八幡宮造営事 第三章(兄弟のとるべき態度を指南)
弘安4年(ʼ81)5月26日 60歳 池上宗仲・池上宗長
其の故は去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり風は是れ天地の使なりまつり事あらければ風あらしと申すは是なり、又今年四月廿八日を迎えて此の風ふき来る、而るに四月廿六日は八幡のむね上と承はる、三日の内の大風は疑なかるべし、蒙古の使者の貴辺が八幡宮を造りて此の風ふきたらむに人わらひさたせざるべしや。
返す返す穏便にして・あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をも・ぐせず・よき馬にものらず、のこぎりかなづち手にもちこしにつけて・つねにえめるすがたにておわすべし、此の事一事もたがへさせ給うならば今生には身をほろぼし後生には悪道に堕ち給うべし、返す返す法華経うらみさせ給う事なかれ、恐恐。
五月廿六日 在 御 判
大夫志殿
兵衛志殿
現代語訳
その故は、去る文永11年4月12日に大風が吹いたが、これは、その年に他国(蒙古国)より攻めてくるべき前兆であった。風はこれ天地の使いであり、国の政治が粗雑ならば、暴風が吹くというのはこのことです。また今年4月28日を迎えてこの大風が吹きあれた。しかるに、4月26日は八幡宮の棟上げであったとうかがっている。3日の内に大風が吹いたことは疑いのないことである。もし蒙古の使者であるかのようにいわれているあなたが、八幡宮を造って、この大風が吹いたのであったならば、世人は笑い、また必ずとやかく言ったであろう。
かえすがえすも、今は穏やかな態度をして、造営の工事をはずされたことをあだんで、うらむような様子もなく、身なりも目だたないようにし、召使いなどもつれず、よい馬にも乗らないで、のこぎり、かなづちを手にもち腰につけて、常ににこやかな姿をしていなさい。もし、この事を一事でもたがえられるならば、今生には身を亡ぼし、未来世は悪道に堕ちるでしょう。かえすがえすも申しあげておきますが、わずかのことで法華経(御本尊)をうらんではなりません。恐恐。
五月廿六日 在 御 判
大 夫 志 殿
兵 衛 志 殿
講義
去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり
文永11年(1274)年4月12日に吹き荒れた大風は、その年の10月に、蒙古軍が攻め寄せてきたことの前兆であると仰せられたのである。日蓮大聖人は立正安国論をもって、第一回の国主諫暁をされて以来、一貫して、大聖人の言を用いなかったならば、必ず自界叛逆難と他国侵逼難が、起こるであろうと予言されてきた。
文永8年(1271)9月の第二回国主諫暁の時も、平の左衛門を相手に烈々たる気迫をもって、その非を責め、正法につかせようとされたのである。その後起こった文永11年(1274)4月の大風、同10月の蒙古の攻めは、いずれも、この第二回の国主諫暁のときに、厳然と大聖人が予言されていたものである。
報恩抄にいわく「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより若は諸人の悪口によって失にあつるならば、にはかに・いくさをこり又大風吹き他国よりせめらるべし等云云、去ぬる文永九年二月のどしいくさ同じき十一年の四月の大風同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮が・ゆへにあらずや、いわうや前よりこれを・かんがへたり誰の人か疑うべき」(0312:10)。
日蓮大聖人のご予言は全て的中した。大聖人は、それらの現証をもって、南無妙法蓮華経が、末法の唯一の正法であることを断定されたのである。大聖人の予言が、あまりに見事に的中する姿を見て、世間の人々は、大聖人は蒙古の国に通じた者ではないのかと疑った。「蒙古の使者の貴辺」云云は、池上兄弟も、大聖人の門下であるがゆえに、同じく蒙古の使いではないかとの、世間の人々の池上兄弟に対する気持ちを指摘されたのである。