———————————–(第十一段第一から続く)——————————————
しかのみならず調伏力を尽せり所謂天台の座主・慈円僧正・真言の長者・仁和寺の御室・園城寺の長吏・総じて七大寺・十五大寺・智慧戒行は日月の如く、秘法は弘法・慈覚等の三大師の心中の深密の大法・十五壇の秘法なり、五月十九日より六月の十四日にいたるまであせをながしなづきをくだきて行いき最後には御室・紫宸殿にして日本国にわたりていまだ三度までも行はぬ大法・六月八日始めて之を行う程に・同じき十四日に関東の兵軍・宇治勢多をおしわたして洛陽に打ち入りて三院を生け取り奉りて九重に火を放ちて一時に焼失す、
——————————–(第十一段第三に続く)———————————————
現代語訳
そればかりでなく朝廷側は幕府調伏の祈禱に大変な力を入れたのである。祈禱をしたのは、いわゆる天台の座主・慈円僧正、真言の長者、仁和寺の御室、園城寺の長吏をはじめ、奈良の七大寺・十五大寺・高僧など、みな智慧と戒行とが日月のように備わった人々である。また用いた秘法は弘法・慈覚等の三大師が心中の深密の大法とした十五壇の秘法である。
五月十九日より六月十四日に至るまで、汗を流し脳を砕いて祈禱を行った。最後には仁和寺の御室が紫宸殿において、日本に渡ってきた三度とは行われていない大法を六月八日始めて行ったところ、その月の十四日に関東の軍勢は宇治・勢多川を一気に渡って京都に打ち入り、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を生け捕り、宮中に火を放って、一気に焼き払ってしまった。
講義
朝廷方が天台・真言の高僧に依頼し、最高の秘法をもって幕府方の調伏を行い秘術の限りを尽くしたにもかかわらず、その効験がなかったばかりか、かえって朝廷方は無残に敗北したことを指摘されている。
後鳥羽上皇は、一方で武力蜂起するとともに、他方で延暦寺・仁和寺・園城寺・東寺などの天台・真言の高僧41人に命じ、15檀の秘法を修されたのである。秘法の内容、修した僧侶については祈禱抄につぶさに記されている。
祈禱抄・神国王御書では、この15檀の秘法が始められたのは4月19日とされている。
ところで、本段の冒頭の「抑人王八十二代・隠岐の法王」から始まって「安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺される一門・皆一時にほろび畢ぬ」までの御文は、古くは録外御書巻六の真言宗行調伏秘法還著於本人事に収録されていたものである。
そして、小川泰道が高祖遺文録を編纂した際、この真言宗行秘法事を祈禱抄の一部と見なした智英日明の新撰祖書目録を受けて、これらを結合するとともに、真言宗行秘法事の中に本抄の一部と重複しているところを削ったのである。
本抄と重複しているということから祈禱抄に収録されなかった真言宗行秘法事の御文には、15檀の秘法はやはり4月19日より6月14日に至るまで修されたことになっている。
また安国院日講の録内啓蒙の録内御書の最古の注釈書である日健の御書鈔には、本抄の御文として「四月十九日より」と引用されており、「異本」には「四月」とあったことがうかがえ、本抄の「五月」は誤りである可能性も否定できない。
更に、日寛上人は、報恩抄文段で承久の乱の大旨を記されているが、ほぼ本抄の引用と思われる個所で「そのほか伴僧三百余人、四月十九日より六月十四日に至るまで汗を流し脳を砕き」と述べられている。
そして、最後には日本では三度まで行じられたことのない大法が6月8日、仁和寺の御室によって紫宸殿で修されたという。この時の御室とは、後鳥羽上皇の第二子である道助法親王であり、行った修法は神国王御書によれば密教における三箇の大法の一つとされた守護経である。
なお、祈禱抄の守護経法の註には、「御室之を行はせらる我朝二度之を行う」(1353:17)と仰せられており、日寛上人の報恩抄文段には「御室紫宸殿にして日本国に渡っていまだ二度とも行ぜざる大秘法」と記されている。
この日講の啓蒙、日健の御書鈔でも「二度まで行はざる大法」となっている。
これに対して、本抄及び真言宗行秘法事には「三度までも行はぬ大法」と仰せられているが、おそらく文意としては承久の乱を含めて日本では二度行われたと解すべきであろう。
神国王御書では「四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり」(1520:07)と述べられ、15檀の大法がそろって修せられたのは承久の乱で二度目のことであったとされている。