本尊問答抄(第三段第三 法華経の行者の正意)

本尊問答抄(第三段第三 法華経の行者の正意)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第三段第二から続く)——————————————-

 不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり。

 ——————————–(第四段第一に続く)———————————————–

 

現代語訳

不空三蔵の法華儀軌で説く本尊は、法華経宝塔品の文によっている。これは法華経の教主を本尊としているが、法華経の正意ではない。前に挙げたところの本尊、すなわち法華経の題目が、釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊であり、そこに法華経の行者の正意があるのである。

講義

ここでは、不空三蔵が釈迦・多宝の二仏を本尊と立てているではないかとの問者の反論に答えられている。

すなわち、不空は観智儀軌において法華経法師品をよりどころに法華経の教主を本尊と立てているが、それは法華経の正意ではないと断じられている。法華経の題目こそ釈迦・多宝・十方の諸仏が本尊としたものであり、そこに法華経を行ずる者の正意があると仰せられている。

大聖人は、宝塔品の二仏並座の儀式について「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」(1358:05)とその甚深の意義を明かされている。

この御文のなかで、釈迦・多宝の二仏を用の仏とされているのは、あくまで妙法蓮華経という法が根本であり、釈迦・多宝の二仏は、その法におけるはたらきを表している仏に過ぎないからである。

また秋元御書には「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072:05)と仰せられている。このように妙法蓮華経を根本として釈迦・多宝の二仏、三世十方の諸仏が出生する所以を明かされている。この意味において本抄でも、法華経の題目、すなわち妙法蓮華経こそ、釈迦・多宝・十方の諸仏の本尊であることを仰せられたものと拝される。

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