本尊問答抄 序講 1

本尊問答抄 序講 1

 

はじめに

 

一、本抄御述作の年代

本尊問答抄は、弘安元年(1278)9月、聖寿57歳の御時、身延において著されたとされている。本抄には、御述作年月は記されていないが、古くから御書の各目録・諸注釈書等でいずれも「弘安元年」の後述作とすることで一致している。

本抄の御真筆は現存しないが、日興上人の富士一跡門徒存知の事には「聖人御書の事」として、立正安国論などの十大部の他の御書とともに「本尊問答抄一巻」と記されているが、御真蹟や写本の所在については触れられていない。また、御真蹟の格護に多大な功績のあった富木常忍の蔵書目録である常修院本尊聖教事には、「一、御書箱」の項に「本尊問答抄一帖」との記載があり、写本がすでに存在したことがうかがえる。

このほか、大聖人御入滅後100~140年後に集成されたとされている禄内御書にも、本抄が収録されていたことは、中世に書写された録内御書の最も古い平賀本、日朝本からも明らかである。

しかし、御真筆の所在が不明であるにもかかわらず、本抄の存在を疑いえないものとしているのは、何といっても血脈付法の第二祖日興上人ならびに第二祖日興上人ならびに大聖人御在世当時からの門弟である賢秀公日源による写本が今日に伝えていることによる。

現存する写本は次の三つである。

①日興上人による写本   北山本門寺蔵

②賢秀公日源による写本  岩本実相寺蔵

③日興上人による写本   富久成寺蔵(茨城県古川市の日蓮正宗寺院)

ただし①の日興上人の写本は完全ではない。稲田海素の日蓮聖人御遺文対照記には「明治三十五年七月四日岩本実相寺ニ於テ開山源師正応三年七月十五日ノ御写ヲ以テ対校ス復同年十二月十八日北山本門寺ニ於テ対校ス惜哉不足ナリ其不足ヲハ延山朝師ノ御本ヲ以て補校ス」と記されている。

 

二、本抄の題号

本尊問答抄という題号は古来、日蓮大聖人の御自撰であるとされており、それについても異説はない。先にも述べたように、富士一跡門徒存知事の中でも「本尊問答抄一巻」とはっきり記されている。

また賢秀公日源の写本にも「本尊問答抄」と明記されていることから、この題号は大聖人の御自撰であることは間違いないであろう。

 

三、本抄を賜った人

本抄は本文中にいただいた人の名が明記されていないが、本抄末尾の次の御文から大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子である浄顕房に与えられた御書として差し支えないであろう。

「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373:14) ここに仰せの「地頭」とは安房国長狭郡東条郷の地頭であった東条景信を指していることはまず疑いない。また、義城房は浄顕房と同じく大聖人の清澄寺修学時代の法兄である。したがって、この御文の内容は、建長5年(1253)立教開宗によって、地頭の東条景信の怒りをかったために、大聖人が清澄寺を退出した際の出来事を述べたものである。同じ趣旨の内容が報恩抄にも次のように記されている。

「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0324:01)

さらに同抄の末尾に「甲州波木井郷身延山より安房の国・東条の郡・清澄山・浄顕房・義成房の許に奉送す」(0329:17)と仰せられていることから、報恩抄が浄顕房と義浄房の二人に与えられたことは明らかであり、したがって先に引用したなかの「貴辺」とは、義浄房とともに大聖人を救った義浄房であることは疑う余地がない。

安房国清澄寺は度重なる火災で史料を失っており、義浄房に関する史料も残されていない。このため、日蓮大聖人の御書以外に浄顕房の人物の輪郭をさぐる手掛かりはない

ちなみに浄顕房に与えられた御書は次の6編を数える。

①善無畏三蔵抄  文永07年(1270)  義浄房と連名

②清澄寺大衆中  建治02年(1276)  義浄房を含む清澄寺大衆

③報恩抄     建治02年(1276)  義浄房と連名

④報恩抄送文   建治02年(1276)  浄顕房個人

⑤華果成就御書  弘安元年(1278)  義浄房と連名

⑥本尊問答抄   弘安元年(1278)  浄顕房個人

日蓮大聖人は本抄に「日蓮は東海道・十五箇国の内.第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷.片海の海人が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」と仰せられているように、安房国長狭国東条郷に御生誕になった。天福元年(1233)、12歳で清澄寺に入山され、道善房を師として修学された。浄顕房はこの時の兄弟子に当たる。報恩抄の先の御文に「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします」(0324:01)と記されているように、大聖人は入門当初、浄顕房・義浄房の二人から仏典を中心とした読み書きなどの基本的な勉学の手ほどきを受けられた。

