本尊問答抄(第十段第一 諸宗の誤りを見抜かれた大聖人)

本尊問答抄(第十段第一 諸宗の誤りを見抜かれた大聖人)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

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然るに日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに倶舎宗は浅近なれども一分は小乗経に相当するに似たり、成実宗は大小兼雑して謬悞あり律宗は本は小乗・中比は権大乗・今は一向に大乗宗とおもへり又伝教大師の律宗あり別に習う事なり、

 ——————————–(第十段第二に続く)———————————————–

 

現代語訳

ところが日蓮は東海道十五箇国のうち第十二番目に当たる安房国長狭郡東条郷の片海の海師の子である。十二歳の時に、同じ東条郷にある清澄寺という山に登って住した。しかし、安房は京都から遠く離れた所であるうえに、寺といっても学ぶべき人がいなかった。そこで、随分と諸国を巡って修学し学問を続けたが、自分は不肖の身であるし、しかも人は教えてくれず、十宗の起源やそれらの勝劣を容易にわきまえがたかった。

そうしたところに、たまたま仏菩薩に祈請し、一切の経論を研究し、十宗の教義と照らし合わせてわかったことは、倶舎宗は浅近な教えであるが、その一分は小乗の経典に相当しているようである。成実宗は大乗の教えと小乗の教えを混合させてしまい、誤りがある。律宗は、もともとは小乗の教えであったが、次第に権大乗の教えとなり、今は皆が大乗の宗派だと思っている。このほかに伝教大師の習い伝えた律宗があるが、これはその律宗とは別である。

講義

この段では、大聖人御自身の事歴を述べられるとともに、当時日本に乱立していた10宗の誤りを自ら見破られた経緯を簡潔に述べられている。

大聖人は東海道15ヵ国のうち12番目に数えられている安房の国・長狭郡東条郷の漁師の子として生まれられ、12歳の時から清澄寺に登られ仏法を修学されたのであるが、「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」の御文から、修学が進むにつれて起こってきた大聖人の疑問に対して明確に教えてくれる人はいなかったことがうかがえる。

そのために大聖人は諸国遊学の旅にたたれた。妙法比丘尼御返事には「日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり、此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国.寺寺あらあら習い回り候し」(1407:12)と具体的に記されている。

このように、大聖人は求道の志を立てられて研学の道を歩まれたのである。しかも深山に閉じこもっての研究ではなく当時の日本における仏教界の現状をつぶさにご覧になりながらの修学であられた。

大聖人が諸国遊学を決意された背景には当時の日本の宗教事情も深く関係していよう。報恩抄に「世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる一切経も又かくのごとくや有るらん何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ、而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ」(0294:07)と仰せのように、10宗が雑乱しているなかにあって、大聖人は釈尊一代の経の中で大王の位置である経はどれなのかという疑念を解決されんがための修学であられたのである。

しかし、より根本的には、法華経こそ釈尊の一代聖教のなかで最第一であるとの御確信は、早くから得ておられたのであり、16年間に及ぶ修学は、その裏付けのためであったと拝される。

このことは次の御文によって明白であろう。

すなわち「日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ」(0888:09)との御文である。

したがって本抄に「我が身は不肖なり人はおしへず 十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て」と仰せられているのは、大聖人が幼少のころに清澄寺において虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」との誓願を立てられたことを指していよう。

次に10宗のなかで天台宗を除く9宗の破折をされている。初めに俱舎宗・成実宗・律宗の3宗を挙げられている。

①俱舎宗

俱舎宗は世親の俱舎論30巻を所依とする宗派で、日本には三論宗の付宗として伝わり、学派として存在したのみで一宗派をなすには至らなかった。我空法有を説いて、四諦の理を観じて阿羅漢果を得ることを目的とした。その教義は、部派仏教のなかで一切の法を実在と説く説一切有部の教えから出ていることから「小乗教に相当するに似たり」と仰せになっているのである。

