———————————–(第六段第三から続く)——————————————-
問う弘法大師は讃岐の国の人勤操僧正の弟子なり、三論・法相の六宗を極む、去る延暦二十三年五月桓武天皇の勅宣を帯びて漢土に入り順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて慧果和尚に真言の大法を相承し給へり慧果和尚は大日如来よりは七代になり給う人はかはれども法門はをなじ譬えば瓶の水を猶瓶にうつすがごとし、大日如来と金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・慧果・弘法との瓶は異なれども所伝の智水は同じ真言なり此の大師・彼の真言を習いて三千の波涛をわたりて日本国に付き給うに平城・嵯峨・淳和の三帝にさづけ奉る、去る弘仁十四年正月十九日に東寺を建立すべき勅を給いて真言の秘法を弘通し給う然らば五畿・七道・六十六箇国・二の島にいたるまでも鈴をとり杵をにぎる人たれかこの末流にあらざるや。
——————————–(第七段第二に続く)———————————————–
現代語訳
問うて云う。弘法大師は讃岐の国の人で勤操僧正の弟子である。三論宗・法相宗等の南都六宗を究められ、去る延暦二十三年五月に桓武天皇の勅宣をこうむって中国へ渡り、順宗皇帝の勅命によって青竜寺に入って、慧果和尚から真言の大法を相承された。慧果和尚は大日如来から数えて真言宗の第七祖に当たる。人は代わっても法門は同じである。譬えば、瓶の水を更に瓶に移すようなものであり、大日如来に始まって金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・慧果・弘法と、瓶は異なっても伝えられた智水は同じ真言である。
弘法大師はその真言を習って、三千里の波涛をわたり日本国に帰られ、平城・嵯峨・淳和の三帝に真言の法を授け奉った。去る弘仁十四年正月十九日に、東寺を建立するよう勅命を賜り、真言の秘法を弘通された。したがって、五畿・七道・六十六箇国・二つの島に至るまでの日本全土において真言の金剛鈴を振り、金剛杵を持って、弘法大師の末流でない人がいるであろうか。
講義
ここから問者の反論が始まる。すなわち、大聖人が三大師ではなく、釈迦・十方の諸仏を根本者とすべきであると述べられたことに対して、問者は三大師の事歴をそれぞれ挙げて、その功績・人徳がいかに偉大で勝れたものであるかを強調し、だからこそ国王から万民に至るまで三大師に帰依しているではないかと、反論していくのである。まずはじめに弘法の事跡を示している。
弘法・慈覚・智証に与えられた大師号は、朝廷から名僧・高僧と認められた者に対して贈られる称号であることを考えると、世間の人々が抱いていた三大師への尊崇の念がいかに強いものであったかが想像できる。
まず日本真言宗の開祖・弘法大師空海は、奈良時代の末、宝亀5年(0774)に讃岐国の地方豪族である佐伯直の家に生まれた。成人して都に上り、延暦10年(0791)に大学に入学したが、その後、中退して山林修行の道に入った。
空海が弟子達に遺したとされる二十五箇条の遺告等によると、空海ははじめ南都の三論宗を代表する学僧であった大安寺の勤操について学び、彼に従って和泉槇尾山寺に入り、そこで得度して戒を受けたという。
延暦23年(0804)5月12日、遣唐大使の藤原葛野麻呂の第一船で入唐の旅に発った。この時、第二船に伝教大師最澄が乗っていた。空海の請来目録によれば、翌24年(0805)仲春に葛野麻呂が帰国したため、ひとり唐に残り、勅に准じて長安の西明寺に滞在していた時、青竜寺を訪れ慧果和尚に合ったという。
葛野麻呂一行が長安に着いたのは、出発した23年(0804)12月下旬であった、25日に徳宗皇帝との謁見があったが、皇帝は翌年の1月に崩御し、代わって順宗皇帝が即位した。
空海が西明寺に移ったのはその2月であり、6月初めの頃、青竜寺に慧果を訪ねたといわれる。本抄の問者が「順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて」といっているのは、このあたりの経過を述べたものであろう。
空海はこの慧果から胎蔵・金剛両部灌頂を授けられるとともに、伝法阿闍梨位灌頂を受け、大日如来より数えて真言密教付法の第八祖となった。
真言密教の付法については、空海の秘密曼荼羅教付法伝二巻、真言付法伝一巻に詳しく記されており、大日如来を第一祖として、第二祖金剛薩埵・第三祖竜猛・第四祖竜智・第五祖金剛智・第六祖不空と続き、第七祖慧果に至るまで真言密経が嫡々相承されてきたとしている。これに第八祖の空海を加えて付法の八祖とする。これに対して大日如来と金剛薩埵の代わりに善無畏と一行を加えた相承の系列を伝持の八祖と称している。
空海は平城天皇の大同元年(0806)10月に帰朝し九州の太宰府に到着した。膨大な新訳の密教経典類や曼荼羅等の請来品を請来目録を添えて平城天皇に献上しようとしたが、すぐには入京を許されなかったため、勅命に従って筑紫の観世音寺にとどまっていたところ、翌年に唐から請来した経論章疏をもって上京せよとの沙汰があり、京に入った。
この時に、平成天皇より真言密教弘通の勅許を賜ったことから、真言宗ではこの大同2年(0807)を開宗の年としている。しかし、実際に入京と京都止住の許可が下りたのは、嵯峨天皇が即位した大同4年(0809)7月であり、この時に和泉の槇尾山寺から洛北の高雄山に移住したと一般的には考えられている。
さて、平成天皇の譲位によって即位した嵯峨天皇は、詩文や書道等の文芸に並々ならぬ関心をもっていたことから、空海の文人としての才を高く評価し、重要した。空海が宮廷とのつながりをもつようになったのは、このような詩文や書道を通じての嵯峨天皇との関係によるもので、天皇の外護の力として密教の興隆を図っていったのである。
翌弘仁元年(0810)9月に薬子の乱が起きた。これは、奈良遷都と平城上皇の復位を図ろうとする藤原薬子と仲成の共謀によるクーデターであったが、この事件の直後、空海は高雄山で鎮護国家の修法を行いたい旨を上奏し、勅許を得て我が国最初の本格的な密教による修法が営まれた。
弘仁7年(0816)には、紀州の高野山を密教修行の道場として賜りたいとの旨を上奏し、これもただちに勅許を得て7月に高野山金剛峯寺を開創した。
次に特質すべきは、弘仁13年(0822)に東大寺内に灌頂道場として真言院が創設されたことで、南都七大寺の一つである東大寺は六宗兼学の道場であり、ここに真言密教の灌頂道場が建立されたことによって、伝統的な護国修法が次第に密教化されていくことになったのである。平城上皇の授戒灌頂がさっそく行われたのもこの道場においてであった。
そして、本文にもあるように、翌弘仁14年(0823)1月19日、嵯峨帝より東寺を下賜するとの命が勅使の藤原良房によって伝えられたのである。これを受けて空海は、東寺を鎮護国家の道場とすることを宣言し、かつ他宗僧徒の止住を禁ずることを願い出たが、これも、その年に即位した淳和天皇によって認められた。
ここに、これまでの諸宗兼修という寺院の形式と違って、一寺一宗の在り方が発足し、いよいよ真言密経が興隆に向かう端緒となったのである。