16歳で出家得度されるや、大聖人はまず鎌倉で約4年間、ついで京・奈良で10余年修学された。そして32歳になられて清澄山に戻られ、建長5年(1253)4月28日、立教開宗されたのである。この折り、激怒した地頭・東条景信の襲撃を避けるため、浄顕房は大聖人を義浄房とともに領外の西条花房・蓮華寺に道案内申し上げたのである。

その後、次第に大聖人の教えに傾き信心のうえで弟子になったことが、報恩抄の次の御文にうかがえる。

「勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし」(0324:01)

勤操僧正は平安末期の三論宗の僧であるが、延暦21年(0802)、高雄山寺で伝教大師と法論を行って論破されたという。行表応僧正は、伝教大師が出家した時の授戒の師である。

浄顕房は、身は清澄寺にあったものの、心は深く大聖人に帰依し、しばしば法義について指導を求めていた。ゆえに、初めに掲げたように御書十大部のうち、本尊論や三大秘法などの甚深な法門を展開された本抄と報恩抄の二書を賜り、本抄を与えられる2年前の建治2年(1276)7月には「御本尊図して進候」(0330:01)と、大聖人より御本尊を授与されているのである。

また佐渡流罪中の文永10年(1273)5月28日、義浄房に与えられた義浄房御書の冒頭には「御法門の事委しく承はり候い畢んぬ」(0892:01)と、義浄房が大聖人の法門のことで質問を寄せたことがうかがわれる。

大聖人が身延におられた建治2年(1276)清澄寺大衆事では「去年来らず如何定めて子細有らんか、抑参詣を企て候わば伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん、円智房の御弟子に 観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ」(0893:01)と、身延へ参詣する機会があれば、寺内の伊勢公から真言の論訳を借用してくるよう依頼され、また摩訶止観や東春・輔正記などの天台宗の論釈や宗要などの借用も申し入れられている。これは、この前年の末に、真言僧の強仁との交渉があり、また真言僧が蜂起して法論・対決が行われるという風評があったため、万全を期して天台や真言の釈文や論釈を収集されていたのである。

これらの御文から、浄顕房と義浄房の二人は、佐渡の大聖人と御手紙を交わし、身延後入山後も身延に参詣したり、清澄寺にある文献などを大聖人にお貸しするなどの便宜をお計らい申し上げていたことが明らかである。

さらに、大聖人と義浄房のつながりについて忘れられないのは、建治2年(1276)3月に道善房が死去した際に、義浄房が果たした役割であろう。

大聖人は報恩抄送分で「自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」(0330:04)と、人目には頓世のように見られている身で、身延を下りることも出来ない心情を述べられながら「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては 此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ」(0330:09)と報恩抄を弟子の民部日向を読み手として嵩が森の頂上と道善房の墓前で読むよう浄顕房と義浄房に師示されている。

これに対し、義浄房らは大聖人の御指示通りに報恩抄を読誦し、道善房を回向しており、これを大聖人は大変喜ばれて、道善房死去から2年後の弘安元年4月に著された華果成就御書では「さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」(0900:01)と述べられている。ここに「二札」と仰せられているのは報恩抄上下二巻を指している。

道善房死去の後は、報恩抄送文の宛名で大聖人が義浄房を「清澄御房」と称されていることから、清澄寺において中心的立場に就いたものと推定される。また別当御坊御返事には清澄寺の住僧と思われる聖密房への文を「よりあいて.きかせ給い候へ」(0901:01)と依り合って聴聞なされるがよいと師事されていることから別当御坊とは清澄寺の住職を指するものと思われ、この御抄が浄顕房に与えられたとすると、浄顕房は清澄寺の別当であったとする説も生まれてくるのである。

