本尊問答抄(第十段第三 法華経を下す真言の誑惑)

本尊問答抄(第十段第三 法華経を下す真言の誑惑)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第十段第二から続く)——————————————-

真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと云云、其の証拠を尋ぬ可きなり所詮大日経ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり証拠彼の経・此の経に分明なり此に之を引かずしかるを或は云く法華経に三重の主君・或は二重の主君なりと云云以ての外の大僻見なり、譬えば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ超高が民の身として横に帝位につきしがごとし又彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし漢土にも知る人なく日本にもあやしめずしてすでに四百余年をおくれり。

 ——————————–(第十段第四に続く)———————————————–

 

現代語訳

真言宗というのはまったくの偽りの教えであるが、深くその偽りの根源を隠しているので、考えの浅い人には、それを見破ることは難しく、皆がたぶらかされて年が過ぎてきた。そもそもインドには真言宗という宗派はなかったのであるが、それを有ったといっている。であれば、その証拠を問うべきである。

ともかく、大日経がすでに日本に渡ってきているので、これを法華経と比較して勝劣を考えてみたところ、大日経は法華経より七重下劣っている経であり、その証拠は大日経と法華経を見比べると明らかであるが、ここではその文証を引かない。

ところが、真言宗のある者は、大日経は法華経より三重の優れた主君であるとか、ある者は二重に優れた主君であるといっているが、これはもってのほかの大僻見である。こうした真言の邪義は譬えていえば、劉聡が卑しい身分でありながら愍帝に馬の轡を取らせ、秦の奸臣・超高が民の身でありながら付法に帝位に就いたようなものであり、またインドの大慢婆羅門が釈尊の像を高座の脚として、その上に坐ったようなものである。しかし、真言師の誑惑を中国にも知る人がなく、日本でも不審に思うものはなく、既に四百余年をすぎてしまったのである。

 

講義

最後に真言宗を挙げて破折される。

真言宗の邪義については前に詳しく述べたが、大聖人がここで真言宗を「一向に大妄語」と喝破されているように、自宗の教義を正当化するために様々な誑惑を重ねており、しかもその誑惑が巧妙に極めているために仏法に無智な衆生はそれを見破ることができないのである。

真言宗における大妄語を挙げると限りがないが、ここではその一例として、大聖人は、インドに真言宗が存在していなかったにもかかわらず、真言宗では存在したと主張していることを仰せられている。

これは、大日如来に始まって、金剛薩埵・竜猛・竜智菩薩・金剛智三蔵・不空三蔵に伝授されたとする真言密教の相承がまやかしであることを指摘されたものであろう。

この密教の相承について、大聖人は曾谷入道殿許御書に次のように記されている。

「諸の真言師の云く「仏の滅後八百年に相当つて竜猛菩薩・月氏に出現して釈尊の顕経たる華厳・法華等を馬鳴菩薩等に相伝し大日の密経をば自ら南天の鉄塔を開拓し面り大日如来と金剛薩埵とに対して之を口決す、竜猛菩薩に二人の弟子有り提婆菩薩には釈迦の顕教を伝え竜智菩薩には大日の密教を授く竜智菩薩は阿羅苑に隠居して人に伝えず其の間に 提婆菩薩の伝うる所の顕教は先づ漢土に渡る其の後数年を経歴して竜智菩薩の伝うる所の秘密の教を善無畏・金剛智・不空・漢土に渡す」」(1028:18

空海の真言付法伝等にも、ほぼ同趣旨の内容が記されており、これを取り上げられたものと思われるが、大聖人はこれに対して、竜樹が顕教を提婆に伝え、密教を竜智に授けたという証文がどの経典にあるのかと反論され「此の大妄語は提婆の欺誑罪にも過ぎ瞿伽利の誑言にも超ゆ」(1029:07)と断じられている。

