本尊問答抄(第十一段第一 承久の乱に敗れた三上皇が流罪に)

本尊問答抄(第十一段第一 承久の乱に敗れた三上皇が流罪に)

 弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房

———————————–(第十段第四から続く)——————————————-

抑人王八十二代・隠岐の法王と申す王有き去ぬる承久三年太歳辛巳五月十五日伊賀太郎判官光末を打捕まします鎌倉の義時をうち給はむとての門出なり、やがて五畿七道の兵を召して相州鎌倉の権の太夫義時を打ち給はんとし給うところに還りて義時にまけ給いぬ、結句・我が身は隠岐の国にながされ太子二人は佐渡の国・阿波の国にながされ給う公卿七人は忽に頚をはねられてき、これはいかにとしてまけ給いけるぞ国王の身として民の如くなる義時を打ち給はんは鷹の雉をとり猫の鼠を食むにてこそあるべけれこれは猫のねずみにくらはれ鷹の雉にとられたるやうなり、

 ——————————–(第十一段第二に続く)———————————————

 

現代語訳

さて八十二代の天皇に隠岐の法王という天皇がおられた。去る承久三年五月十五日に、伊賀太郎判官光末を打ちとられた。鎌倉の北条義時征伐に向けての門出であった。やがて五畿七道の兵士を集め、相模国鎌倉の権太夫・義時を討とうとされたが、逆に義時に敗れてしまわれた。その結果、自身は隠岐の国に流され、太子二人は佐渡の国と阿波の国へ流罪に処せられた。また公卿七人は即座に首をはねられてしまった。

どうして朝廷側は負けてしまったのか。国王の身として民のような義時を討つのは、鷹が雉を捕り、猫の鼠を捕らえるようなものであるはずなのに、この戦いは猫が鼠に食われ鷹が雉に捕らえられたようなものである。

 

講義

真言亡国の現証として承久の乱の史実を挙げれているところである。

初めに、乱の発端となった伊賀光季の誅殺から筆を起こされている。

承久3年(1221514日、後鳥羽上皇は、京都守護として派遣された伊賀光季と大江親近の二人に上皇軍に加わるように強制した。親広はこれに応じたが、光季は頑として拒んだため、翌15日、上皇は光季を攻めて誅殺するとともに、直ちに義時追討の院宣を五畿七道の諸国に下したのであった。

しかしわずか1ヵ月後の615日には泰時・時房らの鎌倉軍が京都に攻め上り、瀬田・宇治の防衛線を突破して、一気に占領した。

幕府は、後鳥羽上皇を隠岐、順徳天皇を佐渡、土御門上皇を土佐・阿波へと、それぞれ流罪に処したほか、首謀者である院の近臣・重臣を捕らえた。吾妻鏡や承久記の史料によると、乱の首謀者として捕らえられた公卿は、前権中納言藤原光親・同源有雅・同藤原宗行・参議藤原範茂・権大納言藤原忠信・参議藤原信能の六人である。

なお、大聖人は「公卿七人」と仰せられ、また祈禱抄にも「殿上人七人誅殺せられ畢んぬ」(1354:03)とあるが、安房院日講の録内啓蒙によれば、残る一人は同じく誅殺されることになっていた大藍物源光行であり、また、中務省に属する官職である大藍物は、官位からいえば従五位下であり、公卿ではないが、一括して言われたものであるという。

更に禄内啓蒙では、実際にこれら七人のうち斬殺されたのは五人で、藤原忠信は死刑を免れて越後に流され、源光行は嫡男の源民部大夫親行の嘆願により死罪を免れている。にもかかわらず本抄で「公卿七人は忽ちに頸をはねられてき」とおおせられたのは、一旦は死刑と定められたからであると解釈している。

いずれにしても上皇の流罪、天皇の廃位は日本史上前代未聞の出来事であり、国主たる身でありながら、何故に民の義時に敗北せざるを得なかったかを次に究明されるのである。

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