本尊問答抄(第八段第一 インド・中国の仏法弘通)

本尊問答抄(第八段第一 インド・中国の仏法弘通)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第七段第三から続く)——————————————-

答う夫れ教主釈尊の御入滅一千年の間・月氏に仏法の弘通せし次第は先五百年は小乗・後の五百年は大乗・小大・権実の諍はありしかども顕密の定めはかすかなりき、像法に入りて十五年と申せしに漢土に仏法渡る始は儒道と釈教と諍論して定めがたかりきされども仏法やうやく弘通せしかば小大・権実の諍論いできたる、されどもいたくの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて六百年・玄宗皇帝の御宇善無畏・金剛智・不空の三三蔵・月氏より入り給いて後・真言宗を立てしかば、華厳・法華等の諸宗は以ての外にくだされき上一人自り下万民に至るまで真言には法華経は雲泥なりと思いしなり、其の後・徳宗皇帝の御宇に妙楽大師と申す人真言は法華経にあながちにをとりたりとおぼしめししかども、いたく立てる事もなかりしかば法華・真言の勝劣を弁える人なし。

 ——————————–(第八段第二に続く)———————————————–

 

現代語訳

答えて言う。教主釈尊の御入滅後一千年の間に、インドに仏法の弘まっていった順序は、初めの五百年はまず小乗が、そして後半の五百年は大乗が弘まって、小乗と大乗・権教と実教との間に論諍があったけれども、顕教と密教の区別についてはほとんど明確にされてはいなかった。

像法に入って十五年目という時に、中国に仏法が渡り、当初は儒教・道教と釈尊の教えとの間に諍論が起こったが、その勝劣もはっきりと判定することは困難であった。しかし、仏法が次第に弘まっていくと、小乗と大乗・権教と実教との諍論が起きたのである。

仏法が中国に渡って六百年にして、玄宗皇帝の時代に、善無畏・金剛智・不空の三三蔵がインドから唐に入って真言宗を立ててからは、華厳宗・法華宗等の諸宗はひどく下され、上は天子から下は万民に至るまで真言と法華経とでは雲泥の差があると思ってしまったのである。

その後、徳宗皇帝の時代に妙楽大師という人が出現して真言は法華経にはるかに劣っていると思っておられたけれども、その義を強いてはっきりと立てる事がなかったので法華・真言の勝劣を弁える人がいなかったのである。

講義

本段は、弘法・慈覚・智証の三大師に帰依することがどうして仏に背くことになるかという前段での反問に対して、仏法流伝の歴史を通して答えられているところである。

初めにインドにおける仏教弘通の様相について述べられ、次に中国・日本へ伝来、そして最後に日本真言の台頭の経緯を明かされている。

大聖人がここで仏法の三国伝来の歴史を辿られているのは、真言密教の邪法が広まるに至った歴史経過を明かされるためと拝される。

初めに、釈尊入滅後インドにおける仏教弘通について、初めの500年は小乗教、次の500年は大乗教が広まったことを述べられ、その間、小乗と大乗・権教と実教の勝劣をめぐって論争があったが、顕教と密教の間には明確な判別はほとんどなかったと仰せられている。

ここでの顕密は、真言家でいうところの顕教・密教の意であり、正法時代においては、顕教に対して密教というものは立てられなかったのである。歴史的にも、真言密経があらわれるのは、インドでも正法1000年が過ぎて後のことである。このインド仏教の末期にあらわれた密教を中国に伝えたのは、本抄に指摘されているように、善無畏ら三三蔵であった。

中国に仏教が初めて伝えられたのは後漢の孝明皇帝・永平10年(0067)とされている。この経緯については、四条金吾殿御返事に述べられている。

「漢土には後漢の第二の明帝・永平七年に金神の夢を見て博士蔡イン・王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳迎へ取りて崇重ありし」(1167:15

