同生同名御書
第一章 法華経の慈悲を示す
本文
大闇をば日輪やぶる。女人の心は大闇のごとし、法華経は日輪のごとし。幼子は母をしらず、母は幼子をわすれず。釈迦仏は母のごとし、女人は幼子のごとし。二人たがいに思えば、すべてはなれず。一人は思えども一人思わざれば、あるときはあい、あるときはあわず。仏はおもうもののごとし。女人はおもわざるもののごとし。我ら仏をおもわば、いかでか釈迦仏見え給わざるべき。
石を珠といえども珠とならず、珠を石といえども石とならず。権経の当世の念仏等は石のごとし。念仏は法華経ぞと申すとも、法華経等にあらず。また、法華経をそしるとも、珠の石とならざるがごとし。
現代語訳
この文は藤四郎殿の夫人と、常に寄り合って御覧なさい。
大闇を太陽の光はやぶる。女の人の心は大闇のようなものであり、法華経はその闇をやぶる太陽の光のようなものである。幼子は母親のことを知らなくても、母親は幼子を片時も忘れることはない。釈迦仏はたとえてみれば幼子を忘れない母のようであり、女の人の心は幼子のようである。母子双方でお互いに思いあえば決して離れることはないが、一方だけ思っても、片方が相手を思わなければ、あるときはあっても、あるときはあわないこともある。仏は常に相手のことを思っている者にたとえられるが、女の人は少しも相手を思わない者と同じである。われわれが一心に仏を思うならば、どうして仏がわれわれの前にあらわれないことがあろうか。
石をいくら宝石だといっても宝石とはならない。反対に、宝石を石だといっても宝石が石になることはない。それと同じに権経を根本とする今の念仏の教え等は石ころのようなものである。いかに念仏の教えを法華経であるといっても、それは法華経ではない。また法華経をいくら謗っても、宝石が石にならないように、法華経の偉大さは少しも損ずることはない。
語釈
藤四郎殿の女房
藤四郎という人物については不明であるが、この御文から拝すれば、おそらく鎌倉に在住し、その妻と四条金吾の妻とは、ごく親しい関係にあったと考えられる。なお、3年後の建治元年(1275)に南条時光の母に与えられたといわれる単衣抄(1515)にも「此の文は藤四郎殿女房と常により合いて御覧あるべく候」との御文があり、南条家とも親交があったと思われる。
権経
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。一般に浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
講義
文永9年(1274)4月、四条金吾は鎌倉から遠くへだてた距離をものともせずに、佐渡一の谷におられる大聖人のもとを訪れた。その時四条金吾に託して夫人に送られたのがこのお手紙である。
夫婦が心を合わせて強盛な信心をつづけ、またはるばるこの佐渡の地まで夫を遣わされた夫人の志は、大地よりも厚く、虚空よりも高い。したがって、その功徳は必ず仏に通ずることを述べて、さらに不退の信仰を勧められている。
四条金吾は北条氏の支族である江馬氏に仕える武士である。そうした立場で大聖人が鎌倉に止住するときはもちろんのこと、佐渡ご流罪中も、大聖人のもとへ、お金や米や油などの品々を御供養し、四条金吾自身も佐渡に赴いているのは並み大抵のことではなかったに違いない。
夫・四条金吾の信心の強さと純真さもさることながら、それを支えた夫人の信仰の厚さを忘れてはならない。この故に大聖人は佐渡まできた四条金吾に託して、夫人あてにお礼と激励の手紙を認められ、夫をはるばる佐渡の地まで送り出した夫人の信心を称賛されているのである。
冒頭でも、まず仲のよい藤四郎夫人と女性同士が力を合わせ、励まし合って信仰を深めるよう配慮され、女性の信心のあり方について述べられているのである。
すなわち、女性の心を闇にたとえ、法華経を日輪にたとえて、女性の心の闇を照すのは法華経であることを述べられている。さらに仏が衆生を思う慈悲を、母が子を思う姿にたとえ、衆生が仏を思う姿を、子が母を思うのにたとえて、双方が互いに思い合うことが大切であることを示されている。
此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候
同じく妙法を信仰する同志が、大聖人のお手紙を中心に、互いに励まし合い、研鑽し合って、共々に成長せよとの指導が、この短い御文に含まれている。
