安国論御勘由来
文永5年(ʼ68)4月5日 47歳 法鑑房
正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥時、前代に超え大いに地振るう。同二年戊午八月一日、大風。
同三年己未、大飢饉。正元元年己未、大疫病。同二年庚申、四季に亘って大疫已まず、万民既に大半に超えて死を招き了わんぬ。しかるあいだ、国主これに驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈禱有り。しかりといえども、一分の験も無く、還って飢疫等を増長す。
日蓮、世間の体を見て、ほぼ一切経を勘うるに、御祈請験無く還って凶悪を増長するの由、道理・文証これを得了わんぬ。終に止むことなく、勘文一通を造作し、その名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時、宿屋入道に付けて故最明寺入道殿に奏進し了わんぬ。これひとえに国土の恩を報ぜんがためなり。
その勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代の人王第三十代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法この国に渡りしより、桓武天皇の御宇に至るまで、その中間五十余代、二百六十余年なり。その間、一切経ならびに六宗これ有りといえども、天台・真言の二宗いまだこれ有らず。桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄という小僧有り〈後に伝教大師と号す〉。已前に渡るところの六宗ならびに禅宗これを極むといえども、いまだ我が意に叶わず。聖武天皇の御宇に大唐の鑑真和尚渡すところの天台の章疏、四十余年を経てより已後、始めて最澄これを披見し、ほぼ仏法の玄旨を覚り了わんぬ。最澄、天長地久のために延暦四年、叡山を建立す。桓武皇帝これを崇めて、天子本命の道場と号し、六宗の御帰依を捨てて、一向に天台円宗に帰伏し給う。
同延暦十三年に長岡京より遷って平安城を建つ。同延暦二十一年正月十九日、高雄寺において南都七大寺の六宗の碩学、勤操・玄耀等の十四人を召し合わせ、決断して勝負を談ず。六宗の明匠、一問答にも及ばず、口を閉ずること鼻のごとし。華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の所立を破し了わんぬ。ただ自宗を破らるるのみにあらず、皆謗法の者なることを知る。同二十九日、皇帝勅宣を下してこれを詰る。十四人、謝表を作って帝皇に捧げ奉る。その後、代々の皇帝、叡山の御帰依は孝子の父母に仕うるに超え、黎民の王威を恐るるに勝れり。ある御時は宣命を捧げ、ある御時は非をもって理に処す等云々。殊に清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威に依って位に即き、帝皇の外祖父・九条右丞相は誓状を叡山に捧ぐ。源右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗、是非を論ぜず叡山に違背せば、天命恐れ有るものか。
しかるに、後鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼その身に入って国中の上下を狂惑し、代を挙げて念仏者と成り、人ごとに禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄なり。国中の法華・真言の学者、棄て置かれ了わんぬ。故に、叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社、国中守護の諸大善神、法味を餐わずして威光を失い、国土を捨て去り了わんぬ。悪鬼便りを得て災難を至し、結句、他国よりこの国を破るべき先相、勘うるところなり。
また、その後、文永元年甲子七月五日、彗星東方に出で、余光大体一国等に及ぶ。これまた世始まってより已来無きところの凶瑞なり。内外典の学者も、その凶瑞の根源を知らず。予、いよいよ悲歎を増長す。しかるに、勘文を捧げてより已後九箇年を経て、今年後正月、大蒙古国の国書を見るに、日蓮が勘文に相叶うこと、あたかも符契のごとし。
