伯耆殿等御返事

 大体この趣をもって書き上ぐべきか。ただし、熱原の百姓等安堵せしめば、日秀等、別に問注有るべからざるか。大進房・弥藤次入道等の狼藉のことに至っては、源、行智の勧めによって殺害・刃傷するところなり。もしまた起請文に及ぶべきことこれを申さば、全く書くべからず。その故は、人に殺害・刃傷せられたる上、重ねて起請文を書き、失を守るは、古今未曽有の沙汰なり。その上、行智の所行、書かしむるごとくならば、身を容るる処なく、行うべきの罪、方無きか。あなかしこ、あなかしこ。この旨を存し、問注の時、強々とこれを申せ。定めて上聞に及ぶべきか。また行智、証人を立て申さば、彼らの人々、行智と同意して百姓等が田畠数十刈り取る由これを申せ。もしまた証文を出ださば、謀書の由これを申せ。ことごとく証人の起請文を用いるべからず。ただ現証の殺害・刃傷のみ。もしその義に背く者は、日蓮の門家にあらず、日蓮の門家にあらず。恐々謹言。
  弘安二年十月十二日    日蓮 花押
 伯耆殿
  日秀・日弁等に下す。

 

 

現代語訳

大体この趣旨によって書き上げるべきであろう。ただし熱原の百姓等が安心できるようになったならば、日秀等は別に問注する必要はないであろう。大進房や弥藤次入道等の狼藉のことについては、その根源は行智の勧めによって殺害刄傷したことにある。もしまた起請文を書くべきである等と言われても、決して書いてはならない。その理由は、人に殺害刄傷された上に、こちらが重ねて起請文を書いて相手の罪を守るなどは昔から今までかつてない事件である。そのうえ、行智の行いが申書に書かれてあるとおりならば、身を置くところもなく、処断すべき罪も方法もないであろう。この旨をしかと心得て問注の時、強盛にこのことを主張するならば、必ず上聞に達するであろう。また行智が証人を立てて申し立てをするならば、その証人達の同類が行智と同意して百姓等の田畠数十を苅り取った者であることを言いなさい。もしまた、証文を出すならば、偽書であると言いなさい。悉く証人の起請文を用いてはならない。ただし現証の殺害刄傷のみは言いきりなさい。もしこの義に背く者は日蓮の門家ではない。日蓮の門家にではない。恐恐。

弘安二年十月十二日       日 蓮  在 御 判

伯 耆 殿

日 秀

日 弁 等 下

語句の解説

熱原の百姓

駿河国富士郡下方庄熱原郷(静岡県富士市厚原)の農民のこと。大聖人の信徒となったため、弘安2年(12799月「竜泉寺の院主の田から稲を盗んだ」という苅田狼藉の罪で捕らえられ鎌倉に送られた農民20人。これらの農民たちは、念仏を称えれば許すという強迫にも屈せず、最後まで題目を唱え続けた。代表者3名(神四郎・弥五郎・弥六郎)は斬首され、残りの17名は追放刑となっている。

 

日秀

(~1329)日蓮大聖人御在世からの弟子で、下野房阿闍梨と称す。天台宗滝泉寺の下野坊に住していたが、日興上人の富士弘教によって、日弁・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導したので、院主代・行智の迫害を受け、これが熱原法難の原因となった。この時、日弁と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。ダイセキジ創建の際には理境坊を建立し、日興上人の弘教を助けた。

 

問注

①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。

 

大進房

下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。

 

弥藤次入道

生没年不明。熱原法難で斬首された神四郎・弥五郎・弥六郎の兄。熱原郷に住んだ念仏の入道と思われる。竜泉寺院主代・行智にそそのかされて、弟たちを偽りの罪状で訴え、農民信徒20人が捕らえられる法難にかかわった。

 

行智

生没年不明。平左近入道行智のこと。竜泉寺の院主代。同寺院の住僧・日秀・日弁・日禅等や多くの農民信徒が、日興上人の弘教によって改宗したのをうらみ、数年にわたって大聖人門下を陰謀をもって迫害した。熱原法難を起こした元凶。

 

祈請文

神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。

 

謀書

文書を偽造すること。

 

伯耆殿

12461333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(133327日、88歳で没した。

 

日弁

12391311)日蓮大聖人御在世当時の弟子。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷の人、竜泉寺の寺僧であったが、 日興上人の弘教により改衣し、熱原の法難に苦労し、真間日頂の許に転ぜられて、上総奥州地方にまで布教の手を延ばされて奇跡を残したと伝えられているが、退転したとも、晩年富士に帰したとの説もあるが明瞭でない。

講義

本抄は、弘安2年(12791012日、身延においてしたためられ、当時、不当に捕えられた熱原の農民信徒20人を救うため鎌倉におられた日興上人と日秀、日弁に対して種々指示を与えられた御状であり、日興上人の写本が北山本門寺に現存する。

冒頭に「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか」と述べられており、日興上人の草案に大聖人が加筆添削されたうえに前半を書き加えられた滝泉寺申状に添えて送られたことがうかがえる。

その内容も、熱原の農民信徒の逮捕の不当を幕府に訴えた場合の心構え、主張すべき点、相手方の言い分に対する反論の仕方などを具体的に御指示になり、そのとおりに実践しない者は日蓮の門下ではないと厳しく戒められているのである。

大聖人は、101日に門下一同に対して聖人御難事で「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」(1189:03)と宣せられ、建長5年(1253)の立教開宗以来27年にして出世の本懐を遂げられたことを示されている。

