一代五時図 第二章3(第五時のうち、法華涅槃時を図示する)

一代五時図 第二章3(第五時のうち、法華涅槃時を図示する)

講義 

釈尊一代五時のうち、法華涅槃時についての段であるが、法華経こそ釈尊の真意が説かれた「実大乗」であり、この法華経を根本として立てられたのが天台法華宗であることを図示され、それを裏づける文証を示され、涅槃経は釈尊が入滅する日の一日一夜に、滅後の戒めのために説かれた教えであることを教示されている。

まず「法華経」について図示されているところを拝すると「法華経」と書かれた文字の脇に「実大乗」、「八箇年」と書かれ、8ヵ年にわたって説かれた法華経が、これまでの「小乗教」の阿含経や「権大乗」の華厳経・方等部経典・般若部経典と異なり「実大乗」の教えであることを明らかにされている。この直前に示された無量義経の文にあったように、方便を捨てて真実を顕したものであり、しかも、「菩提の大直道」すなわち成仏の直道を明かした経である。権大乗の諸経は菩薩道を説いているが、それは成仏の直道ではないため、どれほど長期間にわたって修行しても、結局、成仏という最後のゴールには到達できなかった。今、法華経によって初めて成仏の直道が明らかにされたのである。

次に「顕露宗・最秘密宗・仏立宗・法華宗・天台宗」の注記についてであるが、御書全集には法華経の下に並記されているが、御真筆では「法華宗」の右側の「実大乗」のさらに右側に、ほぼ同じ高さで並べて記されている。明らかに大聖人はまず「天台宗」と書かれ、次に「法華宗」「仏立宗」「最秘密宗」「顕露宗」の順に書き加えられていったと推定される。このことは、法華経を根本とした宗はいうまでもなく日本では叡山の天台宗で、しかも「天台宗」が最も一般的に使われていた呼称であったこと、逆に「顕露宗」を呼称された例はなく、これは呼称というより特質を示すためにあえて記されたと拝されることからも明らかである。

「天台宗」はいうまでもなく、中国で天台大師によって立てられた法華経を根本とする宗の名称で、日本には、伝教大師最澄が渡唐し相承を受けて比叡山に開いた。天台宗といい、天台大師といい、「天台」とは中国の地名で、そこを本拠としたことから呼ばれるようになったのであるが、日本でも伝教大師が開創した宗名として「天台宗」が定着していた。

「法華宗」は法華経を根本とする宗の意で、天台宗を指する呼称として、これもかなり広く用いられていた。しかし、日本の天台宗は、第三代座主慈覚以後は、真言密経を取り入れ、むしろ法華経よりも大日経のほうが勝れるという邪義を立てるようになったことから「法華宗」「天台法華宗」の呼称は実態と合わなくなり、用いられることも少なくなっていったようである。

「仏立宗」は法華経を根本とすることは、釈尊自身が定められたところであるということから、伝教大師が法華宗句で「釈迦世尊所立の宗なり」と述べたのを受けて、天台法華宗が自負して使ったものである。一般的に用いられた呼称ではないが、大聖人は本来の天台宗はかくあったのだという心を込めて、この呼び名をここに記されたと拝される。

「最秘密宗」と「顕露宗」は法華経のもつ意義のうえから、このように記されたもので、御真筆でも「仏立宗」までとは少し位置を下げて、この二つを並べて書かれている。

「秘密」と「顕露」では逆の言葉で、一見、矛盾した呼称である。それ故にこそ、この二つは“対”のかたちをとる必要がある。法華経が「最秘密」とされる理由は、仏の悟りの智慧と真理が九界の衆生には知ることのできない甚深の法だからである。「顕露」とされる理由は、その甚深の法を初めて説き明かしたのが法華経であるからである。しかし、では明らかにされたのだから、だれでも知ることができるかといえば、そうではない。眼前に真理はあっても理解するには智慧が必要であり、その智慧は、法華経を信じることによって得られる。したがって結論的にいえば、信じない人にとっては「秘密」であり隠されているが、信じて智慧を得た人にとっては「顕露」なのである。

以上は「天台宗」が法華経を根本にしていることを前提としての意義であるが、現実の天台宗は先に述べたように、「天台真言宗」と化していた。しかも、末法に至って、法華経の文上の法門にとどまっている天台仏法では、もはや人を救う力はない。そこに日蓮大聖人が出現され、法華経の寿量品文底の大法を弘通される真実の意義があることは諸御抄に明確である。本抄は、あくまで仏教の基本的知識を教えるとの立場から、法華経根本を明確にされた御抄であるので、本来の「天台宗」を宣揚することでとどめられているが、大聖人の門下に対し、大聖人一門こそ「法華宗」であるとされていることは、四条金吾の御手紙に「法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(1118:01)と仰せられている御文から明らかである。

