当体義抄1

当体義抄

 文永10年(ʼ73) 52歳 最蓮房

  1. 当体義抄 序講
    1. 第一 本抄の御述作の由来
    2. 第二 本抄の位置
    3. 第三 本抄の大意
    4. 第四 当体蓮華と譬喩蓮華
      1. (一)天台大師の譬喩蓮華
      2. (二)当体蓮華について
      3. (三)法華経と当体・譬喩蓮華
  2. 第一章(十界の事相に約す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり
      2. 所謂諸法・乃至・本末究竟等
      3. 実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土
  3. 第二章(十界の事相の所以を釈す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 染浄の二法
      2. 無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る
      3. 法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云
  4. 第三章(信受に約す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 総別の二義について
      2. 当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり
      3. 大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す
      4. 法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず
      5. 故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり
      6. 所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり
      7. 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は……三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
      8. 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり
      9. 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず
  5. 第四章(当体蓮華と譬喩蓮華を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし
      2. 因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す
      3.  此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し
      4. 之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり
      5. 聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり
  6. 第五章(如来の自証化他を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して
      2. 五百塵点劫の当初について
      3.  世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり
      4. 妙覚の極果の蓮華を得るなり
  7. 第六章(本地の所証を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 三周の声聞と当体・譬喩蓮華
      2. 当体蓮華の現証
      3. 日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり
  8. 第七章(結要付嘱の法体を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 結要付嘱と当体蓮華
      2. 我が昔の所願の如き今は已に満足す
      3. 故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるなり
      4. 爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有つて具足の道を聞かんと欲す云云
  9. 第八章(当流の法門の意を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 二十八品の始に妙法蓮華経と題す此の文を出す可きなり
      2. 妙法蓮華とは二種の義有り
  10. 第九章(如来在世の証得を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 迹門開三顕一の蓮華
      2. 開近顕遠の当体蓮華
      3. 本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華
      4. 当分の断惑と跨節の断惑
      5. 五十小劫……半日の如し
  11. 第十章(末法の衆生の証得を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多し
      2. 然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり
      3. 本門寿量の教主について

当体義抄 序講

当体義抄の講義にあたり、まずその序講として、
   第一に本抄の御述作の由来を明かし、
   第二に本抄の諸御抄における位置を論じ、
   第三に本抄の大意を論じ、
   第四に当体蓮華と譬喩蓮華について論ずることにする。

第一 本抄の御述作の由来

当体義抄は、著作の年代、場所、宛名も記されていないので、その由来については詳らかではない。だが、誰に授与されたかは「当体義抄送状」に、最蓮房に伝うとあるところから、明らかである。いちおう日蓮大聖人が佐渡流罪中の文永10年(1273)聖寿52歳の時、一の谷において御述作されたとされているが、異説もある。
 大聖人は、文永8年(1271)9月12日竜の口の法難後、佐渡に流罪され、文永11年(1274)3月13日、離島されるまでの約2年半を、北海の佐渡で不自由な生活を送られた。
 しかしながら、実に、この時期こそ、最も重要な数々の法門を説かれたのである。まさに竜の口法難において発迹顕本された、久遠元初の御本仏の所作以外の何ものでもない。なかんずく「開目抄」において人本尊を開顕し、また「観心本尊抄」によって法本尊を示されたのである。本抄も、この開目抄、本尊抄の宗門の二大柱石ともいうべき御抄と並んで、大御本尊を信ずるものの証得を明かされた甚深の御書である。
 本抄がいかに重要な御抄であるかは、次の送状の御文に伺い知れる。
 「問う当体の蓮華解し難し故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠有るか、答う経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す」云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり、譬喩は知るべし以上後日に之を改め書すべし、此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり、日蓮最蓮房に伝え畢んぬ」(0519:01)と。
 本抄を賜わった最蓮房とは、詳しくは最蓮房日浄といい、かっては天台の学匠であったが、佐渡流罪中の文永9年(1272)2月に大聖人の門下になったことが、最蓮房御返事に見えている。相当学識のあった人のようであり、天台の法門についてかなりつっこんだ質問をしている。だが、大聖人は、これらについて、すべて文底の奥義から論ぜられている。
 しかも、病弱であった最蓮房を激励し、祈祷経送状には「仮使山谷に篭居候とも御病も平癒して便宜も吉候はば身命を捨て弘通せしめ給ふべし」(1357:01)と、たとえ山谷にこもっていても、病気が平癒したなら身命を捨てて法華経を弘めるべきであると指南されている。弘安3年(1280)7月に与えられた十八円満抄にも「末法に入つて天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は必ず無間大城に墜ちんこと疑無し、貴辺年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う真実・時国相応の智人なり 総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし」(1367:10)と末法今時における天台の修行法は堕地獄の因であるから、大聖人門下となったからには南無妙法蓮華経を修行すべきであると厳しく指導されている。
 ともあれ、大聖人が佐渡に流罪され、まもなく門下になったことを思えば、宿縁深厚の人であったことは事実である。諸法実相抄の追伸にいわく「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」(1362:01)とあり、賜わった御書は、本抄のはかに「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「諸法実相抄」「祈祷抄」「十八円満抄」ほか数々あり、いずれも甚深の法門が明かされている。佐渡流罪中に門下となった宿縁の故であろうか。だが、大聖人は、本抄を著わされたのは後世のためであったことは、送状に「国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり」とあることからも察せられる。
 ここに「国主」とは、社会的権力を行使できる指導者の意である。

第二 本抄の位置

本抄の大意を論ずるにあたって、まず本抄の諸御抄中における位置を明らかにしたい。すなわち「開目抄」と「観心本尊抄」と「当抄」を教行証に配することができる。
 すなわち、開目抄は教行証のうち教の重に、観心本尊抄は行の重に、本抄は証の重にあたるのである。教行証の教とは仏の所説の教法、行とは教法によって立てた行法、証とは教行によって証得される果徳をいう。仏の教法は衆生の機根と相応するものであるから、すべての教法がつねに行証をともなうとはかぎらない。機により所によって、一つの教法によって修行が行われ、証得のある時代もあれば、逆に、その教法はあるが修行する人もなく、修行があっても証得する人がいない時代もある。ただ日蓮大聖人の法華経、三大秘法の南無妙法蓮華経の立場からみるならば、教行証の三つが具備しているのである。
 教行証御書に「末法には教行証の三つ倶に備われり例せば正法の如し等云云、已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし」(1283:02)と。
 次に教行証の配当を詳しくみると、はじめに開目抄が教の重となるのは、開目抄において、一代諸経の勝劣・浅深を判じているからである。その一切経の勝劣・浅深を判ずるに、五重の相対をもってしている。
   一に内外相対、通じて一代の諸経をもって外典外道に対して経を論ずる。開目抄に「一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」(0188:11)と
   二に権実相対、八か年の法華経をもって真実とし、四十余年の権教に相対して論じられている。開目抄に「大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給し」(0188:15)と。
   三に権迹相対、迹門の二乗作仏をもって爾前の永不成仏に相対して論じている。開目抄の結文に「此の法門は迹門と爾前と相対して爾前の強きやうに・をぼゆもし爾前つよるならば舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし・いか・なげかせ給うらん」(0195:18)と。
   四に本迹相対、本門をもって爾前迹門にてこれを論ずる。開目抄に「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す」(0197:15)と。
   五に種脱相対、寿量品の文上は脱益、文底は下種である。開目抄に「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:02)と。
 一念三千文底秘沈とは、但法華経の、但本門寿量品の、但文の底に沈められていると読むべき意で、権実、本迹、種脱の相対が明らかである。この種脱相対は本抄においては「彼は脱此れは種なり」(0249:如来滅後五五百歳始観心本尊抄:17)判ぜられ、また常忍抄に「日蓮が法門は第三の法門なり」(0981:08)とも判ぜられている。
 以上のように、五重の相対して、はじめて日蓮大聖人の御本懐に達するのである。
 諸宗の者は、ただ内外相対のみを知って、そのほかの相対を知らず、あるいはまた本迹一致派の徒は本迹相対を知らず、勝劣派といえども本迹相対までは知っているが、種脱相対を知らないのである。ゆえに大聖人の法門に到達することができないのは、理の当然である。妙楽大師は「諸の法相は所対によって同じからず」といい、大聖人は法華取要抄に「所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」(0332:07)と仰せられている。このような御金言があるにもかかわらず、他門流の者がこのことを知らないのは、哀れむべきことである。まことに法門を論ずるには、この判定の基準がなければ、空論となることを知らねばならない。
 次に、観心本尊抄が行の重であるということは、観心本尊抄に受持即観心の義を明かしているからである。
 観心本尊抄に「無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等云云、法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、涅槃経に云く「薩とは具足に名く」等云云、竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云、無依無得大乗四論・玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法には六を以て具足の義と為すなり」吉蔵疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」天台大師云く「薩とは梵語なり此には妙と翻ず」等云云、私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給」(0246:11)と。
 まず引く所の無量義経の「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」とは、因位の万行が妙法五字に具足するの義を顕わしているのである。因位しかり、果位が具足するのも当然である。故にこの妙法五字を受持すれば、因位の万行、果位の万徳が自然に具わるのである。その次の文も同じである。一切諸仏の因位の万行、果位の万徳は、皆ことごとく妙法五字に具足する。故に末法下種の大御本尊の功徳は無量無辺であり、広大深遠の力用を具備しているのである。われらは、妙法を受持することにより何らの行功もなく、三世諸仏の万行万善の功徳を受得することができるのである。
 三に当体義抄が証の重であるとは、御本尊を受持することによって、わが身が妙法蓮華経の当体と顕われることを説き明かした御書だからである。
 当体義抄に「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518:15)と。
 また同抄に「本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512:12)と。まさに妙法を持った人は、事の一念三千の当体としての自己を確立し、生命活動のうえで、また生活活動のうえで、最高の生命活動、最高の生活を営み、幸福を満喫していけるのである。それはあたかも、白馬に乗って天空を翔けめぐるがごとく、自由自在な光輝に満ちた人生である。
 以上のごとく、教行証の三つを御書の上で論じていくことができる。
 末法には教のみあって行証なしというのが通途の仏法の姿である。しかるに、日蓮大聖人の仏法は、末法において、厳然と教行証を具備するのである。

第三 本抄の大意

本抄は、まず十界の依法、正法ことごとく妙法蓮華経の当体であることを論じ、さらに日蓮大聖人の観心から大御本尊を持つ者のみが「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す」ことが明かされている。
 さらに日寛上人の文段によれば、本抄はまず所証の法たる妙法蓮華経を法体に約し、信受に約し、さらに解釈を引いて明かし、次に当体蓮華を証得した人を久遠元初、釈尊在世、末法という三世に約して論じられたものである。いまこれを図表として掲げれば大略次のようになる。
                       ┌法体に約す①②③
           ┌所証の法を明かす①~⑤┼信受に約す④
           │           └解釈を引いて本有無作の当体の蓮華を明かす⑤
  大意(当抄の始終)┤           ┌如来の自証化他を明かす⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
           └能証の人を明かす⑥~⑲┼如来在世の証得を明かす⑮⑯
                       └末法衆生の証得を明かす⑰⑱⑲
 また本抄の始終は問答形式であることも特質すべきであろう。問答形式であることは、立正安国論や聖愚問答抄等にもみられるが、日寛上人は立正安国論文段に「まさに知るべし、賓主問答を仮立したもう所以は、愚者をして解し易からしめんがためなり」と仰せである。一方的な押しつけではなく、諄々と相手を納得させるために有効な方法である。本抄においても問いと答えをつねに念頭におかなければならない。本抄では19の問答を掲げている。
  ①妙法蓮華経の当体とは、宇宙森羅万象のことごとくをいう。
  ②一往はわれら一切衆生も妙法の全体である。
  ③九界の生命活動も妙法の当体の働きである。その故は法性の妙理に染浄の二法、迷悟の二法があり、このことごとくが法性真如の一理である妙法蓮華経に期する。
  ④再往は権教を捨て実教の法華経を信ずる人のみ当体蓮華である。所詮、日蓮大聖人の弟子のみが本門の当体蓮華仏と顕われるのである。
  ⑤当体蓮華とは因果俱時・不思議の一法を指し、譬喩蓮華とは華草の蓮華であり、これをもって当体蓮華を説明しているのである。
  ⑥五百塵点劫の当初に日蓮大聖人が当体蓮華を証得された。
  ⑦法華経においては当体蓮華は方便品に、譬喩蓮華は譬喩品・化城喩品に説かれている。
  ⑧当体蓮華の文は方便品において諸法実相に約して一念三千を明かした文である。
  ⑨当体蓮華の現証は、当世の学者は宝塔品の三身、妙音・観音の三十三・四身等を勘えているが、日蓮大聖人は方便品の文と神力品の結要付嘱の文をあげておられる。
  ⑩神力品の結要付嘱の文には深意があり、よき文証・現証である。
  ⑪神力品の結要付嘱の文は、外用上行菩薩に本門の当体蓮華を付嘱することを示す。
  ⑫当流の法門の意は、二十八品の初めにある妙法蓮華経の題目が当体蓮華である。
  ⑬品々の題目の蓮華は、当体譬喩を合説するが故に、品々の題目は当体蓮華をいう。
  ⑭法華経の意は譬喩即法体、法体即譬喩である。
  ⑮釈尊在世に当体蓮華を証得したのは、本門寿量の教主のみである。
  ⑯爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せず、ただ本門寿量の説顕われて後は、霊山一会の衆、皆ことごとく当体蓮華を証得したのである。
  ⑰末法今時に当体蓮華を証得したのは、日蓮大聖人の御門下のみである。
  ⑱南岳・天台・伝教等の正師は当体蓮華を証得したといっても内鑑冷然で妙法を流布しなかった。
  ⑲妙法五字は末法の大白法である。

