———————————–(第八段第一から続く)——————————————-
日本国は人王三十代・欽明の御時・百済国より仏法始めて渡りたりしかども始は神と仏との諍論こわくして三十余年はすぎにき、三十四代推古天皇の御宇に聖徳太子始めて仏法を弘通し給う慧観・観勒の二の上人・百済国よりわたりて三論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭・禅宗をわたす文武の御宇に新羅国の智鳳・法相宗をわたす第四十四代元正天皇の御宇に善無畏三蔵・大日経をわたす然而弘まらず、聖武の御宇に審祥大徳・朗弁僧正等・華厳宗をわたす人王四十六代・孝謙天皇の御宇に唐代の鑒真和尚・律宗と法華経をわたす律をばひろめ法華をば弘めず、
——————————–(第八段第三に続く)———————————————–
現代語訳
日本国には、人王第三十代欽明天皇の御時に、百済の国から仏法がはじめて渡ってきたが、はじめは神道と仏教の諍論が激しく、三十年余り過ぎてしまった。第三十四代推古天皇の時代に入って、聖徳太子がはじめて仏法を弘通された。そして慧観と観勒という二人の上人が百済国より日本に渡来して三論宗を弘め、孝徳天皇の時代に道昭が禅宗を伝えた。文武天皇の時代に新羅国の智鳳が法相宗を伝え、第四十四代元正天皇の時代には善無畏三蔵が大日経を伝えたが、弘まらなかった。聖武天皇の御時には、審祥大徳・朗弁僧正らが華厳宗を伝え、人王四十六代孝謙天皇の時代に唐代の鑒真和尚が律宗と法華経を伝え、律を弘めたが法華経は弘めなかった。
講義
日本における仏法の初伝から伝教大師が出現するまでの歴史を概観されている。
日本への仏教伝来の年代については、0552と0538の両説があるが、大聖人は、欽明天皇の13年(0552)に百済国の聖明王より大和朝廷に仏像・経典等が献上されたことをもって仏教の初伝とされている。これは、日本書紀に基づいたものである。
さて、このように仏教が伝えられた時、すでに古代の神祇信仰を中心として祭官組織が成立しており、祭官組織を構成する氏族の反発が当然予想された。
そこで、天皇は、仏教の受容を主張する蘇我稲目にこれを祀らさせた。しかし、やがて、これについても、排仏の動きが強まっていった。その排仏派の中心は物部氏であり、崇仏派の蘇我氏と激しく対立していった。
この蘇我氏と物部氏の対立は、もとより新来の仏教と旧来の神祇信仰との宗教的な対立というだけでなく、もともと権力の掌握をめぐって敵対してきたのであり、仏教受容の問題は一つの契機にしかすぎなかった。
いずれにしても、この両者の対立は、用明天皇の在位時代になると一層、深刻化し、天皇が崩御された後は、皇位継承をめぐる対立が加わったために、やがて武力闘争へと激化したが、0587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、摂政・聖徳太子により仏教国としての道がここに開かれたのである。
本抄に「神と仏との諍論こわくして三十余年はすぎにき」と仰せられているのは、仏教伝来から物部守屋の滅亡までを指していると拝される。
そして、聖徳太子が初めて仏法を弘通したと仰せであるが、これは蘇我馬子が崇仏派の中心であったとはいえ、彼が仏教を外国文化として取り入れ自らの権力を強化する手段としてしか見ていかなかったのに対して、聖徳太子は、仏教の宗教として優れた内容に早くから着目し、その精神を政治に取り入れ、仏法の興隆を図ったからである。
次に諸宗の日本伝来について述べられている。はじめ三論宗、次に禅宗、法相宗、真言宗、華厳宗、律宗、法相宗と続き、それぞれを伝来した年次、僧等を記されている。
南都六宗の一つである三論宗は、百済の僧・観勒が推古天皇の10年(0602)10月に来日して伝えた。本朝高僧伝巻第一によれば、観勒は、勅命に従って元興寺に住し、選ばれた優秀な者に書を教えたという。慧観は高句麗の人で、推古天皇の33年(0625)に来朝し、元興寺に住して三論を弘めた。
次に、孝徳天皇の治世に道昭が禅宗を伝えたと仰せであるが、これは道昭が孝徳天皇の白雉4年(0653)唐に渡って玄奘三蔵より法相を学ぶとともに、相州・隆化寺の慧満禅師から禅を伝承したことを指している。道昭は帰国後、主に法相宗を弘め、これが法相宗の日本初伝とされているが、天智天皇の元年(0662)3月、元興寺の東南の隅に禅院を構えて終日、座禅を組んだという。
第三番目として、法相宗の日本伝来について述べられている。これは四次の伝来のうち第三伝に当たるもので、新羅の僧・智鳳が来朝して、文武天皇の大宝3年(0703)に智鸞・智雄とともに入唐して智恩大師窺基の法孫である智周より法相を授けられたのである。
第四に、真言宗の依経である大日経の伝来に言及されている。すなわち、元正天皇の時代にインドの善無畏三蔵が来日して大日経をもたらしたが広まらなかったという。これは史実としては不確定であるが、世に言い伝えられていたもので、本朝高僧巻第一にも次のように記されている。
「本朝元正帝の代、此方に来儀す。初め南都興福寺の東南隅に止る。後但州の発心貫山に往て、一精藍を建て真言教を説く。屢神迹を垂れて、諸州に遊化するも、衆機末だ熟せず、真教聞ゆること無し。遂に大毘廬遮那経を和州高市郡の久米の道場に納れて、又唐に帰って西明寺に居す」
また、このほか扶桑略記巻第六、元亨釈書巻一、三国仏法伝通縁起にも善無畏来朝説が記されており、この説は、広く信じられていたようで、この善無畏によって伝えられた大日経が、久米寺の東搭にあるとの夢告を空海が得たという伝説はよく知られているところである。
次に、華厳宗が聖武天皇の代に審祥と良弁等によってもたらされたことを仰せられている。
華厳宗の章疏が日本に伝えられたのは、天平8年(0736)に来日した道璿によってであり、道璿を華厳宗の初祖とする考えもあるが、道璿は経典をもたらしただけで講じなかったとされている。
撰時抄にも本抄と同様に審祥を華厳の伝法者として挙げられているが、日寛上人はこの点について撰時抄愚記で次のように指摘されている。
「実には道璿律師、華厳の章疏を渡すなり。而るに『審祥』最初講演の師なり。故に功を推して『審祥渡す』というなり」
次に、鑑真が孝謙天皇の代に律宗と法華経を我が国にもたらしたことが記されている。
三国仏法伝通縁起巻下には、次のようにある。
「和尚の来朝せる時、随身せる聖教は広く多くして一に非ず、蕨の中にも律宗の諸典・天台の諸文は齏し持つこと是れ衆し」
更に「昔、人王第四十六代孝嫌天皇の御宇たる天平勝宝六年庚午に、鑑真和尚は天台宗の章齏して来れり、謂く摩訶止観・法華玄義・法華文句・小止観・六妙門等也」とある。
しかしながら、「鑑真和尚は、既に台宗を此の国に伝えて而も末だ広く講敷せず、先ず戒律を弘む」とあるように、鑑真はもっぱら戒律を弘め、中国の南山律宗を日本に伝えたのみで、天台法華宗は弘めなかったのである。
天台宗が日本で開花するのは、伝教大師の出現をまたなければならなかった。