夫と妻が力を合わせていくことは当然のこととして、妻同志が有情の絆に結ばれ、互いに励まし合っていくことは、信心の成長にとって、欠かすことのできない条件である。夫人の信心の向上は、そのまま、夫である藤四郎の成長にもつながっていくことを、大聖人は見抜いておられたのであろう。
はるばる佐渡まで大聖人を訪ねてきた四条金吾を通して、その夫人を激励され、夫人と仲のよい藤四郎の夫人をも奮い立たせ、それをさらに通して藤四郎の成長をも期待されたのではないだろうか。こう考えると、このお手紙が最大限に効果を発揮する道を考えられた、大聖人の細かい配慮の一端がうかがわれるような気がしてならない。指導にあたっての、大事な原理が、この一事から学びとれるのではあるまいか。
なお、大聖人のお手紙を中心に、信徒が常に読み合い、励まし合って、信仰の向上を図っていく姿は、教学研鑽の、素朴ではあるが、最も基本的な原形であるといってよい。現在も、未来も、この精神は永久に変わらないし、また変わってもならないであろう。
大闇をば日輪やぶる。女人の心は大闇のごとし。法華経は日輪のごとし
法華経が説かれる以前、すなわち爾前経においては、女性は「外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」と嫌われ、女人は不成仏とされてきた。法華経においては、竜女の成仏、耶輸陀羅比丘尼等の授記が説かれ、一切女人の成仏が明かされたのである。ゆえに、女性にとって、法華経は唯一の成仏得道の依経として尊ばれ、わが国においても、奈良朝のころ、全国に「金光明四天王護国之寺」として国分寺が造立されると共に、女性のために「法華滅罪之寺」として国分尼寺が建てられたのであった。
いわんや、末法においては、法華経文底独一本門の、三大秘法の南無妙法蓮華経以外に女人成仏の法はない。ここに日輪にたとえられた「法華経」とは、日蓮大聖人が建立される三大秘法の大白法であることは、論をまたないところであろう。
では、なぜ、女人の心を大闇にたとえられたのであろう。邪見熾盛にして三毒強盛の末法の衆生の心は、総じて闇のようなものである。女性の場合、とくにその闇の深いことをさして、大闇といわれたのであろうが、なぜ、女性はとくにその心の闇が深いのか。
これには、女性の特質という問題を考えなければならない。女性はとくに保身の性向が強い。それが反面では、忍耐強さ、平和と安全を望む性格ともなっているのであるが、現実生活での安泰に執着することになる。ところが、仏道修行は、釈迦仏法にとくに顕著なのであるが、出家という形式に象徴されるように、現世の欲望をこえた、永遠の幸福と不動の自己完成を目指すところから出発する。女性の現実的なものへの執着は、この仏道の探求にとって大きな障りとなったのである。
法華経そして大聖人の仏法は「現世安穏・後生善処」と説き、この現実が娑婆即寂光と開ける原理であるから、現世執着の煩悩も、そのまま包含して、仏法の悟りの境地に昇華することができる。つまり、現実社会の中で、現実の幸せを願って妙法に祈ったことが、現実の願いも叶い、秘妙方便で、即、未来永遠への福運となり、自身の自己完成ともなっていくのである。ここに法華経の哲理によって、はじめて、女人成仏の道が開けたといわれるゆえんの一端がある。
しかしながら、現実的なものに執する女性の特質は、いつまでもそのままでよいということではない。仏法の教える、常住の幸福観に目覚め、大目的へと視野が開かれていかなければならない。その自覚がなければ、信仰の途上に起こってくる難にあったとき、結局、わが身を守るため、家庭を守るためという目先の小目的にとらわれて盲目となり、仏法を捨てたあげくは、自身も一家も滅ぼしてしまうのである。大目的に目覚めて、その理想に生きたとき、現実の幸福等も、盤石の強みをもって樹立することができるのである。
我等仏ををもはば、いかでか釈迦仏見え給はざるべき
法華経如来寿量品第十六にいわく「我常在此娑婆世界説法教化」と。仏は常に、この娑婆世界にあって、衆生のために説法教化する、というのである。その仏をわが心眼で見ることができるかどうかは、仏を信ずる一念の姿勢によるということである。
末法において、この仏とは、日蓮大聖人であり御本尊である。信心なき人にとっては、御本尊は、ただの文字としか映らないであろう。だが、信心をもって拝すれば、御本尊は即久遠元初の自受用報身如来であり、御本仏日蓮大聖人なのである。
また、いかなる所にあろうと、御本尊への強い信心に立脚した人は、常に御本尊に厳然と守られ、自在無礙の人生を楽しむことができる原理ともいえる。
