本尊問答抄(第六段第三 法華経を歪曲して読んだ弘法等)

本尊問答抄(第六段第三 法華経を歪曲して読んだ弘法等)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第六段第二から続く)——————————————-

 問う弘法大師は法華経を見給はずや、答う弘法大師も一切経を読み給へり、其の中に法華経・華厳経・大日経の浅深・勝劣を読み給うに法華経を読給う様に云く文殊師利此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の下に在り、又読み給う様に云く薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最第三云云、又慈覚智証大師の読み給う様に云く諸経の中に於て最も其の中に在り又最為第二等云云、釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏・法華経を一切経に相対して説いての給はく法華最第一、又説いて云く法華最も其の上に在り云云、所詮釈迦十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや、但し事を日蓮によせて釈迦・十方の諸仏には永く背きて三大師を本とすべきか如何。

 ——————————–(第七段第一に続く)———————————————–

 

現代語訳

問うて云う。弘法大師は法華経を見なかったのであろうか。

答えて言う。弘法大師も一切経を読んだのである。その中で法華経・華厳経・大日経の浅深・勝劣を判ずるにあたって、法華経を次のように読んだのである。すなわち「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵であり、諸経の中において最もその下位に位置している」と。また「薬王菩薩よ、今汝に告げよう、私が説いた所の諸経がある。しかも、この経の中において法華経が第三である」と。

また、慈覚・智証大師は、「諸経の中において法華経は最もその中位に位置している」と、また「法華経は最為第二である」等と読んだのである。

釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏は法華経を他の一切経と相対して「法華経は最第一である」と説き、また「法華経が諸経の中で最も上位にある」と説いている。所詮、釈迦如来・十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といずれを根本とすべきであろうか。日蓮に事よせて、釈迦如来・十方の諸仏に永く背いて三大師を根本としてよいものであろうか。

講義

弘法が法華経を読んでいたことは、法華経問題・法華経釈等の法華経に関する著作があることから明らかであり、また慈覚・智証の二人は共に天台宗の座主であったから、これは問うまでもあるまい。

大聖人は、まずこのことを前提に置かれながら、ここで弘法等の三大師がいかに法華経の経文を歪曲して読んだかを浮き彫りにされている。

大聖人がその例として挙げられている経文は次の二文である。

 

①安楽行品第十四

「文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於いて、最も其の上に在り」

弘法は、法華経・華厳経・大日経の勝劣浅深について、すでに見たように大日経第一・華厳経第二・法華経第三という教判を立てている。つまりこれは、本文に示されているように「最も其の下に在り」と読んでいることになる。

また、慈覚・智証は大日経第一・法華経第二としているから、「最も其の中に在り」と読んだことになると大聖人は指摘されているのである。

報恩抄では、この経文を引かれて次のように仰せられている。

「此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居がごとく輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく 衆木の頂に月のやどるがごとく諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば 大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり」(0294:16

ここで「専ら論師人師を捨てて経文に依るならば」と仰せられている通り、仏説たる経文を根拠とするならば、法華経が大日経・華厳経等の諸経に勝れていることは火を見るよりも明らかであり、したがって教判の違いは決して経文の解釈の相違によるものではなく、弘法等は単に経文を無視して己義を構えているに過ぎないのである。

 

②法師品第十

「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」

この「法華最も第一なり」と示されているのを弘法は「法華最も第三なり」と読み、慈覚・智証は「法華最も第二なり」と読んでいるわけである。

祈禱抄には、この経文について「仏正く諸教を挙げて其の中に於いて法華第一と説き給ふ、仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違なり尋ね究むべき事なり、此筆を数百年が間・凡僧・高僧・是を学し貴賎・上下・是を信じて大日経は一切経の中に第一とあがめける事仏意に叶はず、心あらん人は能く能く思い定むべきなり、若し仏意に相叶はぬ筆ならば信ずとも豈成仏すべきや」(1354:11)と、仏意に違背した人師の言をどんなに信じても成仏できないことを仰せられている。

法華経における釈尊の説法は、多宝如来・十方の諸仏がその真実を証明したところである。したがって、大聖人のように法華経の経文に説かれているところをそのまま読むか、あるいは弘法等の三大師のようにそれを違えて読むかは、釈迦如来・十方の諸仏と弘法等の三大師のいずれを本とするのかという問題に帰着するのである。

故に大聖人は「所詮釈迦十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや」と反駁されているのである。

答えは、もとより明らかである。しかしながら、例えば撰時抄に「国王に尊重せらるる人人あまたありて、法華経にまさりてをはする経経ましますと申す人にせめあひ候はん時、かの人は王臣に御帰依あり法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞつてこれをいやしみ候はん」(0292:09)と述べられているように、当時の世間の人々は、大聖人を一介の法師としてしか見ず、名声と権威に包まれた三大師の方に執着しているために、仏説に根拠を置いている大聖人の主張の正しさを容易に認めようとしなかったのである。

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