本尊問答抄(第十段第四 仏法の正邪が国の盛衰に関わる)

本尊問答抄(第十段第四 仏法の正邪が国の盛衰に関わる)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第十段第三から続く)——————————————-

是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり、此の事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を造る仍つて故最明寺入道殿に奉る立正安国論と名けき、其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し、所詮現証を引いて申すべし

 ——————————–(第十一段第一に続く)———————————————

 

現代語訳

このように仏法の邪正が乱れたために王法も次第に滅びてしまい、遂には、この国は他国に破られて滅びてしまうであろうことを、日蓮はただ一人考え知っているがゆえに、仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を著して故最明寺入道殿に奉ったのである。立正安国論と名づけたのがそれである。その書に詳しく述べたけれども、愚人は理解しがたいので、所詮、現証を引いて述べることにしよう。

 

講義

立正安国論は文応元年(1260716日、大聖人が39歳の時に、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出された第一回の諌暁の書である。

当時は、天変地夭や飢饉・疫病が相次ぎ、国中の民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。

大聖人は立正安国論において、こうした災難の根源について「世皆正に背き人悉く悪に帰す」(0017:12)ところにあると断じられ、諸経の文を引いて、一国が謗法に堕し、しかも為政者もそのことに気づかず謗法を用いるところに種々の災難が起こることを明かされるとともに、このまま謗法を続けていくならば、経文に述べられている自界叛逆・他国侵逼の二難が起こるであろうと予言されている。

立正安国論では、日寛上人が立正安国論愚記で「一往の辺は、但哀音の念仏に在り。これ亡国の洪基の故なり…故に一部の始終、専ら法然の謗法を破す」と述べられているように、当時、日本中に広まっていた法然の専修念仏を破折されているが、その元意は、念仏宗のみならず諸宗の破折にあったことは明白である。

本抄において真言の破折を示された後に安国論に言及されているのは、その証左である。故に、日寛上人は「若し再往元意の辺は、広く諸宗に通ずるなり」と述べられて、その文証として、本文の御文とともに撰時抄の次の御文を挙げられている。

「立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべし」(0287:09

また、中興入道消息には「去ぬる正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひしかども・なにのゆへ・いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたるに・真言・禅宗・念仏・律等の権小の人人をもつて法華経をかろしめ・たてまつる故に・梵天・帝釈の御とがめにて西なる国に仰せ付けて日本国をせむべしとかんがへて、故最明寺入道殿にまいらせ候いき」(1333:18)と仰せられている。

したがって、大聖人は立正安国論において、もっぱら法然の邪法邪義を表にして破折されているのは、あくまで御化導の次第によるものである。

最後に仏法と王法の関係について大聖人は本抄でも「仏法の邪正乱れしかば王法漸く尽きぬ」と、その基本的な考え方を仰せられている。この原理については神国王御書にも次のように仰せである。

「仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く・又仏法に付いて国もほろび・人の寿も短かかるべしとみへて候、譬へば水は能く船をたすけ・水は能く船をやぶる、五穀は人をやしない・人を損ず、小波小風は大船を損ずる事かたし・大波大風には小船をやぶれやすし、王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521:04

このように、仏法の乱れが国の盛衰にかかわる根本であるとの原理のうえから、立正安国論で「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや」(0032:14)と、諸宗の執着を排して、直ちに正法に帰依するこそこそ、災いをなくし、平和世界を実現する基盤とされたのである。

しかし、こうした大聖人の主張に、当時の権力者も民衆も耳を貸そうとしなかったばかりでなく、邪義を破折されて恨んだ念仏僧等に紛動されて、かえって大聖人をあだみ迫害を加えたのである。

そこで、大聖人は本抄で「所詮現証を引いて申すべし」と仰せられ、次の段において承久の乱という歴史的事例をもって真言が亡国の邪法たる所以を明かされていくのである。

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