智妙房御返事 第一章(鎌倉の大火に心痛まれる)

智妙房御返事 第一章(鎌倉の大火に心痛まれる)

 弘安3年(ʼ80)12月18日 59歳 智妙房

 鵝目一貫送り給びて、法華経の御宝前に申し上げ候い了わんぬ。
 なによりも、故右大将家の御廟と故権大夫殿の御墓とのやけて候由承ってなげき候えば、また八幡大菩薩ならびに若宮のやけさせ給うこと、いかんが人のなげき候らん。

 

現代語訳

銭一貫文を送っていただいて、法華経の御宝前に申し上げた。

なによりも故右大将源頼朝の御廟と北条義時の御墓が焼けてしまったことを承わって嘆いていたのに、また八幡大菩薩ならびに若宮の焼失されたとのこと、どんなにか人々が嘆いていることであろう。

語句の解説

鵞目一貫文

銭一貫文に同じ。銭とは金属で鋳造した貨幣の総称。この時代、わが国では中国のそれにならって、円形で中央に四角い穴のあるものが用いられた。あし・銭貨ともいい、形が鵝鳥の目に似ているところから、鳥目・鵝目・鵝眼などの名がある。貫とは通貨の単位で、縄を通してひとまとめにした銭の束に由来する。一貫文とは銭1000文にあたり、当時の物価で米150㎏に相当した。

 

右大将

11741199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことからこう呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。

 

権大夫

鎌倉幕府第二代の執権・北条義時(11621244)のこと。元久2年(1205)、父の時政が失脚したあとを受けて執権となった。承久3年(1221)、後鳥羽上皇(11801239)を中心とする朝廷方が討幕の挙に出るや、大軍を進めて京都を占領した。ついで、後鳥羽上皇の院政を廃止し、上皇を隠岐に遷した。この承久の乱の結果、皇室は全く権力を失い、北条氏による執権政治が確立された。

 

八幡大菩薩

天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。

 

若宮

①幼少の皇子や皇族の子。②本宮の祭神を勧請して祭った神社。鎌倉の若宮とは、京都の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮をいう。鶴岡八幡宮は、もと源頼義が奥州鎮定の際に由比郷鶴岡の地に石清水八幡宮の分霊を祭ったのにはじまり、これを源頼義が治承4年(1180)小林郷北山に移し、鶴岡八幡宮若宮と称した。その後、建久2年(1191)の大火によって類焼したため、改めて石清水八幡宮を招請して本宮を建て、その下に摂社として若宮を造立した。以後、本宮は鶴岡八幡宮と称し上宮と呼ばれ、鶴岡若宮は下宮と称されたが、鶴岡八幡宮や若宮の名称は鶴岡全体を指して用いられた。

講義

本抄は、公安3(1280)1218日、鎌倉に住んでいたと思われる智妙房から銭一貫文の御供養と鶴岡八幡宮の炎上の報告を受けたことに対する御返事である。御真筆は中山法華経寺にある。智妙房については事跡等が明らかでなく、詳しいことは分かっていない。

本抄の大意は、最初に御供養の受領について述べられ、次いで鶴岡八幡宮が焼失したことをとおして八幡大菩薩の本地を明かされ、八幡大菩薩は人々の謗法のために天に昇ってしまったのであり、日本国は他国から責められることになろうと戒められている。

本章にあるように、弘安3(1280)、鎌倉に大火災が発生している。まず、1028日、中の馬橋付近から起こった火事が燃え上がり、鶴岡八幡宮の東側の大蔵幕府後方の丘陵中腹にあった源頼朝の廟所と、そこから東に少し離れたところにあった北条義時の墓も類焼したものと思われる。この時の火事によって鎌倉の町の中心部が焼けてしまったようである。大聖人はこの報を聞かれて、鎌倉の人々のことを大変に心配されていたことであろう。

この時には鶴岡八幡宮は、その境内にあった神宮寺と千体堂が焼けただけですんでいる。しかし、1114日に再び起こった火事によって、上・下宮はじめ境内の建物がことごとく焼け落ちてしまった。ときあたかも、再び蒙古の来襲の動きがあり、社会に不安と動揺を与えていた。先には幕府を創建した源頼朝の廟所と承久の乱で実質的に武家政権による支配体制を確立した北条義時の墓が焼け、今また鎌倉の人々の守護神として敬信されてきた鶴岡八幡宮が焼失してしまったのである。武士も庶民も、いいしれぬ不安をつのらせたにちがいない。大聖人は、こうした心情を思いやられてどんなにか人々が嘆き悲しんでいることであろう、と述べられているのである。

 

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