 

四、御述作の由来

先に述べたように、本抄が著される2年前の建治2年(1276)7月、日蓮大聖人は故・道善房の追善供養のために報恩抄を著され、義浄房と浄顕房に送られた。それとともに、浄顕房に御本尊を授与されている。

本尊問答抄では、その冒頭に「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(0365:01)と仰せられているように、御本尊に関する浄顕房の質問に対し、大聖人がお答えになる意味で書かれたものと推定されるが、その質問の背景には、報恩抄の内容と深くかかわっている。

すなわち同抄において正像末の三大秘法を明かされるなかで、本門の本尊について「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328:15)と御教示されている。

この御文について他門流においては「本尊とすべし」と仰せられた「本門の教主釈尊」と、「脇士となるべし」とされた「所謂宝搭の内の釈迦」との関係について迷い、誤った解釈に陥ってきた。これは、「教主釈尊」といえば、文上の釈尊としか解しえないことからくる迷いにほかならない。

したがって、義浄房にとっても、この報恩抄の御指南と、授与された御本尊の相貌について当然、疑問を抱いたであろうと思われる。

すなわち、義浄房の義文は、

①報恩抄に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と記されているのに、なぜ御本尊の中心は釈尊ではなく「南無妙法蓮華経」と認められているのか。

②なぜ「本門の教主釈尊」とは別に脇士たる「宝塔の内の釈迦」がいるのか、

の二点に集約されよう。

古来、本尊といえば、木像や画像が一般的で、仏=人を本尊として拝するのが通念であった。この点において、浄顕房もおそらく例外ではなく、南無妙法蓮華経=法を本尊とした御本尊はその本尊観からは捉え切れぬ対象であったろう。南無妙法蓮華経も法華経二十八品の題号として、またたんに修行として唱える題目という理解はあったものの、三大秘法の南無妙法蓮華経という理解はなかったものと推察される。

本門の教主釈尊についても「人=釈尊」の観点で認識し「本門の教主釈尊=南無妙法蓮華経」という人法一箇の甚深の意義を理解するには至らなかったと思われる。このように本抄は、浄顕房のこれらの疑問に答えることを第一の目的としていたと拝される。

しかしながら、本抄御述作の動機を上の浄顕房の疑義への回答として、すなわち御本尊を教理上から説明された御書と捉えるだけでは、後半部分の御文を十分に拝することができない。すなわち本抄が真言密経への厳しい批判をもう一つの主題としていることを見逃してはなるまい。

文永11年(1274)に来襲・敗退した蒙古は、再び日本侵攻の機会をうかがっていた。その強い危機感に、日本では朝廷も幕府も挙げ、真言師による敵国調伏の祈禱を盛んに行っていた。本抄では史実などを現証として挙げ、真言が亡国の邪法であることを指摘している。

 

本抄の元意と構成

 

一、本抄の大意

本抄の大意と構成に述べるにあたって、まず本抄の大意を明らかにしておきたい。本抄は、報恩抄に述べられた本門の本尊に関する浄顕房の質問を機に著されたと考えられるが、内容は、そこにとどまらずさらに進んで、大聖人が御図顕される未曾有の大曼荼羅本尊を末法弘通を宣示されたものとなっており、大要次のような論旨で筆を進められている。

第一に、浄顕房の疑問に対して大聖人正意の本尊をまず法の辺から明かされている。

第二に、本尊の正しい意義を示されることによって、他宗の本尊を破折されている。

第三に、当時の日本仏教界の中心であった真言宗を破折されている。

第四に、大聖人の十宗破折・国主諌暁の事歴を述べられ、末法の法華経の行者であることを明かされている。

第五に、大聖人御本懐の本尊を建立の時を述べられ、その末法弘通を宣示されている。

以上が本抄の論師・大要であるが、以下、順に説明を加えたい。

第一に「法華経の題目を以て本尊とすべし」と法本尊を示されている。これは一往は、浄顕房の疑問への回答であるとともに、しかし再往は「法」を本尊とするのが、仏教本来のあり方であることを示されており、この観点から、当時、仏像をもって本尊としていた他宗、とりわけ真言宗を破折されているのである。