第二章 古の賢者に較べられる
本文
昔唐国に徽宗皇帝と申せし悪王あり、道士と申すものにすかされて仏像・経巻をうしなひ僧尼を皆還俗せしめしに一人として還俗せざるものなかりき、其の中に法道三蔵と申せし人こそ勅宣をおそれずして面にかなやきを・やかれて江南と申せし処へ流されて候いしか、今の世の禅宗と申す道士の法門のやうなる悪法を御信用ある世に生れて、日蓮が大難に値うことは法道に似たり、
現代語訳
昔、中国の宋の時代に徽宗皇帝という悪王がいた。この王は道士というものにそそのかされて、仏像を破壊し、経巻を焼き捨て、僧や尼を還俗させたのであるが、一人としてこれに反対して還俗しないものはなかった。そのなかで、法道三蔵という人はひとり勅命を恐れずにその誤りを批判したので、顔に火印を押されて江南の地へ流されたのである。現在の禅宗という、道士の法門にも似た悪法を幕府が信用されている世に生まれて、日蓮が大難に値うことは法道三蔵の身のうえとよく似ている。
語釈
唐国
中国をさして呼んだ名称。「もろこし」は「諸越」の訓読で、昔、中国浙江省あたりに越の国があり、日本との交渉が盛んであったことによるといわれる。
徽宗皇帝
(1082~1135)。中国北宋の八代皇帝。姓は趙、名は佶。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると蔡京父子を重用し、民衆に重税を課した。そして豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなってしまった。王は道士に傾倒して、仏教を弾圧し、道教を庇護した。政治的には新興の金と同盟し、遼を攻めたが敗れ、逆に金に侵略され、その結果、欽宗と共に金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
還俗
出家した者が再び俗人にかえること。
法道三蔵
宋の徽宗皇帝の時の高僧。宣和元年(1119)、帝が詔を下して仏僧の称号を改めようとしたときに、法道は上書してこれを諌めた。これを帝は怒って法道の顔に火印を押し、江南の道州に放逐した。なお、法道はその後、同7年(1125)に許されて帰った。仏祖統紀巻第五十四による。
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
かなやき
鉄の焼き印。
江南
中国の揚子江以南の地域をいう。
今の世の禅宗
中国の禅宗の始祖は達磨。日本には鎌倉時代の初めに、大日能忍があらわれ禅を興した。その後あらわれた栄西は北条政子の庇護を受けて寿福寺の開基となり、建仁年中に鎌倉一帯に勢力を張った。この栄西のあと、弁円があらわれ、初めは京都地方に根を張り、建長6年(1254)には鎌倉に到り、寿福寺に住して、北条時頼の力を借りてさらに勢力を拡大した。これと前後して宋僧の蘭溪道隆が来朝し鎌倉に入った。道隆もまた時頼の庇護を受け建長寺の開基となる。これらは臨済禅と呼ばれるものであるが、幕府権力と結びつき、権力をかさにきて名利を得、民衆とくに武士階級に信者を獲得した。また道隆の来朝のやや以前に現われた道元は寛元2年(1244)、越前に大仏寺を開き、平易な教えで民衆の間に弘めた。
講義
本章では、中国・北宋の法道三蔵が仏法のために難を受けた例を挙げて、大聖人御自身の佐渡配流の難に比較されている。
法道三蔵の場合は、時の皇帝・徽宗が道士にそそのかされて仏教を弾圧し、そのなかで法道はただ一人、正義を訴えて抵抗したため、江南の地に流されたのである。大聖人の場合は、幕府為政者が禅宗に熱中し、やはりそうした邪法の僧等の讒言にそそのかされて、ただ一人、法華経の正義をかかげた日蓮大聖人を、佐渡の地に流した。
この二つの事件は、いくつかの共通する要素を含んでいる。
一つは、指導者が仏法ないし思想、宗教に対して無知な場合、よこしまな宗教、思想を説く者にだまされて、正しい思想、宗教を説く人を弾圧するという点である。
第二は、道教と禅宗との共通性である。確かに、この二つを較べると、禅宗は一応、仏教内に起こった邪法であり、道教は仏教外の外道であるという違いがある。だが、その本質をみれば、外道の道教といっても、仏教が中国に流布したのちの道教は、すでに大幅に仏教の教義を盗み入れている。また、一方、禅宗の方は、元来、天台のはじめた禅定の法を盗み取ってできあがったものだが、仏の教えの原典である経文を「月をさす指にすぎない」などといって、これを否定しており、むしろ、外道に近い本質をもっていたといえる。
