智妙房御返事 第二章(八幡大菩薩に対する世間の迷妄を示す)

智妙房御返事 第二章(八幡大菩薩に対する世間の迷妄を示す)

 世間の人々は、八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と申すぞ。それも中古の人々の御言なれば、さもや。ただし、大隅の正八幡の石の銘には、一方には「八幡」と申す二字、一方には「昔霊鷲山に在って妙法華経を説き、今正宮の中に在って大菩薩と示現す」等云々。月氏にては釈尊と顕れて法華経を説き給い、日本国にしては八幡大菩薩と示現して「正直」の二字を願に立て給う。教主釈尊は、住劫第九の減、人寿百歳の時、四月八日甲寅日、中天竺に生まれ給い、八十年を経て、二月十五日壬申日、御入滅なり給う。八幡大菩薩は、日本国第十六代応神天皇、四月八日甲寅日、生まれさせ給いて、御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給う。釈迦仏の化身と申すことは、たれの人かあらそいをなすべき。

 しかるに、今、日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生、善導・恵心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて、釈尊をなげすてて阿弥陀仏を本尊とす。あまりの物ぐるわしさに、十五日を奪い取って阿弥陀仏の日となす。八日をまぎらかして薬師仏の日と云々。あまりにおやをにくまんとて、八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と云々。大菩薩をもてなすようなれども、八幡の御かたきなり。

 

現代語訳

世間の人々は八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身といっている。それも中古の人々の言であるならば、そういうこともあろうか。 ただし大隅の正八幡宮の石の銘文には、一方には八幡という二字があり、一方には昔霊鷲山にあって妙法蓮華経を説き、今正八幡宮の中にあって八幡大菩薩と示現している等と記されている。インドにおいては釈尊として現われて法華経を説かれ、日本国においては八幡大菩薩と示現して正直の二字をたもつものを守護するとの誓いを立てられたのである。教主釈尊は住劫第九の減劫の中、人寿が百歳の時代の甲寅四月八日中インドに誕生され、八十年を経て壬申二月十五日御入滅なられている。八幡大菩薩は日本国第十六代の応神天皇として甲寅四月八日に誕生されて、御年八十歳の壬申二月十五日に崩御されている。釈迦仏の化身であるということは、だれびとが言い争うことができよう。しかしながら、今日本国の四百五十八万九千六百五十九人の一切衆生は善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぶらかされて釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊としている。あまりにものにとりつかれて生気を失って、釈尊入滅の二月十五日を奪い取って阿弥陀仏の日となし、釈尊誕生の四月八日を紛かして薬師仏の日と言ったり、あまりにも親である釈尊を憎く思って八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身であると言ったりしている。これは八幡大菩薩を大事にしているようであるけれども、八幡大菩薩の御敵となっているのである。

 

語句の解説

阿弥陀仏の本願

無量寿経に説かれており、阿弥陀仏が過去世に法蔵比丘であったとき、世自在王仏のもとで立てた四十八の誓願のこと。ここではその四十八の誓願中の第十八願をさす。「設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」とある。

 

化身

仏や菩薩が衆生を救うために様々に身を変化して、出現した身影のこと。

 

大隅

九州、鹿児島県南東部、大隅半島の一帯をいう。

 

正八幡の石の銘

鹿児島県姶良郡隼人町の正八幡宮にあったあと伝えられる。「石文御託宣」ともいわれる。その石は現存しないが、平家物語には「御本地の事石体に現はれ給へり、石体の文は深さ八寸ゑり入たる、金銘云、昔於霊鷲山、説妙法華経、今在正宮中、示現大菩薩、となり此ことは御本地は釈尊と覚えたり(中略)中にも正宮は石体にとどまれり、されば大隅を正八幡とは号す」とあり、南浦文集に「正八幡大菩薩霊廟艮方有石体、石体有四句刻文、文曰昔於霊鷲山説妙法華経、今在正宮中、示現大菩薩、竊聞正八幡大菩薩釈迦牟尼世尊云云」とある。

 

霊鷲山

中インド摩竭提国(ベンガル地方)の首都である王舎城の丑寅すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山といい、その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところこそ、霊鷲山であり、また、御本尊を受持する者の住所も、霊鷲山である。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ、中央アジアに月氏という民族がおり、インドの一部を領していた。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は、「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。

 

住劫第九の減

住劫の中の9番目の減劫のこと。住劫とは世界の成立から消滅までを成住壊空の四劫に分けたな住をいう。成立した世界が安定継続している時期。この住劫は20小劫からなり、人の寿命が無量歳から100年に一切を減じて10歳になるまでを第一減劫といい、次に10歳から100年ごとに一切増加しては八万歳になるのを第二増劫、以下第二減劫、第三増劫となり、第二十小劫は増劫のみとなり、この期間を一中劫という。このうち釈迦仏が出現したのは、第九減劫の人寿100歳の時とされている。

 

中天竺

インドを五つの地域、東・南・西・北・中と立て分けたうちの「中」釈尊はこの中天竺の迦毘羅衛国の太子として生まれた。

 