ところで、この「法本尊」は、本抄では「法華経の題目」として示されているが、それは末法の「人本尊」と深くかかわっていることを見逃してはならない。

本抄に「此れは法華経の教主を本尊とする法華経の正意にはあらず」と、まず文上の教主釈尊を本尊とすることは法華経の正意ではないことを示されたうえで、次に「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」と述べられ、「法華経の題目」たる妙法蓮華経こそ、釈迦・多宝ならびに十方の諸仏が本尊としたものであり、そしてそこに法華経の行者があると仰せられている。

つまり、初めの御文では、「法華経の教主」を本尊とすることの誤りを指摘され、法を本尊と立てることが法華経の正意であるとされている。これに対し、次の御文では、法華経の題目こそ一切の仏が本尊としたものであり、そこに法華経の行者の正意があると仰せられている。ここに、大聖人があえて「法華経の行者の正意」と仰せられているところに重要な示唆があると拝されるのである。

すなわち、「法華経の行者」とは、大聖人自身であることは明白であり、『法華経の教主』と区別されたうえで末法下種の教主を明かされるための伏線となっているものと拝察される。

したがって、法華経の題目を本尊とするのが法華経の行者の正意であるとの仰せは、法華経の行者こそ末法の一切衆生を成仏の大道に導く師であり人の本尊たることを含意されていると拝される。

第二に、末法の本尊を明かされるに際して大聖人は本抄で次のように論を進められている。

「本尊とは勝れたるを用うべし」

「能生を以て本尊とするなり」

まず、「本尊とは勝れたるを用うべし」とは「本尊」という言葉自体が根本として尊崇するものということであるから、より尊いものであるべきであるということである。

この意味で、最も尊いものとは「尊極の衆生」たる仏を生み出した当体、すなわちあらゆる仏がそれによって仏となった根源こそ至尊というべきである。そこから「能生を以て本尊とするなり」と、その釈尊を生み出した諸仏の能生の根源である法華経を本尊とすべきであることを示されているのである。

元来、経巻・法を中心とすべきであって、仏像等を用いてはならないことは釈尊・天台大師も明言した仏道修行上の根本原理であった。しかし、法それ自体を直接悟るということは凡夫にとっては至難のことである。このために釈尊自身、大乗経典では、大日・阿弥陀等の仏を方便として説いたのであった。

このことは天台大師等も踏襲し、悟りを目指す途上の修行を助ける方便として、阿弥陀仏や七仏・八菩薩等を用いたのであった。だが、成仏の根本はあくまで一念三千の観念観法を説いたのである。

つまり、仏を仏たらしめたのは、常に法であり、これを能生・所生の関係からいえば、仏は所生、法は能生である。この対比においては、法が勝れ仏が劣っている故に、能生の法をもって本尊とすべきであると御教示されているのである。

第三の真言破折は、本抄のほとんど全体が、このことで貫かれているといっても過言ではない。ここに、大聖人御本懐の本尊を建立されるにあたって、真言宗の破折がいかに大きな意味をもっていたかをうかがうことができよう。

大聖人は、とくに佐渡流罪以降、諸御書で真言宗を破折されており、本抄御述作の頃には内容的にはほとんど尽くされている。本抄の眼目は末法において立てるべき本尊の正しい意義を明かすことであり、本尊の義における比較相対、とくに、本門の本尊を宣示される前提として、大日法身如来を本尊と立てる真言宗の邪義を破折されているのである。

第四は、法華経題目の御本尊を顕し弘める人である大聖人御自身の事歴を述べられ、承久の変など真言亡国の現証を改めて取り上げられている。そして、それを通じて大聖人こそが末法の法華経の行者であり、即人本尊であることを明かされるのである。

これによって、宗旨建立以来の念仏・禅等、当時の日本の諸宗の破折が、実は、宗旨建立以前においてすでに、法華経の極意を体得された上での御振る舞いであったと拝することができるのである。

つまり、清澄寺修学時に「日本第一の智者となし給へ」(0888:09)との誓願をたてられ、その所願を満足されたうえでの破折であり、立正安国論での予言の的中は、その正しさの証拠となるものであった。