②成実宗

成実宗は、訶梨跋摩の成実論16巻を所依とする宗で、やはり日本では一宗派を形成するには至らなかった。成実宗は、小乗教で説く我空法有から一歩進んで、我も法も共に空であるという人法二空を説いており、大乗の義を含んでいるといえるが、これは小乗教の学説を大乗の義に取り入れて解釈したものである故に、「大小兼雑」と仰せになられたと拝される。

③律宗

律宗は、戒律を修行する宗派で、日本においては鑑真が将来したのが始まりとされている。天平勝宝5年(0753)に来日した鑑真は東大寺に戒壇を設け、以後、下野の薬師寺・筑紫の観世音に戒壇を建立し、これらをもって“天下の三戒壇”と称されていたが、いずれも南山律宗を源流とする小乗の戒壇である。

しかしながら、三国仏法伝通縁起巻下には「初めて廬遮那殿の前に於て戒壇を立て、天皇、初めて登壇して菩薩戒を受け」と記されており、菩薩戒とは大乗戒であることから南都の戒壇が大乗の戒壇ではないかとの見方がある。

この問題は、伝教大師が、弘仁9年(08185月から翌年3月にかけて六条式・八条式・四条式の三種からなる。いわゆる山家学生式を著し上奏し、大乗戒壇建立の勅許を請うたのに対して、南都の僧綱たちは反発し、これを拒否する表を朝廷に提出した時にも論議されたところである。

伝教大師の顕戒論には僧綱が最澄に対して反駁した上奏文の一つとして、次のような文が挙げられている。

「僧統奏して曰く、また大乗戒伝来すること久し。大唐の高徳、此土の名僧、相ひ尋ね伝授し、今に至りて絶えずと」

つまり、日本は既に大乗戒が伝えられていると南都の僧が主張している文である。

これに対して伝教大師は次のように反駁している。

「論じて曰く、梵網の戒、先代より伝ふと雖も、この間の受うる人、末だ円意を解せず、所以に声聞の律儀を用ひて梵網の威儀に同ず」と、そして更に、天台宗で伝える戒は梵網の円戒であり、これまで日本に伝えられてきた戒は円の律儀ではない故に、同日に論ずることはできないとしている。

梵網の戒とは、梵網戒に基づく十重禁戒・四十八軽戒の大乗戒をいう。この梵網戒が爾前の円教として位置づけられるのは、天台大師の五時八教の教判によってであり、したがって伝教大師が「天台の釈に非ざれば伝説すべきこと難し」と述べているように、梵網経の大乗戒が日本に伝えられたといっても別教の意においてであることは明らかである。

鑑真の伝えた戒が小乗戒であることについては、日寛上人が撰時抄愚記で「鑑真既に道岸法師に随って菩薩戒を受くるが故に、時の宣しきに随ってこれを授くるならん。既に南山を祖と為す。故に四分小律を出ずべからず。設い菩薩戒を兼ぬと雖も、多くはこれ善戒経・瑜伽論等の意なり、尚梵網の大戒にも及ばず、況や法華の円戒に及ばんをや」と述べられている通りである。

すなわち、鑑真は16歳で出家し、18歳で大乗戒である菩薩戒を道岸法師より受けており、それを日本において授戒したのである。しかし、鑑真の学んだ律は道宣律師が開祖とする南山律師で説くところの四分律の小乗戒であったとされているのである。この点について大聖人は下山御消息で次のように明確に仰せられている。

「今日本国は最初に仏法渡りて候し比・大小雑行にて候しが人王四十五代聖武天皇の御宇に唐の揚州竜興寺の鑑真和尚と申せし人漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給いて有りしが円機未熟とやおぼしけん此の法門をば已心に収めて口にも出だし給はず、大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり、大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず」(0344:17

また、先に日寛上人が「設い菩薩戒を兼ぬと雖も」と仰せられているように、鑑真の伝えた戒律は、広い意味では大小兼学といえる。つまり、戒には通受戒と別円戒の二種があり、大乗の三聚浄戒を総じて受けることを通受戒といい、そのうち摂律儀戒を別して受けることを別受戒という。

