍動させた時点をもって成仏とするのである。そこを“当位即妙”“本有不改”と断定するのである。当位とは地獄界なら地獄界のまま、人界なら人界のまま、九界の凡夫の境涯においてそのまま、ということであり、“即妙”とは、直ちに妙なる仏界の生命が湧現するということである。また、この当位即妙の姿は、本有、つまり、久遠より無始無終に凡夫の生命の奥底に常住していた仏界の生命をそのまま開き顕わしたわけであるから“不改”といわれているのである。
本有無作の三身如来について
本有とは本無に対して久遠より常住している意であり、無作とは本有に対する語で、はたらかず、つくろわず、ありのまま、もともとという意味である。三身とは法身・報身・応身の三身をいう。如来とは仏の別号である。
本有無作の三身如来とは日蓮大聖人のことであり、総じてこれを論ずれば御本尊を受持した我等弟子檀那のことである。
本有無作の三身如来とは、まさに私達の内なる仏界の生命のことであり、妙法への無疑曰信の信心に立つとき、久遠元初以来私達の奥底に常住してきた無作の三身如来をそのまま開き顕わすことができるのである。これを「肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり」と述べられているのである。
御義口伝には「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」(0753:第二如来秘密神通之力の事:03)と説かれているが、無作の三身を我が肉身にあらわすかどうかは、信の一字にかかっている、との仰せである。