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問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏は是に因つて五眼を具することを得たまえり仏の三種の身は方等より生ず是れ大法印にして涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田応供の中の最なり」等云云、此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり。
——————————–(第六段第一に続く)———————————————–
現代語訳
問うて云う。法華経が諸仏を出生する法であるという証拠はどこにあるのか。
答えて言う。普賢経には「この大乗経典は諸仏の宝蔵であり、十方三世の諸仏の眼目であり、三世の諸仏を出生させる種である」とある。また同じく普賢経に「この方等経は諸仏の眼であり、諸仏はこの経によって五眼を備えることができたのである。また三種の身は大乗経から生ずる。この大法印は、仏の涅槃という成仏の大海を証明したのであり、この大涅槃海の中から、よく三種の仏の清浄な身を生ずるのである。この三種の身は、人界・天界の衆生が縁して善根を生ずる福田であり、また人天から供養を受ける資格を持つもののなかで最高のものである」と。
これらの経文の意味するところは、仏は所生であり、法華経は能生である。また仏は身であり、法華経は神である。故に、木像・画像の開眼供養は、ただ法華経に限るのである。にもかかわらず、今の真言宗が、木像・画像の二像をもうけて大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養を行っているのは最も道理に背いた姿である。
講義
ここでは、先に述べられた「能生を以て本尊とする」との義を裏付ける文証として普賢経の二文を示されている。
第一の文は、大乗経典が三世の諸仏の宝蔵であり、眼目であり、出生の種であることを述べたものである。
次の文は、諸仏が五眼を得ることができたのは方等経によってであり、また如来の三身も方等経より生じたことを示している。
つまり、この両文はいずれも、三世十方の諸仏が法華経によって成仏することができたことを明かしていると言える。
このことは「されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり」(0557:10)との仰せや、あるいは「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり、南無阿弥陀仏は仏種にはあらず真言五戒等も種ならず」(1072:05)との御文と同趣旨であることは明瞭である。
これによって、「仏は所生・法華経は能生」の義が明らかとなるのである。そして同時に、この能生の義によって、釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来などの諸仏を本尊とする諸宗の誤りが明白になるといってよい。
つまり、「法華経の題目」たる妙法蓮華経の五字こそ諸仏能生の根源であり、一切の諸仏はこの妙法蓮華経を本尊として修行することによって成道することができたが故に、その最勝の法たる妙法蓮華経を本尊とすべきなのである。
したがって、妙法蓮華経の五字を根本としない限り、いかに修行を重ねようとも無益であり、決して成仏の道を開くことはできない。このことを大聖人は仏像の開目供養に寄せて真言の誤りを破折し、教えられている。これは、いうまでもなく後に展開される真言破折の端緒をとっている。大聖人は、四条金吾殿釈迦仏供養事において、同じく普賢経の文を引かれ、開眼供養は法華経にこそよるべきであるとの文証とされている。
まず“法華経によって五眼を具することを得る”と説かれていることについて、次のように仰せられている。
「此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候、譬へば王位につく人は自然に国のしたがうがごとし、大海の主となる者の自然に魚を得るに似たり、華厳・阿含・方等・般若・大日経等には五眼の名はありといへども其の義なし、今の法華経には名もあり義も備わりて候・設ひ名はなけれども必ず其の義あり」(1144:03)
このように法華経によってのみ五眼を備えることができるものであり、他の諸経にその名はあっても義がないとされている。
次に“仏の三種の身は法華経より生ずる”と説かれていることについては、三身のそれぞれを挙げられたうえで「この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず、故に天台大師の云く『仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』云云、此の釈の中に於諸教中とかかれて候は華厳・方等・般若のみならず法華経より外の一切経なり、 秘之不伝とかかれて候は法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり」(1144:10)と仰せになり、「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」(1144:14)と結論されている。
このように、真実の開眼供養は、五眼三身の法門を明かした法華経による以外になく、それを印と真言とによって開眼しようとしても真の開眼とはならないのである。曾谷殿御返事には「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり」(1060:07)と喝破されている。