———————————–(第八段第三から続く)——————————————-
其の後・弘法大師・真言経を下されける事を遺恨とや思食しけむ真言宗を立てんとたばかりて法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云、あはれ慈覚・智証・叡山・園城にこの義をゆるさずば弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし、彼の両大師・華厳・法華の勝劣をばゆるさねど法華・真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば存外に本の伝教大師の大怨敵となる、
——————————–(第八段第五に続く)———————————————–
現代語訳
その後、弘法大師は真言の経が法華経に劣っていると下されたことを恨みに思われたことであろうか。真言宗を立てようとして法華経は大日経に劣るのみならず華厳経にも劣っているなどと唱えたのである。
残念なことに、もし慈覚・智証が叡山・園城寺にこの邪義を許さなければ、弘法大師の僻見が日本国に弘まることはなかったであろう。しかしかの両大師は、華厳教と法華教との勝劣については弘法の考えをゆるさなかったものの、法華教と真言の勝劣については、一貫して弘法大師の考えに同調したため、思いのほか開祖である伝教大師の大怨敵となってしまったのである。
講義
ここでは、弘法大師の邪義を慈覚・智証の二人が天台宗に取り入れてしまったために、弘法の僻見が日本国中に広まっていったことを指摘されている。
まずはじめに、真言経が下されたことを弘法大師が恨みに思っていたと仰せであるが、これは先に述べたように、伝教大師が依憑天台宗の序分で指摘していることを言われているものと拝される。
伝教大師が依憑天台集を著したのは、弘仁7年(0816)のこととされている。
これに対して、弘法大師空海が大日経第一・華厳経第二・法華経第三なる真言密経の教判を体系化したのは、秘密曼荼羅十住心論・秘蔵宝鑰においてであり、これはおよそ天長7年(0830)頃と推定されている。
これは、同年に淳和天皇より諸宗に対して各宗の宗義を提示するようにとの勅宣があり、このとき空海が提出したのが十住心論十巻とそれを要約した秘蔵宝鑰三巻であったことに基づいている。
したがって、両書の成立は、少なくとも伝教大師が弘仁13年(0822)に入滅して後のことであり、伝教大師は顕密二教の勝劣についてははっきりと述べていたが、弘法は伝教大師の存命中は、その十住心による教判を表立っては明言していなかったといえるのである。
なお、空海は平城天皇灌頂文にも十住心の教判と同様に、一に律宗・二に俱舎宗・三に成実宗・四に法相宗・五に三論宗・六に天台宗・七に華厳・八に真言と八宗を位置付けているが、ここではまだ十住心との対応関係は明らかにされていない。
また、これも次に述べる三昧耶戒序と同じく伝教大師入滅の年に成立したのである。
三昧耶戒序には十住心論の萌芽と見るべきものが記されている。天台宗を第八の「如実一道心」に配していることは次の文に明らかである。
「自心を妙蓮に観じ、境智を照潤に喩う。三諦俱に融し、六即位を表す、これすなわち如実一道心の針灸なり」
空海が十住心の教判において、法華経を第八住心に、華厳経を第九住心に配して、法華経を華厳経より劣るとしたのも、伝教大師を意識してのことであったろうと推察される。
この点については、宮坂宥勝博士も、空海が十住心体系を構成するにあたって、最も配慮したのが天台宗の位置付けであったと推論し、その理由を次のように述べている。
「天台宗に配当されている第八住心の名称が『十住心論』『宝鑰』においてすら別名がいくつかあることが、それを反証しているように思われる。しかも、第八住心を『一道如実心』の名称をもって天台に配した『三昧耶戒序』の成立が奇しくも最澄の入滅の年にあたるのである。
これは、三昧耶戒序において、十住心のうち第八住心が「一道如実心」となっているのに対して、十住心論、秘蔵法鑰では、いずれも「一道無為心」とあり、しかもその別名として「如実知自心」「空性無境論」とも名づけられていることを指摘したものである。
このように、法華経を下す空海のこうした教判が伝教大師の入滅を待つかのようにして公表されたことは決して偶然ではないと思われるのである。
こうした空海の僻見を見破ることができずに、真言密教に取り込まれて理同事勝の義を唱え、台密に堕したのが慈覚・智証の二人である。この二人も、さすがに法華経を華厳経に劣るという空海の教判にくみすることはしなかったが、真言と法華経の勝劣についてはまったく空海の邪義に同じて、開祖たる伝教大師の教えに背いてしまったのである。
大聖人が本抄で「伝教大師の大怨敵」と弾訶されているのもそのためである。