第四 当体蓮華と譬喩蓮華

(一)天台大師の譬喩蓮華

蓮華とは、普通は草花の蓮華のことである。しかし、この蓮華の特質が妙法を説明するのに、ひじょうに好都合で、しかもわかりやすい譬喩となる。したがって、法門の譬喩として用いられた草花の蓮華を譬喩蓮華という。この草花の蓮華のさまざまな特質によって説明した法門それ自体が妙法蓮華経であり、これを譬喩蓮華に対し当体蓮華と名づけるのである。
 とくに蓮華が妙法をあらわす特質として華と果実が同時であるといわれる。また、泥沼の中にあって、しかも泥沼を出て、清浄な花が咲く等がある。
 天台大師は当体蓮華を難解の蓮華とし、これこそ正意であるとしている。譬喩蓮華は易解の蓮華であり、下根、中根の者に対する説明であるとしている。そして、天台大師は、難信難解の妙法を譬をかりて顕そうとして、法華玄義に譬喩蓮華を説明している。
 法華玄義巻七下にいわく「唯此の蓮華のみ華果倶に多し、因を満行に含み、果に万徳を円するを譬うべし、故に以って譬となす。又世の華は麤なり、九法界の十如是の因果を喩う。此の蓮華は妙なり、仏法界の十如の因果を喩う。又此の華を以って仏法界を喩うるに、迹本の両門に各三喩あり」と。蓮華の華果をもって、仏法界の因果に譬えているのである。その他の華果は、一見はなやかで美しく咲き誇っているようにみえるが、風に誘われて散り去るように、実に、はかないものである。これらは、瞬間的な喜びであり、感動であり、潤いである九法界に譬えることはできるが、円融円満、因果俱時である仏法界に譬えることはできない。
 さらに天台大師は、法華本門、迹門の二門に約しておのおの三喩を説いている。
 迹門の三喩とは、
 一には、華が生ずるとき必ず蓮がある。だが、華のうえから見たのではそれがわからない。権教の心は実教にあれども、それが知る者がないことを譬えており、実教をあらわすためには権教を説いて衆生を誘引してきたことを譬えている。すなわち、為実施権を譬えている。
 二には、華が開く故に蓮の実が現われることである。権の中に実があっても、知ることができなかったものが、いま権を開いて実を顕わすことで、実である仏の知見を知らしめたことを譬えたものである。これは開権顕実を譬えている。
 三には、華落ちて蓮の実がみのることである。これは三乗を廃して一乗を顕わし、唯一仏乗の法のみが成仏の直道であることに譬えたものである。廃権立実を譬えたわけである。
 次に本門の三喩とは、
 一には、華には必ず蓮がある。迹には必ず本があり、迹には本が含まれるものである。仏の意は本門に在るのであるが、仏の本意は知り難いことを譬えたのである。これは従本垂迹を譬えている。
 二には、華が開いて蓮が現われる。迹門を開いて本門を顕わすこと、すなわち開迹顕本を譬えている。その意は迹門において、よく菩薩に仏の方便を識らせる、すでに迹を識り終われば、還って本を識り増道損生することを譬えたのである。
 三には、華落ちて蓮がみのるのは、迹門を廃して本門を顕わすこと、すなわち廃迹立本を譬えている。
 以上の六譬は、華と蓮との関係に約して説明したものであるが、さらに種子から蓮成に至るまでを妙法に譬え、蓮華の始終をもって十如是の法門を譬えているのである。
 例をあげれば法華玄義巻七下に「譬えば蓮子の汚泥の中に在れども四微朽ちず、是を蓮子の体と名づくるが如し。一切衆生の正因仏性も亦復是の如し、常楽我浄の不動不壊なるを仏界の如是体と名づく」と。「如蓮華在水」の原理にもとづき、蓮華の花は泥沼の中に見事に咲き誇っている。蓮華の種子もまた泥沼の中で朽ちない。これはそのまま、濁りきった不幸の人生を歩んでいる衆生の生命のも、仏性が厳然と存在していることにも通ずる。譬喩蓮華はすなわち人生における「如蓮華在水」の原理をあらわしたものともいえるであろう。
 さらにまた法華玄義巻七下に「譬えば蓮子の、また鳥皮汚泥中と雖も、白肉改まらざるが如し。一切衆生の了因の智慧も亦復是の如し。五住の汚泥、生死の果報、一切の智願猶お在りて失せず、是を如是性と名づく」と。
 蓮華の種子は、泥沼の中にあっても成長していく。すなわち、一切衆生は、煩悩の淤泥の中にあって、しかも智慧を奮い起して成仏する。煩悩即菩提を譬えているのである。
 このように天台大師は、蓮華の種子から次第に成じて蓮の実にいたるまでの蓮華の始終について十義が具足することを明かし、仏界の衆生においても始めの無明から終わりの仏果にいたるまでの十如是が欠けることのない譬えとして挙げている。さらに十二因縁、四諦等、あるいは本門の十妙についても蓮華をもって譬えている。
 以上のように譬喩蓮華は天台大師にあっては、釈尊の法門の究極を、誰にでもわかるように例をとって説明したものである。

(二)当体蓮華について


 譬喩蓮華をもって顕わそうとした当体は実は当体蓮華である。
 当体義抄にいわく「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し」(0513:04)と。
 この「因果倶時・不思議の一法」が当体蓮華であり、三大秘法の御本尊の異名である。大聖人はこれを「本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華」とも仰せである。
 九界を因として仏界を果とした場合、九界即仏界・仏界即九界となり、九界・仏界ともに一念の心法にある。
 故に「因果倶時・不思議の一法」という。そして再往、十界各具の因果に約せば、地獄界の場合は「瞋恚は是れ悪口の因、悪口は是れ瞋恚の果」となる。仏界の場合は「信心は是れ唱題の因、唱題は是れ信心の果」となる。このように因果はあるけれども、共に一念の心法にあるが故に「因果倶時・不思議の一法」と説かれているのである。
 この「因果倶時・不思議の一法」に対して、因果俱時であることを妙法蓮華経に相似の華草の蓮華をもって、わかりやすく説明しているのである。このように華草の蓮華をもって、難解の妙法蓮華経、因果倶時・不思議の一法を顕わす故に譬喩蓮華という。
 また当体蓮華には、二つの義があると日寛上人は当体義抄文段に説かれている。
 一には、十界三千の妙法の当体を直ちに蓮華と名づける故に、当体蓮華というのである。
 二には、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名づけ、これを当体蓮華という。このことを十如是事にいわく「妙法蓮華経の体のいみじくおわしますは何様なる体におわしまするぞと尋ね出してみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申し上げる」(0411:11)と。
 さてわれわれの胸の中に八葉の蓮華ありというとは、何を意味しているのかというと、二つの意味がある。以下日寛上人の当体義抄文段を通じて講じた「御義口伝講」を引用しておくので了承されたい。
 その一つは、われわれの生命それ自体が妙法蓮華経であるということである。
 二つには、われわれの生命自体が妙法蓮華経即当体蓮華であるということを、われわれの肉体の中から見出したことである。しからばなにをもって、胸間の八葉の蓮華というかというに、心臓と肺蔵の一対を意味するのである。解剖学による心臓と肺蔵の有り様を見るに、二つの肺蔵の中に包まれている心臓がある。その形が、あたかも蓮華によく似ているのである。これを名づけて、胸間の八葉の蓮華といっているのである。
 これあたかも法華経と譬喩蓮華のごときもので、法華経に当たる当体蓮華は、われわれの生命それ自体であり、譬喩蓮華に当たる当体蓮華は、心臓とそれを包んだ二つの肺蔵である。そえゆえ、われわれの胸間に八葉の蓮華ありとするのは、われわれ自体が妙法蓮華経の当体であることを、強く意識せしむるのである。あたかもタイのひれの付け根に、タイの形と同じ骨があって、これをタイのタイと名づけ、また人間の死後、火葬に付した時に、人の形によく似た骨ができるが、それを「のど仏」と名づくようなものである。牛馬決にいわく「妙法蓮華とは一切衆生の胸の間に八葉の蓮華があり、これを名づけて当体蓮華となす」等云云。
 この胸間の八葉の蓮華は、男子は仰ぎ、女子は伏すといわれている。しかして、もし女人が妙法を受持すれば、男子と同じく仰ぐなりと仰せられている。これには深い意味があると思う。解剖学的に、肺蔵が回転するという意味ではなかろう。生理学的には、何かしら、心臓と肺蔵の活動に差異が生ずるであろうと推定するだけである。
 男子と女子とは、一般的に、生活力の差異があることは認めざるを得ない。しかして、本門戒壇の大御本尊を信ずる女性は、その生活力が男子と同様になるとの意ではあるまいか。それゆえ日寛上人は「当流の女人は外面は女人であるが、内心はこれ男子である」と仰せられている。
 そして、この胸間の八葉の蓮華の色はどうかというと、これは白蓮華であると決定されている。
 また大日経第一に胸間の蓮華を説く文にいわく「内心の妙白蓮は八葉円満なり」等云云。
 法華伝第六にいわく「比丘尼妙法、俗性は李氏、年漸く長大にして情出家を欣ぶ、年十二の時其の姉法華経を教ゆ。日に八紙を誦し月余にして一部を誦し訖る。人其の徳を美にして名づけて妙法と云う。願を立て諷誦八千辺臨終の時三茎の白蓮を生じ、池に生ずる時の如し、七日にして萎落せず」云云。
 釈書十一にいわく「釈氏蓮長天性精勤にして妙経を持す、唇舌迅疾にして一月に千部を経る。臨終の時、手に不時の蓮華一茎を把る。鮮白薫烈なり、傍人当うて云く此の華何より得る。答う是れ妙法蓮華なり云い已って已に寂す、手中の蓮華忽然として見えず」等云云。
 これは、妙法読誦の功用によって胸間の白蓮華を顕現したと説いているのである。実際問題として白蓮華が顕現したとするのか、また妙経の体を体得したとするのか、これは上中下の機根にまかせて判読すべきであるといわれている。それゆえ日寛上人の仰せに「像法既に爾なり、今唱題を励む豈顕現せざらんや、ゆえに知んぬ胸間の蓮華は生に是れ白蓮華なり」と。
 今、末法下種の三宝は日蓮大聖人の胸間の大白蓮華が顕現し給うのである。十如是事にいわく「妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり」(0411:12)等云云。ゆえに、御本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とおしたため遊ばされている日蓮とは、白蓮華を意味しているとの仰せである。
 日蓮大聖人が白蓮華であるということは、籤の十六に「有る人云く白蓮は日に随って開き回り、青蓮は月に随って開き回る、故に諸天の中に華の開合を用いて昼夜に表するなり」等云云とのべられているとおりである。日蓮の二字は、日に随って開き回る蓮華である。ゆえに白蓮なることは疑いないのである。したがって日蓮大聖人の当体そのままが、中央の御本尊であり、すなわち白蓮華なのである。
 また日興上人も白蓮華である。そのゆえは「白蓮阿闍梨」と名乗られている。所詮自性の理によって、名は必ず体を顕わす徳がある。白蓮阿闍梨の名はまさしく日興上人が白蓮華であることを明かしているのである。ゆえに末法下種の三宝は、われわれ衆生の胸間の白蓮華である。
 日蓮大聖人は末法本果妙の仏界であり、日興上人は本因妙の九界である。すなわち、文底下種の本因・本果・本国土の三妙合論の事の一念三千であって、すなわち本門の本尊である。されば依正の因果悉く是れわれわれ衆生の心性、八葉の白蓮華、本門の本尊である。ゆえにこの本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、すなわち本門寿量の当体蓮華仏ということである。日女御前御返事にいわく「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・ 只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244:09)等云云。

