安国論奥書
文永6年(ʼ69)12月8日 48歳
文応元年太歳庚申これを勘う。正嘉にこれを始めてより、文応元年に勘え畢わんぬ。
去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、戌亥剋の大地震を見てこれを勘う。その後、文応元年太歳庚申七月十六日をもって、宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり。その後、文永元年太歳甲子七月五日、大明星の時、いよいよこの災いの根源を知る。文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後正月十八日に至るまで、九箇年を経て、西方の大蒙古国より我が朝を襲うべきの由、牒状これを渡す。また同六年、重ねて牒状これを渡す。既に勘文これに叶う。これに準じてこれを思うに、未来もまたしかるべきか。この書は徴有る文なり。これひとえに日蓮が力にあらず、法華経の真文の至すところの感応か。
文永六年太歳己巳十二月八日、これを写す。
現代語訳
立正安国論は文応元年に述作した。正嘉の時から勘え始めて、文応元年に勘え終わったのである。
去る正嘉元年八月二十三日午後九時ごろ起きた大地震を見てこれを勘えた。その後三年を経て、文応元年七月十六日に宿屋左衛門入道光則を通じ、故最明寺入道北条時頼殿にこれを奉ったのである。その時、文永元年七月五日の大彗星の時、いよいよその災難の根源を知った。文応元年より文永五年の閏正月十八日にいたるまで九ヶ年を経過して、西方大蒙古国から日本を襲う旨の牒状がもたらされた。また同じく翌六年には重ねて牒状がきた。すでに安国論に予言したことはぴったりと的中し、現証となってあらわれたのである。これに準じて思うに、未来もまた安国論の予言は必ず的中するであろう。この安国論は、そのように現証を伴った力ある書なのである。これひとえに日蓮の力ではない。法華経の真文の感応のいたすところの力である。
文永六年十二月八日 これを写す。
語釈
太歳
太歳とは、中国の戦国時代の半ばごろに、木星が天を一周するのに十二年かかることが観測され、木星の位置を明示して一般の共通紀年法とすることから始まった。すなわち、黄道赤道に沿った一周天を卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅の順に十二次に等分し、年ごとに木星のあるところの次に従って、その年に命名することにしたのである。木星を歳星といったので、これを歳星紀年法という。ところが、当時すでに周天には歳星の運行とは逆の向きに十二支が配されていたので、歳星は寅から丑・子・亥……と逆方向に進むことになり、混乱を生ずることとなった。そこで、歳星と逆向きに進行する歳星の影像を仮想し、これを太歳または歳陰と名づけ、歳星が丑にあるときは太歳は寅にあり、翌年歳星が子にあるときは太歳は卯にあるということにした。このように太歳の所在によって、正しく子・丑・寅……の順序に進むようにしたのが、太歳紀年法または歳陰紀年法である。したがって、この十二支だけでは十二年で一周してしまうので、十干を組み合わせ、六十年周期にして年紀を示したものである。この十干十二支の方法は、中国殷代につくられた十進法および十二進法で、十干は一太陰月を上中下の三旬(じゅん)に分け、その一旬十日の毎日につけた記号から始まったといわれる。十二支は一年十二か月を示すための記号から起こったという説がある。ただし、十二支の子をネズミ、丑を牛というように動物をあてはめたのは中国・戦国時代からである。干支は殷・周時代はおもに日を数えるのに用いられ、年月を数えるために用いられるようになったのは戦国時代から、さらに一日を等分して時間を示すために用い始めたのは漢代からといわれる。また、方向を示すために用いられるようになったのは戦国時代からである。十干十二支とは幹と枝に見立てた呼称で、母子に見立てて十母十二子と呼ばれたこともある。現在、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を甲・乙・丙・丁……とよぶのは、陰陽五行説の影響で、木・火・土・金・水の五行に兄弟を付して「木の兄」「木の弟」……というように十干によび名をつけたものである。
(木) 甲 乙
(火) 丙 丁
(土) 戊 己
(金) 庚 辛
(水) 壬 癸
正嘉元年……大地震
正嘉元年(1258)8月23日、午後九9時ごろ鎌倉地方を襲った大地震のこと。吾妻鏡には「廿三日 乙巳 晴る。戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顚倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」とある。この時の惨状が「立正安国論」を著される契機となった