仏、記して云わく「我滅度して後一百余年を経て、阿育大王世に出で、我が舎利を弘めん」。周の第四昭王の御宇、太史蘇由、記して云わく「一千年の外、声教この土に被らしめん」。聖徳太子、記して云わく「我滅度して後二百余年を経て、山城国に平安城を立つべし」。天台大師、記して云わく「我が滅後二百余年已後、東国に生まれて我が正法を弘めん」等云々。皆、果たして記の文のごとし。日蓮、正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云わく「他国よりこの国を破るべき先相なり」と。自讃に似たりといえども、もしこの国土を毀壊せば、また仏法の破滅疑いなきものなり。
しかるに、当世の高僧等、謗法の者と同意の者なり。また自宗の玄底を知らざる者なり。定めて勅宣・御教書を給わってこの凶悪を祈請せんか。仏神いよいよ瞋恚を作し、国土を破壊せんこと疑いなきものなり。日蓮、また対治の方、これを知る。叡山を除いて日本国にはただ一人なり。譬えば、日月の二つ無きがごとし。聖人肩を並べざるが故なり。もしこのこと妄言ならば、日蓮が持つところの法華経守護の十羅刹の治罰、これを蒙らん。
ただひとえに、国のため、法のため、人のためにして、身のためにこれを申さず。また禅門に対面を遂ぐ。故にこれを告ぐ。これを用いざれば、定めて後悔有るべし。恐々謹言。
文永五年太歳戊辰四月五日 日蓮 花押
法鑑御房
現代語訳
正嘉元年八月二十三日、夜の九時ごろ未曾有の大地震があった。同二年八月一日には大風が吹き、同三年には大飢饉、正元元年には大疫病が流行、同二年には春夏秋冬、四季の分けへだてなく大疫病が流行し続け、万民はすでに大半が死に絶えた。そのようであるから、国主たる朝廷も幕府も驚いて外道・内道の両方に対して命令を下して種々の御祈祷を行ったが何の効しもなく、かえって飢饉・疫病を増長するばかりであった。
日蓮がいまの世の状態をみて、ほぼ一切経を勘えるのに、そのような御祈祷では効果がないのか、かえって凶悪を増長するばかりであるとの道理と文証を得ることができた。そして、ついにやむをえず勘文一通をしたため立正安国論と号して、文応元年七月十六日、宿屋入道を通じて、故最明寺入道北条時頼に奏進した。これひとえに国土の恩を報ぜんがためである。
この立正安国論の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代のうち第三十代欽明天皇の御代に初めて、百済国から仏法がこの国に渡り、以降桓武天皇の御代にいたるまで五十余代・二百六十年であった。その間には、一切経ならびに六宗があるとはいいながら、天台・真言の二宗はまだなかった。桓武天皇の御代に近江の国山階寺の行表僧正の御弟子に最澄という小僧があって、後には伝教大師と号した。最澄はそれ以前すでに渡っていた六宗と禅宗を研究し奥義を窮めたが、いずれもまだ自分の意に叶うものがなかった。その後最澄は、四十余年前の聖武天皇の御代に中国・唐の鑒真和尚の伝えたところの天台大師の章疏を開きみて、日本ではじめてほぼ天台の真意・仏法の奥底を悟ったのであった。よって最澄は天長地久・国土安穏のために延暦四年、叡山を建立した。桓武天皇はこれを崇め、天子本命の道場と号し、いままでの六宗に対する御帰依を捨てて、一向に天台の円宗に帰伏されたのであった。
同じく延暦十三年には、それまでの都であった長岡の都を遷し平安京を建てた。延暦二十一年正月十九日には高雄寺において、奈良七大寺の六宗の大学者である勤操・長耀等の十四人を召し合わせ、最澄と仏法の正邪について勝負を決談させた。そのときのようすは、六宗の大学者たちは、一問答すらすることができず、口を閉じること鼻のごときであった。ただ自宗を破られるのみでなく、皆謗法の者であることを知ったのである。ゆえに十日を経た二十九日に天皇は勅宣を下して、これらの六宗の僧をせめたので、十四人は謝表を作って天皇に捧げ奉ったのである。
その後、代々の天皇の比叡山延暦寺に対する御帰依は孝行の子が父母に仕えるよりも厚く、臣民が王位を恐れるよりも勝れていた。 しかるに第八十二代後鳥羽院の御代、建人年中に法然房・大日坊という二人の増上慢の者があり、悪鬼がその身に入って国中の上下万民を誑惑し、人々はすべて念仏者となり、あるいは禅宗の信者となった。そのため思いのほか叡山に対する御帰依は浅薄となり、国中の法華・真言の学者たちは捨て置かれてしまった。ゆえに叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七神、ほか一切の国中守護の諸大善神は法味を味わうことができず、威光を失い、国土を捨て去ってしまった。ために正法を失った日本国には、悪鬼が入って災難を起こし、結局は他国からこの国を破るべき前兆があらわれることを予言したのである。またその後文永元年七月五日、彗星が東方の空に出て、その光はほぼ一国におよんだ。これまた世始まって以来前例のない凶瑞であった。しかし、内典の学者も外典の学者も誰一人として、その凶瑞の根源を知っていない。自分はそれを見て悲嘆の思いを増長したのである。
