———————————–(第一段第一から続く)——————————————–
問うて云く 何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、
——————————–(第二段第二に続く)————————————————
現代語訳
問うて云う。その根拠はどの経文、またどの人師の釈に出ているのか。
答えて言う。法華経の巻第四の法師品第十に「薬王よ、いかなる場所においても、この法華経をあるいは説き、あるいは読み、あるいは誦し、あるいは書写し、もしくはこの経巻が存在するところはすべて七宝の塔を建てて、最高に高く、広く荘厳して供養しなさい。そして別に仏舎利を安置する必要はない。なぜなら、この法華経の中に如来の全身がおわしますからである」とある。
講義
さて、本段は、前段において末代の凡夫は法華経の題目をもって本尊とすべきであると述べられたのを受けて、その根拠となる経典を問うている。前段の標文に対して、本段から釈が始まる。
この問いに対して、大聖人は、法華経法師品・涅槃経の如来性品・天台大師の法華三昧懴儀の三つの経釈を挙げられている。これらの経釈はいずれも法と人の関係を示す依文であるが、文は法華経迹門、もしくは法華経以外の経釈であっても、義は本門にあることを知らねばならない。
日応上人は弁惑観心抄の本段引用の経釈の文について次のように仰せである。
「釈文亦所対の人に応じ且つ所問の辺に従いて法師品等を引証し玉ふといへども文在迹門義在本門にして迹の文章を借り本の実相を証す所謂随宣転用之れなり」
つまり、本門の義をもってこれらの経釈を判じられ、文証とされているのである。
ここに本門の義とは、本門寿量品の南無妙法蓮華経を意味していることは、同じく弁惑観心抄に、「釈文所引の文は権実相対の依馮といえども已に宗祖の本懐たる本尊の実義を明示せられたる」といわれていることから明らかである。
では、次にそれぞれの文を見ていくことにする。
法師品の文
この経文の趣旨は、仏の舎利を用いるのではなく、経巻を安置させよということであるが、この場合、仏の舎利が「人」に、経巻が「法」になっている。
これは、仏が入滅した後、何をもって礼拝の対象とすべきかを説いたものであり、経巻所住のところに塔を建て荘厳せよと述べられている。舎利を安置する必要がないということは、あくまで経巻を本尊とすべきであることを示しているのである。
この経巻とは、もちろん法華経のことであるが、これは広・略・要の上から拝さなくてはならない。すなわち、「広」は法華経一部八巻二十八品、「略」は方便品・寿量品の二品であり、「要」は妙法蓮華経の五字である。
次に、「復舎利を安んじることを須いじ」の文について述べておく。
天台大師の法華文句巻八上に大智度論を引いて。「『不復安舎利』とは、釈論に云く、『砕骨は是れ生身の舎利、経巻は是れ法身の舎利なり』と。此の経は是れ法身の舎利なり。更に生身の舎利を安ずるを須たず。生法二身に各々全砕有り」と示されているように、この「舎利」とは生身の舎利を指している。
これに対して、例えば如来寿量品第十六の自我偈に「衆我が滅度を見て、広く舎利を供養し、咸く皆恋慕を懐いて、渇仰の心を生ず」とあるなかの「舎利」とは、法身の舎利を意味している。
また、生身・法身にそれぞれ全身の舎利・砕身の舎利の区別がある。遺体のままで土葬した場合は全身の舎利、火葬で遺骨にした場合は砕身の舎利と呼ばれる。妙楽大師の法華文句記巻八之三には、「生身の全砕は釈迦と多宝との如し」と記されている。
釈尊の舎利は遺骨として分けてあることから砕身の舎利とみなすことができる。これに対して、多宝如来は全身のままで入定したので全身の舎利と考えられる。
このことは、 見宝搭品第十一に、多宝如来が地より涌出した宝塔の中にいることを釈尊が「此の宝塔の中に、如来の全身有す」と言い、そして多宝如来自身がこの宝塔を「我が塔廟」と呼んでいることから、推察できる。
更に、法身の舎利は、法華経が全身の舎利にあたり、余経は砕身の舎利に相当する。これは、余経が如来の悟りを部分的に表現しているのに対して、法華経はその究極の全体を説いた経典であるからである。
この故に法師品に「此の中には已に如来の全身有す」と説かれているのである。すなわち、法華経の釈尊の悟りが尽くされているが故に、そこに釈尊の命が籠っていることを「如来の全身有す」と表現している。
このように、法華経の経巻にこそ釈尊の全生命があるのだから、別に生身の舎利を安置する必要はないというのである。
なお、日寛上人は依義判文抄でこの法師品の文を次のように三大秘法に配されている。
「応に知るべし、若しは説き、若しは読み等は、本門の題目なり、若しは経巻とは即ち本門の本尊なり、所住の処皆応に塔を起つべしとは本門の戒壇なり」
また文底秘沈抄では「若しは経巻所住の処…此の中は已に如来の全身有す」の文を久遠元初の自受用身における人法体一の明文とされている。