宿谷禅門
生没年不明。鎌倉時代の武士。北条氏得宗家被官である御内人。日蓮大聖人の立正安国論を時頼に取り次いだ人。宿屋左衛門入道ともいう。諱は光則。法名は最信。吾妻鏡巻五十一には弘長3年(1263)11月、時頼の臨終に際して最後の看病のため出入りを許された七人の中に挙げられている。もと極楽寺良観に帰依し律と念仏を信仰していたが、後に大聖人の教えを信ずるようになったと伝えられる。
講義
この奥書は、文永6年(1269)12月8日、日蓮大聖人が御自身で立正安国論を書写された時に加えられたものである。日寛上人の安国論文段には、災難のおこる原因を三つ挙げられ、次のように仰せである。
「一、災難興起の事 今・仏家によりしばらく三義を明かさん。一には万民の業感によるゆえに、いわく悪業の衆生ともに同時に生ず、業感によるがゆえに災難を招くなり、これ国王に関するにあらず万民みずから招くのみ、堯代九年の水渇の時・七年の早のごときこれなり。
二には国王・理に背くによるゆえに。いわく国王不明にして教令・理に背くゆえに天これを罰するゆえに災ありこれ万民に関わるにあらず国主みずから招くのみ孝婦しからざるの誅・忠臣霜を降らすの囚のごときなり。
三には、誹謗正法によるゆえに、いわく当論・所引の四経の文のごときこれなり、これすなわち国王万民・天下一同に招く所の災難なり。
まさに知るべし初めの義のごときも遠くその本を論ずるときはいずくんぞ知らんこれ無始の誹謗正法の業感にあらざることを、また第二の義も、世法の理に背くは即・仏法の理に背くなり、仏法の理に背くは即、これ謗法なり、もし深く仏法を識れば世法・即これ仏法はこれなり、もしこの三義を暁せば往いて通ぜざることなきかな」と。
この前年、文永5年(1268)正月には、蒙古から牒状をもって使者が到来し、日本は国中をあげて大騒ぎした。表面上は親交を結びたいという穏やかな文章であるが、真意は蒙古の属国となり貢ぎ物を持ってこいという脅迫状だったからである。その文面は次のとおりである。
「上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕惟うに、古より小国の君も、境土相接すれば、尚努めて講信修睦す。況んや我が祖宗は天の明命を受けて、区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ徳に懐つく者は悉くは数うべからず。朕即位の初、高麗の無辜の民、久しく鋒鏑に瘁るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆城を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は感戴して来朝せり。義は君臣と雖も歓は父子の若し。計るに王の君臣またすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬に至って一乗の使もって和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること未だ審かならざるを恐る。故に特に使を遣し書を持たしめ朕が志を布告す。冀くば今より以往、通問して好を結び、以って相親睦せんことを。且、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用うるに至る。それ孰んぞ好むところならん。王、それ之を図れ。不宣。
至元三年八月日」
この国書をもった使者、高麗人藩阜が対馬に着いたのが文永4年(1267)11月で、年を越して1月大宰府にはいった。これは現地最高識者である鎮西奉行・少式・武藤資能によって受理され、約40日後の閏正月上句に鎌倉に届けられた。時の幕府では、時頼の叔父で高齢の政村が時頼および長時の死後、時頼の嫡子の時宗が成長するまでの間を担当して、執権職についていた。
この重大事態に対して、幕府はみずから決定を下さず、それをさらに2月7日、京の朝廷に上奏した。朝廷では、それから連日会議を重ね19日に「返牒あるべからず」と議決したのである。すなわち、このことは、蒙古のいう「兵を用うるに至る」自体を覚悟しなければならないということにほかならなかった。
国をあげて異国牒伏を祈願
朝廷では2月15日、全国の諸大社に勅を発し、蒙古の難を告げて祈禱した。幕府は、2月27日西国の御家人に「異敵」の襲来にそなえるよう指令を発した。そして、3月5日には、幕府が連署となり、18歳の時宗が執権となった。