(三)法華経と当体・譬喩蓮華

さらに「御義口伝講義」には、法華経の当体・譬喩蓮華をめいかしているので、以下それについて論じておきたい。
 一体、法華経には、何が説かれているのか、これこそ、根本問題である。序品における儀式、宝塔品の二処三会、湧出品における地湧の菩薩の大地より湧現等々、これらは、何を示すものであろうか、法華経を、本当にわかろうとするならば、当然ぶつかり、解かねばならぬ重大課題といえよう。ただ文上のみにとらわれ、満足しているとすれば、増上慢であり、謗法の科はまぬかれないのである。
 なお大仏法を、われわれとまったく無関係に位置づけてしまうものであって、生活と遊離した空理空論に終始してしまうわけである。法華経序品にすでに大不思議がある。それを戸田城聖前会長は、次のように述べている。「さて、この耆闍崛山に集った第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっと数えてみれば、約三十万に近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるかは、若干百千とあるので、推測にまかせる以外にはない。これだけの大多数の人間が、どうして集れたのかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈尊の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代のわれわれ凡夫は信ずることができない。拡声器のようなものがあったと説く人がいるが、今日の科学者は断じてこれを信ずまい。古跡の発掘から、それらしきものが出てくれば別であるが、いまだ、そんな話は聞いたこともない。ことに雑衆中、帝釈天とか自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか。法華経をひもといて、これを鵜呑みにするならいざ知らず、少しく科学的に考慮する者は、序品第一から、疑いを起して二十八品を読了する気にはならないであろう。
 しかるに、経文の処々において、これを信ぜざる者は悪道に堕つとある。日蓮大聖人もまた六万九千三百八十四文字ことごとく金色の仏なりと仰せである。金色の仏とは仏の真理なりとのお言葉である。信ぜんとすれば、疑わざるをえず、これを疑えば釈尊および大聖人の二仏を妄語の仏となし、かつは悪道に堕ちねばならない。吾人はここに進退きわまれりというか、翻って仏語を案ずるに、仏の言葉はいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とはその真理を、譬をかりて説明したものである。たとえば、蓮華のことであるが、因果俱時の法それ自体を説くときは当体蓮華であって、因果俱時の法を蓮華の花をかりて、その花と実とが同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。
 この序品の三類の大衆の集りは、すなわち、譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。しからば序品の当体蓮華はいかん。何万の声聞・何万の菩薩・何万の雑衆は、これことごとく釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の雑衆である。妙法蓮華経は、釈尊の命であり、釈尊の心である。さればこそ、十界の衆生ことごとく釈尊の内証にすむというのも、なんのまちがいもないのである。序品を読む者、よくよくこれを心得なければならぬ。なお、すすんでいうならば、寿量文底の仏の大地がここにあらわれていると読んでいいのではないか」と。
 結局、法華経は、序品から、仏の生命を説いていることが明確であろう。さらに宝塔が湧現し、十方分身の諸仏が坐し、地湧の大菩薩が大地から湧出するという、虚空会の儀式も、ただ門上のみにとらわれては理解することができない。それでは、虚空会の儀式は何を説こうとしたのであろうか。虚空会の儀式は、教主大覚世尊が、滅後弘通の大法である妙法蓮華経を本眷属に付嘱し、流通を托すための一連の儀式の初めにあたる部分といえる。この儀式を日蓮大聖人の仏法から見直すならば、日蓮大聖人が虚空会の儀式を借りて三大秘法の御本尊をご図顕されたわけであり、このことをさらに立ち入って考えれば、久遠の如来が末法の御本仏として出現し、末法の衆生に御本尊を遺されたものである。ここに虚空会の儀式の深意があったわけである。
 ところで、こうした観点から法華経を見直すなら、迹仏のあらわした法華経は末法の御本仏である大聖人の仏法の説明書にあたるものといえよう。それでは、御本仏の顕わされた御本尊すなわち南無妙法蓮華経とはいかなる当体であろうか。実は、過去の宗教者、思想家たちが、模索し続けてきた。その悟りの当体こそが南無妙法蓮華経なのである。この南無妙法蓮華経は、文字は七文字であるが、その義は実に深固幽遠である。この不思議なる当体を顕わすために、釈尊は二十八品を説いて、説明に務めた。
 こうしてみてくると釈尊の仏法は、今日では、家の設計図に譬えられ、日蓮大聖人の仏法たる南無妙法蓮華経は、家それ自体に譬えられる。ゆえに、釈尊の仏法は、南無妙法蓮華経を説明する、譬喩蓮華であり、大聖人建立の大御本尊こそ当体蓮華であるといえよう。

 

 

第一章(十界の事相に約す)

本文

   当 体 義 抄           日蓮之を勘う
  問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。

 

現代語訳

  問う、妙法蓮華経とは、その実体は、どのようなものであろうか。答う、十界の依報と正報とのすべてが、妙法蓮華経の当体なのである。

問う、もしそうであるならば、われわれのような一切衆生も妙法の全体であるといえるのであろうか。

答う、もちろん、そうである。その証文としては、方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とあるとおりである。この文を、妙楽大師は金錍論で次のように解釈している。「実相(不可説なる実智の境であり、万法の理を指す。真実の姿、森羅万象の本質ということ)とは、すなわち諸法(一切の法を指し示した言葉。大宇宙における一切の現象、活動、法則のこと)である。あらゆる現象は十如という因果の理にかなった生命活動である。この十如の生命活動も十界の範疇での活動である。それでいて、その生命体の正報と国土世間の依報が一体不二をなしている」と。天台大師は法華玄義に「生命の完全な本質を明かした十如・十界・三千の諸法は、法華経に説き明かされた法理の本体なのである」と説いている。南岳大師は安楽行義において「いったい、いかなるものを妙法蓮華経というのであるか。それは、妙とは衆生の生命の本質が妙であるが故に、法とは衆生の存在そのものが法であるが故に、衆生が妙法の当体なのである」と述べている。さらにこれを天台が釈して「衆生は法にして、しかもその本質は妙である」と法華玄義でいっている。

 

語釈

妙法蓮華経

御義口伝上にいわく「妙法蓮華経は漢語なり……梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う……妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり」(0708:南無妙法蓮華経:10)とある。本抄では、十界の依正がことごとく妙法蓮華経の当体であることを明かしている。

 

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(現在の江蘇省宜興市)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。直弟子に、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道・行満がいる。

 

十如

十如是のこと。ものごとのありさま・本質を示す十種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。法華経方便品第二で説かれた、如是で始まる十の語。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是」で始まる十項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。

 

十界

十法界ともいう。凡聖迷悟の一切の世界を十種に分類したもの。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をいう。「十界」の明文は経論にはないが、法華経法師功徳品第十九には「三千大千世界の下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る、其の中の内外の種種の所有る語言」として挙げられているなかに、地獄声・畜生声・餓鬼声・比丘声・比丘尼声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声などがある。また大智度論巻二十七には「四種の道あり。声聞道・辟支仏道・菩薩道・仏道なり……復六種の道あり。地獄道・畜生・餓鬼・人・天・阿修羅道なり」とあり、十界の名称が出そろっていたことが分かる。これらの経釈を受けて、天台大師の法華玄義巻二上には「気類相似を取って合して四番と為す。初めに四趣、次に人天、次に二乗、次に菩薩・仏なり」とある。十を通じて法界と名づける理由について、法華玄義巻二上には「今権実を明かすとは十如是を以って十法界に約す、謂く六道四聖なり。皆法界と称することは其の意三あり。十数皆法界に依る、法界の外に更に復法なし。能所合称するが故に十法界と言うなり。二には此の十種の法は分斉同じからず、因果隔別し凡聖異あるが故に、之に加うるに界を以ってするなり。三には此の十は皆即ち法界にして一切法を摂す。一切法は地獄に趣く、是の趣過ぎず。当体即ち理にして更に所依なきが故に法界と名づく。乃至仏法界も亦復是くの如し」と釈している。

 

天台

05380597)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、十八歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、慧曠律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳3年(0585)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し60歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

十如十界三千

一念三千の三千世間(三千如是)のこと。一念三千とは、天台大師智顗が摩訶止観巻五で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は、天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。ここで三千とは、十如是・百界(十界互具)・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。

 

南岳大師

05150577)。中国・南北朝時代の北斉の僧。名は慧思。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、「立誓願文」を著した。この立誓願文には正法五百年、像法一千年、末法一万年の三時説にたち、自身は末法の八十二年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著「法華経安楽行義」では、法華経安楽行品第十四に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」とされている。

 

衆生法妙

「衆生の法は妙なり」と読む。南岳大師が、法について衆生、心、仏の三法に釈し、更に天台大師が衆生法について釈したもの。衆生法とは九界の衆生であり、そのおのおのが十界十如を具しているが故に妙であるということ。すなわち衆生法妙とは、九界即仏界を意味し、また衆生の当体が妙法蓮華経の当体であるということ。

 

講義

 この章は宇宙の森羅万象ことごとく、妙法蓮華の当体であることを明かされている。すなわち所証の法を明かすにあたって、まず法体に約して、森羅万象を当体蓮華といわれたのである。

ただし「妙法蓮華経とは其の体何物ぞや」との問いの元意は、文底秘沈の事の一念三千の本尊の南無妙法蓮華経を問われたのである。この元意が難信難解であるため、浅きより深きに至るいくつかの設問を論じられている。したがって、あくまで妙法蓮華経とは三大秘法の御本尊の異名であることを念頭において本抄を読まなければならない。

本章は、十界三千の諸法はそのまま妙法蓮華の当体であり、われら衆生もまた妙法の全体なる義を明かしている。引用されている四箇の証文もこの意である。

 

十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり

 

妙法蓮華経という実体、本体は何かという質問である。これに対して十界三千の生命活動をしている生命そのもの、すなわち森羅万象ことごとく、妙法蓮華経の当体であると明かされたのである。ただしこれは、あくまでも一往の義であり、理の上の法相である。再往は、後に論ずるように、南無妙法蓮華経と唱えたものが、真実の妙法蓮華経の当体となり、仏界を湧現できるのである。

十界とは、地獄界から仏界までの十種の生命活動である。依正とは、依報と正報のことである。十界の依正とは三千の諸法ということである。有情界のみならず、非情界の草木、瓦石たりとも妙法蓮華経の当体である。また悩み苦しむという地獄の活動をしている生命も、それ自体が妙法蓮華経の当体であり、幸せを満喫していく仏界の生命活動も、その生命活動している当体自体が妙法蓮華経の当体である。また依正とは一言にしていうならば、生命と約することができる。正報とは、果報の主体の意であり、主観的立ち場、自己自身の生命である。依報とは、正報の依りどころとなる非情の草木、国土、つまり自己をとりまく一切の環境である。

一切の現象、事物の姿には、この依報、正報があり、しかもそこに依正不二、すなわち依報と正報は二にして、しかも一体不二という関係がある。

瑞相御書にいわく「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140:06)と。

ここに明らかなように、依正について、正報を中心として依報を論ずる場合、依報を中心として正報を論ずる場合との二つの立ち場がある。だがあくまでも、依正といっても正報が根本であり、自己の一念によって環境を変えていくのである。

したがって、地獄の苦しみに沈んでいる境涯の人にとっては、依正不二で、どこへ行こうと、あらゆる世界が地獄である。反対に、自分の境涯が、正報が天界であるならば、犬の吠えるのも、草木の姿も、これら依報が、なんとなく明るく感ずる。

自分自身が仏界であれば、人々を見て「かわいそうだ。自分は福運に満ちみちている。何とかして人々を救っていきたい。御本尊を教えてあげたい」という折伏精神になる。これによって相手の生命の仏界を開いていける。

このように正報が地獄界であれば、依報も地獄界を感じ、正報が仏界であれば、依報も仏界を感ずるのである。すなわち依正不二の当体なのである。

したがって、地獄界から仏界まで十種の生命活動はあるが、瞬間瞬間、生命の依報と正報というものは、一つの当体として考えることができる。詮じ詰めてみれば、依正とは生命と約せるのである。

万法ことごとく、一法も残さず、どんな現象であっても、どんな境涯の活動であっても、その本源をたどっていけば、妙法蓮華経の法則になっているとの仰せである。

しかるにこれは、あくまで理の上の法相であって、真実の当体蓮華の義を明かしていない。御義口伝にはこれを「不変真如の理」と「随縁真如の智」に約して説明されているが、ここでは「不変真如の理」の段階である。

釈尊は、法華経迹門にいたって、二乗作仏、女人成仏、悪人成仏を説き、さらに諸法実相を説いて、森羅万象ことごとく、妙法の当体であることを示し、一切衆生ことごとく妙法の当体であると説いた。この道理は絶対の真理であり、「不変真如の理」を説き明かしたものである。理論的に考えるなら、たしかに森羅万象はすべて、百界千如、一念三千の当体であり、有情、非情にわたって、皆、仏界、仏性を具しているはずである。しかしこれは、あくまでも理にすぎない、仏性を具しているだけでは価値は生じない。例えば、自分自身がいかに理論的に妙法の当体であり、かつ仏界を具していると理解していても、現実の生活が悩みだらけではどうしようもない。では仏界を湧現する方法は何か、これこそ仏法上の重要問題である。

日蓮大聖人の仏法においては、法華経二十八品ことごとく、御本尊の説明書であり、御本尊を信じ、題目を唱えることにより、仏界を湧現できるのである。これが「随縁真如の智」である。

わが身も妙法の当体、宇宙も妙法の当体である。われらが妙法を唱えるとき、わが生命が、大宇宙の本源のリズムに合致する。その宇宙の本源力たる妙法蓮華経が現実の生活の上に、生命活動の上に涌現してくる。その生命力、知恵が源泉となって、苦難、苦悩を打開し、人間革命、生活革命を成就していくのである。

 

所謂諸法・乃至・本末究竟等

 