また、大聖人は諸宗破折、国主諌暁により、三類の強敵を招き寄せ、文永8年(1271)9月12日竜の口の頸の座で発迹顕本され、末法の御本仏の御内証を顕されたのである。

本抄では、以上のことを明かされるために、御自身の事歴を述べられたと拝察されるのである。

最後に第五として、未曾有の大法であるが故に、能弘の人も未曾有の人であることを説き終えられ、その未曾有の大法たる御本尊を建立すべき時を示されている。

すなわち「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と。

ところで、本抄御述作の弘安元年(1278)は、大聖人の御算定によると仏滅後2227年に当たっている。このことは、例えば建治2年の報恩抄に「仏滅後・二千二百二十五年」(0328:18)と記され、弘安元年の妙法尼御前御返事には「仏・御入滅ありては既に二千二百二十七年なり」(1407:08)と仰せの通りである。

本抄では「世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と述べられている。

日寛上人は、大聖人が種々の御抄でとき弘安元年以後「仏滅後二千二百三十余年」と仰せられていることについて、次のように釈されている。

「問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く『今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し』等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。

すなわち日寛上人によれば、この「二千二百三十余年」との御標示は、仏滅年からの算定ではなく、釈尊の化導の究竟に当たる本門寿量品の説かれた時から算定されたものである。この算定について分段では、次のように述べられている。

「如来七十二歳より八年間の間に二十八品を説く。故に知らんぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御時、正しく寿量品を説くなり。而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御歳八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六・七・八・九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり」

このように、仏滅後より4年にさかのぼった寿量品説法時より起算した場合、弘安元年(1278)の時点において2227年に4年を加算して「2231年」となり、これにより「二千二百三十余年」と仰せになっていると結論されている。

そして、この寿量品起算の依文として、本抄の先の御文とともに、新尼御前御返事の一節を略して引かれている。

「今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いし」(0905:12)

この御文は、釈尊が法華経本門寿量品において、成仏の根源の法を説き顕し、神力品でこの法を地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱したことを明かされたものである。

本抄の「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間」との御文は、これらの日寛上人の御説明の正しさを的確に裏づけているといえよう。

 

二、大聖人の正意

本抄の元意は、大聖人御図顕の大曼荼羅御本尊こそ、末法の一切衆生が帰依信仰すべき本尊であることを宣示されることにあったと拝される。

いうまでもなく、日蓮大聖人末法御出現の目的は、一切衆生を成仏させることにあり、その根源として三大秘法の南無妙法蓮華経を建立された。

この三大秘法については、大聖人の全御書中においても、わずかに数遍において言及されているだけであり、しかも、そのほとんどは名目のみを記されているにすぎない。

三秘すべてについて内容を示されているのは、御入滅の年である弘安5年(1283)の御述作とされる三大秘法禀承事のみで、しかもその末尾に「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」(1023:11)と厳秘するように訓戒されている。

このことからも、三大秘法が、大聖人御一代の御化導にあって、いかに大事中の大事の法門であるかが拝されるのである。

しかし、本抄を与えられた浄顕房に対しては、建治2年(1276)の報恩抄において、三大秘法の一端をすでに御教示されている。

「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328:15)

また、これより3年前の文永10年(1273)5月の義浄房御書には、次のように仰せである。「日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し」(0892:08)

三大秘法のそれぞれの名目は翌文永11年(1274)正月の法華経行者逢難事で「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」(0965:02)との表現が初めて明かされている。

正式に三大秘法の名目が明示されるのは、身延に入山された直後の法華取要抄が最初である。

ともあれ、報恩抄、義浄房御書に、大聖人一期の大事の法門たる三大秘法に言及されたことからも、清澄寺にあった大聖人有縁の人々、とりわけ浄顕房・義浄房に対する大聖人の深い思いを拝することができよう。

大聖人門下の有力者であり、数々の重書を賜った富木常忍や四条金吾といった人々でさえも、こと「本尊」や「末法の御本仏」という大聖人の御内証にかかわる甚深の法門については必ずしも正確に理解していたわけではなかった。

