———————————–(第六段第一から続く)——————————————-
問う今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣・万民疑つて云く日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何、答う日蓮反詰して云く弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか是一、今日本の国王より民までも教主釈尊の御子なり釈尊の最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云、法華最第一と申すは法に依るなり、然るに三大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧・王臣・万民・乃至所従牛馬等にいたるまで不孝の子にあらずや是二、
——————————–(第六段第三に続く)———————————————–
現代語訳
問うて云う。今日本国中の天台宗・真言宗などの各宗の僧達、並びに王臣・万民が、日蓮法師ごときが弘法・慈覚・智証大師よりも勝れているのだろうかと非難しているが、この点はどうか。
答えて言う。では逆に質問するが、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏より勝れているというのか。これが第一である。
今日本の国王から民衆に至るまですべて教主釈尊の子である。その釈尊の最後の遺言である涅槃経には「法に依って人に依ってはならない」等と説かれている。日蓮が「法華最第一」と言っているのは法に依っているのである。それにもかかわらず、日蓮法師が三大師等に勝るわけがないと言っている各宗の僧達、王臣・万民更には従者・牛馬等に至るまで、親不孝の子ではないか。これが第二である。
講義
大聖人が法華経を諸経中の第一としているのは、釈迦・多宝如来・十方の諸仏が定めた“法”に依っていることを示されたうえで、ここでは大日経第一と主張している弘法・慈覚・智証等の方が大聖人より勝れているように思っている世間の見方を提示されるとともに、それに対する反論を次の二点で加えられている。
まず第一に、三大師がいかに勝れているといっても、釈迦・多宝・十方の諸仏より勝れているわけがない。という点を挙げられている。これは、人師の説くところが仏説と異なっていた場合、どちらに付くべきかという問題に還元されよう。
もしも人師の説が仏説に明らかに違背しているとすれば、それは己義であり、僻見と言わざるを得ない。そして、経文の裏付けを持たない己義にあくまで固執すれば、それはもはや仏法ではなく外道というほかないであろう。大聖人は真言見聞において、天台大師の法華玄義の次の文を引かれている。
「文証無き者は、悉く是れ邪謂なり、彼の外道に同じ」
「広く経論を引いて己が義を荘厳す」
特に、初めの文は、経文に基づかない論釈はすべて誤謬であり、外道に等しいと断じて、文証の重要性を強調している。
しかし、注意すべきは、後の文で指摘されているように、広く経論を引いて、さも文証に基づいているかのように見せかけている場合である。三大師の教判もその例に漏れないが、この場合は、その経が一代聖教の中で、どのように位置づけられるかを検討しなければならない。
第二に、涅槃経の「法に依って人に依らざれ」の金言を示されて、「法華経第一と申すは法に依るなり」と大聖人御自身の立場があくまで仏説たる法を根拠としていることを強調されている。
そして、この戒めが、教主釈尊の一切衆生を思う「親」としての慈悲からなされた遺言の意義をもつにもかかわらず、三大師の邪義に従っていることは不孝の失に当たると指摘されている。
これは、法華経譬喩品第三に「一切衆生は、皆是れ吾が子なり…今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す」と説かれていることによる。
本抄では、いわゆる“遺言”ということから、主師親の三徳のうち特に親徳を挙げて教主釈尊に背くことが不孝の失に当たることを仰せられたものである。
妙法比丘尼御返事でも、この譬喩品の文を挙げて「日本国の天神.地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生と生る生ある者は皆教主釈尊の一子なり」(1410:07)と仰せられている。
ところで、先にも触れたが、法華経も大日経も仏説であり、いずれが勝れているかという問題において、異なった立場が生ずるとすれば、それは所詮、解釈の相違ではないかという疑問が起こるかも知れない。
つまり、法華経第一と主張する大聖人にしろ、大日経第一と主張する弘法にしろ、それぞれが仏説に基づいて判じているのであって、その違いは仏説そのものの解釈の相違によるものである、と。これは、一応もっともな言い分のように思える。
それ故に、次下の御文で大聖人は「問う弘法大師は法華経を見給はずや、答う弘法大師も一切経を読み給へり」という問答を設けられて、三大師の邪見を具体的に指摘されていくのである。