古来、中国への仏法伝来の年代については、諸説があるが、大聖人は、この明帝の求法説を採用されている。これは、中国でも通説となっていたもので、伝教大師の顕戒論巻上でも、唐の智昇撰述の開元釈教録、同じく唐の円照の貞元新定釈教目録に基づいて両説を採用している。

さて仏教が中国に広まっていくうえで中国古来の土着的な信仰である道教と様々な確執を生じた。そのために、仏教が老荘思想に基づいて解釈されるという一面もあったようである。道教は、中国に古くから伝わる様々な民間信仰を老荘思想によって体系化したものであり、後漢の張陵によって宗教として形成されたといわれる。

道教は、仏教に刺激されて宗教としての形態をとっていったともいえ、それだけに両者の間には、しばしば対立が深刻化した。南北朝に入ると、道教は教団を組織化するとともに、仏教に倣って経典を制作するなど、仏教教団との対抗姿勢を強めた。

更にこの争いも儒教に加わってくる、東晋の時代になると儒教による仏教への攻撃が始まった。とりわけ、親を捨て、家族を捨てて僧侶の道に入る出家は、儒教における実践倫理の根本をなしている「孝」に反する行為であると批判された。

しかし、こうした状況のなかにあっても、歴代の王朝がいずれも仏教を保護したこともあって、優れた訳経僧・学僧が輩出し、中国仏教は、東晋、南北朝の時代を経て、隋・唐の時代に入ると、最盛期を迎えた。天台宗・三論宗・律宗・法相宗・華厳宗など各宗派の教理研究は目覚ましいものがあった。

そうしたなかで、真言宗は、善無畏三蔵が玄宗皇帝の開元4年(0716)、インドから長安に来て、大日経を訳したことに始まる。その後、金剛智三蔵が開元8年(0720)に南海を経て洛陽に入り、密教経典を多数訳出した。

金剛智の弟子・不空は、首都・長安の仏教界に君臨することおよそ30年、玄宗・粛宗・代宗の三代に仕えた。その弘通の足跡は長安洛陽の都市部のみならず諸地方にも及んだという。

門下も多く、大暦9年(0774)に彼が没して後も、弟子達が活躍し、密教を弘めた。日本から留学した空海が師事した慧果もその一人である。空海に続いて、円仁・円珍らが日本から入唐し、真言密教を学んだ。

一方、天台宗は、天台大師入滅後、弟子の章安大師によって確立されたが、その後は法相宗・華厳宗・真言宗の興盛に押され、「天台暗黒時代」といわれるほど、衰微していった。大聖人は報恩抄において、章安大師以後の弟子達が、法華経を深密経に劣ると主張する法相の台頭を許してしまったことについて、次のように述べたれている。

「天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに・さもやとおもう、又太宗は賢王なり玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども・いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし」(0301:04

しかし、天台大師から六世の法孫・妙楽大師が代宗・徳宗の治世に出現し、天台大師の立てた法華最勝の義をもって諸宗の教学に対して鋭い批判を加え、法華経の正義を宣揚した。特に、天台三大部を注釈した止観輔行伝弘決・法華玄義釈籤・法華文句記は、それぞれ天台大師の真意である法華経を最勝とする正義を明らかにしたものである。

大聖人は報恩抄で「此の三十巻の文は本書の重なれるをけづりよわきをたすくるのみならず天台大師の御時なかりしかば御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを 一時にとりひしがれたる書なり」(0302:08)と仰せられている。

つまり、妙楽大師の疏釈は、天台大師の三大部において重複しているところを削り、不足いているところを補って完璧なものにしたばかりでなく、天台大師の在世時代には成立していなかったために、その破折から免れていた法相宗・華厳宗・真言宗の邪義を一時に打ち破ったものであると評価されているのである。

しかしながら、当時、隆盛を極めていた真言宗の邪義に対しては、取り立てて強く破折しなかったために、法華経と真言の勝劣については、あまり明らかにされないままになったと仰せられている。

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