実際、竜樹・金剛智三蔵は歴史的人物であるが、その間には数百年の隔たりがあり、その間をつなぐ竜智がいかに長寿であっても、史実にはほど遠い伝説というほかない。空海の真言付法伝には、金剛薩埵・竜樹・竜智はいずれも数百歳にして相伝したと記されていることからも、この真言密教の相承が単なる荒唐無稽の伝説に過ぎないことを示しているといえよう。

次に、大聖人は法華経と大日経の勝劣に言及されて、大日経は法華経より七重に劣っており、そのことは真言の経、法華経に明文であると述べられている。これは、法華経を諸経のなかで第一とすると、大日経は第七に過ぎないことを意味している。

文永7年(1270)御述作の真言七重勝劣事でも、諸経の勝劣について、法華経第一・涅槃経第二・無量義経第三・華厳経第四・般若経第五・蘇悉地経第六・大日経第七とされている。

また、真言天台勝劣事では、その根拠となる文証を挙げられつつ、六点にわたって諸経の勝劣を明かされている。

第一に、法華経法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」、安楽行品第十四の「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の二文から、法華経が一切経に勝ることは明らかである。

第二に、無量義経説法品第二の「次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて」、十功徳品第三に「真実甚深、甚深甚深なり」とあるように、無量義経は諸経のなかに優れて甚深のなかにもなお甚深である。しかしそれでも法華の序分であって正説の法華には劣るのである。

第三に、涅槃経如来性品第四には「是の経の世に出ずるは彼の果実の利益する所多く一切を安楽なさしむるが如く能く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中の八千の声聞記莂を得授するが如く大果実を成じ秋収冬蔵して更に所作無きが如し」とあり、これを妙楽大師が法華玄義釈籤巻第一で「一家の義意謂く二部同味なれども然る尚涅槃劣る」と釈しているように、涅槃経も醍醐味で、華厳経より勝っているが法華の序分の無量義経より劣っている。

第四に、華厳経は最初の頓説であるが故に般若に勝るが涅槃経には劣る。

第五に、蘇悉地経巻中の成就具支法品第十七に「猶成ぜざらん者は或は復大般若経を転読すること七遍」とあるように、大般若経は華厳経には劣るが蘇悉地経には勝る。

第六に、蘇悉地経巻上の請問品第一に「三部の中に於てこの経を王と為す」とあり、蘇悉地経は大般若経には劣るが、大日経・金剛頂経等には勝ることがわかる。

このように大日経は法華経に七重に劣っているにもかかわらず、弘法は十住心の教判で大日経第一・華厳経第二・法華経第三とし、慈覚・智証の両大師は、大日経第一・法華経第二とたてたのである。このことを大聖人は本抄で「以ての外の大僻見なり」と弾訶されていたのである。

そして、このように真言宗が大日経を上げて法華経を下していることを、劉聡が下劣の身でありながら、西晋の愍帝を捕らえて、出獄の時、馬の轡をとらせて先導役を務めさせたことや、超高が民の身でありながら皇帝を殺害して自らが帝位につこうとしたことに譬えられている。

また、南インドの摩臘婆国の大慢婆羅門も同様の譬喩として引かれている。

玄奘の大唐西域記巻十一によると、大慢婆羅門は、内外の典籍もその幽微を極めたばかりでなく、暦法・天文にも通じていたという。そのため、先賢も後哲の自分にはわからないと豪語し、遂には赤栴檀をもって大自在天や釈尊等の像を四本の足とする椅子を作り、そこに坐るほどの増上慢を起こしたと記されている。

しかし、西インドから来た賢愛論師と法論して論破されたために、国王より殺されることになった。そのころを哀れんだ賢愛論師が国王に許しを請うたことによって婆羅門は一命を救われたが、それを恥辱として怒りのあまり血を吐き、論師を罵り、大乗経を誹謗したところ、その言葉が終わらないうちに大地が裂け、生きながら地獄に堕ちたという。

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