これは、熱原法難を通じて、日興上人を中心とする熱原の信徒達の団結と、不惜身命の信仰の発露をご覧になった大聖人が、時を感じられたものと拝される。

その一方で、大聖人は、捕えられた熱原の人々を救うために、自ら筆をとられて滝泉寺申状を完成して、鎌倉の日興上人へ送付されるとともに、清書して幕府へ提出すべきことと、問注の仕方を御指示になったのが本抄なのである。

 

大体此の趣を以て書き上ぐ可きか……

 

弘安2年(1279921日に、苅田狼藉という無実の罪を着せられて熱原の農民信徒20人が捕えられ、鎌倉へ送られると、日興上人は幕府にその不当を訴える申状の文案を作られ、大聖人のもとへ送って指示を仰がれた。

大聖人は、弥藤次の訴状への反論として事件の経過を述べて20人の無実を主張される一方、滝泉寺の院主代・行智の悪行を指弾して正当な裁定を強く要求した日興上人の文案はそのままに、前半を書き加えられたのである。

滝泉寺申状の正筆が現存しており、最初から「此等の子細御不審を相貽さば」(0852:08)までが大聖人の御筆跡で、そのあと「高僧等を召され」から最後までを日興上人が執筆されている。

大聖人はその草案を日興上人のもとへ送られて、この趣旨で清書して幕府へ提出するよう御指示になり、更に「但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」と述べられ、ただし熱原の農民達が無事に釈放されたならば別に訴訟するには及ばないと、細心の注意を与えられているのである。

「若し又起請文に及ぶ可き云云の事之を申さば全く書く可からず」とは、獄中にある熱原の人々への御注意と思われる。

鎌倉へ着いてから1015日までの間に何度か取り調べがあって、そこで、「念仏を称えるという起請文を書けば罪を許してやる」という威嚇があったと考えられる。

そのことが大聖人に御報告されたため「大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至つては源は行智の勧めに依りて殺害刄傷する所なり……人に殺害刄傷せられたる上・重ねて起請文を書き失を守るは古今未曾有の沙汰なり」と仰せになったものであろう。

大進房や弥藤次入道が行智にそそのかされて、熱原の人々を暴行・殺傷したのが事件の真相であり、それなのに被害者側が謝って起請文を書くなどということはいまだかつて聞いたことがないとされ、断じて書いてはならないと仰せなのである。

そして「行智の所行・書かしむる如くならば身を容るる処なく行う可きの罪・方無きか」――滝泉寺申状が公になり、そこに述べられている行智の所行が明らかになれば、身の置きどころもなくなり、あてるべき罪もないほどだろう、と述べられている。

滝泉寺申状には、熱原の人々が無実であることを「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。此の条・跡形も無き虚誕なり日秀等は損亡せられし行者なり不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ可き将た又尫弱なる土民の族・日秀等に雇い越されんや、然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては行智云く近隣の人人争つて弓箭を奪い取り其の身に召し取ると云うが如き子細を申さざるや、矯飾の至り宜しく賢察に足るべし」(0852-10)と述べられている。

また滝泉寺の院主代・行智の所行については「凡そ行智の所行は法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治を為す、日弁に御書下を給い構え置く所の上葺榑一万二千寸の内八千寸を之を私用せしむ、下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ無智無才の盗人・兵部房静印より過料を取り器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し鶉狩・狸殺・狼落の鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい或は毒物を仏前の池に入れ若干の魚類を殺し村里に出して之を売る、見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基悲んで余り有り。此くの如き不善の悪行・日日相積るの間日秀等愁歎の余り依つて上聞を驚かさんと欲す、行智条条の自科を塞がんが為に種種の秘計を廻らし近隣の輩を相語らい遮つて跡形も無き不実を申し付け日秀等を損亡せしめんと擬するの条言語道断の次第なり」(0853:05)と具体的に悪行の数々を記されている。

こうした行智の所行は、大寺の高僧とは、とてもいえない。ならずものと同じである。行智は「平左近入道」と呼ばれていたことから、北条一門で、しかも在家の僧だったと思われる。

そのため、正式に住職になる資格がないので「院主代」つまり住職代理にすわり、北条一族という権勢をかさに、悪行を重ねていたものである。

また高橋入道殿御返事に「するがの国は守殿の御領ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人人多し」(1461:10)と仰せのように、駿河国は北条時宗の領国であり、富士郡下方庄はほとんど北条一族の領地だった。そのため下方庄には北条家の政所が設けられており、行智はその役人と結託していたためどんなことでもできたといえる。

弘安2年(12794月に熱原の信徒・四郎を傷害し、八月に同じく弥四郎を殺害したのも、下方の政所代の指示を受けた武士であり、やらせたのは行智だったのである。

申状が幕府に提出されれば、事実を糾明するために裁判が開かれるはずであり、そこで行智の悪行を強く訴えるならば必ず執権北条時宗の耳にも入ることであろうと仰せになり、また行智らが熱原の人々の犯行を立証する証人をたててきたら「その証人達の同類が行智とはかって法華宗の僧俗の田畠数十も刈り取って奪ったのだ」と申し立て、証文を出してきたら「それは誅書だ」といって、証人の起請文など用いてはならない、と裁判における具体的な対処の仕方を御指示になっている。

そして「但し現証の殺害刄傷而已」と、平左衛門尉とも結託していた行智がとるであろう卑屈な策略を想定されながら、それに紛動されることなく、熱原の農民達が不当に殺傷された事実については厳然と主張するよう強調され、最後に「若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず候」と強く戒められ本抄を結ばれている。

しかし、この3日後の1015日には熱原の三烈士は処刑されており、日亨上人は「これらくれぐれの行き届いた御教訓は実行すべき機会がなか。

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