次に「法華経」が釈尊50年の説法中、最高の経典であり、大乗仏法の極説であることを、法華経からいくつかの経文を引用され示されていく。

まず、法華経こそが方便の教えではなく真実の教えであることを示している経文として方便品第二から三つの文を抜き書きされている。

一つは「世尊は法久しくして後に要当に真実を説き給うべし」である。これは、釈尊は成道後、久しい間にわたって教えを説いた後に、必ず真実の教えを説く、という文である。

次いで、「正直に方便を捨てて但無上道を説く」である。ここでははっきりと“正直に”すなわち、仏である自らの本意のままに、方便の教えを捨てて、ただただ“無上道”すなわち、最高・究極の教えである法華経を説くことを釈尊が宣言している。

第三は、「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」である。これは、仏が40余年にわたって方便権教を説いて「種々の道」を示したのは、一切衆生を成仏させるための教えを説くためであったと述べたものである。

以上、方便品から引用された後、次に譬喩品第三から三つの文が引かれている。一つは法華経を説いたことによって仏は一切衆生に対し主・師・親三徳を具えるに至ったと宣言しているところである。

今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す復教詔すと雖も而も信受せず」と。

ここは、法華経によって仏が欲界・色界・無色界の三界のすべてを自らの所有とし、そこに住む衆生は自らの子であり、苦難の多い三界にいる衆生を仏のみがよく救済し守護することができるのであり、この法華経を、衆生の方が信受しようとしない、とも述べている。

これを受けて次に「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則一切世間の仏種を断ぜん或は復顰蹙蹙して疑惑を懐かん。汝当に此の人の罪報を説くことを聴くべし・若しは仏の在世若しは滅度の後其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持する有らん者を見て軽賎憎嫉し而も結恨を懐かん・此の人の罪報を汝今復聴け其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更生じ是の如く展転して無数劫に至らん・此に於て死し已つて更に蟒身を受けん其の形長大にして五百由旬ならん」という、かなり長い文を引用されている。

仏がこの真実にして無上である道を法華経に説いても、衆生のほうが信じないで、さらには謗ったりすると、六道の迷界を脱出して成仏するための根本原因を自分から断ち切ってしまうことになるし、死後は阿鼻地獄に堕ちて無数の時間を経過するであろうと戒め、あるいはしきりに蛇のような大きな蛇身を受けることになるであろう。とも戒めている。ここには14誹謗のうち、後半の八つが説かれている。すなわち、不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善である。

つぎに法師品第十から、「若し是の善男子善女人我が滅度の後に能く竊に一人の為にも法華経の乃至一句を説かん当に知るべし是の人は則如来の使なり如来の所遣として如来の事を行ずるなり」との文を引用されている。

すなわち、もし善男子・善女子が仏の涅槃の後に、ひそかに一人のために法華経の一句でも説く者があれば、その人は如来の使者として如来に派遣され、如来の仕事を行うものである、との意である。

これに続いて、「薬王若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し若人一の悪言を以て在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せば 其の罪甚だ重し」とあり、今度は悪人が悪心を懐いて仏の前で一劫もの間、仏をののしっても、その罪はまだ軽いが、法華経を読誦する在家・出家のものに対して一言でも悪口をいう罪はそれよりもはるかに重い、と述べて、法華経が仏よりも大事であることを強調している。

さらに続けて「薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華最も第一なり・我が所説の経典無量千万億にして已に説き今説き当に説かん而も其の中に於て此の法華経最も為難信難解なり」とあり、釈尊の説いた諸経は無量千万億という数にのぼるが、已説・今説・当説の三説法の中で、法華経は最第一であり、難信難解として、法華経の偉大さを述べているところである。

法師品からの引用の最後に「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば 恒沙の仏を見上ることを得ん、とある。ここでは「法師」すなわち法華経を説くものに親しく近ずくと、速やかに菩薩の道を得る」ことができる。さらにこの人に随って学ぶと、無数の仏を見ることができる。すなわち成仏できることを強調しているところである。

次いで、 見宝搭品第十一から二つの文が引かれている。

一つは、「爾の時に宝塔の中より大音声を出して言わく善哉善哉釈迦牟尼世尊能く平等大慧教菩薩法仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説き給う是の如し是の如し釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」というものである。

有名な多宝如来の証明の部分である。すなわち、宝塔の中から多宝如来が大きな声を出し、感嘆していった。「すばらしい、すばらしい。釈迦牟尼世尊は平等で偉大な智慧、菩薩を教える法で仏に大切に護られる妙法蓮華経を多くの人々のために説いた。そおとおりである、そのとおりである。釈迦牟尼世尊の説くところはすべて真実である」というのがその内容である。

二つには、「諸余の経典数恒沙の如し此等を説くと雖も未だ難しと為すに足らず若し須弥を接つて他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ難しと為さず・若し仏の滅度に悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち難しと為す」と六難九易として名高い譬喩を説いているところから、その一部を引用されている。

