本尊問答抄(第七段第二 叡山を密教化させた慈覚)

本尊問答抄(第七段第二 叡山を密教化させた慈覚)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第七段第一から続く)——————————————-

又慈覚大師は下野の国の人・広智菩薩の弟子なり、大同三年・御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に登りて十五年の間・六宗を習い法華真言の二宗を習い伝え承和五年御入唐・漢土の会昌天子の御宇なり、法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に値い奉りて顕密の二道を習い極め給う、其の上殊に真言の秘教は十年の間功を尽し給う大日如来よりは九代なり嘉祥元年・仁明天皇の御師なり、仁寿・斉衡に金剛頂経・蘇悉地経の二経の疏を造り叡山に総持院を建立して第三の座主となり給う天台の真言これよりはじまる。

 ——————————–(第七段第三に続く)———————————————–

 

現代語訳

また、慈覚大師は下野の国の人で、広智菩薩の弟子である。大同三年、御歳十五の時に伝教大師の御弟子となって比叡山に登り、十五年の間、南都六宗の教義を習うと共に、天台法華宗・真言宗の二宗を学び伝えた。承和五年に入唐されたのが、中国の会昌天子治世であり、法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に会って顕密の二道を習い究められたのである。そのうえ、とりわけ真言の秘教は十年間にわたってその功を尽くされ、慈覚大師は大日如来より数えて九代目に当たる。嘉祥元年に仁明天皇の御師となり、仁寿・斉衡年間に金剛頂経・蘇悉地経の二経の疏を著し、比叡山に総持院を建立して天台宗第三代の座主となられた。天台宗の真言密教はこの時から始まったのである。

講義

ここは、慈覚大師円仁の事歴に着いて述べられているところである。

円仁は、延暦13年(0794)下野国に生まれ、幼くして父を失い、母の手によって育てられた。9歳の時に、下野国小野寺の大慈寺の広智を師として出家した。広智は、東国に天台宗を弘めた人であり、その徳を称えて広智菩薩と人々から尊称されていた。

大同3年(080815歳の時、師の広智に伴われて比叡山に登り、伝教大師の門に入った。本抄には、入門後、「十五年の間」修行を積んだ旨、述べられているが、これは師の伝教大師が弘仁13年(0822)に入滅するまでの足かけ15年を指しているものと考えられる。

承和5年(08386月下旬に日本を出発し、7月初めに揚州に上陸。時に、唐の文帝皇帝の開成3年であったが、その後2年で武宗皇帝が即位したこと、後に述べるように五台山に入ってから本格的な求法が始まったことから「会昌天子の御宇」と述べられている。約7ヵ月間、揚州の開元寺にとどまった。

この地では、長安西明寺の宗叡について悉曇を学んだほか、祟山院の金雅から念仏法門や両部曼荼羅を命じられたために、承和6年(08392月、揚州を立った、しかし、船が漂着して、登州の赤山法華院に入り、承和7年(08402月に赤山をたって4月下旬に五大山に到着した。

円仁は、五台山で志遠等から天台の法門を授けられた後、8月に長安に入った。長安には、承和12年(08455月まで約49ヵ月もの間、滞在し、大興善寺翻経院の元政より金剛界大法を受け伝法灌頂を授けられた。また、青竜寺の義真から胎蔵界大法、蘇悉地法を受けた。更に玄法寺の法全について胎蔵儀軌を学び、南インドから中国に来ていた宝月には悉曇の発音を学ぶなど、足かけ10年に及ぶ在唐生活で天台・真言の碩学を訪ねて受法し、顕密二道を究めることに努めたのである。

なお、本文で、円仁が大日如来より数えて9代目に当たるとあるのは、真言宗で言うところの真言密教付法の次第ではなく、空海に続いて唐の碩学から金剛・胎蔵両部の大法等を授けられたことから、当時の人々が称したものであろう。

さていよいよ帰国しようとする時に武宗の会昌の破仏にあったが、承和14年(08479月、太宰府に到着、翌嘉祥元年(08493月、比叡山に戻った、さて朝廷が、円仁の留学の成果をいかに高く評価したかは、この年、僧の最高位である法燈法師位を授け、内供奉十禅師に任命し、仁明天皇の護持僧としたことからうかがえる。

3年(0850)円仁は延暦寺東搭の西に真言の秘法を修するための総持院を建て、密教修法による皇帝本命の道場とした。4年後の仁寿4年(08544月、勅により延暦寺第三代の座主になった。斉衡2年(0856)に文徳天皇に上部の灌頂を授けるなど、天皇をはじめとする多くの宮廷人の尊崇を集めた。

一方、代表的な著述としては、仁寿元年(0851)に金剛頂経疏七巻、斉衡元年(0855)に蘇悉地経疏七巻をそれぞれ撰述している。

これら密教経典の疏釈を著していることからも明らかなように、円仁は入唐して得た密教の知識と権威をもとにして、空海によってもたらされた密教興隆の風潮を巧みにとらえ、伝教大師入滅後、真言密教に押されぎみであった天台宗の興隆を図ったのであり、その意味で円仁をもって天台宗密教化の嚆矢とする。大聖人が「天台真言これよりはじまる」と仰せられている所以である。

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