本末究竟等の文は、われわれが朝晩の勤行のときに三遍繰り返す方便品第二の十如是の文である。

まずその文をあげると「所謂諸法、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。

この本末究竟等とは、どのような意味なのであろうか。法華玄義の第二に「初めの相を本と為し、後の報を末と為す」とあり、初めの如是相を本とし、如是報を末とするのである。究竟とは、物事のきわみ、究極のことをいう。すなわち、十如実相の初めの如是相より如是報にいたるまで、相・性・体等とおのおのの差別はあっても、その本源をたずねていくならば、一貫して変わらない生命の本質なり、との意味である。

この段では、宇宙の森羅万象ことごとく妙法蓮華の当体であるとの文証として引かれている。このことは、諸法実相抄に「此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358:01)とあることからも明らかである。

「本末究竟等」のこの原理は、空間的には、大宇宙を包含し、時間的には永遠をはらむ瞬間の生命を説き明かしたものであり、依正不二、因果俱時の原理に通ずる生命の本質論である。戸田先生は、この「本末究竟等」の原理を、釈迦仏法の立ち場から、次のごとくわかりやすく説明されているのである。

「如是相を初め(本)とし、如是報を終わり(末)として、本末究竟して中道法相であります。畜生界の人は如是相から如是報にいたるまで、一貫して十万円に執着しきっている姿で相性体力作因縁果報まで、究竟して等しく、この状態以外の何ものもありません。修羅界の人も、如是相から如是報にいたるまで、一貫して腹を立てきっている状態で、相性体力作因縁果報、皆、究竟して、この姿であります。声聞・縁覚界の人は、如是相から如是報にいたるまで一貫して、皆、関係したくないという個人主義的な状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく、この姿であります。菩薩界の人は、如是相から如是報にいたるまで、一貫して思いやり深い状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく同じであります」と。

だが、釈迦仏法においては、地獄から仏界までの本末究竟等を理の上で、観念的に論じたものであり、それは哲学的な立ち場である。しかしながら真実の幸福境涯における本末究竟等は、事実の上で、わが身に仏界を湧現させることに尽きるのである。

されば、九界即仏界を事実の上で体現した日蓮大聖人こそ本末究竟等の当体なのである。したがって、日蓮大聖人の精神に立脚し、御本尊を信ずる者の生命もまた本末究竟等とあらわれ、一切の振舞いが、妙法に合致し、仏界に照らされた、悠々たる活動であり、一貫して幸福境涯を思うがままに遊戯していくことができるのである。

この本末究竟等は、多角的に論ずることができる。ここでは、おもな例をあげ、説明してみよう。

まず「本末究竟等」とは、時間的に縦にこれを論ずれば「因果俱時」の原理をいうのである。

聖人知三世事にいわく「教主釈尊既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か、若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり」(0974:05)と。

日蓮大聖人の仏法は、現当二世の仏法であり、因果俱時の仏法である。したがって、われわれの現在の瞬間瞬間の活動は、ことごとく、未来の果を、はらんでいるのである。

また信心に反対であれば、瞬間に、地獄の果をはらんでいるがゆえに、地位、名誉、財産等がどうであろうと、その人は、地獄へ、地獄へと、向かうのである。これ、本末究竟等ではないか。

次に本末究竟等を「久遠即末法」の原理から論じてみよう。

瞬間の生命をつきつめていくならば、まことに過去遠々劫も、未来永劫も、ことごとくこの瞬間の生命に包含されるのである。永遠といっても、瞬間の連続以外の何ものでもない。これを「久遠即末法」というのである。

久遠即末法を、仏に約して論ずるならば、久遠元初の自受用身如来が、末法にそのままの姿、振舞いで、日蓮大聖人とあらわれ、久遠元初の大法たる、南無妙法蓮華経を末法のわれら衆生に、授けられたことを意味する。

これ、久遠元初が本であり、末法は末であり、本末究竟して等しき姿である。

さらに「本末究竟等」を、空間的に横に論ずるならば、まさしく「依正不二」の原理をいうのである。

先に述べたとおり、依正とは依報と正報のことである。正報たる自己が本であり、依報たる一切の環境は末である。

しかして、本末究竟等の原理により、自ら題目を唱え、如説修行の実践をするところ、絶対に行き詰まりなく、希望と勇気と歓喜に満ちみちた行動となり、われらの一念で、日本を変え、世界を変え、仏国土を現出することができるのである。

 

実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土

 

これは、妙楽大師が方便品の「所謂諸法・乃至・本末経竟等」の文を解釈した言葉である。妙楽の金錍論の実相四必銘といわれ、一念三千の法門の依文でもある。

ここで経・釈・論について簡単に説明しよう。釈尊の教説・釈尊自身の教えを「経」という。経文に即して詳細に解釈したものが「釈」であり、天台の法華文句、妙楽の法華文句記等をいう。さらに竜樹・天親等の人師・論師が「経」や「釈」をもとにして、さまざまな議論を展開したものを「論」という。たとえば十住毘婆沙論、大智度論などである。

この妙楽の釈は妙法蓮華経を開いて論ずればどうなるか、その関係性について述べたものである。すなわち宇宙の実体、生命の本体を明かしたものであって、久遠元初より尽未来際まで、無始無終の宇宙観、生命観を説かれているのである。

実相とは宇宙の本源であり、生命の本質である。

御義口伝にいわく「如は実なり去は相なり実は心王相は心数なり、又諸法は去なり実相は如なり」(078214)と。

実相の実とは不変真如の理、生命の本質をいい、相とは随縁真如の智、生命の働きをいう。したがって実相とは、生命の本質、宇宙、森羅万象の本源、本体をいうのである。

この文を教相に配して論ずるならば、有情・非情を問わず、いかなる生命にも十界三千の法が具備しているということである。あらゆる生命活動は時々刻々に変化していく。いな、ほしいままに、自由自在に変化しているといってよいだろう。だがそこに厳然とした法則が貫かれているのである。

その諸法には必ず十如是がそなわっている。十如とは如是因、如是縁、如是果……如是本末究竟等という作用である。一つの現象には、本末究竟して、瞬間のうちに十如が具わっているのである。すなわち、あらゆる現象は、それぞれ個々バラバラに変化していくのではない。因果の理法にかなった生命活動であるということである。

この十如の活動は、必ず十界の範疇の活動になっている。地獄界の人はあくまで地獄界の十如の働きをしていくのである。餓鬼界の人は、如是相から如是報まで、一貫して不足をかこっている状態で、相性体力作因縁果報まで、究竟して等しく、この状態以外の何ものでもないのである。

それでいてその生命活動は、環境と微妙に影響しあっている。その生命体と国土世間とが一体不二をなしているのである。むしろその生命の当体と環境とは一体となって、一つの生命活動を行なっているといってもよいだろう。

詳しくいうならば、身土の身とは生命活動の主体である衆生の一身をいい、土とはその一身が存在する場所すなわち国土をいう。その衆生の身と国土とが身土不二、依正不二なのである。

一生成仏抄にいわく「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(0384:01)と。

所詮、妙楽の文は生命の本質を十界互具、十如是、三世間というさまざまの角度から論じたものであり、一念三千をこのような言葉で表現したのである。だが、釈尊や天台、妙楽の説いた一念三千の法門は、所詮、理の上の生命論であり、有名無実(うみょうむじつ)のものである。

たとえば、マイクロフォンという非情の生命について考えてみても、この実相は必ず諸法を具している。声を拡大させるという作用および力、また使用する人間との縁等々、一つのマイクロフォンに必ず十如是があり、その十如是は必ず十界の範疇での因果の理法なのである。マイクロフォンを講義に使用すれば、マイクロフォンは声聞界の縁の働きをする。そのマイクロフォンをとおして美しい歌声がながれれば、十界のなかの天界の縁の働きに変わるのである。このように、非情のマイクロフォン自体にも有情と同じように十界三千の働きがある。万法ことごとく、一法も残さず、どんな現象であっても、その本源をたどってみるならば、すべて妙法蓮華経の当体なのである。

諸法実相抄にいわく「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く『実相の深理本有の妙法蓮華経』と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり」(135903)と。

諸法実相の実相も教相の面からいえば、森羅万象ことごとくが実相、すなわちありのままの姿であるというだけのことであるが、日蓮大聖人の観心から見るならば、三大秘法の御本尊の御姿の現われである。すなわち、十界三千の諸法が南無妙法蓮華経の一法に具足した姿、これが御本尊の相貌であり諸法実相なのである。

実に妙楽のこの釈も、御本尊の相貌を明かさんとしたものと読むのが正しいといわねばならない。具体的にいえば、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とあり、南無妙法蓮華経は法本尊、日蓮は人本尊で人法一箇であることを示している。これが十界三千の諸法の当体であり、実相であり、この左右にしたためられた十界は大聖人己心の十界であり、南無妙法蓮華経の光明に照らされた十界の生命活動である。

十界を、御本尊のなかに拝するならば、仏界は釈迦・多宝になる。菩薩界は四菩薩ならびに文殊師利菩薩・薬王菩薩、声聞・縁覚は迦葉尊者・舎利弗などである。天界は毘沙門天・大日天・大月天・大持国天・帝釈天、さらには第六天の魔王もいる。人界は阿闍世王、修羅界は阿修羅、餓鬼界は鬼子母神、畜生界は竜王、地獄界は提婆達多で代表される。

この十界には必ず身土がある。十界の生命それ自体は、御本尊即日蓮大聖人の御身である。御本尊自体がまします所が「土」となる。

このように、無始無終の宇宙観、生命観が見事に説かれているのである。

 

 

第二章(十界の事相の所以を釈す)

本文

  問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり、大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明は皆諸の如来の円覚の心従り建立す」云云、天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云、妙楽大師の釈に云く「理性体無し全く無明に依る無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意得可きなり、大論九十五の夢の譬・天台一家の玉の譬誠に面白く思うなり、正く無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、大論に云く「明と無明と異無く別無し是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄の二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の文とには過ぐ可からざるなり南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、又明鏡の譬真実に一二なり委くは大乗止観の釈の如し又能き釈には籤の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け三千果成ずれば咸く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用なり」文、此の釈分明なり。 

 

現代語訳

   問う、一切衆生の当体が、そのまま妙法の全体であるならば、地獄界から菩薩界までの九界の業因業果も、すべて妙法の当体なのであろうか。

答う、諸法の本性の不思議な理として、生命の一念には「染浄の二法」がある。染法が働くならば迷いとなり、浄法が働けば悟りとなる。この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。この迷悟の二法は二ではあるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理なのである。譬えていうならば、水精の玉は太陽に向ければ(レンズの作用で)火を取り、月に向かってみれば(冷気のため凝結作用によって)水を取る。このように玉は一つであるが、縁によってその効能が異なるのと同じことである。

十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理ではあるけれども、悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。その悟りはすなわち法性であり、迷いはすなわち無明である。譬えば、夢の中で、善悪の業についていろいろな夢を見る。しかし、その夢がさめてから、これを思い返してみれば、全部、自分自身の一心の作用であるようなものである。このように各人に本質的に実在している一心こそ法性真如の理であり、夢の善悪は迷いの無明と悟りの法性である。このようにわきまえたならば、悪であり迷いである無明を捨てて、善であり悟りである法性にもとづいて、生活をしていくべきことは当然である。

大円覚修多羅了義経には「一切諸々の衆生の無始以来の幻(迷い)・無明は、すべて諸々の衆生の本質である本覚の法身如来の円覚の心から作り出したものである」といっている。また、天台大師は摩訶止観の巻五に「無明の癡惑(ちわく)は、本来それ自身が法性と一体なのである。しかし、癡の本質上、その働きによる迷いのために法性が変じて、無明となるのである」と述べている。また、妙楽大師の法華玄義釈籖の巻一には「理性といっても別に存在するのではなく、すべて無明の働きによるのである。また無明といっても、無明に別の本体があって実在するのではなく、すべて法性の中に存在するものなのである」と説いている。無明は断じ尽くすべき迷いであり、法性は証得すべき仏法上の道理であって、まったく異なるものである。それなのに、どうして無明と法性とが体一なのであるかという疑問は、以上の数々の経釈の文義によって正しく理解すべきである。大智度論の巻九十五に説かれた夢の譬えや、天台大師の玉の譬えは、共に無明・法性一体であることをよく説明してあり、まことに興味深く思うものである。

正しく、無明と法性と、その本体が同一であるという証拠は、法華経の方便品第二の「是の法は法位に住して、世間の相は常住なり(是の法は即ち九界の衆生である。法位とは法性であり仏である。それによって十界の差別はありながら、そのまますべて衆生、仏ともに永遠に常住となるのである)」の文である。大智度論には「明(悟り)と無明とは、その本質においては何の異もなく区別もないのである。このように知ることを中道と名づけるのである」と。

ただ生命の真如の妙理に、染浄の二法が存在するという証文は多いけれども、華厳経の「心と仏と及び衆生とこの三つは、本質上まったく差別がない」という文と、法華経の「諸法実相」の文には、まさるものはない。南岳大師は「心の本体に染法と浄法の二法を具足して、しかも、別に異なった姿はなく、まったく一味平等である」と。また同じく南岳大師の明鏡の譬えは、まことに詳しくこれを説いている。さらに詳しくは大乗止観の釈のとおりである。