応神天皇

名は誉田別尊、また品陀和気尊ともいう。御陵は大阪府羽曳野市誉田にある。明治以前、神功皇后は第十五代天皇、応神天皇は第十六代天皇であったが、明治以降に神功皇后は歴代天皇の代数に含められず、応神天皇が第十五代天皇とされた。

 

四十五億八万九千六百五十九人

当時日本全国の男女の総人口数。当時の億はいまの10万の位に当たる。したがって、4,589,859人となる。大聖人のもちいられたものは、8世紀の統計によると思われる。

 

善導

06130681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。

 

慧心

09421017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流天台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。

 

永観

10331111)。平安末期、三論宗の僧。京都の人。11歳の時、禅林寺深観について出家。密教を学び、密教灌頂を受けた。次いで東大寺で具足戒を受け、三論宗を学び、華厳・法相をもきわめた。著書には「往生十因」十巻、「弥陀経要記」一巻、「往生講式」一巻などがある。

 

法然

11331212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(121280歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。

 

大天子

魔天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。

 

薬師仏

梵語( Bhaiajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。

講義

ここでは八幡大菩薩を阿弥陀の化身とする世間の捉え方の誤りを指摘され、それが八幡に敵対する行為であることを示されている。

当時からみて中古にあたる平安時代に石清水八幡宮を建てたといわれる行数が宇佐八幡宮に参詣したおり、八幡神の本身を見たいといって祈ったところ、弥陀と観音と勢至の像が袈裟の上に現われたというようなことが言われており、また八幡宮付属の寺院で、仏・菩薩が神社を守護するという意味で建てられた八幡寺の山号に「八幡山阿弥陀院」と称したものがあったことが知られる。

こうしたことを考え合せてみると、当時、世間では、神仏習合による本地垂迹説と同時に念仏信仰の蔓延によって、八幡大菩薩は弥陀仏の化身、すなわち八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏であると思われたようである。

これは確たる根拠があってのことではなく、念仏宗が広まるにつれて、すべてを阿弥陀仏に結びつけて考えていった結果である。大聖人は、本抄と同じ時期にしたためられた四条金吾許御書の中で、そうした考えをあげて「此れはをのをの心の念仏者にて候故にあかき石を金と思いくひせをうさぎと見るが如し」(1195:08)と打ち破られている。

そして、次に八幡大菩薩の本地は釈尊であるとして、文証を挙げて述べられているのである。

文証としては、鹿児島県の大隅半島の正八幡宮にあったとされる石の銘文を挙げられている。この石は、一つの石が割れて二つになったもので、片方の石には「八幡」という二字が記されており、もう一方の石には「昔、霊鷲山にあって妙法蓮華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現した」とあったというのである。

また、釈尊と八幡大菩薩には次のような不思議な一致があるとされている。すなわち、インドでは釈尊として現れ、法華経を説いて「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と述べられ、日本国においては八幡大菩薩と現れて「正直の頭に宿る」と誓われている。そしてまた、釈尊と、八幡大菩薩と現れるとされる応神天皇の生没の太歳暦の年と月日が一致しているとしている。ここで挙げられている応神天皇の生没の年月日は、日本書記に記載されているものとは異なるが、当時の資料には大聖人が用いられたような記述のものがあったのであろうと考えられる。いずれにしても、これらのことから八幡大菩薩の化身であることは言い争う余地がないと結論されている。

しかしながら、日本の国の一切の人々は浄土宗の法門を説いた善導や慧心や永観や法然等に誑かされて、教主である釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊として崇めている。そればかりでなく、釈尊の入滅の日である215日を阿弥陀仏入滅の日としたり、釈尊の誕生の日である48日を薬師仏の誕生の日としたりしている。なお、薬師仏については、八幡宮の神宮寺の本尊として安置されている。

こうして、親である釈尊を憎んで、八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身であるとしている。これは、八幡大菩薩をもてなしているようであるけれども、その実、八幡大菩薩の敵となっているのであると指摘されている。

そのもののためと思ってなしたことであっても、なまじっか判断による評価というものは、かえってそのものを誤って受け止めさせて、真実を隠してしまう。その意味で、たとえ賛嘆していたとしても、それが中途半端なものであったり、真実と違っていれば、そのものの正しい姿を見失わせてしまうことからすると、結果的には誹謗であり、敵対していることになるのである。

そのいい例が、慈恩の法華玄賛に対して、伝教大師が法華秀句の中で「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す」と破折した文である。法華経の真意を知らずに、その心にかなわないで、いくら解釈し賛嘆したとしても、かえってその真意を覆い隠してしまうことになるがゆえに、それは法華の心を殺す敵対行為になるというのである。

ここでは、八幡大菩薩を、阿弥陀仏の化身であるとすることは、一見すると八幡大菩薩の立場を高からしめているように受け止められるけれども、それは結局のところ阿弥陀仏の根本の仏である釈尊の化身ということを隠してしまうがゆえに、八幡大菩薩の敵となっていると言われているのである。

 

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