上野殿御返事(法華経難信の事)

 蹲鴟一俵、給び了わんぬ。またこうぬしのもとに候御乳塩一疋、ならびに口付き一人候。
 さては故五郎殿のことは、そのなげきふりずとおもえども、御げんざんははるかなるようにこそおぼえ候え。
 なおもなおも法華経をあだむことはたえつとも見え候わねば、これよりのちもいかなることか候わんずらめども、いままでこらえさせ給えること、まことしからず候。
 仏説いてのたまわく「火に入ってやけぬ者はありとも、大水に入ってぬれぬものはありとも、大山は空へとぶとも、大海は天へあがるとも、末代悪世に入れば、須臾の間も法華経は信じがたきことにて候ぞ」。
 徽宗皇帝は漢土の主。蒙古国にからめとられさせ給いぬ。隠岐法皇は日本国のあるじ。右京権大夫殿にせめられさせ給いて、島にてはてさせ給いぬ。
 法華経のゆえにてだにもあるならば、即身に仏にもならせ給いなん。わずかのことには身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆえにあやしのとがにあたらんとおもう人は候わぬぞ。身にて心みさせ給い候いぬらん。とうとし、とうとし。恐々謹言。
  弘安四年三月十八日    日蓮 花押
 上野殿御返事

 

現代語訳

里芋一俵をいただいた。

また神主のもとにいる御乳塩一匹ならびに口付き一人がいる。さて故五郎殿のことは、その嘆きは薄れないとは思うけれども、御見参は遠い昔のことのように感じられる。なおも、法華経をあだむことは絶えたとも思えないので、これからのちも何事かあるであろうけれども、いままで堪えてこられたことは本当とは思えないほどである。仏が説いて言われるには「火に入って焼けない者はあっても、大水に入って濡れない者はあっても、大山は空へ飛んでも、大海は天に上がっても、末代悪世に入ったときは少しの間であっても法華経は信じがたいことなのである」と。

徽宗皇帝は中国の君主であったが、蒙古国に捕らえられてしまった。隠岐の法皇は日本国の君主であったが、右京権大夫の北条義時に攻められて島で亡くなられた。法華経のゆえでさえあったならば即身に成仏されたことであろう。些細なことには身を破り命を捨てるけれども、法華経のゆえに不当な罪科にあおうと思う人はいないものだ。あなたは、これを身で試みられたのであろう。尊いことである。尊いことである。恐恐謹言。

弘安四年三月十八日         日 蓮  花 押

上野殿御返事

 

語句の解説

蹲鴟

「そんし」とも読む。里芋の塊茎のこと。いもがしら。いものかしら等とも呼ばれる。蹲はうずくまる、鴟はトビで、芋の形が鳥のうずくまった姿に似ているところからこの字があてられた。

 

かうぬし

神主のこと。ここでいわれている神主は法華経の信仰に帰依していた浅間神社の祠官のことと思われる。「上野殿御返事」には、妙法に帰依したため圧迫を受けていた神主を南条家が保護していたことが述べられており、この神主は浅間神社の分社である熱原の新福地神社の神主とされるが、同一人であろう。

 

乳塩

馬の毛色のことをいわれたものと思われるが、明らかではない。「千入」の音をとったものとする説によると、深紅の毛なみの馬と考えられている。千入は何度も染める意で、濃く染まった色や物をいう。また、乳と塩の色の意として、白色の馬とも考えられる。

 

口付

「くちつき」と読み、牛や馬などの口につけた縄を持って引くこと。また、その人。口引。

 

徽宗皇帝

10821135)。中国・北宋第八代皇帝。姓は趙、名は佶。第六代皇帝・神宗の子。元符3年(1100)帝位についたが政治に関心が薄く、院体画に才を示すなど文化面での才能を発揮した。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると民衆に重税を課して豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなった。道教を保護し、宣和元年(1119)、詔を下して仏を大覚仙金、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称を用いるとした。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。後年、女真族の建てた金国と紛争を起こし、攻撃を受けることとなった。徽宗は位を皇太子の欽宗に譲り、自ら教主道君皇帝と名のった。のちまもなく国都の開封は陥落し、靖康2年(1127)欽宗と共に金国の捕虜となって北宋は絶えた。本文で「蒙古国に・からめとられさせ給いぬ」とあるが、この蒙古国とは金国のことと思われる。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

蒙古国

13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(12681月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。

 

隠岐の法皇

11801239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の争い、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚・坊門信清の女を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。

 

右京の権太夫殿

北条義時のこと。(11631224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。

 

講義

本抄は弘安4年(1281318日、日蓮大聖人が聖寿60歳の御時、身延から南条時光に与えられた御手紙である。御真筆は現存しないが、日興上人の写本が大石寺に所蔵されている。

本抄は、冒頭、里芋の御供養への礼を述べられ、神主のもとにいる馬のこと、またちょうど半年たつ故五郎の逝去のこと等を述べられている。おそらく時光からの手紙への御返事でいわれたものと考えられるが、その内容は十分には分からない。次に仏法のための難を時光が耐えてきたことを称えられ、仏法以外のことで苦難を味わった。

本抄では徽宗皇帝と後鳥羽上皇の例を挙げて、これらの人も法華経のゆえの苦難であったならば成仏していたであろうと言われて、時光が身をもって法のため難を忍んでいることの尊さを称えられている。

次に、時光の弟・故五郎が逝去して、ちょうど半年であるが、「悲しみがうすらぐことはないとは思うが、お会いしたのは、ずいぶん遠い昔のように思われる」と仰せである。

また、時光が法華経の信心を実践したことによって起きた障魔に対して、これまで、実によく耐え忍んできた、これは本当のこととは思えないと、時光の深い信心を称賛されている。しかし、それにしても、難はまだまだ終わるとは思えない、これからもどんなことが起こるか分からない、と仰せられ、なお一層の強盛な信心を促されている。

仏説には、末法悪世においては少しの間でも法華経の信仰を持続することは難しいとある、と述べられているのは、これまでの持続を称え、これからの信心を励まされて言われたと拝される。大山が空を飛び、大海が天に舞い上がることは信じられても、法華経だけは信じ難いというのである。このような末法に、南条時光がだれも信じようとしない法華経を信受し、しかも法のために難を忍んでいるということは、偉大なことであるとの仰せである。

次に、中国の徽宗皇帝、日本の隠岐の法王等が無残な最期を遂げた例を挙げられ、しかしながら、これらは法華経のためではないので、即身成仏できないといわれている。このことは逆にいえば、時光がこれまでに遭った難、また、これからも遭うかもしれない難は法華経のゆえであるから、必ず成仏の因となるということである。

これらの例から、次に、人間は「わづかの事」すなわち、名聞名利や愚かな感情等のためには、身を破滅させ、命を捨ててしまうが、法華経のために苦難に進んで当たろうとする人はいない、と述べられている。この御文は、佐渡御書の「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(0956:11)の仰せと同意と拝される。したがって、本抄の「わづかの事」とは「世間の浅き事」にあたり、仏法のことではなく、世間法上の問題をさしていわれているのである。世間の事のために身命を捨てても、もちろん、その内容によっては、世間的な名誉は得られようし、善事であれば、それなりの善業にはなるが、成仏という大利益は得られない。

「大事の仏法」「法華経」すなわち、末法においては三大秘法の仏法のために身命をなげうってこそ即身成仏の大功徳が得られるのである。

最後に「身にて心みさせ給い候いぬらん、たうとし・たうとし」と仰せられているのは、時光が大きな苦難を乗り越えてきたことを称えられているのである。

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