例えば、富木常忍は、法本尊開顕の書である観心本尊抄という重書を与えられ、その中で末法の御本尊の相貌を拝しているはずであり、そのうえ当時すでに大聖人が、御本尊を顕された弟子門下に授与されている時期であったにもかかわらず、弘安2年(1279)の時点において、大聖人に次のような質問をしている。

「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと」(0987:03)

つまり、末法においては、本門の教主と本化の四菩薩が造立されるべきであるとし、かねて聴聞しているが、その造立の時はいつかとの質問なのである。

しかし、これは当時の一般門下のみの問題ではなく、大聖人御入滅後、日興上人以下の五老僧も、同じ程度でしかなかった。

「一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く」(1605:16)

この御文は、大聖人滅後の五老僧について日興上人が記されたものであり、御本尊の義に関する五郎僧の迷妄を如実に示すものであるといえよう。

これに対して次下で日興上人は「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606:02)と明確に大聖人の正意の本尊について述べられている。本抄は、この日興上人の正しさを裏づけるものとなっているのである。

三大秘法抄に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(1023:05)と仰せられている。

これは、大聖人の内証にかかわる難信難解の法門であり、それゆえに当時の弟子門下といえども、容易には明かされなかったのであり、日興上人のみが、五人所破抄において「日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」(1611:07)と述べられているように、大聖人御内証の境地を正しく理解されたのであり、ゆえに日蓮大聖人の本懐の法門は、ただ一人日興上人に相伝されたのであった。その相伝の正流は、今日創価学会にのみ伝わっているのである。

しかして、日蓮大聖人が打ち立てられた末法の大白法は、弘安2年(1279)10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊に尽きるのであり、大聖人自ら「出世の本懐」であると仰せられたのがこの大御本尊である。

「此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189:03)

大聖人は、竜の口の法難以後、南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊を顕されたが、これらの御本尊は、「一機一縁」の御本尊と呼ばれるように、個々の門下に授与されたものであり、いまだ末法の一切衆生のためにその信仰の対象として顕されたものではなかった。弘安2年(1279)の大御本尊こそ、末法の一切衆生のために顕された御本尊なのである。

本抄は、大聖人御図顕の大曼荼羅御本尊こそが末法の御本尊であることを元意として示しており、日興上人が大聖人の数ある御書の中で十大部の一つに挙げられた所以もそこにあると拝せられる。同抄によって、先にのべたような当時の門下の本尊に対する迷いを打ち破られ、さらに、一切衆生が正しく大聖人の仏法を拝し信仰していける法門を示されたのである。

大聖人御入滅後、日蓮宗と称して大聖人の御名を宗名とする宗派が数多く出現したが、これらはいずれも五老僧の誤った法門の理解を根本とし、釈尊を本尊としてきた。

本抄は、大聖人の正意を明らかにされた御書であり、その意味で本抄を正しく拝するならば、彼ら諸宗の誤りがいかに大きいか、そして、大聖人の正流がいずこにあるか明々白々となる。

 

三、本抄の内容との関連

次に、本抄の元意を述べるにあたって以下の項目に分けて論述したい。

一、法華経の題目について

二、報恩抄の御文との関連

三、真言破折との関連

 

1、法華経の題目について

日蓮大聖人は、本抄は末法においては「法華経の題目」を本尊とすべきであると御教示されている。ここでは諸御抄でも述べられている「法華経の題目」の深意について拝しておきたい。

まず弘安2年(1279)の曾谷殿御返事には、次のように仰せである。

「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり、愚癡の者を智者とすること是より始まれり」(1060:07)

ここに、法華経の題目が一切経の神・一切経の眼目であることは、諸御書にしめされているように、法華経の題目こそ一切経の肝心・肝要であり、一切経の極意が法華経の題目にあることを示されたものと拝される。

また本抄と深いつながりのある報恩抄では「疑つて云く二十八品の中に何か肝心ぞや、答えて云く或は云く品品皆事に随いて肝心なり、或は云く方便品・寿量品肝心なり、或は云く方便品肝心なり、或は云く寿量品肝心なり、或は云く開示悟入肝心なり、或は云く実相肝心なり。問うて云く汝が心如何答う南無妙法蓮華経肝心なり」(0325:04)と述べられ、法華経の28品それぞれに大事の法門があるが、法華経全体の肝心は南無妙法蓮華経にあることを明言されている。そして、次にその根拠を人師・論師の説を挙げて説明されている。