ここでは二つの易しいことと難しいことが説かれている。すなわち、法華経以外のガンジス河の砂ほど数多い経典を説くこともまた困難ではない。また、須弥山を手にとって投げ、他方の無数の国土に置くこともまだ困難ではない、という二つの易しいことに比べ、仏が涅槃に入った後の悪世の中で法華経を説くことは難しいとして、仏滅後の法華経受持の困難さを強調している文といえる。

続いて、勧持品第十三の20行の偈のなかから、特に妙楽大師が法華文句記巻八で定義した三類の強敵に当たる部分と「悪鬼入其身」「数数見擯出」の語句を含む偈を引用されている。

まず、「諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」多くの智慧の無い人々が、悪口を言い罵倒して、また刀で斬りつけ杖で打っても我々は皆忍耐する=俗衆増上慢の文である。

次に、「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」悪世の比丘は邪な智慧をもち、心にへつらいがあり、まだ悟りを得ていないのに得たと思い込んで、おごり高ぶる心が満ちている=道門増上慢にあたる。

次いで、「或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん・常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲する故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん」森林のようなだれもいない静かなところで、ぼろきれを綴り合わせて作った衣を着て、自ら真実の道を修行していると思い込んで、人間の社会を軽蔑するものがいるであろう。彼らはいつも大勢の人々の中で我らを非難しようとして、国王・大臣・婆羅門・居士やその他の比丘たちに向かって我らを誹謗して、我らの悪を説き、「これらは邪見の人であり、外道の論議を説いている」というであろう=僭聖増上慢である。

次に、「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈し毀辱せん」濁った時代の悪世には多くの恐怖があり、悪鬼がその体に入ったような人々が我らを罵倒し非難し辱める=悪鬼入其身の語句である。

ついで、「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず悪口して嚬蹙し数数擯出せられん」濁った世の悪比丘たちは仏が巧みな手段によって相手の都合に合わせた法を知らず、悪口を言い、眉をしかめ、しばしば追放する=数数見擯出の語句である。

以上で勧持品からの引用を終え、最後に如来神力品第二十一から「大神力を現し広長舌を出して上梵世に至らしむる諸仏も亦復是の如く広長舌を出し給う」との文を引用されている。

これは釈尊や諸仏が広長舌を出して梵天にまで届かせたという偉大な神通力を示すところで、仏の説く内容に虚偽はないことを示したのである。

最後に涅槃経について示される。初めに「涅槃経」と左右の脇書は「一日一夜」「八十入滅」とある。

これは、涅槃経が釈尊の80歳入滅時における最後の一日一夜に説かれた経典であるということである。実際には、説法だけでなく、涅槃に入る時のようすも記されている。

ついで「依法不依人」「依義不依義」「依智不依識」「依了義経不依了義経」という、法の四依が示されている。涅槃経でも、特に大涅槃経と呼ばれる「大般涅槃経」には法華経に説かれた仏身の常住を繰り返して説いた内容も含まれているが、涅槃における説法の要は、滅後の仏弟子のために、最も重要な心構えとして「法の四依」がしめされたことにあるからである。

御真筆によると、四依の中で「依法不依人」の「人」のところに「文殊・普賢・観音・地蔵等、竜樹菩薩・善無畏・弘法・慈覚・法蔵・嘉祥・善導等なり」と記されている。すなわち「法によって人に依らざれ」の「人」とは具体的には注記に代表されるような菩薩や各宗派の祖師たち、人師や論師たちのことであり、仏法を修行し広めるにあたっては、これらの「人」の言に依るのではなく、「法」すなわち「仏説」を依りどころとすべきであるということである。

「依義不依語」とは、こうして、「法」すなわち「仏説」を依りどころとする場合、言葉の表面にとらわれるのでなく、そこに説こうとされた内容の法理をあくまで依りどころとせよということである。

次に「依智不依識」とは、涅槃経自体に「言う所の智とは、すなわち、これ如来なり。もし声聞の善く如来の功徳を知る能わざるあらば、かくのごときの識は応に依止すべからず」とあるように、如来の智、仏智を根本とすべきで、声聞など、まだ仏智に達していない人の考えや思いを依りどころにしてはならないということである。例えば法華経でも、二乗は自分たちはこのように考えていたと記されている文があるが、それを依りどころとしてはならないとの戒めである。

次に「依了義経不依了義経」の「依了義経」のところに「法華経」と記され。依りどころとすべき完璧に真実を説いた経は法華経であることが示されている。これに対して依りどころとしてはならない不了義経は「観経等・大日経等・深密経等・華厳経等・般若経等」であることが示されている。

このように「法の四依」は、仏法の修学・修行については人師の言葉でなく、法すなわち仏説を依処とすべきであり、仏説であっても語でなく義を依どころとすべきであり、同じく義といっても、声聞などの識ではなく仏の智を根本とすべきであり、その仏の智でも、不完全にしか明かしていない不了義経たる権教でなく、完全に説いた了義経の法華経を依りどころとすべきであるという重要な規範を示したものである。この意味で涅槃経は法華経が説かれたあとの流通分の経であり、滅後のための遺言なのである。

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