しかるに安国論を捧げて九ヶ年の後、今年の閏正月、大蒙古国の日本を襲うとの国書を見るに、日蓮の予言に一分の狂いもなく的中している。釈尊は「自分の滅後百年して阿育大王が出現し、仏法を弘めるであろう」と予言し、周の第四代昭王の時代に、大史蘇由が占っていわく「今より一千年後に仏法が中国へ伝来するであろう」また、聖徳太子の記にいわく「自分の滅後二百年にして山城国に平安城がたつであろう」と。天台大師の記にいわく「自分が死んで東国に生まれ、ふたたびわが正法を弘めるであろう」と。これらの予言はいずれも的中し事実となってあらわれたのである。あるときは宣命を捧げ、あるときは非を理とされたこともある。ことに第五十六代清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威によって位につき、帝の外祖父であった九条右丞相藤原良房は誓状を叡山に捧げたのである。さて、源頼朝は清和天皇の子孫である。ところがその跡を継いで実権をにぎっている今の北条執権は、政治的な是非は別としても、事ごとに叡山の意向に背反している。このような鎌倉幕府の行為は天命を恐れるべきであろう。
日蓮は正嘉の大地震・大風・飢饉、正元元年の疫病の大流行をみて「これらはいずれも他国からこの国が破られる先相である」と予言した。これは自分で自分を讃めているようであるが、もしこの日本国がやぶれるなら、仏法の破滅もまた疑いないのである。
しかるに、当世の高僧たちは謗法の者と同意の者であり、また自分の宗派の奥底さえも知らない者共である。いま、この上なお国主が勅宣および御教書を賜って蒙古襲来の災難を止めんと祈請するならば、仏神はいよいよ怒りをまし、国土を破壊するであろうことは疑いないことである。
日蓮はこの蒙古襲来の災難を対治する方策を知っている。比叡山すなわち伝教大師を除いて、日本国のなかでこれを知っているのは唯日蓮ひとりのみである。たとえば、日や月が二つないのと同様、聖人は二人、肩をならべることはないからである。もしこのことが嘘であるならば、日蓮は自身がもつところの法華経守護を誓った十羅刹の治罰をこうむるであろう。日蓮がこのことをいうのは、ひとえに国のため、法のため、人のためであって、自身の身のためにいうのではない。
また、あなたに対面する故に、これを告げるが、もしこれを用いないなら、必ず後になって後悔するであろう。 恐々謹言。
文永五年太歳戊辰四月五日
法鑒御房 日蓮花押
語釈
最澄
平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。幼名は広野。近江国滋賀郡の生まれ。先祖は後漢の孝献帝の末裔で、応神天皇の時代に日本に帰化したといわれる。12歳で近江国分寺の行表について出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦21年(0802)和気弘世・真綱の招請を受けて下山し、京都高雄山寺で天台三大部を講じた。延暦23年(0804)還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満・翛然・順暁等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力した。没後、勅許を得て大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「山家学生式」一巻、「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等がある。
鑒真和尚
奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
天子本命の道場
天子本命星を祀り、国家の鎮護を祈願する道場のこと。鎮護国家の道場ともいう。本命星は、その人の生年に当たる星をいう。 本命星は、陰陽道で、北斗七星・金輪星・妙見星の九星のうちいずれかを
高雄寺
