慈覚大師事 第二章(慈覚の誤謬を挙げて破折す)
弘安3年(ʼ80)1月27日 59歳 大田乗明
あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云、此の釈の心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頸を切つて蝦の頸に付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候、此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ、三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此れを見る。
究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらざんなり、一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候、慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国・立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか、明雲座主は義仲に頭を切られたり、
現代語訳
あさましいことは慈覚大師が金剛頂経の頂の一字を解釈していった次の言葉である。「いうところの頂とは、諸の大乗の法の中において最勝にして、この上にも超えるものがない故に、頂をもってこれに名付ける。(乃至)人の身の頭頂が最も勝れているようなものである。(乃至)法華に『是の法は法位に住して世間の相常住なり』と、今、正しくこの秘密の理を顕わしている。故に金剛頂というのである」と。また「金剛は宝の中の宝であるように、この経もまたそうである。諸の経法の中に最も第一であって三世の如来の髻の束の中の宝である故に」等とある。
この釈の意味「法華経が最も第一である」という経文を奪い取って金剛頂経に付与するということだけでなく、さらに金剛頂経の頂の一字は、「人の身の頭頂が最も勝れているようなものである」との解釈の意味は、法華経の頭を切って、真言経の頂しているということになる。これは鶴の首を切って蝦の首にすげかえているようなもので、真言経の蟆も死んでしまい、また法華経の鶴の御首も切れてしまったと見える。
この慈覚大師の謗法の釈こそ人身うけた者の凡夫の眼には奇妙に見える。三千年に一度だけ花が開くという優曇花は、転輪聖王だけが見分ることができる。
究竟の円満の仏にならない限りは、法華経の御敵は見分けることはできない。しかるに日蓮は一乗の法華経の敵を、夢のように見分けたのである。
そのことについていうと、慈覚大師の御墓は、どこそこにあるということを聞いたためしがない。世間でいっているところによると御首は出羽の国の立石寺にある。そうだとすると、このことは頭と身とは別の場所に有るということか。延暦寺五十五代・五十七代座主・明雲は木曽義仲に首を切られた。
語句の解説
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
大乗の法
大乗の教法。
無過上
その上に過ぎる者がない。余分に加えることがないということ。
乃至
①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
是法住法位
法華経方便品第2の文。「是の法は方位に住して」と」読む。「是の法」は一乗の法、「方位」は本来住すべき位置。
秘密の理
秘め隠して顕に示されない法理の意で、仏が末だ説くことがなく、仏のみしか知らない深遠の理。
顕説
顕し、説くこと。
金剛頂
金剛頂経のこと。金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
金剛
①金剛石・ダイヤモンドのこと。古代インドで最も固い金属と考えられたもの。雷電の破壊力を堅牢な金属によるものとみた。②賢劫千仏の法を守る二神で真言宗寺院の左右にある。左を密迹金剛、右を那羅延金剛という。③金剛杵のこと。
最為第一
「最も是れ第一」と読む。
三世の如来
過去・現在・未来の三世に出現する数多くの仏。
髻
頭の上で髪の毛を束ねたもの。
如人之身頂最為勝
金剛頂経疏第1の文。「人の身の頂は最も為れ勝るるが如し」「人の身には頂を最も勝るると為すが如し」等と読む。
法華経の頭
一切経の中で法華経が最も優れていることを人身の頭に譬えたもの。
真言経の頂
真言経は真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経などの真言系の経典の総称で、その頂ということ。
鶴の頚
法華経を鶴の首に譬えたもの。
蝦の頚
真言経をカエルに譬えたその首。
真言の蟆
真言をカエルに譬えていったもの。
眼の不思議
人身を受けた者の眼にとって奇怪なこと。
優曇花
梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
転輪聖王
インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
究竟円満の仏
究竟即の位に至り一切の願行を悉く満足した仏のこと。究竟即は天台の立てた六即位の第六で、52位の第52・妙覚位のこと。
法華経の御敵
法華経を誹謗するもの。
一乗のかたき
一仏乗である法華経の敵。
慈覚大師の御はか
慈覚大師円仁の墓はどこにあるかわからないといわれていること。
世間
①世の中・世俗のこと。②六道の迷界のこと。③三世間・有情世間・器世間などのように差別の意をあらわす。
出羽の国
令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県・秋田県。
立石寺
山形県山形市山寺にある天台宗寺院。貞観2年(0860)慈覚の創建による延暦寺の別院。慈覚の遺骸を入れたと推定される棺が収められている入定屈がある。
明雲座主
(~1183)。比叡山延暦寺55.57台座主。弁覚法印から顕教・密教を学び、天台座主・最雲法親王の法を継いだ。仁安2年(1167年)、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する。治承3年(1179)、政変で院政が停止されると座主職に再任され、大僧正に任じられた。以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌寿永2年(1183)、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた。
義仲
(1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
講義
前文においては、人間として生まれた「悦ばしき事」は「法華最第一」の経文であったとされていた。
それに対しここでは、逆に「あさましき事」として慈覚大師の誤謬の解釈に出あったことであると述べられ、次いで、その邪義を破折されている。
まず、慈覚の邪義であるが、それは真言三部経の金剛頂経の「頂」の一字を金剛頂経が諸大乗経の中で最勝であり、最第一であるという。いわば人身の頭頂に当たる“頂点”の意味であると釈していることにあり、それは「法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くる」ことであり、さらにいえば「法華経の頭を切りて真言経の頂とせり」ということになると指摘されている。
そして、その愚かさを「此れ即ち鶴の頸を切って蝦の頚に付けるか真言の蝦も死にぬ法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候」と、譬えを用いて破折されている。
すなわち、真実に一切経中最第一である法華経という“鶴の頸”を切って、真言経の“蝦の頚”にすげかえた結果、法華経と真言経の双方とも死んでしまった、と破折されているのである。
さらに「此れこそ人身うけたる眼の不思議にては候へ、三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此れを見る。究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさんなり、一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候」と仰せられている。
ここでは、先に三寸の眼二つによって、法華最第一の経文を見ることの悦びをのべられたのとは対照的に、同じ眼で、慈覚の誤謬の釈を見ることの奇妙さを述べられている。
と同時に、慈覚の釈の誤謬は、仏智に照らしてこそ見抜くことができるのであるとされ、その境地を遠回しに謙遜をこめて自負されている。
すなわち、三千年に一度しか花が咲かないという優曇花を見ることができるのは転輪聖王のみであるように、法華経の敵を見抜くことができるのは究極の悟りを満たした仏のみであるとされた上で、大聖人御自身が慈覚の誤謬の釈を法華一乗の敵と見抜けたことを「一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候」と婉曲に述べられている。
次いで「慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国・立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか」と説かれて、法華経の頸を切って真言経の頂とすげかえた慈覚の謗法は、慈覚自身の墓の所在が不明なことと、慈覚の頭が身とは別の所にあるという世評から推して、自らの身と頭とが分かれている現証となって厳然と罰の報いを受けていると、仏法の因果律の厳しさを御教示されている。
「明雲座主は義仲に頸を切られたり」との文は、天台宗延暦寺の第55代・第57代の座主である明雲が木曽義仲に殺された史実を挙げられ、慈覚と同じ因果であることを教えられている。
頼基陳状には「人王七十七代・後白河法皇の御宇に天台の座主明雲・一向に真言の座主になりしかば明雲は義仲にころされぬ頭破作七分是なり」(1161:15)と、天台宗でありながら真言の座主のようになった因によって無残な死を迎えたと述べられている。