白米一斗・芋一駄・梨子一籠・茗荷・はじかみ・枝大豆・えびね、かたがたの物給び候いぬ。
濁れる水には月住まず、枯れたる木には鳥なし、心なき女人の身には仏住み給わず。法華経を持つ女人は澄める水のごとし。釈迦仏の月、宿らせ給う。譬えば、女人の懐み始めたるには吾が身には覚えねども、月漸く重なり日もしばしば過ぐれば、初めにはさかと疑い、後には一定と思う。心ある女人は、おのこご・おんなをも知るなり。法華経の法門も、またかくのごとし。南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う。始めはしらねども、漸く月重なれば、心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし。法門多しといえども、止め候。
法華経は、初めは信ずるようなれども、後遂ぐることかたし。譬えば、水の風にうごき、花の色の露に移るがごとし。何として今までは持たせ給うぞ。これひとえに、前生の功力の上、釈迦仏の護り給うか。たのもしし、たのもしし。委しくは甲斐殿申すべし。
九月一日 日蓮 花押
松野殿女房御返事
現代語訳
白米一斗、芋一駄、梨子一籠、茗荷、しょうが、枝豆、わさびなどいろいろの物をちょうだいしました。
濁っている水には月影が映らない。また、枯れた木には鳥は巣を作らない。同じように、信心のない女性の身には仏は住まわれないのです。法華経を持つ女人は澄んだ水のようであり、釈迦仏という月影を映すのです。譬えば、女性が懐妊したばかりでは、始めは、自分自身でも気づかないが、月が次第に重なって、日も次第に経過すると、初めはそうであろうかと疑っていたのが、後には間違いないと思う。また、心得のある女性は胎児が男の子か女の子かも予知するのです。法華経の法門もまたそれと同じようなものです。南無妙法蓮華経を心に深く信じるならば、その心を宿として釈迦仏は宿られるのです。それも、始めは気づかないが、だんだん月が重なれば、心中に宿った仏が夢のように見えるようになり、喜悦の心が次第に出てくるのです。法門は多いが、これで止めておきます。
法華経は初めは信ずるようであっても、最後まで信心を貫きとおすことは難しい。譬えば、水が風によって動き、花の色は露によって移るようなものです。このように全てが移ろいやすいのにあなたはどのようにして今日まで持ちつづけられたのであろうか。これはひとえに前生において積まれた功徳の上に、釈迦仏があなたを護られているからでありましょうか。まことにたのもしいことです、たのもしいことです。委しくは、甲斐殿に申しておきますのでお聞きなさい。
九月一日 日 蓮 花 押
松野殿女房御返事
語句の解説
はじかみ
一般にはショウガのことをいうが、山椒をさす場合もある。
ゑびね
わさびのこと。
甲斐殿
蓮華阿闍梨日持のこと。六老僧の一人である。建長2年(1250)松野六郎左衛門入道の次男として生まれた。幼くして出家し、駿河国蒲原荘四十九院に上がり、ここで日興上人のもとに従って甲斐公と呼び名された。
講義
本抄は弘安3(1280)9月1日の御述作で、松野六郎左衛門尉の女房の御供養に対する返礼とともに、信心修行の要諦を指導された御書である。
法華経にいたり女人成仏が明かされているが、権経・方便の教えに執着し、生命の濁っている者の成仏は叶わない。法華経を純真に信受する者の清らかな生命にこそ、仏は住するのであり、成仏することができると懐妊の譬えをもって説かれている。さらに、信心を堅固に持ち続けることこそ、仏道修行の要中の要であると指導されている。
法華経は初めは信ずる様なれども後遂る事かたし
法華経とは、末法今時においては三大秘法の御本尊であり、この御本尊を持つことは、初めは信ずるようであるが、最後まで信心を全うすることは難しい。この文は初心を持ち続け、信仰を貫きとおすことが至難であることを説かれ、信心の厳しさを教えられているのである。
大聖人は人の心が変わりやすく、初心を貫きとおすことがいかに難かしいかを述べられている。
「譬へば水の風にうごき花の色の露に移るが如し」と人の心が変わりやすいことを水と花の色に譬えられているが、実に定まらないのは人の心の動きであろう。水が風に吹かれてゆれ動く。風が強ければ、水面のざわめきは大きく、また、わずかにそよぐ風にも水面は敏感に応じて、さざ波をたてる。水が、このように、風の強弱に応じて微妙に反応を示すように、人間の心も外界との接触を縁として複雑に変化するものである。
また、花の色は朝露を重ねるごとに日々変化してゆく。花が朝露を一日、二日ないし数日宿し、やがて色あせて朽ちてゆく風情は、時の流れに人の心が一所にとどまらず変化してゆく姿に似ている。
まことに、われわれの日常生活における心の状態を直視するならば、一瞬として同じところにとどまることがない。心は縁によって絶えまなく変化している。
したがって、初心を貫きとおすこと、ましてこの仏法を一生涯信仰しぬくということは、非常にむずかしいことである。つまるところ、初心を貫きとおせるか否かは、それぞれの決意、すなわち信心の厚薄浅深にかかっているといえる。
ところで、当時は念仏・真言等の邪宗教が根強くあらゆる階層の人々にくいこんでおり、まわりの人々の反対や誹謗はもちろんのこと、仏法の正邪をわきまえない権力者は、自己の持つ権力にまかせ、折あらば大聖人をはじめ弟子方にも弾圧を加えようという険しい世相であった。大聖人の門下の多くは、中・下の階層に属する武士であったと思われる。当時の武士は、主家が信心反対であると、領地を減らされたり、没収されたりして、収入の途を断ち切られ、非常な苦境に立たされたのである。農民や庶民にいたっては権力者の手に生活権等のいっさいを握られており、全く弱い立場にあった。したがって、信心を堅固に貫きとおすには、大変な勇気と決意が必要であった。
本抄のお認めは、弘安3年(1280)であるから、熱原の法難は一応治まりつつあったが、まだまだ余燼がくすぶっており、大進房、三位房のように信心弱く目先のことに負けて退転した者もいたのである。しかし、いかなる弾圧をも、ものともせずに、南条時光のように命がけで外護の任を立派に果たし、大聖人より「上野賢人殿」との称号を賜わり、後世までも信心の鏡とたたえられた人もいることを思うと、信仰の厚薄は、各個人の胸中の一念によることを強く感ずるのである。
また、大聖人の高弟としてお側近くに修学し、中核であった五老僧が、大聖人滅後、たちまちに正義に違背し、謗法に堕した姿は、まことに悲しむべきことではあるが、「初めは信ずる様なれども後遂る事かたし」の御文をまさに実証している。
所詮、法門をどのように理解しようとも、法華経を信ずる一念がなければ、真に信仰を全うすることはできないのである。大聖人より直々に教えを受け、長年にわたって実践し修行をつんでもこの有様である。いかに信心をやりとげることが難しいかを感ずる。入信の動機は各人によって千差万別であり、御本尊受持への決意もまちまちである。それだけに、初心の完遂はなお困難といえる。
剣道の世界でも華道の世界でも、またいかなる仕事においても中途半端では、その人の力量、成果とはならない。信仰の世界も決して特別なものではない。水の流れのごときたゆみなき自己の練磨が、妙法の大道に生き、人生と社会に勝利の証を示していく根源なのである。