阿仏房御書(宝塔御書)

阿仏房御書(宝塔御書)

建治2年(ʼ76)3月13日* 阿仏房

 

第一章(供養への謝意を述べる)

 御文委しく披見いたし候い畢わんぬ。そもそも宝塔の御供養の物、銭一貫文・白米・しなじなおくり物、たしかにうけとり候い畢わんぬ。この趣、御本尊・法華経にもねんごろに申し上げ候。御心やすくおぼしめし候え。

 

現代語訳

お手紙をくわしく拝見いたしました。さて、宝塔への御供養の品として、銭一貫文と白米、それに種々のおくり物を、確かに受け取りました。あなたのこのお志を、御本尊・法華経にも丁重に申し上げました。ご安心ください。

 

語釈

宝塔

法華経見宝塔品第十一に説かれる多宝の塔のこと。ただし、ここでは、日蓮大聖人が建立された御本尊の意と考えられる。

 

御供養

供養は、供給奉養の義。供施、供給、略して供ともいう。報恩謝徳のため、真心こめて仏法僧の三宝などに捧げること。方法や対象によって種々に分かれる。

 

銭一貫文

銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1,000文にあたり、文永3年(1266)頃で米150㎏に相当したことが「丹波国大山荘領家年貢注文物価表」に見られる。

 

法華経

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。

【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。

【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。

【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。

 

講義

本抄の系年については、文永9年(1272)説と建治2年(1276)説とがある。

阿仏房が御本尊への御供養として、お金、米、その他種々の品をお届けしたことに対し、その真心を御本尊に報告申し上げた旨、述べられたところである。

短い御文の中に「宝塔」「御本尊」「法華経」と、三つの名が出てくるが、これらは別々のものではなく「御本尊」という一つのものをさして言われたと考えるべきである。すなわち、法華経に説かれる宝塔を借りて一幅の曼荼羅として顕されたのが、御本尊である。したがって、法華経の顕そうとしたのが「宝塔」であり、宝塔が顕そうとしたのが「御本尊」であって、究極するところ「法華経」「宝塔」「御本尊」と並列されても「御本尊」に帰着するのである。

なお「此の趣御本尊法華経にもねんごろに申し上げ候」と仰せられているのは、あくまでも御本尊を根本としていくべき信仰の姿勢を自ら示された御文と拝せられる。すでに開目抄に明らかにされたように、大聖人御自身が師主親三徳具備の御本仏であり、無作三身の仏であられるが、どこまでも御本尊を根本にし、御本尊に仕える立場を示されているのである。

「御心やすくおぼしめし候へ」の一句のなかに「あなたの真心は、そのまま御本尊・法華経に通じておりますよ」との、温かい心遣いが拝せられる。

 

 

 

第二章(宝塔の意義を明かす)

 一御文に云く多宝如来・涌現の宝塔・何事を表し給うやと云云、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔を・ことわるに天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・開塔は本門・是れ即ち境智の二法なりしげきゆへに・これををく、

 

現代語訳

あなたのお手紙に「多宝如来ならびに地から涌現した宝塔は何を表しているのでしょうか」という質問がありました。この法門は非常に重要である。この宝塔の意義を解釈するのに、天台大師が法華文句の巻八に釈せられているのには、証前起後の二重の宝塔がある。証前は迹門、起後は本門である。あるいはまた閉塔は迹門、開塔は本門である。これは即ち境智の二法をあらわしているのである。これらは煩雑になるので、ここではこれ以上ふれないでおく。

 

語釈

多宝如来

東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。

 

天台大師

05380597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。

伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。

大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。

その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。

その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。

 

文句の八に釈し給いし時

法華文句巻八下に「塔出を両と為す。一に音声を発して以て前を証し、塔を開て以て後を起す」とある。

 

証前は迹門、起後は本門

証前は、宝塔が大地から涌出し、多宝仏が迹門の三周の説法の真実であることを証明したこと。起後は、宝塔を開くために十方分身の諸仏を集め、その無数の分身仏によって、釈尊の教化の非常に広く久しいことをあらわし、如来寿量品第十六を説く遠序となっていることを意味する。

 

境智の二法

境は覚知する対象としての客観視した世界、智は覚知する客観的智慧。釈迦多宝の二仏を境智に配すれば、多宝は境・釈迦は智となる。

 

講義

阿仏房が法華経見宝塔品にあらわれる多宝如来ならびに多宝の塔は、いったい何をあらわすのかを質問したのに答えられるところである。

最初に「此の法門ゆゆしき大事なり」と断わっておられるように、宝塔涌現のもつ意義は、きわめて大きく深い。それは、単に見宝塔品であらわれ、消えるのでなく、その後の法華経の虚空会の儀式の間じゅう、その荘厳比類なきドラマの中心となったことからもうかがわれよう。

