———————————–(第五段第二から続く)——————————————-
問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや、答う弘法大師・慈覚大師・智証大師の御義の如くならば大日如来はすぐれ法華経は劣るなり、問う其の義如何、答う弘法大師の秘蔵宝鑰十住心に云く「第八法華・第九華厳・第十大日経」等云云是は浅きより深きに入る、慈覚大師の金剛頂経の疏・蘇悉地経の疏・智証大師の大日経の旨帰等に云く「大日経第一・法華経第二」等云云、問う汝が意如何、答う釈迦如来・多宝仏・総じて十方の諸仏の御評定に云く已今当の一切経の中に法華最為第一なり云云、
——————————–(第六段第二に続く)———————————————–
現代語訳
問うて云う。法華経を本尊とするのと大日如来を本尊とするのとは、どちらが勝れているのか。
答えて言う。弘法大師・慈覚大師・智証大師の義の通りであれば、大日如来が勝れて法華経は劣っていることになる。
問うて云う。その義はどのようなものか。
答えて言う。弘法大師の秘蔵宝鑰・十住心論には「第八法華経・第九華厳経・第十大日経」等とある。これは浅い教えから深い教えへと入っていくとしたものである。また慈覚大師の金剛頂経疏・蘇悉地経疏、智証大師の大日経旨帰等には、「大日経第一・法華経第二」などと説かれている。
問うて云う。あなたの考えはどうなのか。
答えて言う。釈迦如来・多宝仏、総じて十方の諸仏の御評定には已今当の一切経の中で法華経が最もすぐれていると説かれている。
講義
この段から真言破折を主題に論じられている。まずはじめに、法華経を本尊とするのと大日如来を本尊とするのとの勝劣を問うていられる。これは、これまで述べられてきたことから明らかであり、大日如来を本尊とするのは、法華経を本尊とする場合より二重の意味で劣っている。
つまり、第一に法華経と釈尊とを相対すれば、法勝人劣の義から法華経の方が勝れていると判ずることができる。
第二に釈尊と大日如来とを比較すると「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」との仰せのように、釈尊の方が勝れている。したがって、釈尊より劣る大日如来が法華経より勝れているということはありえないのである。
この法華経と大日如来の勝劣は、実質的な意味では、法華経と大日経との勝劣にほかならない。これは、真言密経では、大日如来を本尊と立てることがあっても、大日経を本尊とすることはないからである。
それ故に、この問いに対する回答として、大聖人は、弘法・慈覚・智証の三大師の教判を挙げられているのである。ここで、すでに回答が明らかとなっている問いを設けられた御真意が拝されよう。すなわち、ここでは真言師の中心たる三大師に対する破折が大聖人の主題なのである。より正確には、三大師と大聖人との比較と言ってもよいであろう。いずれが仏意を対して一切経の勝劣を弁えているかという問題を提示されている。
このことは、次の「汝が意如何」との問いに、また「日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何」との問いにもあらわれている。
そして、大日経を法華経より勝れているとする三大師の教判をそれぞれ著書に基づいて示されたのち「汝が意如何」との問いに対する答えとして、法師品に已今当の一切経の中で法華経が最も第一であることを説かれていることを述べられている。
これは、法華経を最高の経典とする大聖人の御意が決して己義ではばく、「釈迦如来・多宝仏・総じて十方の諸仏の御評定」であり、仏意そのものであることを示されているのである。
これに対して、大日経第一なる三大師の主張は、経典に根拠をもたない我見の言にすぎないことを示唆されているのである。