なかでも章安大師の「蓋し序王は経の玄意を序し玄意は文心を述す」との文は諸御書にしばしば共通して引かれているもので、大聖人はこれについて「『蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文心を述す』等云云、 此の釈に文心とは題目は法華経の心なり妙楽大師云く『一代の教法を収むること法華の文心より出ず』等云云」(0325:13)と仰せである。すなわち、この法華経の題目は、法華経28品の文でも義でもなく、心であると仰せられている。

また日寛上人は報恩抄文段で「『法華経の心』とは本因所証の妙法なり」と述べられている。ここに「本因所証」とは、久遠五百塵点劫に成道した釈尊が証得した法を「本果所証」というのに対して、久遠元初の自受用身如来が証得した法をいう。

本抄御述作の前年に当たる建治3年(1277)の四信五品抄でも、同じく章安大師の釈を引かれ「此の釈に文心とは題目は法華経の心なり」(0342:13)と、報恩抄と同趣旨のことを述べられている。

日寛上人は文底秘沈抄でこの御文を引かれて次のように仰せられている。

「文は即ち一部の始終、能詮の文字なり。義は即ち所詮、迹本二門の所以なり、意は則ち二門の所以皆文底に期す、故に文底下種の妙法を以て一部の意と名づくるなり」

つまり、文は法華経28品の経文そのものであり、義はそれによって示されている本迹二門の内容を指している。これに対して意とは文底下種の南無妙法蓮華経であるとの御教示である。

また、同じ建治3年(1277)の曾谷殿御返事においても「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候」(1059:01)と仰せになり、同じく章安大師の文を引かれている。

この御文はいずれも、弘安期に入って大聖人が御本懐の法門を明かされるにあたり、大聖人が弘められる法華経の題目の深意を示されているのである。

すなわち、大聖人が法華経の題目として示されているのは、たんなる法華経の題号と考えてはならないのである。ゆえに先の曾谷殿御返事では「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058:08)と仰せられている。

これは、文・義に対する意の重要性を示されたものであり、南無妙法蓮華経こそ根本の仏意であることを指摘されたものと拝される。

このように「文」「義」「意」の立て分けにおいて法華経の題目の深意を明かされているところに着目する時、大聖人の弘通される法華経の題目とは、「意の妙法蓮華経」であり、それはまさに法華経の肝要としての文底下種の南無妙法蓮華経である。

この文底下種の南無妙法蓮華経を、釈尊は法華経如来神力品第二十一において地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱したのである。

このことを大聖人は、御義口伝で「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(0770:第一妙法蓮華経如来神力の事:03)と仰せられている。

ここに、妙法蓮華経が、釈尊の妙法ではなく、上行菩薩所持の法であることは明らかであろう。つまり、下種の妙法は釈尊の所持ではなく、上行菩薩所持の法であり、上行再誕たる日蓮大聖人こそが末法にこの下種の妙法を所持・弘通されるのである。法華取要抄に「日蓮は広略を捨てて肝要を好む 所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(0366:08)と仰せられている所以である。

最後に、「法華経の題目」に人法一箇の義が含まれていることを日寛上人の御指南によって確認しておきたい。

すなわち日寛上人は取要抄文段で次のように御教示されている。

「問う、本尊問答抄の意は、末大悪世の凡夫は但法華経の題目を以て本尊と為すべし等云云、若し爾らば、蓮祖を造立し仍本尊と為すべきか、如何。

答う、『法華経の題目』とは本地甚深の奥蔵、即ちこれ蓮祖聖人の御事なり。その故は蓮祖大聖人、我が身は即ち法華経の題目なりと知しめし、久遠元初の自受用報身と顕れたまえり、故に知んぬ。法に即して人、人に即して法、人法本これ体一なることを。故に『法華経の題目』とは、またこれ蓮祖聖人の御事なり」

すなわち『法華経の題目』とは、附文の辺では法の本尊を指しているが、元意の辺では人法一箇の本尊を意味しているとの御指南である。

 