また、すぐれた釈文としては、妙楽大師の法華玄義釈籤の六に「一念三千の道理が、ただ衆生の理具としてとどまっているだけであれば、それを無明と名づけ、一念三千が仏果として成就したのであれば、すべてそれを常楽というのである。いずれにしても、一念三千という実相は不変なのであるから、無明即明であり、三千が衆生、仏ともに常住であるがゆえに俱体俱用である」といっている。この解釈によって明瞭であろう。

 

語釈

水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る

出典は摩訶止観巻第六下に「一の珠を月に向れば水を生じ、日に向れば火を生ず、向はざれば則ち水火無きが如き、一物にして未だ曾て二ならず、而も水火の殊なり有るのみ」とあるによる。水晶の玉は太陽に向けるとレンズの作用で火を得るが、月夜になると大気が冷え、凝結作用によって表面に水滴ができる。昔の人は、月夜にそうした現象が起きるところから、水晶の玉を月に向けると水を得ると考えたのではなかろうか。

 

大円覚修多羅了義経

正しくは大方広円覚修多羅了義経。円覚経と略す。一巻。文殊等の十二菩薩のために、仏が大円覚の妙理を説いたもの。中国・唐代の仏陀多羅の訳出とされるが、中国選述の偽経ともいわれる。華厳宗第五祖の宗密が所依とした。後世、同じく中国撰述経典である楞厳経と共に「教禅一致」を説く経典と見なされ、時代が下がるに従って禅宗で重視された。

 

円覚

円満の覚体の意。完全にして円満な悟り。

 

止観

摩訶止観のこと。天台大師智顗が隋の開皇14年(0594426日から一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を〝止観〟として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の〝摩訶〟がつけられている。〝止〟とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを〝観〟という。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として①大意、②釈名、③体相、④摂法、⑤偏円、⑥方便、⑦正修、⑧果報、⑨起教、⑩旨帰、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、⑦正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。

 

大論

大智度論のこと。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦の鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。

 

大論九十五の夢の譬

大智度論巻九十五に「仏は、諸法は根本定実にして、毫末計りの如きも所有あることなしと説きたまえり。是の事を証明せんと欲するが故に、夢中に五欲を受くるの譬喩を説く」と。また、三世諸仏総勘文教相廃立に「夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う」(0565:10)とある。

 

玉の譬

無明も法性も、その体は一であることの譬え。摩訶止観巻第六下に「一の珠を月に向れば水を生じ、日に向れば火を生ず、向はざれば則ち水火無きが如き、一物にして未だ曾て二ならず、而も水火の殊なり有るのみ」とある。

 

是の法は法位に住して世間の相常住なり

法華経方便品第二に「是の法は法位に住して 世間の相は常住なり」とある文。権と実の理一をあらわす文である。日寛上人の文段に「是の法とは無明、法位とは法性、常住とは体一」とある。すなわち、この文は無明即法性であり、その当体は同一であるとの意である。また観心の立場から釈して、御義口伝に「此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり万法元より覚の体なり」(0787:05)と。

 

華厳経

大方広仏華厳経の略。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界縁起(無尽縁起)、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界(ゆいしんほっかい)の理を説く。また入法界品には、五十三人の善知識を歴訪し、最後に悟りを開いた求道物語を展開し、仏道修行の段階(五十二位)とその功徳を示している。

 

明鏡の譬

南岳大師の大乗止観巻二にある。一切像と鏡体との関係が、二にして不二のものであることをとおして、衆生と仏の関係、九界と仏界の関係が不二であることを明かしている。観心本尊抄に「譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し」(0240:02)とある。

 

法華玄義釈籤の略。十巻(または二十巻)。中国・唐代の妙楽大師湛然述。天台大師の法華玄義の註釈書。天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問(疑問箇所に籤[付箋]をつけて意味を質すること)に答えたものを基本とし、後に修正を加えて整理したもの。引用文の出典を明示し、注釈は極めて詳細で、天台大師の教義を拡大補強している。また当時盛んであった華厳宗・法相宗などを破折して法華最第一の義を強調している。

 

倶体倶用

体とは本体、用とは働きを指す。倶体倶用とは、法華経本門寿量品文底の本仏が体と用とを共に具えていることをいう。倶体倶用は必ず無作三身でなければならない。爾前・迹門の仏は法身を体とし、報身、応身を用としているから、俱体俱用ではない。総勘文抄(三世諸仏総勘文教相廃立)に「守護国界章に云く……『権教の三身は未だ無常を免れず・前三教の修行の仏、実教の三身は倶体倶用なり・後の円教の観心の仏』」とある。

 

講義

この章は、森羅万象ことごとく、妙法蓮華の当体である理由を明かされたところである。一切衆生の当体が妙法蓮華の全体というならば、地獄界ないし菩薩界等の業因業果も皆これ妙法蓮華の当体と考えてよいのかという問いに対して、そのとおりであると答え、その理由を染浄の二法の上から、体一相異、相異体一に約して述べられている。

悩み苦しむ九界の生命活動といっても、力強い仏界の生命活動といっても、その本質は法性真如の一理たる妙法に帰するのである。共に妙法の働きであって、九界の業因業果に苦しみ、不幸な人生を送る人も、その本質は妙法蓮華の当体である。

しかしこれは一往の義であり、地獄界、畜生界、修羅界等の生命に支配されている人は、染法の濁った罪業であるが故に、真実の妙法の当体とはいえないのである。再往は御本尊を受持し、妙法の生命を湧現し、浄法の清浄な生命を確立して初めて妙法蓮華の当体となるのである。

 

染浄の二法

 

生命の本質、われらの一念に染浄の二法がある。生命を大きく分けてみると、一つには、汚れた生命で、煩悩・業・苦に左右される迷いの生命である。これを染法という。また一つには、清浄な生命で、煩悩・業・苦に左右されない悟りの生命である。これを浄法という。十界の上からこれをみれば、染法とは九界であり、浄法とは仏界である。また染法は無明であり、浄法は法性である。

この染法が働くならば迷いとなり、不幸な人生となっていく。逆に浄法が働けば悟りとなり、幸福な人生になっていく。しかし、染法の生命といい、浄法の生命というも、別々の生命ではなく、同じ生命の変化にすぎないのであり、詮じつめれば法性真如の一理に帰するのである。法性真如の一理とは、自分自身の一念であり、生命の本質、妙法蓮華経のことである。

幸福も不幸も、自分の一念で決まってくるし、十界の生命活動といっても同じく自分の生命の中にある。さらに迷悟の二法、染浄の二法といっても、全部、自分自身の一念に具足している。

「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(0383:一生成仏抄:06)との仰せもある。この場合の一念心は信心である。信力、行力の一念は何よりも強い。南無妙法蓮華経と唱える一念は、全宇宙に通じ、一切を動かしていくのである。

生命の本質を余すところなく説ききった哲学は仏法以外にはない。仏法こそ最高唯一の生命哲学である。およそ、人間生命について人は古来、おのおのの立場から、さまざまに考えてきた。しかし、それらは、単に表面のみを見た皮相的なものであり、かつ、部分観である。

ある者は性善説を唱える。孟子いわく「人性の善なるや、なお水の下に就くが如きなり」と。すなわち、人の性は水が高きより低きに流れるごとく、自然に善に向かうものだというのである。

これとはまったく反対に、人間は本来、悪の性分であるというのが性悪説である。荀子いわく「人の性は悪、その善なるものは偽なり」と。

過去の思想をみるに、一般に洋の東西を問わず、性善説より性悪説の方が優勢であったようである。アメリカのプラグマティズムの創始者・ジェームズいわく「生物学的に考察すると、人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族を組織的に餌食にする唯一の猛獣である」と。

また、こうした、互いに相反する性善、性悪両説の中庸をとって、本来、両面があるとする考え方も古くからある。ただし、その根拠はあいまいであり、理論的に生命哲学の上から解明されたものではないのである。

生命の本質を十界論、一念三千論、さらには染浄の二法の上から、見事に解明したのは仏法以外にはないのである。

治病抄(治病大小権実違目)にいわく「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:06)と。

総勘文抄(三世諸仏総勘文教相廃立)にいわく「無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり」(0564:07)と。

無明といっても悟りといっても、共に一念心のなかにある。作用によって無明にもなるし、法性にもなっていく。大事なのは、表面的な現象ではなくして、生命の尊厳、不可思議、自分自身の一念をよく知ることである。

このように生命は本来一つであり、法性真如の一理たる妙法に帰着する。一切の現象は、共に妙法の振舞いであり、働きにすぎないのである。しかるに人間として生を受けながら、ある人は幸福な人生を送り、ある人は不幸な人生を送る。それは人間の生命が過去世の、善縁、悪縁の積み重ねにより生命の染浄が決まり、その結果、今世の果報が決まるからである。

染法の濁りきった生命こそ不幸の源泉であり、浄法の清浄な生命こそ幸福の原動力である。人間は誰しも不幸を願う人はいない、皆、幸福を願うのは当然である。

しからば人を不幸にする悪縁は何か、濁りきった生命は何によるのか。これこそ誤れる宗教によるのである。その悪縁によって、多くの人々は苦しみ悩む地獄界の生命活動、さらには餓鬼界、畜生界等々の醜い境涯に甘んじているのである。これらは、ことごとく染法に染まった罪業であり、真実の妙法蓮華の当体とはいえないのである。

このような不幸な境涯にならないためには、この悪縁を捨てて、善縁を求めなければならない。末法今日、民衆を不幸から救う善縁とは三大秘法の御本尊である。

御本尊に唱題することによって、一切の自分自身の生命の調和をとっていける、すなわち本源の妙法の生命を湧現することができるのである。また、これによって、濁った染法の生命を、清浄な浄法の生命に変えていくことができる。

それはあたかも、曇ったガラスを掃除するようなものである。掃除をして、きれいなガラスになったとしてもガラスはガラスであって同じ当体なのである。

われらが妙法を持つことは、地獄、餓鬼、畜生といった濁った生命に左右されずに、常に仏界を湧現し、九界を遊戯していくということである。九界を遊戯し、融通無碍の人生を送る生命、それこそ妙法蓮華の当体ではないか。

故に「法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり」と述べられているのである。

日寛上人は文段に、この文は体一相異、相異体一を明かしたものであると述べている。法性の妙理は一つであると雖も、染浄の二法が薫じて迷悟の二法に成るというのは、体一相異である。生命の本質は共に妙法であるが、その具体的な現われは染法として、また浄法として、さらには幸・不幸の人生として現われるからである。

この幸・不幸も所詮、自分自身の一念で決定するというのは、まさに相異一体といえるのである。

 

無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る

 

天台大師の摩訶止観巻五の文である。ここでは無明も法性も、その体は一つであり、法性真如の一理に帰すことの文証として出されたものである。

止観には、この文に続いて「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅なり」とあるように、あらゆる現象も、所詮、妙法蓮華経の働きにすぎないことを表わしている。

法性とはわが一念のことで、理論的にいえば生命の本質をいうのである。無明癡惑とは九界の生命活動のことで、悩み苦しんでいる迷いの生命である。しこうして九界の生命活動もわが一念より出たものであり、妙法の働きにすぎないのである。また自分の一念に染浄の二法のうちの染法が作用した場合に、法性が変じて無明になってしまうのである。

この原理はまた、第六天の魔王が梵天・帝釈に変わっていくという法華経の哲理でもある。治病抄(治病大小権実違目)にいわく「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と。

元品の無明は転じて第六天の魔王と働き、元品の法性は即梵天・帝釈となって働くのである。わが生命の中に第六天の魔王も、仏界も、梵天・帝釈も厳然と存在する。それは縁にふれて、あるときは第六天の魔王の働きとなり、あるときは梵天・帝釈の働きとなって出てくる。

幸福も不幸も、わが一念で決まるとの哲理は大聖人の仏法以外には絶対ない。まさに「無明癡惑・本是れ法性」の故に、南無妙法蓮華経の御本尊を信受し、題目を純粋に、真剣に、力強く唱えた生命は、わが身も福徳に満ち、民衆を幸福へ、社会を繁栄へと導くのである。

逆にまた「癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」との原理からして、御本尊を知らない、あるいは疑ったり誹謗する生命は、必ず行き詰まり、わが身を不幸にするのみならず、民衆を不幸に陥れ、全世界の福徳を断ち切る魔王の働きをなすのである。

 

法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云

 

この文は、法華経方便品の「是法住法位 世間相常住」の文である。全文の意は、九界(無明)も仏界(法性)も、本来その本体は真如の法位におさまっており、妙法に照らして見れば、差別ある相そのままが常住不変であって、これらの現象のほかに実相はないということである。したがって、ここで引用した意味は、森羅万象ことごとく妙法の当体であるということをあらわさんがためである。

次に部分的に日寛上人の文段により解釈を加えれば、

① 「是の法」とは、無明(九界)のこと。

② 「法位」とは、法性(仏界)をいう。

③ 「住して」とは、安住しての意、法性真如の法位に落ち着いていて、その妙理の中から外に出ないこと。

④ 「世間の相」とは、差別の姿。われわれの目前に展開する十界の姿は、一往、差別の様相を呈する。

⑤「常住なり」とは、体一すなわち一如をあらわす。妙法の悟りを得てみれば生滅無常の差別の相も、本有常住、妙法の当体であること。

この全文について、日蓮大聖人は御義口伝に「此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり万法元より覚の体なり(0787:方便品:01)」と釈されている。また、その前には「是法住法位」を真諦、迹門、「世間相常住」を俗諦、本門と配当した次の文を示されている。