この三聚浄戒とは、大乗の菩薩戒をいい、一切の戒を受持する摂律儀戒、一切の善法を修することを戒とする摂善法戒、一切衆生を饒益うることを戒とする摂衆生戒の三種のことである。

三聚浄戒のうち、摂善法戒と摂衆生戒は大乗戒であり、摂律儀戒は大乗戒と小乗戒の両方を含んでいるが、南都の戒壇においては出家した者は、まず小乗の別受の具足戒を受け、後に三聚浄戒の大乗戒を通受したのである。したがって、大乗・小乗の戒を兼ねていたといえる。

これに対して伝教大師の大乗戒は、三聚浄戒を総じて受けることを通受戒とし、大乗の別解説律義たる十重戒・四十八軽を別して受けることを別受戒として、通別ともに小乗戒を用いない純然たる大乗戒なのである。しかも、鑑真当時の大乗戒は、瑜伽論やまた瑜伽論の三聚浄戒を受けて成立した菩薩善戒経に説かれている大乗戒であり、出家・在家に通ずる大乗独自の菩薩戒を説いた梵網経の大乗戒には及ばない。

故に日寛上人は、南都の大乗戒がまして法華経の円戒に及ぶわけがないと述べられているのである。これは、梵網経の大乗戒が円戒であるといえども、爾前の円教の分際であることから、相対妙の義においては勝劣を判じられたものである。

大聖人は十法界明因果抄において次のように仰せられている。

「梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り」(0437:12

なお、大聖人が本抄で「律宗は本は小乗・中比は権大乗」と仰せられているのは、律宗が本来、小乗教の戒律に基づいて立てられた宗派であるにもかかわらず、それを大乗戒であると強弁したことを指摘されたものと拝される。

例えば、南山律師の道宣が、小乗の四分律を弘めたにもかかわらず、戒相は小乗であるが義は一分大乗に通じるという分通大乗説を唱えたのはその一例であり、また先に見たように南都の僧網が日本に既に大乗戒が伝わっていると主張したのもそうである。

ところが、伝教大師が比叡山に大乗の円頓戒壇を建立した後は、この律宗の流れをくむ学僧らもすべて小乗の戒律を捨てて大乗戒を受持した。下山御消息には次のように仰せられている。

「律宗なんど申す宗は一向小乗なり月氏には 正法一千年の前の五百年の小法又日本国にては像法の中比・法華経天台宗の流布すべき前に且らく機を調養せむがためなり、例せば日出でんとて明星前に立ち雨下らむとて雲先おこるが如し、日出雨下て後の星雲はなにかせん而るに今は時過ぬ又末法に入りて之を修行せば重病に軽薬を授け大石を小船に載するが如し修行せば身は苦く暇は入りて験なく華のみ開きて菓なからん、故に教大師・像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内・其の中・円頓の戒壇を叡山に建立し給いし時二百五十戒忽に捨て畢んぬ」(0346:17

南都律宗は、伝教大師が大乗戒壇を建立した以後は、密教や浄土宗の大乗に押されて急速に衰退していった。しかし、鎌倉期に入ってやや復興の兆しを見せ、とりわけ西大寺の叡尊は、密教全盛の時流れ巧みにとらえて真言密教の祈禱とともに、大乗経である梵網経を取り入れて、もっぱら菩薩戒の梵網経を授戒して民衆を欺いたのである。

このことを大聖人は、同じく下山御消息で「一類の者等天台の才学を以て見れば我が律宗は幼弱なる故に漸漸に梵網経へうつり結句は法華経の大戒を我が小律に盗み入れて還つて円頓の行者を破戒無戒と咲へば」(0347:14)と指摘されている。

こうした日本における律宗の歴史を踏まえられて、本抄で「今は一向に大乗宗とおもへり」と仰せられたものと拝される。

また、最後に「伝教大師律宗あり」と述べられているが、これは小乗の律宗とは区別されて、伝教大師が小乗戒を破棄して大乗戒を建立したことを指していわれている。このことは、神国王御書でも「大乗の律宗」(1517:09)と呼ばれている。

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