したがって、宝塔には、何重にも掘り下げなければならない深い意味があるが、大聖人は、一往、天台大師が法華文句で述べている義を概略、紹介し、再往、文底深秘の立場からのその根本義を示されるのである。

本章は、まず、天台家における立義を紹介されたところである。大聖人としては、天台の複雑で難解な釈義を阿仏房に教えるお気持ちはないので、ざっとその論点だけを並べ、「しげきゆへにこれををく」といわれ、説明は略されている。

ただし、仏法の哲理の一端を学ぶうえからは、これらの釈義は非常に重要な内容を秘めているので、やや詳しく考察を進めることとしたい。

法華経の儀式の流れから見た場合、多宝の塔の出現がもつ意味は、いかなるものであろうか。方便品第二から授学無学人記品第九までの、いわゆる三周の説法を通して、釈尊の在世の弟子である声聞は、ことごとく領解し未来の授記が定められた。法師品第十では、薬王菩薩を対告衆として滅後の受持・弘通の方軌と功徳を説き、これ以下の滅後未来のための説法の始めとなっている。

この法師品の次にくるのが、見宝塔品第十一である。

高さ五百由旬、縦広二百五十由旬という宝塔が地より涌出して空中に住在し、その中から大音声が聞こえる。「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と。

その後、宝塔ならびに右の声についての大楽説菩薩の質問に釈尊が答えて、塔中に多宝如来のいること、この仏は釈尊が十方の世界において法華経を説く時に、必ず涌出して証明することが述べられる。

そして、釈尊は、十方世界から自身の分身の仏をこの座に集めようといい、そのために三変土田するのである。分身諸仏の来集ののち、釈尊は、右の指をもって宝塔の戸を開き内に入って多宝如来と並んで坐る。

さらに、大衆の請うままに、宝塔および釈迦多宝の二仏と同じく、一座の大衆を空中に置き、いわゆる虚空会の儀式に移るのである。

いま、本文に紹介されている天台大師の釈を、上記の法華経の展開からみると、その意味は明らかである。

まず、はじめ、宝塔の戸が閉まったままで内から「釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」との声が聞こえる。これは、方便品の十如実相の法説から始まった、迹門の声聞授記の説法に対する証明である。したがって「証前は迹門」であり、かつ「閉塔は迹門」である。

十方分身の来集後、戸が開かれ、釈尊が内に入って二仏並坐し、この形で以下の儀式・説法が進められていく。これは、この虚空会の儀式における究極の説法というべき本門寿量品の久遠実成が明かされる遠序である。

釈尊に十方の分身仏がいること自体、すでに、始成正覚を暗に破って久遠の成道を示唆しているのである。故に「起後は本門」であり「開塔は本門」なのである。さらに、起後について在世と滅後があり、宝塔品の起後とは、まさしく滅後のためであり、なかんずく日蓮大聖人が三大秘法の本尊を建立するための遠序であるゆえに起後は本門なのである。

さらに、この宝塔および二仏があらわしているのは、境智の二法である。

境智の二法については、仏法の重要な法門であるから、この点について述べられている曾谷殿御返事によって考えてみよう。

そこでは、境を淵に、智を水にたとえた天台の釈を引き、次のように示されている。「されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」(1055:03)と。

淵とは、大地のくぼみであり、そこに流れるべき水の形、方向を客観的に定める働きをしている。同様に〝万法〟の体といわれている法の体なるものも、例えば小乗の但空、大乗の不但空、中道、諸法実相などそれぞれに独特の定まった深みをもっている。

この〝法の体〟の淵の中で、その淵に合致して水が流れるように、主観的智慧が発現していくことを「自体顕照」といい、境智冥合というのである。

宝塔についてこれを論ずれば、閉じた塔は、九界の衆生とくに声聞衆の本然的に具している仏性を象徴している。すなわち、まだ顕在化していない仏界である。言い換えれば、単に「境」の辺をあらわすのである。法華経の内容からいっても、声聞達は、生命の内に本来仏性を具していることを示され、未来に成仏しうる可能性を説かれたにすぎないから、そこにある仏性は、まだ「境」の辺にとどまるのである。

宝塔の戸が開かれ、釈迦と多宝の二仏が並坐したとき、それは自らの智慧をもって自らの本有の仏性を覚知し、多宝の境と釈尊の智とが冥合した事実上の成仏の姿を象徴しているのである。これをもう少しわかりやすくいえば「本来、仏である」「本来、妙法の当体である」ということは、〝境〟の辺であり、これは一切万物について平等である。その、わが身が本来、仏であり妙法の当体であることを覚知し、事実の上で仏としての振る舞いになってこそ、つまり、境智冥合してこそ、事実上の成仏である。この覚知のために、仏道修行が必要とされるのである。

