———————————–(第三段第三から続く)——————————————-
問うて云く日本国に十宗あり所謂・倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
——————————–(第五段第一に続く)———————————————–
現代語訳
問うて云う。日本国に十宗ある。いわゆる倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗である。これらの諸宗は、すべて本尊がまちまちである。例えば、いわゆる倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦を本尊とし、法相・三論宗の二宗は勝応身の大釈迦仏を本尊としている。華厳宗は蓮華台上の廬遮那報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏をそれぞれ本尊とし、禅宗にも釈尊を立てている。どうして天台宗のみが法華経を本尊とするのか。
答えて言う。彼ら諸宗が仏をもって本尊としているのに、天台宗が経を本尊とするのは、根拠となる道理があるからである。
問うて云う。その根拠となる道理とは一体何か。
答えて言う。本尊とは勝れたものを用いるべきである。たとえば儒家では三皇五帝をもって本尊としており、そこからいえば仏家においては、釈迦をもって本尊とすべきである。
講義
ここでは、まず当時の日本の十宗が天台宗を除いていずれも、人の仏を本尊としているのに、どうして天台宗だけが法華経を本尊とするのかとの問いを設けられている。
十宗のうち、はじめの俱舎・成美・律・法相・三論・華厳の六宗は、いわゆる南都六宗であり、奈良時代に奈良を中心に栄えた宗派である。
このうち、俱舎・成美・律の三宗は劣応身の小釈迦を本尊としているという。これは、俱舎宗の依処とする世親の俱舎論が小乗の哲学を説いたものであり、また成実宗の依処とする成実論も苦集滅道の四諦を説いて小乗の空門を明かしたものであることから、いずれも小乗の戒律を宗旨とする律宗と同じく、その教主は蔵教の教主である劣応身に過ぎないからである。
これら三宗の本尊については八宗違目抄には「一向に釈尊を以て本尊と為す爾りと雖も但応身に限る」(0155:17)と仰せられている。
これに対して、法相宗・三論宗はいずれも大乗の宗である。このうち法相宗の依処とする六経十一論は、一代聖教大意に「法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり」(0397:07)と述べられているように、いずれも方等部に属する経論である。
また三論宗は「三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり」(0397-08)と示されているように、般若部の所説に基づいた大乗の宗である。ゆえに、これら二宗の本尊は通教の勝応身の台上の大釈迦仏である。
華厳宗は、その依経たる華厳経の教主が報身の釈迦仏であることから「台上のるさな報身の釈迦如来」が本尊であるとされている。この「台上」とは華厳経の会座における蓮華台上をいい、蓮華の台上といえば、廬遮那仏を指す。
次に真言宗と浄土宗の本尊を示されたうえで、禅宗の本尊については「釈迦を用いたり」と仰せである。
諸宗問答抄に「禅宗の法門は或は教外別伝・不立文字と云ひ或は仏祖不伝と云ひ修多羅の教は月をさす指の如しとも云ひ或は即身即仏とも云つて文字をも立てず 仏祖にも依らず教法をも修学せず画像木像をも信用せずと云うなり」(0378:16)と指摘されているように、禅宗では、仏像等を立てなかったようであるが、同抄で「又祖師無用ならば何ぞ達磨大師を本尊とするや、又修多羅の法・無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや、首楞厳経・金剛経・円覚経等を或は談し或は読誦するや、又仏菩薩を信用せずんば 何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱うるや」(0379:01)と破折されているように、実際には、達磨大師を本尊と立てたり、仏・法・僧の三宝を崇めていたのであろう。
日寛上人は開目抄愚記で「彼の宗は、釈尊を安置し、経巻を積聚して仏を避け、経を下す」とその矛盾を指摘されている。
ちなみに、鎌倉五山と称された禅寺のなかで、建長寺が地蔵菩薩、浄智寺が釈迦・阿弥陀・弥勒の三世仏を本尊としている以外、他の円覚寺・寿福寺・浄妙寺の三寺はみな釈迦如来を本尊と立てている。このような意味で大聖人は本抄で「釈迦を用いたり」と仰せられたものと拝される。
このように、諸宗においては釈迦仏等を本尊としているのに対して、法華宗たる天台宗のみが法華経を本尊として立てる意味はどこにあるのか、との問いを立てられ「本尊とは勝れたるを用うべし」という命題を示されている。
これは“根本として尊敬する”という本尊の本来的な意味から提示されたものであるが、諸宗においては、このことすら無視して勝手に本尊を立てていたのが現状であったのである。開目抄に「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」(0215:01)と断じられている所以である。そして、儒家における三皇五帝を例として、仏教においては一往、釈尊を本尊とすべきであると述べられている。これは、特に諸宗のなかで、阿弥陀仏・大日如来を立てる浄土宗と真言宗を打ち破るために、釈尊の方が勝れていることを述べられたと考えられる。
同じ論じ方は諸御書に見られ、釈尊こそ主師親の三徳を具えた仏であり、その釈尊をないがしろにして阿弥陀仏を立てることは、主師親に背く謗法であることを強く破折されている。