2、報恩抄の御文との関連

前にものべたように、本抄の内容のうえで深くかかわっているのが報恩抄の次の御文である。

「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328:15)

ここでは「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と仰せられているが、大聖人御図顕の御本尊における中央の首題は、南無妙法蓮華経と認められている。このゆえに浄顕房の疑問が生じたと考えられるのであり、また大聖人滅後における日蓮宗各宗の迷妄も、ここに発しているといっても過言ではない。

この点について日寛上人は、報恩抄文段で「教主釈尊」について多義があることを示されたうえで大要次のように述べられている。

①「本門の教主釈尊」とは標の文であり、人本尊を示されている。

②「所謂宝塔の内の釈迦多宝」等は釈の文であり、法本尊を示されている。

③このように人本尊をまず標示され、法本尊をもってこれを釈だれているゆえに、「本門の教主釈尊」とは、人法体一の久遠元初の自受用報身・本因妙の教主釈尊を明示されたのである。

④すなわち、本因妙の教主釈尊の全体がそのまま一念三千の法の本尊であるがゆえに、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と仰せられているのである。

⑤もし色相荘厳の本門在世の教主釈尊をもって「本門の教主釈尊」と名づければ、すでに諸御抄で示されているように、人法の勝劣は明らかであり、劣っている人本尊を勝れている一念三千の法本尊をもって釈すことはありえない。

つまり報恩抄の御文は、人に約して本尊の体相を示しているのである。そして、法をもって人を釈されているとは、「所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」と明かされている法本尊の相がそのまま「教主釈尊」であるころを御教示されたものである。

一方、本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」の御文について日寛上人は、観心本尊抄文段で、要法寺日辰の邪義を破折されつつ次のように述べられている。

「当に知るべし、日辰所引の諸抄の意は、並びにこれ人法体一の本尊なり。人法体一なりと雖も、而も人法宛然なり、故に或は人即法の本尊に約し、或は法即人の本尊に約するなり、当文及び本尊問答抄、当抄の下の文の『本門の本尊』、佐渡抄の『本門の本尊』の文は並びにこれ人即法の本尊なり。三大秘法抄、報恩抄等は法即人の本尊なり」

すなわち、本抄の御文は、人法一箇の立場から、人即法の本尊を示されているのに対し、報恩抄の御文は、同じく人法一箇の深義のうえから、法即人の本尊を顕している。ゆえに、本尊問答抄の御文は表現のちがいがあっても、その御真意は人法一箇の本尊であるとの御教示である。

本抄で示された「法華経の題目」とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経であり、久遠元初の自受用身の当体がそのまま一念三千の南無妙法蓮華経であり、久遠元初の自受用身の当体がそのまま一念三千の南無妙法蓮華経であることを示されている。また報恩抄における「本門の教主釈尊」との仰せは、久遠元初自受用身の御事であり、事の一念三千が即自受用身であることを顕されたものである。

以上のことから、両抄における本尊の御教示は、その元意においてはいずれも大聖人御図顕の人法一箇の大曼荼羅を明かされたものと拝されるのである。

 

3、真言破折との関連

本抄は、真言破折に重点をおいておられる。本項では、このことを確認し、併せて本抄の真言破折の持つ意義に触れておきたい。

本抄の中心課題が、末法における本尊の本義を説かれることにあることはすでに述べた通りである。つまり、釈尊をはじめ、阿弥陀如来・大日如来等の一切の諸仏が本尊とした「法華経の題目」をこそ本尊として崇むべきなのである。

しかし、当時の日本にあっては、能生たる妙法を忘れ所生の存在たる仏菩薩を本尊としており、しかも、その仏に「神」を入れる儀式において大日仏眼の印と真言をもって開眼供養していたのである。これは法華経こそ能生の根源であるとの仏説を踏みにじった大謗法であり、本末転倒というほかない。

このことを大聖人は本抄で「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり」と仰せられているのである。

ここに、本抄における真言破折の元意は、大日如来を本尊とする義との相対を通して、法華経の題目即妙法を本尊とすべきことを明かすにあったことが拝せられるのである。

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