高雄山寺。創立の時期等は不明。延暦21年(0802)、和気氏の当主であった和気弘世は伯母の和気広虫の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会を講じた。弘仁3年(0812)に空海が高雄山寺に住し、真言道場とした。天長元年(0824)、河内にある和気氏の氏寺・神願寺と合併し、神護国祚真言寺と改めた。現在の神護寺で、京都市右京区梅ケ畑高雄町にある。
黎民
庶民。万民。「黎」は衆、また黒の意。冠をかぶらないで、黒髪をあらわす。無冠の人。
宣明
ここでは宣命のこと。読みは同じく「せんみょう」。宣読する勅命の意。奈良朝以後、天皇の詔勅は漢文が主体となったが、元日の朝賀、即位、改元、立太子などの儀式には国語をもって天皇の命を宣布する公文書が用いられ、これを宣命と称した。平安時代には神社、山陵、任大臣、贈位などの告文にのみ用いられた。
非を以て理に処す
僧兵たちの道理の通らない要求や主張も、叡山を崇めるあまり、天皇が認めたこと。
清和天皇は、叡山の恵亮和尚の法威に依つて位に即き
文徳天皇が皇子の惟喬と惟仁のいずれに皇位を譲るかに迷って、相撲の勝敗によって決した。そのとき、恵亮は惟仁のために祈念し、その法力によって勝ったといわれていることをさす。
九条右丞相
藤原良房。平安前期の貴族。藤原氏として初めて摂政になり、死後に忠仁公の名を贈られた。
源の右将軍は清和の末葉なり。……叡山に違背せば、天命恐れ有る者か
源頼朝は清和天皇の後裔を称する清和源氏の子孫である。頼朝が開いた幕府が各宗に祈りをさせていることは、祖先である清和天皇の意志にさからい、伝教大師の正義に背くものであり、この道理のうえからも天命を恐るべきである、と述べられている。
講義
立正安国論を勘えられた由来が述べられているのでこの名がある。この法鑒御房が誰であるか詳かではない。ただ、最後に「復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」とあるように、幕府の中心に関係ある人と推察できるのみである。
これをしたためられた年月は、先の奥書より一年早い文永5年(1268)4月で、蒙古の国書がこの正月に着いたばかりのところである。安国論の予言が事実となってあらわれたことを指摘され、日蓮大聖人の教えを用いなければ、この国難を対冶することはできないと断言され、幕府の反省を求められている。
文面は、一応、比叡山天台宗の正統なる所以を述べ、それを法然の念仏、大日の禅宗が隠没したために数々の難がおこったのであると指摘されている。したがって「叡山を除いて日本国には但一人なり」ともあり、比叡山を認められているかのようであるが、既に比叡山の天台宗は過去の仏法であり、日蓮大聖人に帰依する以外にないことを強調されているのである。
此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり
大聖人が立正安国論を著わし、北条時頼に諌暁されたのは、国土の恩を報ずるためであったと申されているのである。
恩については、報恩抄に父母の恩・師匠の恩・三宝の恩、国王の恩、四恩抄には一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩、三宝の恩が説かれている。ここで「国土の恩」と申されているのは、以上の「国王の恩」と同意と拝せられる。特に国土と限定されている所以は、立正安国論そのものが、謗法を禁じて三災七難を退治し、正法を立てて仏国土を建設する要術を説かれているからである。
すなわち、四恩抄に国王の恩を次のごとく述べられている。
「三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや」(0937:18)。
天の三光とは、太陽、月、星である。この三つが人間生活に及ぼす影響は、あまりにも偉大である。太陽エネルギーの莫大な数値、月の引力が大海の潮汐を生ぜしめていること、また人体においては血液の流れ等にも、その影響があらわれているといわれる。
こうした唯物的観点からの影響にとどまらず、太陽、月、星の光が精神活動に及ぼす関係性も、筆舌に尽くしがたいものがある。しかして、これが国土によって千差万別の様相を呈するのである。
太陽そのものに変わりはないが、たとえば北欧等の民衆は、寸暇を惜しんで太陽光線を浴びようと求める。それに対して、アラビアの砂漠の民にとっては、太陽は恐るべき灼熱である。あるいは、まったく人間の生存を許さない国土もある。