しかも、禅宗は、現実をはなれて、静かな山林等で坐禅入定し、観念のなかに平安を求めようとする。これは道教の、仙人に象徴されるような超現実の境地を求めるのと、きわめて似かよったものがある。いずれも、現実を醜いものとして捨てて、高尚な理想に生きることを説きながら、実際は、自ら権力と結びついて、醜悪な売名に腐心したのである。
第三は、法道三蔵と日蓮大聖人の受難との共通性で、どちらも、ただ一人、正法を貫いたがゆえに、権力の弾圧を受けたのである。しかも、流罪という点は全く同じである。また、後に権力者側が無実を認めざるを得なくなり、許したということも共通する。
第四は、法道を弾圧した徽宗は、北蛮の金軍に攻められ、大聖人を迫害した北条幕府は蒙古の大軍に攻められ、仏法の因果の理法の厳然たる証拠を示していることである。
ともあれ、この段は、一国謗法の世に一人正義を貫くときには、必ず難を受けるのは道理であり、いま、大聖人が佐渡で配流の身となっているのも、もとより覚悟のうえであるとの意が込められていると拝せる。
第四章 同生同名の二神を述べる
本文
女人は・たとへば藤のごとし・をとこは松のごとし須臾も・はなれぬれば立ちあがる事なし。
はかばかしき下人もなきに・かかる乱れたる世に此のとのを・つかはされたる心ざし大地よりも・あつし地神定めてしりぬらん・虚空よりも・たかし梵天帝釈もしらせ給いぬらん、人の身には同生同名と申す二のつかひを天生るる時よりつけさせ給いて影の身に・したがふがごとく須臾も・はなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず・かはるがはる天にのぼて申し候と仏説き給う、此の事ははや天も・しろしめしぬらん、たのもしし・たのもしし。
四月 日 日蓮花押
四条金吾殿女房御返事
現代語訳
女の人は譬えていえば藤のようなものであり、男は松のようなものである。藤は少しの間も松を離れてしまえば立ちあがることはできない。それを頼りになる召使いもないのに、このような乱れた世に、この殿を佐渡の地まで遣わされたあなたの真心は大地よりも厚い。必ず地神も知っていることであろう。またその真心は虚空よりも高い。きっと梵天・帝釈も知られていることであろう。
人の身には同生同名という二人の使いを天はその人が生まれた時からつけられており、この二人の神は影が身に随うように、寸時も離れず、その人の大罪・小罪・大功徳.・小功徳を少しもおとすことなく、かわるがわる天に昇っていって報告していると仏は説かれている。したがってあなたが殿をよこされたことは、すでに天も知っていることであろう。実にたのもしいことである。
四月 日 日 蓮 花 押
四条金吾殿女房御返事
語釈
須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
地神
大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
同生同名
この同生天・同名天は、人が生まれたときから、つねに両肩にあって瞬時も離れず、その行動の善悪を記して天に報告し、その人を守護するので俱生神ともいう。華厳経巻六十には、「人の生じ已れば則ち二天有りて恒に相い随逐す。一を同生と曰い、二を同名と曰う。天は常に人を見れども人は天を見ざるが如し」とある。吉蔵の無量寿経義疏では、同生は女神で右肩にあって悪業を記録し、同名は男神で左肩にあって善業を記録するとあるが、異説もある。
講義
この章は、夫を支えて懸命に仏道修行に励む夫人の真心は、必ず天に通ずるであろうことを、同生同名天の原理の上から述べられている。
女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。須臾もはなれぬれば立ちあがる事なし
女性というものの一般的立ち場を示された御文である。
妻は夫によって存在する。夫を失えば、自身の社会的存在の根本を失う。にもかかわらず、四条金吾の妻は、夫を、佐渡の大聖人の下へ、危険な旅に送り出した。その四条金吾の妻の強盛な信心を、このあとの文に「此のとのをつかはされたる心ざし、大地よりもあつし云云」と愛でられているのである。
「富木尼御前御返事」(0975)には「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」と仰せられている。矢自体には飛ぶ力はない。それが飛ぶのは、弓が矢にエネルギーを与えたからである。これと同じように、夫が仏法のためにどれだけ活躍できるかは、妻が仏法を深く理解し、夫を助けて、力を与えるかによるのである。