蒙古の使者は、7月まで大宰府で待ったが、いくら嘆願しても返書がもらえず、空しく帰っていった。高麗から蒙古へは「努力するも得ずして帰る」と報告された。蒙古の世祖フビライがこんな返事で満足するわけがない。世祖から高麗へ命令が下され、文永6年(1269)3月、蒙古国使8人、高麗人4人、従類70余人という使者が対馬に着き、押し問答のあげく、一行は塔二郎と弥三郎という2人の島民を捕えて江島に帰っていった。2人は、それから首都・燕京の宮殿まで見物し、7月下句、再度使者と共に日本へ連れ戻されてきた。この一行が対馬に着いたのは9月17日で、やがて大宰府に到着した。
朝廷では、今度は返書を送ろうということになって、菅原長成が草案を作った。内容は日本は神国であるから威嚇には屈しないというものであった。だが、これは幕府で握りつぶされ、蒙古の牒状が無礼だという理由だけ申し渡して、使者は送り返された。
このような蒙古の使いの渡来が、どれほど民衆を動揺させたか。文永5年(1268)の使者渡来の際、宮中の仏事のために上京していた東大寺尊勝院の宗性という僧が、問題の国書を写しをとったものが東大寺に現存している。宗性はその奥書に「当世天下無双の大事件である」と記している。この一事をもってしても、並々ならぬ動揺ぶりであったことが伺えよう。
朝廷が各大社に祈禱させ、幕府が西国御家人に対して戦いの準備を命じたことは前述した。幕府のとった具体的対策として、異国警護番役がある。これは、現在の福岡・佐賀・長崎の三県にあたる筑前・肥前の二ヵ国沿岸の要衝地を、一ヵ月交代の輪番で守護するものである。これに服務するのは、九州に所領をもつ幕府配下の武士全員が当てられた。この当時の御家人は、本領地は関東にあっても、諸国に所領をもっているという事例がほとんどであった。これまで、自分は本領地にいて、九州の所領には一族や従者を代官として送っていたという御家人も、全部九州下向を申しつけられたのである。
また、軍事費については、日本全土にわたって土地調査を行ない、所領の地名、広さ、領主氏名を明らかにして、それに応じて負担させることにした。この時の調査の対象は、地頭、御家人等の幕府直属の配下のみでなく、社寺領、荘園、国衙領にまで及んでいる。このことは、文永5年(1268)の使者到来の時、幕府が朝廷に奏上して、決議を仰いでいるのに対し、全面的に幕府が指導権を握っていたことを意味する。先の朝廷方作成の返書を幕府が握りつぶしたのも、そのような変化の氷山の一角といえる。政村と時宗の違いともいえよう。
相次ぐ牒状到来と十一通御書の提出
いずれにしても、国内は、嵐に襲われるように、不安と動揺の渦中に巻き込まれたのである。日蓮大聖人は、文永5年(1268)8月21日、使者が渡来したことを聞かされ、先に安国論を時頼に渡す仲介となった宿屋入道に、次のように書き送られている。
「其の後は書・絶えて申さず不審極り無く候、抑去る正嘉元年丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘えたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を作して起す所の災なり、若し此れを対治無くんば他国の為に此の国を破らる可きの由勘文一通之を撰し正元二年庚申七月十六日御辺に付け奉つて故最明寺入道殿へ之を進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり、而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか、委細の旨は見参を遂げて申す可く候」(0169:01、宿屋入道への御状)と。
同年10月11日、北条時宗・宿屋左衛門光則・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺の11ヵ所に当てて、書状を認められ、大聖人は公場対決を迫られたのである。既に、日蓮大聖人が9年前の文応元年(1260)に、立正安国論をもって予言されたことが事実となって現われてきたのである。ゆえにこの未曾有の国難を救うのは自分以外にない。しかるに幕府は、いまだに謗法に執着し、ますます謗法によって、敵国降伏を祈っている。この上は、公場において、大聖人と彼ら邪宗との正・邪を決し、謗法執着の根を断たねばならぬとの大慈大悲の御精神のほどばしりであった。
しかし、この大聖人に返ってきたものは、悪口であり、沈黙であり、欺瞞であった。種種御振舞御書には「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうや・この事は上の御大事いできらむのみならず各各、の身にあたりて・をほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり、此れひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵となりてとしひさしくなりぬれば大禍のつもり大鬼神の各各の身に入る上へ蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり、」(0909:08)と述べられている。
