智妙房御返事 第三章(神天上を示し、謗法を戒む)
知らずわ・さでもあるべきに・日蓮此の二十八年が間・今此三界の文を引いて此の迷をしめせば信ぜずは・さでこそ有るべきに・いつきつ・ころしつ・ながしつ・おうゆへに八幡大菩薩・宅をやいてこそ天へは・のぼり給いぬらめ日蓮が・かんがへて候し立正安国論此れなり、あわれ他国よりせめ来りてたかのきじをとるやうに・ねこのねずみをかむやうに・せめられん時、あまや女房どもの・あわて候はんずらむ、日蓮が一るいを二十八年が間せめ候いしむくいに・或はいころし・切りころし・或はいけどり・或は他方へわたされ・宗盛がなわつきてさらされしやうに・すせんまんの人人のなわつきてせめられんふびんさよ、しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば・かくせめられんをば天も悦び仏もゆるし給はじ、あわれ・あわれはぢみぬさきに阿闍世王の提婆を・いましめしやうに・真言師・念仏者・禅宗の者どもをいましめて・すこし・つみをゆるくせさせ給えかし、あらをかし・あらふびん・ふびん・わわくのやつばらの智者げなれば・まこととて・もてなして事にあはんふびんさよ、恐恐謹言。
十二月十八日 日蓮花押
ちめう房御返事
現代語訳
知らなければそのまま済んだであろうが、日蓮がこの二十八年間、法華経の譬喩品第三の「今此三界」の文を引いてこの迷妄を示したときに、信じないにしてもそれなりの対応があるべきなのに、射たり、切ったり、殺したり、流したり、追放したりするがゆえに、八幡大菩薩は住所を焼いて天へ昇られたのであろう。日蓮が考えて著した立正安国論の中に述べているのは、これである。かわいそうに、他国から攻めてきて、鷹が雉を捕えるように猫が鼠を噛むように責められるとき、尼や女房どもがあわれなことであろう。日蓮が一門を二十八年の間、責めてきた報いとして、あるいは射殺され、切り殺され、あるいは生け捕りにされ、あるいは他の所に連れて行かれ、平宗盛が縄に縛られて晒されたように数千万の人々が縄に縛られて責められるであろう。なんと、かわいそうなことか。しかしながら日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なので、そのように責められるのを天も悦び、仏も許されることはないであろう。哀れなことである、哀れなことである。恥をみないうちに、阿闍世王が提婆達多を戒めたように真言師や念仏者や禅宗の者達を戒めて、少しでも罪を緩くするようにすればと思うのである。人々を誑かし惑わす輩達が智者みたいであるので本当であると思ってもてなしているのは、おかしなことであり、そのためにそうしたかなしい目にあうのはなんとも哀れなことである。恐恐謹言。
十二月十八日 日蓮花押
ちめう房御返事
語句の解説
今此三界
譬喩品の文「『今此の三界は』皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり、而も今此の処は、諸々の患難多し、唯我れ一人のみ能く救護を為す」とある。
三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの、欲界は種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界と天界の一部をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
立正安国論
文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた諌暁の書。客と主人の問答形式で、10問9答からなっている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である諸宗の謗法を禁じて正法に帰依すべきことを主張されている。そうでなければ、まだ起こっていない自界叛逆の難と他国侵逼の難が競い起こるであろうと予言されている。
宗盛
(1147~1185)。平宗盛のこと。平安時代の武将、平清盛の第三子。養和元年(1181)清盛の死後、平氏の家督を継ぎ、権大納言・内大臣を経て従一位に叙せられた。寿永2年(1183)木曽義仲と戦い、敗れて安徳天皇等を奉じて太宰府に逃れた。その後、一の谷・屋島で源氏の軍と戦って敗れ、壇ノ浦で大敗を喫した。宗盛は捕らえられて鎌倉に送られ、京都に送還される途中、近江の篠原(滋賀県近江八幡市篠原町)で斬殺された。
五逆罪
理に逆らうこと甚だしい五種類の重罪のこと。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業ともいう。五逆罪には、三乗通相の五逆と、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などがあるが、代表的なものは?舎論に説かれる三乗通相の五逆罪である。以下それを示す。殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧のことをいう。阿羅漢とは声聞の四果の最上で阿羅漢果を得た者のこと、出仏身血とは、仏の身に傷をつけて血をだすことである。提婆達多は大石を崖の上から投げて釈尊の足を傷つけ、この罪を犯した。末法の御本仏大聖人は、文永元年(1264)11月11日下総国・小松原で東条景信によって、眉間に傷を受けられている。
