本尊問答抄(第十二段第二 真言の祈禱を用いて滅びた平家)

本尊問答抄(第十二段第二 真言の祈禱を用いて滅びた平家)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第十二段第一から続く)——————————————

国主となる事は大小皆・梵王・帝釈・日月・四天の御計いなり、法華経の怨敵となり定まり給はば忽に治罰すべきよしを誓い給へり、随つて人王八十一代・安徳天皇に太政入道の一門与力して兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺さる一門・皆一時にほろび畢んぬ、第二度なり今度は第三度にあたるなり。

  日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば日本国還つて調伏せられなむ還著於本人と説けりと申すなり、然らば則ち罰を以て利生を思うに法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり現世の祈祷は兵衛佐殿・法華経を読誦する現証なり。

 ——————————–(第十三段第一に続く)———————————————

 

現代語訳

国主となることは、国の大小にかかわらず、皆梵王・帝釈・日月・四天王の御計らいによるものである。これらの諸天は、国主が法華経の怨敵となってしまった時には、直ちに罰を加えると誓っている。したがって、第八十一代の安徳天皇を平清盛の一門が奉じ、兵衛佐源頼朝を調伏するために比叡山を氏寺とし、日吉神社を氏神として信仰し、その力をたのみにしたけれども、安徳天皇は西海に沈み、明雲は木曾義仲に殺され、平家の一門は皆一時に滅びてしまった。このように真言の邪法によって身を滅ぼした承久の乱は二度目の例であり、今度はその三度目に当たる。

日蓮の諌めを用いず、真言の悪法をもって大蒙古を調伏しようとすれば、かえって日本国が調伏されてしまうであろう。法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているのがそれである。そこから、真言の邪法による罰の現証をもって利生について考えてみると、成仏する大道は法華経に勝るものはない。現世の祈禱の証拠としては、兵衛佐殿が法華経を読誦して得た利益が、その現証である。

講義

国主が法華経に背いた時は、必ず諸天の治罰を受けて滅びることを更に平家一門の先例を挙げて指摘され、重ねて真言の祈禱による蒙古の調伏が国を滅ぼすことを警告されている。

平家が密教化した比叡山延暦寺を氏寺と定めて、源氏調伏を祈らせたことについては諸御書に述べられているが、四条金吾殿御返事には「源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時・清盛が一類・二十余人・起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし・山のなげきは我等がなげき・山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国・二十四郡を一向によせて候しかば」(1152:01)とより詳細に記されている。

東寺の延暦寺は、全国に所領荘園を有し、常に数千の僧兵がたむろしており、その勇猛ぶりは有名であった。それ故に平家でもこの叡山の勢力に対しては、懐柔策をとった。清盛が仁安3年(1168)に出家した際、天台座主の明雲を師僧としたのもそのあらわれであろう。

ただし、平家物語の伝えるところによれば、平家の一門が公卿10人の連署をもって「平氏は、比叡山延暦寺を平氏の氏寺とし、日吉の社を氏神とする」との起請文を延暦寺と日吉山王社に捧げたのは、源義仲が安宅・篠原等の戦いで平家軍を破竹の勢いで打ち破り、いよいよ京都に侵攻しつつあった寿永2年(11837月のことで、しかも、この時既に、義仲が先に山門に牒状を送り、これに対して山門の大衆は評議の結果、源氏に味方することを決めたばかりであったという。

ところで、大聖人は神国王御書にも「安徳天皇の御宇には明雲の座主・御師となり・太上入道並びに一門怠状を捧げて云く『彼の興福寺を以て藤氏の氏寺と為し春日の社を以て藤氏の氏神と為すが如く、延暦寺を以て平氏の氏寺と号し日吉の社を以て平氏の氏神と号す』云云、 叡山には明雲座主を始めとして三千人の大衆・五壇の大法を行い、大臣以下は家家に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し・諸寺・諸山には奉幣し大法秘法を尽くさずという事なし」(1519:18)と述べられており、平家物語等の記述との食い違いが見られる。

大聖人の御書では、第一に平家が山門の牒状を送ったのが平清盛存命中であったこと、第二には清盛以下20余人が連判したこと、第三には山門が願書を受け取って一山を挙げて平家の勝利を祈ったこと、となっている。

これらの点から、今成元昭氏は平家物語流行伝考で、大聖人の山門連署に関する知識が平家物語から得られたものでないことは明らかであるとしつつ、当時の平家の置かれた状況より考えて、叡山の勢力を唯一の頼みとして味方にしようとする平家の願書が一再ならず山門に届けられた可能性は十分にあり、決して大聖人が史実を改変したものではないと指摘している。

また明雲座主の最期についても、平家物語では、後白河法皇と決裂した義仲が寿永2年(1183919日、法王御所の法住寺伝を焼き討ちした際に、三井寺の長吏・円慶法親王と共に馬に乗って御所から逃げ出そうとしたが、馬から射落とされ、頸を取られたとある。

一方、この明雲座主の最後に言及されている御書も少なくないが、やや詳しく記されているのは八風抄であろうかと思われる。そこで、次のように記されてる。

「大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし・外には悪僧どもを・もつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出して・なわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頚をうち切りたりき」(1152:04

この記述も、今成氏の指摘するように、大聖人が平家物語とは別系統の史料に基づいて源平の戦いを綴られていたことの証左といえるかも知れないが、滝泉寺申状には「叡山の明雲は流矢に当り」(0851:09)と記されており、明雲の最後に関して既に諸説が存在していたことがうかがえる。

なお滝泉寺申状は、後半は日興上人が書かれたものであるが、引用の御文は、念のため御真筆によって確認したところ、大聖人が執筆された個所に当たっている。

また明雲の最後については愚管抄等の現存する史料にも記されており、細部の違いはあるにせよ、義仲の軍に攻められて非業の死を遂げたとしている点では共通している。

大聖人は、慈覚大師事において、この明雲座主が安元3年(11775月に延暦寺衆徒の蜂起に関連してその罪を問われて伊豆に流罪となった義仲に討たれたことをもって「此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、 生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり」(1020:03)と厳しく弾劾されている。また頼基陳状では、頭作七分の現証として挙げられている。

ともあれ、平家方は祈禱のかいなくして次々と戦いに敗れ、寿永2年(11837月、源義仲が入京するや、安徳天皇を擁して西走し、兵力を集めて源氏に立ち向かったものの、次々と敗れ、寿永4年(1185324日、ついには下関の壇ノ浦の合戦で敗れ滅亡した。

安徳天皇は平家の一門と共に入水し8歳の生涯を閉じた。平宗盛・清宗父子は、海中に身を投じたが、義経の家人によって引き揚げられ捕虜となり、後に鎌倉に送られ、京都に帰る途中で斬首された。

タイトルとURLをコピーしました