本尊問答抄(第二段第二 法華経より法が根本)

本尊問答抄(第二段第二 法華経より法が根本)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第二段第一から続く)——————————————–

 涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云、天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。

——————————–(第三段第一に続く)————————————————

 

現代語訳

涅槃経の第四如来性品には「また次に迦葉よ、諸仏が師とするのはいわゆる法である。この故に、仏は法を敬い供養するのである。法が常住であるから、それを悟った諸仏もまた常住なのである」と説かれている。天台大師の法華三昧懺儀には「道場の中に立派な高座を設け、ただ法華経一部を安置しなさい。また必ずしも仏像や仏舎利、法華経以外の経典を安置してはならない。ただ法華経一部を安置しなさい」と述べられている。

講義

ここは、法師品の文に続いて涅槃経・法華三昧懺儀の釈を引かれているところである。

 

①涅槃経の文

この文は、北本涅槃経巻第四の如来性品第四の一に出ている。如来性とは、如来の本性をいい、如来の如来たる所以を意味している。この経では、如来の本性が法に存することを明かして、それはまた一切衆生の本性であることを説くのである。

それ故、章安大師は、「如来」は因果の果にあたり、「性」は因にあたるとしている。つまり「如来」は仏の果徳の尊号であるが、ただそれのみをもって如来と名づけているのではなく、衆生の本性も如来と名づけられていることを示しているのである。

また、この文は、章安大師によれば、小乗に説かれた涅槃の義との相違を示しているところである。つまり、小乗教では、煩悩を滅するところに涅槃があると説かれていたが、涅槃経では、仏の悟りの境地そのものを涅槃と位置づけ、涅槃を名づけて常住といい、如来も同様であり、如来は常住の法にして変易がないと明かされるのである。

そして諸仏は、この常住の法を師として修行したが故に成道し、常住を得たというのが、この文の意味するところである。なお章安大師は、「法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」の文の「常」とは「常楽我浄」を略したものであると釈している。

いずれにしても、涅槃経のこの一節は、法と仏とを相対させて、法が根本であることを示したものであり、それ故に大聖人は法勝人劣の依文を引かれているのである。

 

②法華三昧懺儀の文

天台大師は、法華三昧の行法をこの書の中で具体的に示している。特に、この文は、この行法の中心をなす正修行を述べたところである。

このなかで、ただ法華経一部のみを安置して、仏像や舎利を安置してはならないと明示しているのは、先の法華経法師品第十の文と同趣旨とみなすことができる。

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