本尊問答抄(第十二段第一 関東にも教勢を広げた真言宗)

本尊問答抄(第十二段第一 関東にも教勢を広げた真言宗)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第十一段第五から続く)——————————————

かかる大悪法としをへてやうやく関東におち下りて諸堂の別当供僧となり連連と行えり本より辺域の武士なれば教法の邪正をば知らずただ三宝をばあがむべき事とばかり思ふゆへに自然としてこれを用いきたりてやうやく年数を経る程に今他国のせめをかうふりて此の国すでにほろびなんとす、関東八箇国のみならず叡山・東寺・園城・七寺等の座主・別当・皆関東の御はからひとなりぬるゆへに隠岐の法皇のごとく大悪法の檀那と成定まり給いぬるなり、

 ——————————–(第十二段第二に続く)———————————————

 

現代語訳

このような大悪法が、年月を経て次第に関東に下つて、真言の僧が諸堂の別当や供僧となって、次々と邪法を行じているのである。関東の武士はもともと辺域の武士であるから、教法の邪正をも知らず、ただ三宝を崇めるべきだと思って自然に真言を用いるようになった。

こうして年月を経て、今や他国から攻められて、この国はすでに滅びようとしているのである。関東八箇国のみならず、比叡山・東寺・園城寺・七寺等の座主・別当も皆、関東の鎌倉幕府の用いるところとなったので、北条家もかっての隠岐の法皇のように大悪法の檀那となってしまったのである。

講義

ここでは、真言が亡国の悪法であることが承久の乱において明白であるにもかかわらず、そのことを知らない関東の武士たちは、この乱をきっかけに実権が完全に鎌倉幕府に移ったことから次第に関東に下って勢力を伸ばそうとした真言師にたぶらかされて、大悪法の檀那となってしまったことを指摘されている。

妙法尼御前御返事には、真言師が鎌倉に下っていったことを次のように記されている。

「代東にうつりて 年をふるままに彼の国主を失いし、真言宗等の人人鎌倉に下り相州の足下にくぐり入りて・やうやうにたばかる故に・本は上﨟なればとて・すかされて鎌倉の諸堂の別当となせり」(1411:14

また撰時抄にも「今はかまくらの世さかんなるゆへに東寺・天台・園城・七寺の真言師等と並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人人・関東にをちくだりて頭をかたぶけひざをかがめやうやうに武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり長吏となりて王位を失いし悪法をとりいだして国土安穏といのれば」(0283:02)と仰せられている。

結局、仏法に対する無知のために、幕府は真言の悪法を受け入れ、再び亡国の危機を招いているのである。しかも、承久の乱は内戦であったから、朝廷方は敗れたが鎌倉方が勝利して残った。ところが、今度は蒙古という外国によって日本が攻められるのであり、そこで亡国の悪法で祈れば日本そのものの滅亡を招く恐れがある。

このことを大聖人は何よりも心配されたのであり、故に本抄にも「今他国のせめをかいふりて此の国すでにほろびなんとす」と仰せられているのである。

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