上野殿御返事(時国相応の事)

上野殿御返事(時国相応の事)

 弘安4年(ʼ81)9月20日 60歳 南条時光

 いえのいも一駄・ごぼう一つと・大根六本。
 いもは石のごとし。ごぼうは大牛の角のごとし。大根は大仏堂の大くぎのごとし。あじわいは忉利天の甘露のごとし。
 石を金にかうる国もあり、土をこめにうるところもあり。千金の金をもてる者もうえてしぬ。一飯をつとにつつめる者にこれおとれり。経に云わく「うえたるよには、よねたっとし」と云々。一切のことは国により時によることなり。仏法はこの道理をわきまうべきにて候。またまた申すべし。恐々謹言。
  弘安四年九月二十日    日蓮 花押
 上野殿御返事

 

現代語訳

里芋一駄、ゴボウ一苞、大根六本をいただいた。イモは石のようであり、ゴボウは大牛の角のようであり、大根は大仏堂の大釘のようである。その味は忉利天の甘露のようである。

石を金と換える国もあり、土を代金に米を売る所もある。千金の金を持っている者も飢えて死ぬ。これは一食の飯を苞に包んだ者に劣る。経には「飢えた世には、米は貴重である」とある。一切の事は国により、時によるのである。仏法を行ずる者は、この道理をわきまえるべきである。またまた、申し上げよう。恐恐謹言。

弘安四年九月廿日          日 蓮  花 押

上野殿御返事

 

語句の解説

一駄

馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。

 

つと

ワラなどを束ねて食物を包んだもの。食糧などを入れて携えてゆく包み物。

 

忉利天

梵語のトラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。この天の有情の身長一由旬、城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。倶舎論巻十一には、忉利天の寿命について「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。

 

甘露

①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。

 

講義

本抄は、弘安4年(1281)9月20日、南条時光から芋、ゴボウ、大根が御供養されたことに対する御返事である。御真筆は現存しない。

はじめに御供養された品々をおほめになり、次にあらゆる事物は国と時によって、その価値がきまることを譬えをもって示され、仏法を行ずる人はこの道理をわきまえなければならないと教え結ばれている。

「いもは石のごとし」とあるのは、保存用に干したため石のように堅くなった里芋だからである。

「ごばうは大牛の角のごとし・大根は大仏堂の大くぎのごとし」とは、それぞれ太く長い様をこのように譬えられたのであろう。

「石を金にかうる国もあり・土をこめにうるところもあり」という事例は明らかではないが、南条九郎太郎への御消息には「こんろん山と申す山には玉のみ有りて石なし、石ともしければ玉をもつて石をかう、はうれいひんと申す浦には木草なし・いをもつて薪をかう」(1535:01)という同趣旨の記述がある。

飢饉の際には、たとえ多くの金を持っていても、金そのものでは飢えはしのげない。そういうときには、ふだんは価値のある金も、一杯の飯にはるかに劣るのである。

大聖人がそのことを指摘なさっているのは「一切の事は国により時による事なり」という例として挙げられたものであるが、同時に時光からの供養の品々が大聖人の御命を支える貴重なものであることを感謝されたものと拝することができる。

「仏法は此の道理をわきまうべきにて候」と仰せられているのは、仏法を修行する人はこのことを正しくわきまえ、人生の知恵をもっていくべきであるということであるが、また、仏法を実践し流布するにあたっては国と時を分別していかなければならない、との意も含まれていることはいうまでもない。

そのことを大聖人は「時を知らずして法を弘めば益無き上還つて悪道に堕するなり……仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く之を勘うべし」(0439:03)と仰せになっている。

また「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235:12)とも仰せであり、正しい実践のためにも時と国を知らなければならないのである。

そして、現在は釈尊の仏法の功力が失われて日蓮大聖人の仏法が広宣流布する末法という時であり、日本は「本門の三大秘法、広宣流布の根本の妙国」であると知って折伏に励むことが、「此の道理をわきま」えることなのである。

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