———————————–(第八段第五から続く)——————————————-
然らば日本国中に数十万の寺社あり皆真言宗なりたまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従の如くなり若しくは兼学の人も心中は一同に真言なり、座主・長吏・検校・別当・一向に真言たるうへ上に好むところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師なり、されば日本国・或は口には法華経最第一とはよめども心は最第二・最第三なり或は身口意共に最第二三なり、三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなしまして能持此経の行者はあるべしともおぼへず、如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の衆生は上一人より下万民にいたるまで法華経の大怨敵なり。
——————————–(第十段第一に続く)———————————————–
現代語訳
かくして、日本国中に数十万の寺社があるが、皆真言宗となってしまった。たまたま真言とともに法華宗を並び立ててはいても、真言を主のようにし、法華を家来のようにしている。あるいは真言宗と法華経を兼学した人も心中では、一同に真言になっている。
寺により山によって座主・長吏・検校・別当と住持の名称は違っていても、すべて真言師であるうえ、地位の高い人たちが好むところにはその下の者も皆従うというのが世の常であるから、一人ももれなく真言師となっている。したがって日本においては、ある者は口では法華経最第一と読んでいても、心の中では最第二・最第三と読んでいる。またある者は身口意ともに最第二・第三と読んでいる。
身口意の三業相応して、最第一と読んでいる法華経の行者は、伝教大師以後四百余年の間、一人もいないのである。まして「能持此経」の行者がいるとは思えない。法華経法師品第十に「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」とあるとおり、今の衆生は上一人より下万民に至るまで法華経の大怨敵である。
講義
前段までは、弘法・慈覚・智証といった東密・台密の元祖の事歴をとおして、真言密経が日本国にはびこった由来を論じられたが、本段では、比叡山の座主等をはじめとして、当時の各寺において最高の地位にあった高僧たちが一同に真言師となってしまった結果、日本国中のすべての僧が真言師になってしまったことを仰せられている。
そして、日本国において身口意の三業相応して法華経第一と読んだ行者は伝教大師以後400余年の間、一人もいないことを述べられ、日本国中の人々が法華経の大怨敵になっていることを指摘されている。
なお、本抄では当時の寺院における最高の官職について「座主・長吏・検校・別当」と記されているが、他抄では例えば「山の座主・東寺・御室・七大寺の検校、園城寺の長吏・伊豆・箱根・日光・慈光等の寺寺の別当等も皆此の三大師の嫡嫡なり」(1228:07)と寺名が挙げられており、このことから判断すると、座主は比叡山延暦寺、長吏は台密の園城三井寺、検校は奈良の東大寺、興福寺等の七大寺、別当は伊豆・箱根・日光・慈光の各寺社のそれぞれの頭領を指して言われていたものと思われる。
こうして日本国中に真言の邪義が広まって、誰もが真言が最も優れていると信じて疑わないなかにあって、大聖人ただ一人がその誤りを厳しく破折され、法華経こそ最勝の教えであると主張された。これは、ある意味で当時の仏教界の権威に対する真っ向からの挑戦であったといえよう。
そのために大聖人は法華経に予言された数々の大難を受けられ、法華経を身口意の三業にわたって読みきられたのであり、次の段より大聖人御自身の御生涯、御化導へと筆を転じられていくのである。
この段で、大聖人は「三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし」と仰せられている。法華経最第一は法華経に説かれた釈尊の金言であり、それを三業相応して主張していくことが法華経の行者としては不可欠である。日寛上人は報恩抄文段で次のように仰せられている。
「但法華経のみ『諸経法中最も為れ第一』『諸経中に於て最も其の上に在り』と行ずるを、即ち法華の行者と名づく」
しかしながら、既に本抄で指摘されているように、天台宗の座主であった慈覚・智証の両大師は、法華経第二と読んだのであり、法華経の大怨敵といわなければならない。
これに対して、伝教大師は法華宗句巻下において「当に知るべし、斯の法華経は諸経の中に最も為れ第一なることを」と述べ、また「天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なり。故に能く法華を持する者も亦衆生の中に第一なり」と断じており、法華経最勝の義に立っていることは明らかである。
故に大聖人は伝教大師を法華経の行者として、その伝教大師亡き後は、400余年が間、三業相応して最第一と読んだ人は一人もなしと言われているのである。
次に、大聖人は「まして能持此経の行者はあるべしとおぼへず」と仰せられている。この「能持此経の行者」について、法華経分別功徳品第十七には次のように記されている。
「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、即ち為れ已の上の如く、諸の供養を具足するなり」
“能く”とは悪世末法の故に三類の強敵が競い起こるが、そのなかにおいて受持し抜き弘めていくことである。したがってただ三業相応して法華経第一と叫ぶことも難事であるが、あらゆる迫害・弾圧に耐えて妙法を受持し抜くことが「能持此経」であり、難事中の難事である。そしてこれは末法の御本仏にのみ当てはまることなのである。
このことを大聖人は椎地四郎殿御書で「諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」(1448:05)と述べられている。
このように、大聖人が本抄で「三業相応の行者」「能持此経の行者」と区別されていることは重要である。
大聖人が諸御抄で用いられている「法華経の行者」という言葉は、大別して門下に許された場合と御自身にのみ限定された場合との二とおりがある。これは、いうまでもなく総別の違いである。
例えば、四条金吾に対しては「貴辺法華経の行者となり結句大難にもあひ日蓮をもたすけ給う事」(1117:13)と述べられ、また日妙聖人には「日本第一の法華経の行者の女人なり」(1217:08)と称賛の言葉を与えられている。
こうした御文の例はほかにも多く拝見されるが、いずれも大聖人の門下としての法華経を信じていることをもって法華経の行者と名づけられているのである。
それに対して、別の立場では、末法における法華経の行者は日蓮大聖人ただお一人であることは疑うべくもない。それは、法華経勧持品第十三に予言された三類の強敵にあわれたのが大聖人ただお一人だからである。
故に開目抄には「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ」(0202:11)と述べられている。
また、「能持此経」についていえば、法華経 見宝搭品第十一に六難九易の六難の一つとして「我が滅後に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せん、是れ則ち難しとす」とある。
そして、この六難九易を身をもって読むことが法華経の行者即末法御本仏たる証拠であるとして「大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(0223:03)と仰せられている。
大聖人は、四条金吾殿御返事で次のように仰せられている。
「末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く「能説此経.能持此経の人・則如来の使なり」八巻・一巻・一品.一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず凡夫なる故なり、但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く『能説此経・能持此経の人・則如来の使なり』八巻・一巻・一品・一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず凡夫なる故なり、但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり」(1181:17)
ここに、法華経の行者ではなく「末代の法華経の聖人」とおおせられているのは、まさに末法における別しての法華経の行者が聖人、すなわち仏の境界にあることを示唆されているものと拝される。そして「日蓮が心は」以下の御文は、謙遜して、このように表現されたことは明らかであろう。
したがって、本抄で「三業相応の行者」と「能持此経の行者」を立て分けられているのは、法華経最勝の義をもって諸宗を破折されることによって「猶多怨嫉・況滅度後」の金言のままに三類の強敵の大難を忍び、釈尊の言葉の真実なることを証明された法華経の行者が大聖人ただお一人であることを示されているのである。そして、末法の法華経の行者とはまさに御本仏の異名にほかならない。
日寛上人が文底秘沈抄において「応に知るべし、大難を忍ぶことは偏に大慈大悲の故なり」と御教示されているように、大聖人が二度の王難をはじめ数々の大難を忍ばれたのは、ひとえに末法の一切衆生を救済しようとされる御本仏としての大慈大悲の御振る舞いであったのである。