 

真諦       俗諦

是ノ法住シテ法位ニ 世間ノ相常住ナリ

迹門       本門

 

これについては、「御義口伝講義」に明瞭に説かれているので、ここではそれを要約しておきたい。

まず「是の法法位に住して」が真諦、「世間の相常住なり」が俗諦とは、信心即生活ということである。「是の法」とは御本尊のことであり、「法位に住して」とは、御本尊根本ということである。「世間の相」とは差別相のことであり、一切の生活、社会等、すべて差別の姿をとっていることを意味する。「常住なり」とは、その差別の姿のままで御本尊の偉大なる光明に照らされて、自身、絶対に崩れない、永遠不滅の幸福な当体とあらわれることである。

次に、この経文を、迹門、本門に立て分ければ「是の法法位に住して」が迹門、「世間の相常住なり」が本門である。「是の法法位に住して」とは、宇宙森羅万象が妙法の当体であることを意味し、空間の実相を尽くしたものであるから迹門であり、「世間の相常住なり」とは、常住の当体を説き明かし、時間的に実相を尽くした立ち場であるから本門である。

ここに迹門とは、不変真如の理のことであり、本門とは随縁真如の智のことである。これを御本尊に約して論ずれば、「是の法法位に住して」とは、御本尊は大宇宙の根源の法理であり、根本法則であるということである。「世間の相常住」とは、御本尊は大宇宙の根源であると共に、事の一念三千の常住不滅の幸福なる当体であるということである。したがって、御本尊の相貌に約していえば「是の法法位に住して」とは、中央の南無妙法蓮華経であり、「世間の相常住なり」とは、左右の十界互具、百界千如、三千世間であり、これらが、中央の南無妙法蓮華経の光明に照らされて、皆ことごとく、久遠元初の自受用身如来の働き、力用、福徳になっている姿をいうのである。

また、御本尊とわれわれとの関係として不変真如、随縁真如を論ずれば、先の真諦と俗諦の説明と同じになる。すなわち、御本尊それ自体は「是の法法位に住した」お姿であり、不変真如の理である。それを、さらに御本尊を根底に信心を開き、人々の生活の上に、現実に智慧となり、大生命力となって湧現してくることを「世間の相常住」というのである。

このように、様々な内容を含む経文であり、何重にも拝していかねばならないが、この当体義抄においては、森羅万象ことごとく常住の妙法の当体であるとの意味で引用したものである。

 

 

第三章(信受に約す)

本文

  問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是なり涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文、南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文、又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し是を一乗の衆生の義と名く」文、又云く「二乗声聞及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行を修せず若し法華三昧を証すれば衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名く」文、南岳の釈の意は次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡す、然るに此の釈の意は法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云う故に爾前の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経なり・証拠は無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説す」文、利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず若し法華経を証する時は衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名く可からざるなり、設い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付く可からず権教の三身は未だ無常を免れざる故に何に況や其の余の界界の名言をや、故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、

 

現代語訳

問う、一切衆生が、皆ことごとく妙法蓮華経の当体であるならば、われわれのように愚癡で道理に闇く、理解も鈍い凡夫も、妙法の当体であるのか。

答う、当世の人々は数多いけれども、全ての人は二種類に収まってしまう。それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人である。しかして、権教・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない。実教の法華経を信ずる人こそ当体蓮華であり、真如の妙体なのである。その文証として涅槃経には次のように説いている。「一切の衆生の中でも、特に大乗教を信ずる故に大乗の衆生と名づけるのである」と。南岳大師の四安楽行義には「大強精進経にいわく、信心によって衆生(九界)も仏(仏界)も同じく共に一つの生命であり、清浄にして妙なること比いなきことを妙法蓮華と称するのである」と。また同じく南岳大師は「法華経を修行する者は、この余念のない信心・修行にあらゆる果徳がそなわる。しかもそれは一時にそなわるのであって、歴劫修行のように次第に得入するのではない。それはあたかも蓮華の華が開くと同時に、一つの華に、多くの果実を一時に具足するようなものである。これを一乗の衆生の義と名づけるのである」と。またいわく「二乗の声聞及び鈍根の菩薩の修行は、方便道の中での歴劫修行である。これに対して利根の菩薩は、正直に方便を捨てて歴劫修行の道を取らない。もしも法華のさとりを証得するならば、一切の果徳がことごとく具足するのである。これを一乗の衆生と名づける」と。

南岳大師のこの釈の中の次第行の三字を、世間一般の学者は別教であると解している。しかし、これは誤りであって、この釈の意は、法華経の因果俱時の完全な教えに相対して、方便道を次第行といっている。故に次第行とは爾前の円、爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経等の一切をいうのである。

その証拠として、法華経の開経である無量義経説法品第二に「次に方等十二部経・大般若経・華厳経を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説した」と説かれている。利根の菩薩は正直に方便を捨てて歴劫修行をしないで、もし法華経を証得するときは、一切の果徳を具足することができる。これを一乗の衆生と名づけるのである。

これらの文の意を考えてみれば、三乗・五乗・七方便・九法界等、四味三教を修行する一切の凡夫・聖人等は、大乗の衆生・妙法蓮華の当体と名づけるべきではないのである。たとえ仏であっても、権教の仏に対しては仏界すなわち真実の仏と名づけるべきではない。なぜならば、権教の三身は、永遠の生命を説いていない故に、いまだ無常を免れないからである。まして、その余の九界に対しては、どうして当体蓮華と名づけられようか。

ゆえに正・像二千年間の国王・大臣よりも、末法に生まれた非人のほうが尊貴であると釈しているのもこの意なのである。

南岳大師は安楽行義に「一切の衆生は法身の蔵を具足しているので、仏と何ら異なることはない」と述べている。また法華経法師功徳品第十九では「父母所生の清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意もまた是くのごとし」と説いている。さらに安楽行義に「問うていわく、仏は、いずれの経の中で眼等の諸根を説いて名づけて如来としているのか。答えていわく、大強精進経の中に、信心によって衆生(九界)と如来(仏界)は共に同じ一法身(生命)であって、その清浄妙なること比類がない。それを妙法蓮華経と称するのである」と説いている。

この大強精進経は方便権教の文ではあるが、法華経がすでに説きあらわされているから会入の立ち場から引用することができるのである。この大強精進経の同共の二字に習って相伝するのであるが、法華経(御本尊)に同共(境智冥合する)者は妙法の当体であり、法華経に不同共の、法華不信の念仏者等は、すでに衆生所具の仏性・法身如来に背くゆえに妙経の当体ではない。

所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母所生の肉身そのものをいうのである。正直に方便の教えを捨て、ただ法華経(御本尊)のみを信じ、南無妙法蓮華経と唱え行ずる人は、煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま一心に顕われ、その人の所住の処は、常寂光土となるのである。能居所居・身土・色心・俱体俱用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等のなかの正しい信心をする者のことである。これすなわち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのである。決してこれを疑ってはいけない。これを疑ってはならない。

 

語釈

涅槃経

釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。①大乗では、㋑中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経」六巻、0418年成立。㋺北涼代の曇無讖訳「大般涅槃経」(北本)四十巻、四二一年成立。㋩劉宋代の慧観・慧厳・謝霊運訳「大般涅槃経」(南本)三十六巻、四三六年成立。㋑を参照して㋺の前半を改めたもの。㋥唐代の若那跋陀羅訳「大般涅槃経後分」二巻、仏の荼毘・舎利の分配までの事績を記す。②小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻、姚秦(後秦)代の鳩摩羅什訳「仏遺教経」等がある。内容について、大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経は教理を説いたものではなく、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。

 

四安楽行

ここでは、南岳大師慧思の著「法華経安楽行義」の略称として用いられている。なお四安楽行とは、法華経安楽行品第十四に説かれた四つの行法。文殊菩薩が浅行初心の行者が濁悪世で安楽に妙法蓮華経を修行する方法を問い、釈尊がこれに対して身・口・意・誓願の四種の安楽行を説き、初心の人がこれによって妙法蓮華経を弘通し修行することを示した。

 

大強精進経

この経名は、諸経録の中には見えない。しかし、一節には央掘摩羅経ではないかといわれる。その根拠は、央掘摩羅経巻四に「南方此を去り、六十二恒河沙刹を過ぎて国有り。一切宝荘厳と名づく。仏を一切世間楽見上大精進如来応供等正覚と名づく……王当に随喜し、合掌し、恭敬せん、彼の如来は、豈異人ならんや。央掘摩羅即ち是れ彼の仏なり」とある。ここから、央掘摩羅の本地は「大精進如来」であるとし、南岳は「大精進如来」の垂迹である仏弟子で、かつて殺人をなすこと一千人に一人を欠くという凶賊であった央掘摩羅の事績を伝えた経典・央掘摩羅経を「大強精進経」といったのであろう。なお央掘摩羅経は四巻、阿含部に属す。

 

無量義経

一巻。中国・蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経序品第一には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。内容は「無量義とは、一法従り生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。また、これまでに説いた経教は、まだ真実を明かさない方便の教えであることを次のように述べている。「善男子よ。我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と。

 

歴劫修行

成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第二にある語。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。

 

三乗・五乗・七方便・九法界

三乗とは声聞・縁覚・菩薩。五乗とは三乗と人・天。七方便とは、蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩と別教の菩薩をいう。九法界は地獄界から菩薩界までの九界である。

 

能居所居

居住する主体を能居、居住の処を所居という。日寛上人の文段には「『能居・所居』は是れ無作応身の依正なり、例せば妙楽が『即ち本応身の所居の土』と云うが如し」とある。

 

当体蓮華

当体蓮華とは、一切衆生の当体が妙法蓮華であり、十界互具の生命であることをいう。当体蓮華を説明するために用いられた植物の蓮華(ハスの花)を譬喩蓮華という。蓮華、すなわちハスは、小さなつぼみのうちからその中に果実となる花托がある。多くの花は因である花が先に咲いて散ってから実がなるのに対し、ハスは花びらと果実がともに成長していき、花が開いた時に実がしっかりあり、花と実が同時である。ここで蓮華の蓮はハスの実をあらわし実法に、華はハスの花で権法にたとえる。法華玄義の序王では、妙法蓮華(当体蓮華)を説くために華草の蓮華(譬喩蓮華)をもって権教と実教、本門と迹門との各三種の関係に配して示されている。(1)迹門の三喩。①蓮のための華。為実施権(実の為に権を施す)をたとえる。②華開き蓮現ずる。開権顕実(権を開いて実を顕す)をたとえる。③華落ち蓮成ずる。廃権立実(権を配して実を立てる)をたとえる。(2)本門の三喩。①蓮のための華。従本垂迹(本従り迹を垂れる)をたとえる。②華開き蓮現ずる。開迹顕本(迹を開いて本を顕す)をたとえる。③華落ち蓮成ずる。廃迹立本(迹を廃して本を立てる)をたとえる。

 

講義

本章は信受に約する段である。前段において、法体に約する意は、信と不信を分別することなく、十界の依正を通じて、妙法蓮華経の当体となしているのである。これは総別の二義のうち、総の立場である。
 今、ここに信受に約する意は、不信謗法の類いを簡び捨て、但妙法信受の人をもって、別して妙法の当体となすのである。

 

総別の二義について

 

総別の二義は、仏法上極めて重要な原理である。日蓮大聖人の御書も、総別の二義をわきまえて拝さなければ、重大な誤りを犯すことになる。曾谷殿御返事にいわく「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(1055:11)と。よくよく心肝に染むべきである。

総別の総とは、一往表面的、総体的に論ずることである。別とは、再往さらに一重立ち入って、特に別して論ずることである。したがって、総より別が究極となるのである。

総別は仏法の正邪を論じ、教義の浅深・高低を判別する基本的なもので重大な意義がある。たとえば、釈尊一代五十年の説法のうち、総じては一代聖教ことごとく真実であるが、別しては最後の八年間に説いた法華経のみが真実の教えである。さらに、総じては法華経二十八品が真実の教えであるが、別しては本門十四品が真実である。また、総じては、本門十四品が究極円満の教えであるが、別しては、本門寿量品文底の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ、即身成仏の教えである。

付嘱にも、総別の二義がある。総付嘱と別附嘱である。総付嘱とは法華経の嘱累品において本化・迹化の菩薩に通じて付嘱したように、総体的に一往付嘱したことをいう。別附嘱とは、神力品において、特別に上行菩薩を上首とする地涌の菩薩に結要付嘱したことをいうのである。

如来すなわち仏にも総別がある。御義口伝下に「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(0752:05)とあるごとく、総じていえば、如来とは一切衆生をいうが、別していえば、御本尊を受持した日蓮大聖人の弟子檀那である。ところで、別の中にもまた総別の二義がある。すなわち日蓮大聖人の弟子檀那を如来というは総であり、別しては、如来とは日蓮大聖人御一人のことである。これを両重の総別という。