阿闍世王
阿闍世は梵語アジャータシャトゥル(Ajātashatru)の音写。漢訳して未生怨という。釈尊在世当時の中インド・マガダ国の王。父は頻婆娑羅王、母は韋提希夫人。太子であった時、提婆達多と結び、仏教の外護者であった父王を監禁し、獄死させて王位についた。釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行なった。後、身体に悪瘡ができたことによって仏教に帰依し、釈尊滅後、第一回仏典結集を外護した。
提婆
提婆達多のこと。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩?・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
講義
ここでは、仏法の道理のうえから世間の迷妄を教示された大聖人を日本中の人々が迫害するがゆえに、八幡大菩薩は住み家を焼いて天に昇ってしまい、その結果、日本は他国から攻められて人々が苦しむであろうことを嘆かれ、謗法を訶責して罪を軽くするよう促されている。
日蓮大聖人は建長5年(1253)4月28日に立教開宗されて以来、公安3年(1280)までのこの28年間、法華経譬喩品第三の「今此の三界は皆是れ我が有なり」といった経文を引いて、釈尊こそが娑婆世界の主であり、阿弥陀仏等を立てることの誤りを指摘されている。
それに対して、人々は迫害をもって応じたのである。大聖人は、文永元年(1264)11月11日には安房の小松原において、東条景信を中心とした念仏者に襲われて、矢を射られ、太刀で切り付けられている。文永8年(1271)9月12日には鎌倉の竜の口で頸を切られて死罪に処せられようとしている。弘長元年(1261)5月には伊豆に流され、文永8年(1271)10月には佐渡に流されている。そして、文応元年(1260)8月27日には鎌倉松葉ヶ谷の草庵を襲撃され、所を逐われている。
法華経の行者である大聖人に対する、こうした迫害のゆえに八幡大菩薩は住み家を焼いて天へ昇られたのであると、鎌倉八幡宮の炎上を仏法のうえから、その意味を示されて神天上の法門を教えられている。
これは、すでに立正安国論で詳しく述べられている法門である。すなわち立正安国論には「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017:12)と説かれ、新池御書には「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く」(1440:18)と述べられている。
しかし、どんなにかわいそうに思っても、仏法の道理ははずすことはできないゆえに、日本国の一切の人々は父である釈尊を捨て去るという五逆罪を報いとして、そのような苦しみを受けざるを得ないのである。謗法の者を治罰するという誓いを立てた諸天もそれを喜び、仏も許されることはないと仏法の因果の厳しさを御教示されている。
あわれ・あわれはぢみぬさきに阿闍世王の提婆を・いましめしやうに.真言師・念仏者・禅宗の者どもをいましめて.すこし・つみをゆるくせさせ給えかし
日本国の人々に対し、謗法の罪の報いが現実のものとなって起こってくるまえに、謗法の者を戒めて罪を軽くするようにしなさいと言われている御文である。
阿闍世王は初め提婆達多にそそのかされ、仏教の外護者であった父の頻婆娑羅王を殺し、酔った象を放って釈尊とその弟子達を踏み殺させようとしたが、後に悔い改めて仏教に帰依し、提婆達多を戒めたといわれる。
この阿闍世王の例を挙げて、日本国の人々が真言宗や念仏宗や禅宗の僧等に誑かされて謗法を犯しているのであるから、かえってそれらの邪宗の者達の謗法を戒めることによって少し罪を軽くすることができるというのである。
ここに謗法を訶責する破折の重要な意義があることを知らなければならない。すなわち、私達折伏の実践によって、過去からの謗法の罪が少し軽くなるということであり、転重軽受することができるというのである。因果の理法は厳しいがゆえに、罪を犯しておいて何も報いを受けないということはない。しかし無始以来の謗法が深重であることを考え合せてみると、この重き罪業を転じて軽く受けることができるというのは、何よりもありがたいといわなければならない。
佐渡御書には、示同凡夫のお立場から、大聖人が過去に法華経の行者ならびに法華経を誹謗したがゆえに八種の大難にあっているとして「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり」(0960:07)と述べられている。また、転重軽受法門には「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」(1000:03)と明かされている。
これらの御文を拝するとき、転重軽受をなさしめる折伏の功徳力の絶大であることを感じないではおられない。日々の勤行とともに、たゆみなき折伏の実践が大事である。