今われわれが、四季の変化に富んだ自然の恩恵を受け、それに応じて衣食住でも種々の楽しみをもたらしてくれるのは、ひとえに日本という国土による。その国土が乱れ、廃れるのを防ぐことは、国土の恩を報ずる道である。すなわち、妙法流布による仏国土建設は、国土の恩を報ずる究極の要諦といえよう。
このように「報恩」というと、前時代的な封建思想であるかのごとく考える風潮がある。知恩報恩は人倫の基礎的概念であり、これを知らざることは、動物に等しく、また動物に劣るのである。民主主義が人間性の尊重を基盤とする思想である以上、民主主義確立の根本的支柱は、真の知恩報恩観にあるといわなければならない。
伝教大師の公場対決
真に民衆が幸福生活を営なんでいける理想社会を実現するためには、正法を広宣流布する以外にない。しかして正法を広宣流布するには、国家諌暁して謗法を禁じさせなければならない。そのためには、公場において対決し、仏法の正邪を明らかにする必要がある。古来、仏法の流布は常に国主の前における公場対決によって行われた。
これは、君主政なるがゆえに、必然的にとられた方法であって、主権在民の現代における公場対決とは、個々の折伏に依る以外にない。すなわち、いかなる宗教をもった人が民衆を幸福にし、社会を繁栄させる力があるか、いかなる宗教をもった人が名聞名利の徒であり、私利私欲に明け暮れて、社会を不幸と混乱におとしいれているかを国民大衆の判定を待つのである。
伝教大師の高雄寺での法論は、彼が36歳の時で、これによって南都六宗の日本仏教は初めて統一され、法華最勝の義が宣揚され、また天台大師の五時八教の教判、理の一念三千、三諦円融の法門等が最高の理法として認められたのである。時の桓武天皇からは「像法の伝燈、古今末だ聞かず」との勅宣を賜わり、南都六宗の磧学14人は謝表を作って天皇に差し出した。14人の謝表にいわく、
「竊に天台の玄疏を見れば総じて釈迦一代の教を括って悉く其の趣を顕すに通ぜざる所無く独り諸宗に逾え殊に一道を示す其の中の所説甚深の妙理なり七箇の大寺六宗の学生昔より未だ聞かざる所曾て未だ見ざる所なり三論法相久年の諍い渙焉として氷の如く釈け昭然として既に明かに猶雲霧を披いて三光を見るがごとし聖徳の弘化より以降今に二百余年の間講ずる所の経論其の数多く彼此理を争えども疑未だ解けず、而るに此の最妙の円宗未だ闡揚せず蓋し以て此の間の群生未だ円味に応ぜざるか、伏して惟れば聖朝久しく如来の付を受け深く純円の機を結び一妙の義理始めて乃ち興顕すし六宗の学者初めて至極を悟る此の界の含霊今より後悉く妙円の船に載り早く彼岸に済ることを得と謂いつべし、乃至善議等牽れて休運に逢い乃ち奇詞を閲す深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」云云。
意味は、聖徳太子の仏教興隆以来、華厳、法相、三論、俱舎、成実、律の六宗に分かれ、互いに論議しあってきたが、いずれが最高の法理か、いかなる教えが釈尊の本意か、疑いが解けなかった。しかるに、伝教大師によって、天台法華宗の甚深の妙理を知り、これらの疑いがことごとく氷解し、あたかも雲や霧が晴れて日・月・星の光を見るごとくである。これより以後、一切衆生は、皆妙円の大法によって成仏得道することができる。南都六宗の大将となった三論の善議以下、この聖代に巡り会ったのは、深い宿縁によるものといわねばならない、というものである。
伝教大師は、これより弘仁13年(0822)、56歳で入滅されるまでの20年間、天台宗学生式を制定し、顕戒論、守護国界章、法華秀句等を著わし、南都東大寺の小乗戒壇を廃して比叡山に法華迹門の大乗円頓戒壇を建立すべきことを唱えた。この伝教の意志は、滅後7日に聴許され、義真の手によって建立されたのである。
以来、比叡山は、代々の天皇の厚い帰依を受け、天台座主は国師として国民の尊敬を一身に集めた。政治にも、仏法の慈悲が具現され、平安朝の黄金時代を湧現したのである。だが、伝教、義真の法華最勝の正義は、第二代座主円澄から、真言密教に毒され始め、第三代慈覚からは、理同事勝の邪義を構えるにいたった。加えて世は像法を過ぎて末法となり、天台法華宗は、まったく功力のない、単なる形骸と化してしまった。
今末法において、唯一の正法は、日蓮大聖人御自身の法、すなわち、事行の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。