さて、これを日蓮大聖人の仏法の信仰実践に約していえば、この本来、わが身に具わっている仏性――さらにいえば、本来の妙法の当体としての生命を顕してくださったのが、三大秘法の御本尊である。故に、御本尊が〝境〟になり、この御本尊を信受して唱題することが〝智〟になり、そこに「境智冥合」が現出するのである。

 

 

 

第四章(信心の姿勢を教える)

あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし、浄行菩薩うまれかわり給いてや・日蓮を御とふらい給うか不思議なり不思議なり、此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ、別の故はあるべからず・あるべからず、宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

       文永九年壬申三月十三日      日蓮花押

     阿仏房上人所へ

 

現代語訳

あまりにありがたいことなので、宝塔を書き顕して差し上げます。わが子でなければ譲ってはならない。信心強盛の者でなければ見せてはならない。日蓮の出世の本懐とはこの宝塔の本尊をいうのである。

阿仏房、あなたはまさしく北国の導師ともいうべきであろう。浄行菩薩が生まれ変わって日蓮を訪ねられたのであろうか。まことに不思議なことである。あなたの厚いお志の由来を日蓮は知らないが、上行菩薩のご出現の力にお任せするのである。別の理由があるわけではないであろう。宝塔を夫婦でひそかに拝みなさい。くわしいことはまた申し上げよう。恐恐謹言。

文永九年壬申三月十三日       日 蓮  花 押

阿仏房上人所へ

 

語釈

出世の本懐

仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。

 

導師

衆生を正しく仏道に導く者のこと。

 

浄行菩薩

法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。

 

上行菩薩

前記に同じ四菩薩の一人。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で上行菩薩に、滅後末法弘通のため法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。

 

恐恐謹言

恐れかしこみ申し上げるの意で、手紙の最後に書くていねいなあいさつ語。

 

講義

法華経の宝塔を、日蓮大聖人は御本尊として顕されたことを述べられ、また、この御本尊こそ大聖人の出世の本懐であるがゆえに、いい加減な姿勢であってはならないことを諭されている。

あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり

本抄が佐渡御流罪中の文永9年(12723月御述作か、身延入山後の建治2年(1276)かは、定かでないが、一応、文永九年の説をとっておく。佐渡御流罪中も、とくに信心強盛の人に対しては、御本尊を顕して授与されたようである。

「あまりにありがたく候へば」といわれているように、阿仏房夫妻の信心を、よほど賞でられたのであろう。御本尊を顕し、阿仏房夫妻に授けられたのである。そして、結文にあるように「夫婦でひそかに拝みなさい」といわれ、「よくよく信心強盛の者でなくては見せてはならない」、また、自分達が亡くなったあとは「わが子でなければ譲ってはならない」と、具体的に受持の仕方を教えられている。

これは、御自身が「出世の本懐とはこれなり」と言い切っておられるように、大聖人の仏法の究極であり、大聖人にとって、これにまさる大事はないからである。

御本尊が大聖人にとっていかに大事なものであったかということは、翌文永10年(12738月、四条金吾にあてて御本尊について述べられた御文にも、如実に拝することができる。

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云く『顕本遠寿を以て其の命と為す』と釈し給う。経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし。あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(1134)と。

このように最も大事な御本尊を、入信して日も浅い阿仏房夫妻に授与されたのは、阿仏房の信心の強盛さと人柄の誠実さを見込まれ、その奥底に「浄行菩薩はうまれかわり給いてや日蓮を御とふらい給うか。不思議なり不思議なり」と仰せのように、仏法上の深い因縁を感じられた故であろう。

大聖人が竜口の法難に引き続いて佐渡に流罪になり、大聖人を憎みつづけてきた念仏はじめ各宗の僧達は勝利を叫び、一方、大聖人の門下でも、以前からの信仰者の中に、疑いを起こし退転する者が出ていた頃のことである。こうしたなかで、大聖人のもとに信伏し、大聖人に対する憎しみの渦巻く地で、数々の御供養をし、大聖人をお護りしたということは、まさに不思議としかいいようのない深い因縁を感じないではいられない。

また、そうした状況のなかで信伏した人だからこそ、大聖人は、阿仏房夫妻が将来にわたって退転することはないと見抜かれ、「北国の導師」とまで讃えて、御本尊を授与されたのである。また、事実、この阿仏房の不屈の信心は、生涯変わらなかったばかりでなく、大聖人御入滅後も、佐渡の正法の信仰者は五老僧に惑わされることなく、日興上人の正統の信仰を伝えたのである。

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