両重の総別は、当抄においても、分明である。すなわち「一切衆生悉く妙法蓮華経の当体」とは総であり、「妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」とは別である。ところが「能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」との文は別の中の別であって、この文こそ正に信心に約しているのである。「中」の字を、日寛上人は「正信にあたる」と解釈されているように、大聖人の仰せどおり、広宣流布の達成に向かって実践しきった人が、真実の妙法蓮華経の当体なのである。

 

当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり

                                              

第一章の、あらゆる衆生も妙法の当体であるとの仰せに重ねて「我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや」と問うているのである。法体に約し、理の上の法相から論ずるならば、実に所問のとおりである。

だが、信受に約し、事について論ずれば、そこに厳然と差別が存する。ここでは一切衆生を、権教の人と実教の人とに分別し、別して実教の人こそ妙法蓮華の当体であると仰せである。

一往、権教とは法華経以前の爾前権教であり、「権教の人」とはこの爾前権教を信じ、執着している人のことである。また、実教を法華経ととり、「実教の人」とは法華経を信ずる人と考えられる。しかしこれは、まだ種脱相対をわきまえない浅薄な見方であって、当抄に「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518:16)との御金言より拝しても、実教とは三大秘法の御本尊にほかならないことは明白である。しかして「実教の人」とは、御本尊を持った人であり、この人こそ当体の蓮華・真如の妙体と顕われるのである。

したがって「権教方便の念仏等を信ずる人」すなわち邪宗教、誤れる思想を持った者は「妙法蓮華の当体と云わる可からず」と断定されているのである。

 

大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す

 

この文は、九界即仏界、仏界即九界の不可思議な生命の当体をあらわしている。この大強精進経の文について、日寛上人は、次のように釈されている。

「問う妙法蓮華経と称する意如何。答う、衆生と(与)如来は即是れ蓮華の二字なり、謂く衆生は是れ因にして如来は是れ果なり。与の一字は因果俱時を顕わすなり。同共一法身とは即是れ法の一字なり。謂く衆生如来に同共すれば九界即仏界なり。如来衆生に同共すれば仏界即九界なり。十界互具、百界千如は即是れ法の字なり。清浄妙無比とは即是れ妙の一字なり。此の五字は通じて称嘆の辞なる故なり。中に於て清浄の二字は衆生と如来の蓮華を歎ず。妙無比の三字は同共一法身の法の字を歎ずるなり。是の故に妙法蓮華経と称するなり」と。

妙法蓮華経とは、九界即仏界、仏界即九界の即身成仏の法であることは、これによって明確である。しかして、この文の「同共」の二字に甚深の意味があることを知らなければならない。下の文に「大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり」と仰せのごとく、同共しなければ、もはや妙経の体、すなわち当体蓮華の仏ではありえないからである。

しからば、同共とは何か。われら衆生においては、同共とは信心である。信心によって初めて御本尊と同共し、わが身妙法蓮華の当体とあらわれ、清浄妙無比の、尊極の生命をあらわしていくことができるのである。清浄妙無比とは、何ものにも壊されず侵されない、金剛不壊の幸福境涯をいうのである。

 

法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず

 

この文は、南岳大師の安楽行義の文である。無量義経に「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜は自然に在現し」とあるごとく、因位の万行を修行しなくとも、御本尊を受持し、自行化他にわたる信心修行によって、果位の万徳を備えるのである。「一時に具足して」とは直達正観・即身成仏ということである。

また、日寛上人の文段によれば、この文は因果俱時をあらわしている。

すなわち「一心」の一の字は因であり、「衆果普く備わる」とは果である。また「一時に具足して」とは、すなわち、俱時ということである。

 

故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり

 

たとえ国王・大臣といえども、正像年間に生まれては、仏法の真髄たる文底独一本門の御本尊にめぐりあうことはできない。非人であったとしても、末法に生まれ、御本尊を信受し、わが身即当体蓮華の仏と開覚できることは、最高無上の幸福である。

人間の真実の偉大さは何によって決まるか。国王、大臣とは、社会的地位であり、肩書きである。本質的な人間生命それ自体にとっては、枝葉末節にすぎない、はかない栄枯盛衰の姿であり、夢の中の夢ではないか。わが生命の本質の輝きは、妙法を信受し、実践する以外にない。この信心から出た生命の輝きは、何ものにも破られず、奪われず、衰えることもない、年とともに、ますます輝きを増していくのである。

真実の幸福は、わが生命の外に求めるのでなく、わが生命それ自体の内に、尊極無上の宝を開発しゆくのである。これこそ、人間として最も偉大なことではなかろうか。

なお、この文について、日寛上人の文段には、次のように申されているので、現代語に訳して引いておく。

正法千年は四味三教流布の時であるから、国主・大臣といえども妙法蓮華の当体でないことは明らかである。しかし、像法の時は法華経を弘めているから、その法華経を信受した人は当体の蓮華仏ではないかとの疑問が生ずる。

だが、天台・伝教の像法時代は法華経迹門流布の時であるから、これを信受した人々もことごとく、迹門の人といわなければならない。たとえ仏といえども迹門の仏であって妙法当体の蓮華仏ということはできない。ましてそれ以外のものはいうまでもないことである。

これは本門寿量の真仏にのぞむ時は、いまだ無常を免れることのできない夢中の虚仏だからである。

しかるに末法今時は、本門寿量の肝心すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布の時である。故にこれを信受する人は非人であっても、本門寿量の当体の蓮華仏なのである。したがって正法像法の国王よりも、末法の妙法を信受した非人は尊貴なのである。

それでは、この釈はどこからでているのか。日講の啓蒙に「此の釈の本拠は未だ的文を見ず、但大論十三に相似の文有り」とあるが、この啓蒙の意では適当のものということができない。

しかして、此の釈は取意の引用である。すなわち天台の法華文句の「後の五百歳遠く妙道に沾わん」、妙楽の法華文句記の「末法の初め冥利無きにあらず」、また伝教の守護国界章の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」、同じく法華秀句の「代を語れば則ち像の終り末の始め」等の釈である。

ゆえに撰時抄にこれらの文を引きおわって「天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり……道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(0260:07)と仰せである。

すなわち末法の始めは、独一本門の流布の時であるから、是れを信受する者は皆これ本門寿量の当体蓮華仏である。故に末法の始めを恋うるのである。

さて、御本尊を受持し、折伏に励む創価学会員は、たとえ今は貧乏に悩み、病気に苦しんでいるとしても、仏法の眼開けてみれば、地涌の菩薩として、人類の一切の苦悩を救うべき、尊い使命をもって生まれてきているのである。

しからば、なぜ地涌の菩薩が、貧乏人や病人に生まれてきたのであろうか。それは一つには本人の宿命であり、罪業によって悩んでいるのである。二つには願ってこの世へ折伏を行ずるために生まれてきたのである。折伏を行ずる人が裕福で健康で、何一つ不自由しない人ばかりでは、折伏される方の不幸な人々にとって、御本尊を心から信ずるに至る手がかりはなくなってしまうであろう。戸田先生は常に「われわれは折伏を行ずるために、願って貧乏で、また病気の身などで生まれてきたのだ。故に折伏をやりきれば、必ず絶対的幸福の境涯にもどる」といわれていた。

折伏を行ずるには、一般大衆と同じ悩みや苦しみを共にしながら仏道修行に励んで、そのなかに御本尊の功徳を身をもって証明し、事実の生活の上にあらわさなければ、大衆が信用しない。ゆえに、法師品には「此の人は……衆生を哀愍し、願って此の間に生まれ、広く妙法華経を演べ分別す……是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」と。

日蓮大聖人が、王候や貴族に生まれることなく、貧窮下賤の身で出現になった理由は、一切衆生を救わんがためであった。

開目抄にいわく「経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり」(0203:06)と。

また、善無畏三蔵抄にいわく「日蓮は安房の国・東条片海の石中(いそなか)の賎民が子なり威徳なく有徳のものにあらず」(0883:09)と。

佐渡御勘気抄には「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(0891:07)とも仰せられている。

しかして、日蓮大聖人のご一生の大難を思うならば、われらのごとき悩み、苦しみなど取るに足らぬものではないか。必ず使命があって、この世に生まれ、信心したのであり、いかなる悩みも絶対に解決できるとの確信に立って、信心強盛に折伏に励むべきである。

しかも、今、時は、まさに順縁広布の時代である。中天の太陽のごとき赫々たる黄金時代が到来したのである。このすばらしい、偉大な時代に生まれあわせた福運を身に感じて、一生成仏を目指していきたいと思うのである。

 

所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり

 

生命の尊厳をこれほど明確に説ききった哲学が他のいずこにあろうか。「父母所生の肉身」とは、われわれの、ありのままの人間である。妙法を信じたときには、それが即、尊極なる妙法蓮華の当体とあらわれる。

キリスト教においては、肉体を悪魔の所産とし、そこから離れた霊魂、精神にのみ尊厳を認める。過去、世界の主流となってきた思想は、いずれも、こうした「父母所生の肉身」を忌み嫌う考え方に立つものであったといってよい。

もとより、古代ギリシャにおけるように、肉体の美を賛嘆する思想もあったし、ルネサンス以後も、この古代ギリシァの精神が一つの流れを形成してきたことも事実である。だが、それは、あくまでも、均勢のとれた、見事に発達した肉体の美感の問題にすぎない。生命の本質的な尊厳観にかかる思想・宗教にはなりえなかった。

いまここに「父母所生」の、われらのありのままの人間生命が、そのまま「妙法蓮華の当体」とあらわれるとする偉大な仏法哲学によって、初めて真の生命の尊厳が具現されるのである。

肉体を離れて、生きた人間存在はありえない。「父母所生の肉身」を否定して、いかに尊厳を説こうとも、それは観念論にほかならないであろう。

阿仏房御書にいわく、「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(1304:06)と。

この御文に「法華経を持つ男女の・すがた」と仰せられているのも、御本尊を受持した、現実の人間ということである。色心不二の、生命の全体をさして、このように仰せられているのである。また「貴賤上下をえらばず」とは、社会的地位の上下も、財産の有無も、この生命の尊厳ということについては、一切無関係であるとの意である。

ただ大事なことは信心であり、信心があれば、この生命の尊厳を事実の上に顕現し、輝かせていくことができる。信心がなければ、それを開発することはできない。あたかも、大地の中に埋蔵されたダイヤモンドの鉱石のごとく、そのままでは、価値を発揮していくことはできない道理である。

ひるがえって、人類の歴史をかえりみるとき、生命の尊厳が常に叫ばれ、その実現が渇仰されながら、現実には戦争と弱肉強食の争いとの、生命軽視の醜い流転を繰り返してきた。その原因は、とりもなおさず、生命の尊厳を説く哲学、宗教が、たんなる観念論の域を出なかったが故の無力さにあるといわなければならない。

日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、生命のありのままの姿を捉え、そこに確立した尊厳観であると共に、事実の生活の上に、生命の尊厳を具現する唯一の実践哲学なのである。

人類百万年の悲惨と残虐の流転に、今こそ終止符を打たねばならない。核戦争による人類絶滅の脅威におおわれた現在、人類の生きうる道は、それ以外にない。この仏法によって真実の生命の尊厳の土台を確立し、慈悲と平和の栄光の歴史を築こうではないか。

 

正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は……三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり

 

この文を日寛上人の文段にしたがって論じていくことにする。

初めの「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は」の文は本因を明かしている。すなわち、われわれが信ずるは心であり、唱うるは身である。この色心一如の境涯は、これわれらの本因妙である。

「正直に方便を捨て」とは、信心第一に生きるということである。一切の活動は、信心から出発し、信心に帰着するのでなくてはならない。その人の根底の一念が、何か他に幸福の道があるのではないかと動揺しているのであっては、正直に方便を捨てたことにはならない。この仏法以外には断じてないと決めることが信心の肝要であり、正直に方便を捨てたことになる。日寛上人の文段には、次のようにある。

「正直とは譬えば、竹を竹と識り、梅を梅と識り、松を松と識る、権を権と識り、実を実と識り、迹を迹と識り、本を本と識り、脱を脱と識り、種を種と識る、是を正直というのである。既に権を権と識り、実を実と識る則は、永く権を用いざる故に権を廃捨す。故に捨方便と云うのである。本迹種脱、之に例して知るべきである。若し、権実雑乱、本迹迷乱、種脱混乱は即ち是れ邪曲の義なのである。故によくよく慎まなければならない。邪義を立てるときは責めなければいけない」との仰せである。

「但法華経を信じ」とは、ひたすら三大秘法の御本尊を信ずることである。上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)とあるがごとくである。

この法華経を、三大秘法の御本尊ととることは次の日寛上人の文段からも明白である。

すなわち、この文は、ただ権実相対に似ているけれども、釈成の文より立ち返ってこれを見るときは、本迹相対、種脱相対の意を含んでいるのである。ゆえに具さには、但法華経の本門寿量の教主の金言を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人等というべきである。これすなわち釈成の文中に本門寿量の当体蓮華仏というゆえである。

もし本門寿量の教主の金言を信じないならば、本門寿量の当体の蓮華仏と名づけることはできないのである。

また、末法の衆生の証得を明かす文の中に、当体の蓮華を証得し、寂光当体の妙理を顕わすことは、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱えるゆえである。どうして本迹一致の妙法等ということができるであろうか。

