慈覚大師事 第三章(叡山の歴代座主の正邪を検証す)

慈覚大師事 第三章(叡山の歴代座主の正邪を検証す)

 弘安3年(ʼ80)1月27日 59歳 大田乗明

天台座主を見候へば伝教大師は・さてをきまいらせ候いぬ、第一義真・第二円澄・此の両人は法華経を正とし真言を傍とせり、第三の座主・慈覚大師は真言を正とし法華経を傍とせり、其の已後代代の座主は相論にて思い定むる事無し、第五十五並びに五十七の二代は明雲大僧正座主なり、此の座主は安元三年五月日院勘を蒙りて伊豆の国へ配流、山僧・大津にて奪い取りて後治承三年十一月に座主となりて源の右将軍頼朝を調伏せし程に寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う、此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり。
  粗此れを勘えたるに明雲より一向に真言の座主となりて後・今三十余代一百余年が間・一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり、

現代語訳

代々の天台座主を見ると、伝教大師は明らかであるから、さて置くとしよう。第一代座主・義真と第二代座主・円澄のこの二人は法華経を正とし真言を傍とした。第三代の座主・慈覚大師は、真言経を正とし法華経を傍とした。それ以後、代々の座主は両方の論議があって、どちらとも定めなかった。

第五十五ならびに五十七の二代の座主は明雲大僧正である。この座主は安元三年五月某日、後白河法皇のお咎めを受けて伊豆の国へ配流されるところ、比叡山の僧たちが大津において奪い返して後、治承三年十一月十九日に再び座主になって、源の右将軍頼朝を調伏した故に、寿永二年十一月十九日、木曽義仲に打たれた。

この人は生きている時死んだ後と二度、大難にあっている。生きている時の難は仏法の定まった習わしであり、聖人・賢人の活気に満ちた盛んな証拠の花である。しかし死んだ後の恥を受ける難は悪人や愚人、また正法を誹謗した人が招く不幸な出来事である。いわゆる大慢婆羅門や須利などとよく似ている。

ほぼこのことを考えると、明雲から一向に真言の座主となりはてて後、今まで三十余代にわたる百余年の間、一向に真言の座主であって法華経から所領を奪い取ってしまった。

 

語句の解説

天台座主

比叡山延暦寺の貫主のこと。

 

伝教大師

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

義真

07810833)伝教大師の跡を継いで比叡山第一の座主となった。相模国(神奈川県)に生まれ、幼少の時から比叡山に登って伝教大師の教えを受けた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。その際、唐の貞元20127日、天台山国清寺で道邃和尚の円頓戒をうけ、竜興寺の順堯から灌頂を受けた。延暦24年(0805)伝教とともに帰朝し、弘仁13年(0822515日、付嘱を受けて山務を総摂し、6月11日、大師滅後7日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁14年(0823)月14日、伝教大師が建立した根本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ、壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた、天長元年(0825623日、比叡山第一の座主となり、天長4年(0828)勅を奉じて円頓戒壇を建立。天長5年(0829)に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長10年(083374日、修禅院で53歳寂。著書には嵯峨天皇に奉った「天台宗義集」1巻・「雑疑問」1巻・「大師随身録」1巻等がある。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0810-14)と申されている。

 

円澄

07710836)。平安時代前期の天台宗比叡山第二代座主。俗姓は壬生氏。武蔵国埼玉郡の出身。

 

主となるもの。中心となるもの。

 

従となるもの。かたわら。

 

代代の座主

座主は大寺の管長で、それに列する人々。

 

相論

互いに論争すること。

 

院勘

上皇・法王などの怒りにふれること。

 

伊豆の国

現在の静岡県東部・伊豆半島の全域。

 

配流

罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。

 

山僧

①山寺の僧。古来寺院は、山に建てられ、寺号とともに山号をつける習慣がある。②比叡山延暦寺の僧のこと。延暦寺を山門という。③僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。

 

大津

滋賀県琵琶湖畔南岸。古くからの交通の要所。比叡山の裾野にあたる。

 

源の右将軍頼朝

11231160)。源義朝のこと。平安時代後期の武将。為義の子で頼朝の父。保元の乱の時に、平清盛とともに後白河天皇方に味方して勝利し、崇徳上皇方についた父の為義を斬った。その後、平清盛の進出に不満をもち、藤原信頼と結んで挙兵した。いったんは政権を掌握したが、天皇・上皇ともに内裏を脱出し六波羅に移動したため、一転して賊軍となった義朝は戦に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で長田忠致に謀殺された。

 

調伏

仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。

 

生の難は仏法の定例

生きている時に受ける難は、仏法を修行する者にとっての習わしであるということ。

 

聖賢

聖人と賢人。

 

繁盛

活気に満ち盛んなありさま。

 

悪人

①悪事をなす人。②正法を誹謗する人。

 

愚人

仏法に無知な人。正法を知らない人。

 

誹謗正法

謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

大慢ばら門

南インドのマロウバ国の婆羅門。大唐西域記巻十一によると、内外典・暦法等に通じ、国王・国の人々に尊敬されていたが、慢心を起こし、外道の三天と釈尊像を作って高座の四足とし、これに登って、我が徳は四聖に勝れていると説法していた。しかし、西インドからきた賢愛論師との法論に敗れて名声を失い、論師を深く恨み、なおも大乗を誹謗してやまなかったので、大地が裂け、生身のまま地獄に堕ちたという。

 

須利

法華経誹謗の大罰を受けた人といわれている。須梨槃特の須梨とは別人。

 

真言の座主

本来は真言宗大寺の貫主のことであるが、比叡山延暦寺座主が真言宗になりさがっていたので、大聖人はこういわれている。

 

法華経の所領

天台宗は法華経を依経としているゆえに、比叡山延暦寺を法華経の領地という。

講義

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