この御文は、夫婦が一体となって、護法のため、広宣流布のために活躍していくところに、福運の花が咲き、一家の幸せがあるのだということを示されたものと考えられる。
同生同名とは
人には生まれたときから必ず人の両肩にあって、瞬時もその人を離れずにその人の行動の善悪を細大漏らさず記して、かわるがわる天に報告するという同生天、同名天の二神があるとされている。この二神を別名、俱生神ともいう。
この俱生神は、経文によって一人であったり、男女の二人であったり一様ではない。男女の二神の場合も、同生は女神で右肩にあって悪業を記し、同名は男神にあたり左肩にあって善業を記すといわれているが、経文によって異なるのである。
この俱生神の働きによって薬師瑠璃光如来本願功徳経に「俱生神有って其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之を書して、尽く持して琰魔法王に授与す。爾の時、彼の王は其の人に推問して所作を計算し、其の罪福に随って之を処断す」とある。また地蔵菩薩発心因縁十王経に「諸の衆生、同生神、魔奴闍耶というもの有り。左の神は悪を記す。形、羅刹の如し。常に随って離れずして悉く小悪をも記す。右の神は善を記す。形、吉祥の如し。常に随って離れずして皆微善をも録す。惣じて雙童と名づく。亡人の先身の、若しは福、若しは罪の諸の業を皆書して尽く閻魔法王に奏与す。其の王、簿を以て亡人を推問し、所作を算計し、悪に随い、善に随って之を断分す」とある。
さて、この二神は生命論からいうならば、生命自身のもっている因果の理法をあらわしている。すなわち、われわれの善悪にわたる一念、振る舞いは、誰もが知らなくても、すべて自己の生命に刻まれ、必ず善悪の報いを受けていくことを意味しているのである。この生命の厳しい因果律は仏法が明かした根本的な原理である。
これを簡単にいうと、前世の業が今世における果報となる。また今世の業が来世における善悪の果報の原因となるということでもある。
仏教の経文にはこの因果の法則が厳しく説かれている。また大聖人もこの哲理を知らないことを無知の代表として用いられている御文が数多くある。すなわち「彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば」(1326:04)また「へびすの島・因果のことはりも弁えまじき上」(1588:04)また「ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をば・ゑぞに・とられぬるぞ」(0921:12)等の文がそれである。
生命は永遠である。単に今世かぎりのものではなく、過去世、現世、そして来世と三世にわたって続いていくのである。そして、この三世にわたる生命の連続のうえに因果の法則がはたらいている。開目抄に「天台云く『今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り』等云云、心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231:03)と。そして「佐渡御書」に「高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり」(0960-02)と説かれている。
すなわち高い山へ登って行けば、必ず下って行かなければならない。人を馬鹿にすれば、かえって、わが身が人に馬鹿にされる。この世で馬鹿にされている人は前世に人を馬鹿にしていたのだ。立派な人間を馬鹿にすれば、醜い身体、醜い顔になって生まれてくる。人の物を盗めば貧賤の家に生まれてくる。正法の家を誹ったなら、謗法の家に生まれてくる。正法の戒律を守っている人を笑えば国土の民となって王難にあう、というのである。
しかしながら、われわれは現世のことしか知ることができない。そのため、過去に因のある問題は、ただ運が悪いとか、あるいは社会が悪いから等というだけである。結局、生命の深い洞察がなくては、宿命という根本問題は解決されないのである。
「陰徳陽報御書」に「陰徳あれば陽報あり」(1178:03)とあるのも、生命の厳然たる因果の理法を示されているのである。この因果の生命の働きを具象化して説いたのが、同生天、同名天なのである。