「鉢の木」にみる鎌倉時代の政道の法
ここで「政道の法」云云と申されているのは、幕府の体制は法度・式目による法治制が守られていた。平左衛門が勝手に処理することはこれに反するのである。また、鎌倉幕府の武家政治を単に上意下達式のものとしか知らない人には信じ難いことであろうが、草創期の幕府は、きわめて下部武士団の意見を尊重し、政治に取り入れているのである。その具体的なあらわれが、北条泰時や時頼をめぐる数々の美談である。
たとえば、泰時にはこんな話がある。ある男が生活に困って所領を売ったところ、その息子が買い戻してやった。ところが、父親は、所領を買い戻してくれた息子ではなく弟の方に譲ってしまった。それがため、兄弟の間で相続争いが起こるという事件があった。これを裁いた泰時は一応、親の意志を重んじて弟の勝訴とし、一方、兄の方は自分の家に養っておいて、しばらくして兄の本国に父の遺領より大きい没収地があったので、これを与えた。
また、時頼については、謡曲で有名な「鉢の木」の話がある。一人の旅僧が信濃国から鎌倉に向かう途中、上野国左野の辺りで大雪にあって、ある家に一夜の宿を請うた。宿の主人夫婦は貧しい暮らしで、粟飯で僧をもてなし、また、秘蔵の梅・松・桜の木を燃やし僧をあたためた。僧が素性を尋ねると、主人の名は佐野源左衛門尉常世といって、もとは佐野荘三十余郷の領主であったが、一族の者に奪われてこのように落ちぶれている。だが、もし鎌倉にいったん、事があれば一番に馳せ参じて忠勤を励む覚悟だと語る。翌朝、僧は名残り惜し気に立ち去っていったが、まもなく鎌倉から諸国の軍勢へ召集がかかった。佐野源左衛門は痩せた馬に鞭うってかけつける。すると、執権時頼が、いつかの旅僧は自分であったと身分を明かし佐野が言葉に違わず参上したことを激賞し、本領を返した上、雪の夜のもてなしの返しとして鉢の木にちなんで、加賀国梅田庄、越中桜井庄、上野国松井田庄を与えるという話である。
こうした泰時、時頼のエピソードの真偽については議論もあろうし、また、その背景として、幕府内部の複雑な事情から、執権と御家人の結びつきを緊密化せざるをえなかったということ等も挙げられはしよう。だが、幕府それ自体が、いわゆる封建的な制度によってよりも、人間的な主従関係の結合によってささえられていたがゆえに、こうしたエピソードが生まれる可能性も素地も充分にあったのである。
今、大聖人が種種御振舞御書で「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし」(0909:08)と申されているのは、まことに、現代の民主政治に通ずるものがあるではないか。残念なことに、現在の政界は、大臣・議員・官僚ともに、利己の利害と関係することには鋭敏に応ずるが、関係のないことには全く無責任であり冷酷である。これは、形体は民主主義になっていても、封建制度化の権威主義的為政者精神そのままを受け継ぐ、時代遅れな人間の政権にたずさわっているためにもたらされた弊害にほかならない。「いわうや・この事は上の御大事」云云とは、大聖人の私事であっても取り上げるべきであるのに、まして、これは幕府・国家・民族の存亡に関する大事であり、各人にとっては、現世には蒙古軍に捕われ、殺され、来世には謗法の大罰によって無間地獄に堕ちなければならないという、恐るべき問題であるとの意である。
このような「自分が今、正義を叫ばなければ日本は滅びる。もとより、叫べば難の競い起こることは覚悟の上だ」という、日本国民としての連帯意識、日本民族の運命に対する強い強い責任感、これは大聖人が末法御本仏であられるとの議論を全く抜きにしても、後世の無責任な学者等が批判すべき筋合いのものではない。かえって、自己の愚かさを暴露するだけであろう。大聖人の偉大な精神、境涯に深く敬慕して、その哲理を謙虚に求めるべきである。
既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか
10年前の文応元年(1260)に予言されたことが、すでに事実となってあらわれた。ゆえに、未来において、同じように謗法を重ね、正法を隠没するならば、必ずまた同様の結果を招くであろうとのお言葉である。正しく、この御金言のごとく、700年後、日本は一国大謗法のすえ、敗戦、亡国を招いた。
だが、その半面「汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ、然れば三界は皆仏国なり」云云も、大聖人が未来に残された予言である。
われわれは、悲哀すべき亡国の予言が事実となったことを知った。しからば、これからは、歓喜すべき予言も事実であることを確信して、一国、民族、さらに世界人類の宿命の大転換を成し遂げようではないか。