本尊問答抄(第十一段第四 無力であった真言密教の祈禱)

本尊問答抄(第十一段第四 無力であった真言密教の祈禱)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

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此の十五壇の法と申すは一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星王・太元守護経等の大法なり此の法の詮は国敵王敵となる者を降伏して命を召し取りて其の魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり、其の行者の人人も又軽からず天台の座主慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正等の四十一人並びに伴僧等・三百余人なり云云、法と云ひ行者と云ひ又代も上代なりいかにとしてまけ給いけるぞたとひかつ事こそなくとも即時にまけおはりてかかるはぢにあひたりける事、いかなるゆへといふ事を余人いまだしらず、国主として民を討たん事鷹の鳥をとらんがごとしたとひまけ給うとも一年・二年・十年・二十年もささうべきぞかし五月十五日におこりて六月十四日にまけ給いぬわづかに三十余日なり、権の大夫殿は此の事を兼てしらねば祈祷もなしかまへもなし。

 ——————————–(第十一段第五に続く)———————————————

 

現代語訳

この十五壇の秘法というのは、一字金輪法・四天王法・不動明王法・大威徳法・転法輪法・如意輪法・愛染王法・仏眼法・六字法・金剛童子法・尊星王法・太元法・守護経法等の大法である。この秘法の目的は、国敵・王敵となる者を調伏して命を召し取り、その魂を大日如来の住する密厳浄土へ遣わすというものである。しかもこの秘法を行った人々はいずれもその地位が低くなく、天台座主の慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正などの四十一人、ならびに伴僧等三百余人である。

その法といい、行者といい、また時代も天皇・上皇の権威が失われていない時代であったのに、どうして朝廷方は破れてしまったのか。たとえ勝つまではいかなくても、あっけなく負けてしまい、このような恥辱に遭うとはいかなる理由によるのか、このことは日蓮以外の人々は誰も知らないのである。

国主として臣下を討つことは鷹が小鳥を捕るようなものであり、たとえ負けるにしても一年・二年・十年・二十年と持ちこたえるところを、五月十五日に戦いが始まって六月十四日には負けてしまい、その間わずか三十余日である。権大夫義時はこのことを前もって知らなかったので、祈禱もせず、その準備もしなかったのである。

 

講義

ここでは、北条義時を調伏するために行った15檀の秘法について具体的にその名を挙げられている。

当時の仏教界の最高峰と目された高僧を総動員してこれらの秘法が行われたにもかかわらず、あまりにもあっけなく朝廷側が鎌倉幕府の軍に敗れてしまった事実こそ真言密教による祈禱がいかに無力であったかを示しているといえよう。

本抄では、15檀の秘法のうち13種を挙げられている。祈禱抄によると、後鳥羽上皇の宣旨によって41人の行者が15檀の秘法を行ったという。以下同抄に基づいて概略を記しておきたい。

①一字金剛法は、天台座主慈円僧正が、伴僧12人と共に、関白藤原道通の沙汰によって修した。ただし、この時、天台座主の地位にあったのは慈円ではなく、尊快が承久3年(1221426日に任じられ、4ヵ月間、座主を務めており、慈円が承久の乱に祈禱を行ったという記録は残っていない。大聖人がいずれの史料に基づいて記されたかは不明である。

②四天王法は、成興寺の宮僧正が、伴僧8人と共に、広瀬殿で修明門院の沙汰によって修した。成興寺の宮僧正とは、第67代天台座主真正のこと、成興寺は九条の北、烏丸の西に在った天台宗の寺である。

③不動明王法は、真言宗の東寺の長者であり、東大寺の別当でもあった成宝僧正が、伴僧8人と共に花山院禅門の沙汰によって修した。

④大威徳法は、真言宗の密経僧で東寺長者、東大寺の別当ともなった観厳僧正が、伴僧8人と共に七条院の沙汰によって修法した。

⑤転輪聖王法は、醍醐寺の座主、東寺長者の成賢僧正が、伴僧8人と共に、七条院の沙汰によって修法した。

⑥十壇大威徳法は、園城寺の長吏・覚朝ら10人の高僧がそれぞれ伴僧6人を連れて修法した。

⑦如意輪法は、妙高院僧正が伴僧8人を従えて、宣秋院の沙汰によって修法した。

⑧毘沙門法は、三井の常住院僧正が伴僧6人と、資賃の沙汰によって修法した、この法は、毘沙門天を本尊として戦勝を祈願する修法として知られている。三井の常住院僧正とは良尊のことで、後の三井寺の長吏になった高僧である。

⑨如法愛染王法とは、仁和寺御室の行法で、53日より始めて27日の間、紫宸殿において修された。この行法は、愛染王法を発展させたもので、如法とは如意宝珠法によって修する意味で、懸曼荼羅ではなく敷曼荼羅を用いて行う。

⑩仏眼法は、大政僧正が3週間の間修し、⑪六字法は台密の功徳流の祖である快雅が修した。

⑫愛染王法は。観厳僧正が7日間にわたって修し、⑬不動法は、勧修寺の僧正が僧綱の位にある伴僧8人と修法した。

⑭大威徳法、⑮金剛童子法は、安芸の僧正によって行われた。

以上が祈禱抄で挙げられた15檀の秘法であるが、更に、鎌倉の軍勢が攻め上ってくることが521日に京に伝わると、残りの法として68日より行われたのが尊星王法・太元帥法・五壇法・守護経法等である。

承久の乱は、このように上皇方が大掛かりな密教の祈禱をもって幕府調伏を期したにもかかわらず、わずか1ヵ月で、あまりにも簡単に敗れてしまったことは、密教の祈禱がいかに有害であったかを如実に示しているといわざるを得ないであろう。

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