内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず
善につけ、悪につけ、一切の事には必ずその先ぶれ、前兆がある。これが瑞相といい、善事の瑞相を吉相、悪事の瑞相を凶相というのである。
このことは、ある一つの事件は、それぞれ単独で突発的に起こるものではなく、さまざまな要素が集まり、それが作用しあって形成されるものである。したがって、その要素が最も有効に組み合わさって、大事件を招来する前は、種々の形で小規模な事件を発生させるのが普通である。その全体的な因果の連関を見透す力ある賢明な人は、小さい事件をもっても、後に起こってくる大事件を推察することができる。愚鈍な人は、小事件に気づかず、または気づいたとしても、その意義を知らないで看過してしまうのである。
気象条件によって厳しい生活を左右される山間等においては、気象学のない時代から、どういう時に初雪が降り、どんな風が吹くと大雪になるか、また、どのような条件の時にナダレが起きるか等がわかる。いわゆる古老と呼ばれる人がいたものである。海についても、河についても、平地においても、同様である。
それは一見、まったく関係のないことを判断の基準にしているようにも思える。だが、よくよく科学的に分析してみると、けっして根拠のない、迷信ではないことも多い。同じく、今、経文で瑞相として挙げられていることは、仏法哲理という最も広く深く高い原理を体得した立ち場で論じられているのである。現代科学は、この仏法哲理のごく限られた一面を、その一部分だけ解明しているに過ぎない。ゆえに、無智の人から見れば、まったく無関係なことのようで、したがって、そうした物の間に関係性を主張するのは非科学的、迷信的のごとく思われるのも仏法哲理に照らすならば、そこには厳然として関係性がある。
本文の講義でしばしば論じてきたように、依正不二の哲理に照らし、今、大聖人が彗星・地震・飢饉・疫病等を他国侵逼の大難の前相とされたことは、絶対の真理にもとづかれているのである。
一体に、一つの事を見て、ただそれだけのこととしてしまうのか、その奥底にあるものを見るかは、観察者の洞察力による。医者は、身体にあらわれた体温や皮膚の色や動悸等の変調を見て、病気の正体を察知する。気象学者は、気温や風の方向、強さ、温度、気圧をもって、どのような気候の変化が起こるかを予知する。経済学者は、株価の変動や物価の動向等を見て、経済変動を推知することができる。これらは、皆、医学、気象学、経済学等の学問体系を身につけた人にとっては、その法則性にのっとって、必然的に結論できるもので、これを迷信的というのは、これらの法則性を知らない人の盲目あるがゆえである。
仏法は、生命の本源的な法則性を解明し、そこから社会現象、自然現象、ひいては天文現象にいたるまですべてを包含した法則性をあますところなく究明しきった哲学である。ここに仏法の偉大な瑞相観がある。
瑞相御書にいわく、
「夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる、眼根をば東方をもつて・これをつくる、舌は南方・鼻は西方・耳は北方・身は四方・心は中央等これを・もつて・しんぬべし、かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし・されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木かれ江河つくるしるしあり人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す」(1140:06)と。
衆生とは生命であり、依報とはこの生命の存在する環境、世界である。生命は体、環境世界はその影であると共に、生命はまた環境世界をもって作られていると述べられている。前者の原理を解明せんとしている学問が現代心理学者であり、また現代医学の新しい方向といわれる精神身体医学も、同じである。西欧の哲学思潮でいえば唯心論であるが、東洋哲学においては唯識論等、はるかに深く究明している。唯識論者とは一切の法は皆心や識の転変であり、実有なるものは心識のみであるという哲学で、西欧の観念論や唯心論と似ているが、はるかに組織的、理論的で、すぐれているのである。だが、それは、仏法哲理の一分を取り上げているに過ぎない。
