———————————–(第十一段第二から続く)——————————————
三院をば三国へ流罪し奉りぬ又公卿七人は忽に頚をきる、しかのみならず御室の御所に押し入りて最愛の弟子の小児勢多伽と申せしをせめいだして終に頚をきりにき御室思いに堪えずして死に給い畢んぬ母も死す童も死す、すべて此のいのりをたのみし人いく千万といふ事をしらず死にきたまたまいきたるもかひなし、御室祈りを始め給いし六月八日より同じき十四日までなかをかぞふれば七日に満じける日なり、
——————————–(第十一段第四に続く)———————————————
現代語訳
そして三上皇を隠岐・阿波・佐渡の三国へ流罪に処し、また七人の公卿の頸を即座に斬った。それのみならず、御室の御所に押し入って、最愛の弟子であった勢多伽という童子を責め出し、ついにはその頸を切ってしまった。こうして勢多伽の母も勢多伽も死んでしまい、この祈禱を頼りにしていた人は幾千万と数知れないが、すべて死んでしまった。たまたま生き残った人々も、生き伸びた甲斐がないほどであった。御室が祈禱を始めた六月八日より、朝廷が敗れた同じ十四日までを数えると、七日間であった。
講義
後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の流罪、公卿7人の処罰に加え、仁和寺御室の道助法親王の寵愛していた勢多伽も頸をはねられ、幕府の御家人でありながら朝廷側に付いた後藤基清・五条有範・佐々木広綱ら武士も多数斬首された。
勢多伽丸はこの佐々木広綱の子で、当時わずか10歳の少年であった。出家して仁和寺に住み、門跡の道助法親王の寵愛を受けていたのである。
乱後の処分を指揮していた北条泰時自身は、道助法親王や勢多伽丸の母の懇願に心を動かされ、勢多伽丸を斬る意志が揺らいだが、勢多伽丸の叔父であり、宇治川の戦いに先陣を切った佐々木信綱と広綱の仲が悪く、信綱が勢多伽丸の斬首を主張したので、勢多伽丸は信綱の預かりとなって、六条河原でついに頸をはねられたのであった。
承久記には、その有り様を見て、上下涙を流さぬものはいなかったと記されている。
勢多伽丸の母は、最愛の子を失った悲しみのあまり、愛児の後を追って桂川に身を投げたが死に切れず、出家して尼になり、11年後の貞永元年(1232)7月、清滝川に身を投じ死んだという。
また、御室については、ほかの御抄にも「御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日に・いくさに・まけ勢多迦が頚きられ御室をもひ死に死しぬ」(1152:10)と記されているように、勢多伽丸と同様に死んだとされているが、道助法親王は寛喜3年(1231)に仁和寺御室の地位を道深親王に譲ったのち、高野山に隠居し、建長元年(1249)に没している。おそらく大聖人御在世当時は、承久の乱の顚末として、そのように人々に伝承されていたのであろう。