本尊問答抄(第一段第一)

本尊問答抄(第一段第一)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

 問うて云わく、末代悪世の凡夫は何物をもって本尊と定むべきや。
 答えて云わく、法華経の題目をもって本尊とすべし。

 

現代語訳

問うて云う。末代悪世の凡夫は何をもって本尊と定めるべきか。

答えて言う。法華経の題目をもって本尊とすべきである。

 

講義

本段は、本抄の標文であり、全体の主題を示されているところである。以下、この主題をめぐって論を展開され、末代悪世の凡夫が「法華経の題目」を本尊とすべき所以を明らかにされていく。

この標文においては、末法の本尊をまず法の辺から示されているが、その元意は人法一箇の御本尊であり、人に即する法の本尊であることに注意しなければならない。また、「法華経の題目」は、単に28品の経題だけではなく、元意の辺から拝さなくては本抄全体の主旨を誤ってしまうことになる。

日淳上人は本抄について「本尊問答抄は猶末だ権実相対の上の御法門でありますが、元意は法本尊を御示し遊ばされたのであります。従ってこの御書によって御本尊の拝し方を会得し奉ることができます。乃ち無作三身の仏を確立して後に人の仏を拝して確立し奉る此れが順序であります」と御教示されている。

ここに、「無作三身の仏」とは、事の一念三千たる南無妙法蓮華経を指している。

つまり、日淳上人は、末法における法の本尊として示された「法華経の題目」を一念三千の法において拝し、そしてそこに迹門・本門・文底の三段の立て分けがあり、その法の立て分けをもって教主としての人本尊を拝すれば、末法有縁の主師親三徳の御本仏が誰人であるかがおのずと明らかになると仰せなのである。

そして、大聖人が建立される末法の御本尊は、久遠元初本因下種の事の一念三千であり、その教主をたずねれば、本果妙の教主釈尊ではなく、本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮大聖人であり、大聖人をもって末法有縁の主師親三徳を具備された人本尊として尊崇申し上げるのである。

諸法実相抄に「是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(135811)と仰せであるが、日淳上人はこの御文を引かれて、「ここに寿量品の指標し玉ふ御本尊が法の御本尊であられるが故に人御本尊を離れて法御本尊を立て、大聖人の御正意となす者がありますが、これは一往の段階に於て仰せなされる所以を知らないからであります。人を離れた法はないのでありまして若しそれを立てれば理の法相に他ならぬのであります。それはまた天台の理の一念三千であります。事の一念三千は事相に於て成り立つのであります。故に人の仏が必ずあらせられるのであります」とある。

この文は、本抄に仰せの「法華経の題目」についてもそのまま当てはまると言ってよい。

つまり、先の文を併せて要約すれば、

①「法華経の題目」は迹門・本門・文底の三段において拝すべきものであり、本抄の元意は、寿量文底本門事の一念三千を末法の御本尊として明かすべきところにある。

②文底の事の一念三千においては人法一箇であり、したがって法の本尊といっても人本尊を離れた法はなく、人に即する法である。

の二点が本段の重要なポイントとして浮かび上がってくるのであり、序講で論じたのもまさにこの点である。

つぎに「法華経の題目を以て本尊とすべし」との仰せから、日蓮宗諸派では“大聖人の仏法においては題目が根本であり、それを唱える信心の対象として本尊がある”としてきた。これは本尊と題目の関係を誤って捉えた本末転倒の考え方であまり、本尊を軽視し、根本の本尊に迷うもとともなってきたのである。

法華経の題目は、法華経の題号とその名は同じであるとはいえ、義は全く別であることを知らねばならない。ゆえに日寛上人は、例えば法華経題目抄の題号について釈するにあたって、附文と元意の二意を示されている。

まず附文の意とは、「『法華』の二字は体を挙げ、『題目』の二字は名を挙ぐ。これ即ち名は必ず体ある故なり。謂く、妙法蓮華経とは即ちこれ法華経一部八巻二十八品の題目なり」とするごとくである。

言い換えると、妙法蓮華経の題目を法華経という経典の題号であるとするのは附文の辺での拝し方に過ぎないのである。これに対いて三大秘法そのもののことであるとするのが元意の辺であるとされ、次のように示されている。

「『法華』の二字は所信の体、即ちこれ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。『題目』の二字は能唱の行、即ちこれ本門寿量文底下種の題目なり。所住の所は即ちこれ久遠元初の本門の戒壇なり」

日寛上人は文底秘沈抄で、「夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり。…修行に本有り、所謂信心なり」と仰せられたうえで、「本門の題目には必ず信行を具す。所謂但本門の本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり、仮令信心有りと雖も、若し修行無くんば末だ可ならず。…仮令修行有りと雖も、若し信心無くんば不可なり。故に宗祖云く『信無くして此の経を行ぜば、手無くして宝山に入るが如し』云云。故に知りぬ。信行具足の方に本門の題目と名づくるなり、何ぞ但唱題と云わんや」と、本門の題目は信行具足の題目であり、したがって信ずる対象としての本尊が不可欠であることを示されている。

すなわち、あくまで本門の本尊が根本であり、本尊を信ずるところに唱題行が始まるのである。この故に、本門の本尊を一大秘法と名づけ、ここに三大秘法が具足しているのである。

このことを日寛上人は依義判文抄に三大秘法の開合の相として「三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法惣在の本尊と名づくるなり」と述べれている。

この本尊と題目の関係を誤って考えては、本抄の元意を拝することは絶対にできないといってよい。

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