後者の原理を解明せんとしているのは、生物学、科学等の自然科学、また政治、経済、社会等の社会科学である。一般に現代科学は依報が正法を形成し、規制するとの前提に立っている。哲学思潮でいえば、マルクス主義等の唯物論がこれであるが、その学理的深さは、インドのバラモンのマヒダーサ、パグダハ、ブリハスパティあるいは勝論派によって展開されたものにさえ及ばない。いわんや仏教の中にはいると、華厳経には、現代科学にも匹敵する天文学説や素粒子論を展開しているのである。
仏法哲学は、この両面を共に而二不二として包含し、最も深く、最も正しく実相を解明しているのである。この仏法哲学を体得する時、一切の現象は、鏡に映すごとく瞭然とし、誤りなく見透すことができるのである。
開目抄に「天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」」(0187:04)と。
観心本尊抄に「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(0254:16)。
瑞相御書に「されば天台大師の云く「世人以蜘蛛掛れば喜び来り翫鵲鳴けば行人至ると小すら尚徴有り大焉ぞ瑞無からん近きを以て遠きを表す」等云云」(1140:14)と。
船守弥三郎許御書にいわく「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門・常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし」。
寿量品に云く『顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ』とはこれなり、迷悟の不同は沙羅の四見の如し、一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ。
雪山童子のまへにきたりし鬼神は帝釈の変作なり、尸毘王の所へにげ入りし鳩は昆首羯摩天ぞかし、班足王の城へ入りし普明王は教主釈尊にてまします、肉眼はしらず仏眼は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥の飛行するあとあり此等は経文にみえたり」(1446:04)云云と。
したがって、瑞相御書はけっして非科学的な迷信ではなく、むしろ、最も科学的な法則性によって、智慧の眼を開いたものといえるのである。
但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず
日蓮大聖人が謗法を攻撃し、正法に帰依せよと国家諌暁されるのは、国を救わんがために、令法久住のため、民衆の幸福のためであって、けっして自分の名誉や利益のためではない。との意である。
このようにいうだけなら、大聖人以外の各宗の教祖たち、政治家たちも口にする。だが、それを身をもって実践されたのは、日蓮大聖人以外にはない。かの松葉ヶ谷草庵の焼き打ち、小松原の法難、伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪等、大聖人が一生の間に遭われた迫害を思い浮かべるとき、瞭然ではないか。
そこには一分たりとも自己保身の妥協はない。緊張の連続であり、苦難の連続の御一生であられた。大聖人の無罪が明らかとなり、佐渡流罪が赦免になって鎌倉に帰ってこられた時、幕府は大聖人に寺を与え、布教を許可しようと申し出たのであった。しかし、大聖人のお心は、そんな所にある道理がなかった。国家、民衆の救済が目的であり、そのためには国じゅうにはびこっている念仏等の謗法を禁ずることである、と言いきられた。
平左衛門尉頼綱ら幕府当時者が、これに従うはずもなく、大聖人は「三度諌めて用いられずんば聖人は所を去るべし」との故事にならって、身延に入り、以後9年間、悠々たる境涯の中に、弟子を育成し、大事の法門を認め、なかんずく弘安2年(1279)10月には出世の御本懐である「一閻浮提総与の大御本尊」を建立されたのである。これ、末法流布の大白法、三大秘法の法体の広宣流布にほかならない。
戦時中、牧口初代会長は、一国謗法を見て敢然と国家諌暁を叫ばれた。「一宗の亡びるのを嘆くのではない。一国の亡びるのを悲しむのだ。それが大聖人の御精神ではないか」と。救国のため、民衆救済のため、しかして護法のため、華と散られた牧口会長の精神こそ、大聖人の御心に叶い、創価学会の永久不滅の指針である。
願わくは、広宣流布の暁まで、全学会員が火の玉となって、国のため、法のため、人のために、死身弘法しきっていこうではないか。