「煩悩・業・苦の三道……三観・三諦・即一心に顕われ」の文は本果をあらわしている。なぜなら、信心唱題の妙因によって顕われた妙果であるから、本果妙である。

「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」とは煩悩即菩提、生死即涅槃ということである。いわゆる釈迦仏法では、三惑を断じ、煩悩を断じて、初めて幸福境涯が得られると説くが、これは現実にありえない低級な教えである。日蓮大聖人の仏法は、煩悩を断ずるのではなく、煩悩は煩悩のまま明らかに見、そして御本尊を信ずる大功徳によって、煩悩はそのまま悟りの境涯に住すると、実際生活の上から、明らかに妙理を説かれているのである。ゆえに、生死一大事血脈抄にいわく「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ……煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」(1338:08)と。

三道の道とは能通の義であり、この煩悩・業・苦の三つは互いに因果となって、よく通ずるゆえに三道というのである。すなわち煩悩は、業の因であり、業すなわち宿業は、煩悩のあらわれであり、苦はそれによって六道の生死の苦果を招くことをいうのである。この六道の苦界を流転する末法の衆生は、文底下種の南無妙法蓮華経の御本尊を信じて唱題修行することによって、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じ、最高の幸福境涯に住することができるのである。

ここで、法身とは永遠の生命、色心連持、調和された生命、人格をいう。

般若とは智慧をいい、社会にあって、人々を幸福にし、悠々と価値創造に活躍しきっていける人生を遊戯していけるのである。

解脱とは幸福境涯。生死の縛にとらわれない、自由清新な生命活動をいうのである。

このような法身・般若・解脱という尊極極まりない生命も、われわれの煩悩・業・苦の三道があるから、妙法の力用によって、法身・般若・解脱へと、最高の人間革命ができるのである。これこそ煩悩即菩提、生死即涅槃の大原理なのである。

始聞仏乗義にいわく「但し付法蔵の第十三天台大師の高祖・竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、天台云く妙は不可思議と名づく等云云、又云く一心乃至不可思議境・意此に在り等云云、即身成仏と申すは此れ是なり」(0984:01)と。

また法身・般若・解脱の三徳とは本地無作三身である。すなわち法身即法身如来であり、般若即報身如来であり、解脱即応身如来である

「転じて」とは、その人自身に変わりはないが、信心の自覚により、今までと180度変わった人生、境涯に入ることをいうのである。この「転じて」について日寛上人は文段に次のように述べている。

「転」とは、その体を改めないで、ただその相を変ずることを転というのである。大論にはいわゆる「毒を以て薬と為す」とある。本尊供養御書にいわく「金粟王と申せし国王は沙を金となし・釈摩男と申せし人は石を珠と成し給ふ……須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ」(1536:02)と。

「三観・三諦・即一心に顕われ」とは境智の二法をわれわれの生命に顕現することである。三観は能観の智、三諦は所観の境である。曾谷殿御返事にいわく「抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし」(1055:06)と。

空仮中の三諦は一切万法に通ずるから、万法の体はことごとく三諦の境すなわち御本尊である。また「境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながる」すなわち三諦の境より発す三観は智となる。魔訶止観巻三上に「もし智に由りて境を照し境によりて智を発す」とある。

同じく曾谷殿御返事に「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」(1055:02)と仰せのごとく、三観・三諦とは南無妙法蓮華経のことである。

三観とは、御本仏日蓮大聖人の智慧であり、三諦とは大宇宙の妙法である。一心とは信心の心である。よって「三観・三諦・即一心に顕われ」とは御本尊を信じ、題目を真剣に唱えたとき、仏の智慧が湧現し、その行動は大宇宙のリズムに叶った自在の振舞いとなっていくとの意と拝するものである。

されば、日寛上人は文段に次のように仰せである。

「三諦はこれ境であり、三観はこれ智である。故にただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、本地難思の境智の妙法をわれらが一心に悟り顕わして、本門寿量の当体蓮華仏と顕われるのである。これを本覚無作の一心三観と名づけるのである。修禅寺決に云く『本門実証の時は無思無念にして三観を修す、無思無念にして誰れも造作すること無し故に無作と云うなり』」と。

「其の人の所住の処は常寂光土なり」の御文は依正不二を明かされている。「其の人」とは、南無妙法蓮華経と唱うる人で、すなわち、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じた妙人である。この妙人は正報である。

「所住の処」等とは依報である。この中において「所住の処」の四字は依報の中の因であり、「常寂光土」の四字は依報の中の果である。されば依正不二なる故に、正報の因果が俱時であるから、依報の因果も、また俱時である。このように依正の因果が俱時であるから依正の因果ことごとく蓮華の法である。

ここで「常寂光土」とは、仏の住する清浄な国土ということであり、当体蓮華仏の住む処である。

したがって、常寂光土は、爾前、迹門で説かれているような、われわれ衆生とかけ離れた、特別な理想世界をいうのではなく、われわれが住むこの娑婆世界をいうのである。これ娑婆即寂光土の原理である。

われわれが住むこの世界を、娑婆とするか寂光土とするかは、正報であるわれわれの一念によって決定されるのである。わが奥底の一念が、地獄であれば、われらが住む世界はことごとく地獄である。奥底の一念が修羅界であれば、われわれをとりまく世界はことごとく修羅界である。われわれの一念が天界であれば、国土も天界となるのである。

しかしてわが一念に仏界を湧現し、当体蓮華仏と顕われれば、依報はことごとく常寂光土となるのである。

したがって、妙法が広宣流布した世界こそ常寂光土となるのは、明々白々たるものではないか。今日、幾多の悲惨な現実がわれらの眼前に展開している。戦争、飢餓等、その現状はあまりにも悲惨であり、残酷である。この五濁乱漫の世相の根源は実に人間生命の濁りである。しかして、われわれが妙法を全世界に広宣流布するならば、必ずやこの乱れきった娑婆世界も常寂光土と転ずることができるのである。このように仏法はまずその人自身の当体を確立するところから出発している。自身の当体を確立しないで、なんの制度であり、政治、文化であろうか。

また「其の人の所住の処は常寂光土なり」とは信心唱題の故に、仏身を成じ、その所住の処は寂光土となるというのであるから、これ本国土妙というのである。

されば、本因、本果は正報の十界である。本国土は十界の依法である。しこうして三妙合論するといえども、三千の相いまだに明らかでない。したがって次に能居所居・身土・色心等といって依正の十如を明かしているのである。

 

能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり

 

この文は、真実の生命の幸福論を明かしているのである。

日寛上人の文段には次のように述べている。

此の文は釈成の文である。すなわち文底の意にこれを釈して、日蓮大聖人の末弟に結成するのである。

されば、初めに依正不二を釈成し、次に因果俱時を釈成するのである。

初めの依正不二とは上の御文には広く、其の人所住の処常寂光土等といい、今、文底の意に依って無作三身の依正に約してこれを釈するのである。

すなわち、能居所居はこれ無作応身の依正である。例せば妙楽が「即ち本応身の所居の土」というのと同じである。

身土とは無作法身の依正ということである。例せば妙楽が「即ち是れ毘盧遮那身土の相」というのと同じである。

色心とは無作報身の依正である。十法界を心とするを報身というからである。

されば報身とは色をもって所依とし、心を報身とする故である。この無作三身の所依を寂光土というのである。解釈にいわく「無作三身、寂光土に住すと」等云云。これについて日蓮大聖人は「十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う」(0563:三世諸仏総勘文教相廃立:02)、是れ無作三身の一仏である。

したがって「能居所居・身土・色心」の文を日蓮大聖人の御身に拝することができる。すなわち、大聖人御自身は能居であり、大聖人の住する所は所居である。この能居所居ともに依正不二で一体である。

また、身とは大聖人の御身であり、大聖人の住するところは土である。この身も土も一体不二である。

さらに、この文において、事の一念三千の義が明らかに説かれている。すなわち、能居の身の色心とは、すなわちこれ正報の十如是である。されば衆生世間、五陰世間の二千となる。所居の土の色心とはすなわちこれ依報の十如でこれ国土世間の一千である。

能居の身の色心・所居の土の色心が十如である理由は、摩訶止観巻五に云く「国土世間亦十種の法を具す、所以(ゆえ)に悪国土相性体力等」と。法華玄義釈籤の六に「相は唯色に在り、性は唯心に在り」とあるごとくである。

以上において、三妙合論、事の一念三千の文義が分明である。

此の事の一念三千即自受用身なるが故に、俱体具用と仰せられているのである。

「俱体俱用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは」の文の下は因果俱時を釈成している。初めに果をあげ、次に日蓮の下は因を結しているのである。初めに果をあげる中に、俱体俱用の無作三身とは、上の文の三道即三徳の文に配し、本門寿量の当体の蓮華仏とは上の文の三観即三諦の文に配してこれを見るべきである。

前には汎く三道即三徳と転ずるという。今は文底の意に約するから俱体俱用の無作三身というのである。

爾前迹文の意では、法身を体となして報身・応身を用としている。ゆえに俱体俱用ではない。また色相荘厳の仏であるがゆえに無作三身ではない。本門の意は、三身俱体、三身俱用であるから、俱体俱用である。まして名字凡身の本のままであるから無作三身である。されば俱体俱用の無作三身とは日蓮大聖人の御事である。われらが妙法信受の力用によって、即日蓮大聖人と顕われるのである。すなわち、人法一箇の御本尊を信ずることによって、われらもまた当体の蓮華仏となるのである。

また、一往、義立に約せば、俱体俱用の義は迹門に通ずる義辺がある。等海抄十二には「迹門の意は法身に即し、報応二身は倶に体と成る、報応に即し法身は倶に用と成る。故に俱体俱用と云う義之有り」とある。

また、総勘文抄等は此の義辺に当たるか。本門寿量の当体蓮華仏とは、前には汎く三観三諦等といい、今は文底の意に約して本門寿量等というのである。

いうところの当体とは妙法の当体である。これは譬喩に対する故に当体というのである。故に本門寿量の当体蓮華仏とは本門寿量の妙法蓮華経仏ということである。すなわち、これ本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華仏というのである。されば、本有無作の当体蓮華仏とは、本門の本尊の御事である。われら妙法信受の力用によって、本門の本尊、無作の当体蓮華仏と顕われるのである。

「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」の文の下は因を結しているのである。前の「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」は信ずることが因であるから、因を結しているのである。

本門の本尊・無作の当体蓮華仏という仏身は、未曾有の御本尊を信ずる者以外にない。故に「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」と仰せになっているのである。

この「檀那等の中の事なり」の「中」の文字をどう読むかということであるが、日我は「此の中の字はアタルと読む」といっている。

しかるに日寛上人は大聖人の御本意をよくよく拝するならば「正信にアタル意」であると仰せられている。

「中」とは、その義不定である。

一、あるいはその一切をもって中という。華厳頓中の一切法、および法華経中の一切の三宝等の中の字のごときものである。

一、あるいは外から見て中という場合がある。たとえば、この経中においてとか、および衆生の中等の中字のごときものである。

一、あるいは外に望んで中という。洛中、寺中、文中等というがごときである。

しかして今「檀那等の中の事なり」の中は、正に外に望んでいう中である。

文意にいわく、本門寿量の当体蓮華仏とは、不信謗法の人のことではなく、ただこれ日蓮が弟子檀那の中の事である。これすなわち前後の文は皆非を簡んで是を顕わすからである。

また、次下の文に、日蓮が一門等と仰せられているではないか。故に今の文の意は一門の中というにあたっている。

いま、この「中」ということを、われわれの実践において論ずるならば、信心とは第三者、傍観者であってはならない、との精神である。自ら広布の主体者として学会に生き、戦いに生ききるなかに、その当体が妙法の金剛不壊の幸福なる当体とあらわれるのである。

 

是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず

 

この文は、われら末弟に対する勧誡の文である。

われら凡夫の生命が本門寿量の当体蓮華仏と顕われるのは、御本尊の仏力・法力によって顕現される功能であるとの仰せである。

自在とは、あらゆることが自由自在になることであり、神力とは、仏がそなえている不思議な力、すなわち、一切衆生を成仏得道させることをいうのである。これ人法一箇の御本尊の力用にほかならない。

以上のことをわれら末弟は絶対に疑ってはならないと厳しく戒められているのである。「無疑曰信」とあるように、御本尊に対する信こそ大事の中の最大事である。

さらに日寛上人は、本門の題目によって、本門の本尊、本門の戒壇を証得し、自受用身を顕現することを明かされている。すなわち、文段に次のように述べている。「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」とは、本門の題目である。「煩悩・業・苦乃至即一心に顕われ」とは本尊を証得することである。

また「三道即三徳」とは人本尊を証得して、わが身まったく日蓮大聖人と顕われるのである。

「三観・三諦・即一心に顕われ」とは法本尊を証得して、わが身まったく本門戒壇の本尊と顕われるのである。「其の人の所住の処」等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕わすのである。

この三大秘法の証得は皆、題目の力用によるのである。しかりといえども体一互融の相はいまだ分明ではない。故に「能居所居・身土・色心」と仰せになって、体一互融の相を分明にされているのである。能居・所居とは法本尊の能所不二を顕わしている。身土とは人本尊の能所不二を顕わしている。色心というのは、色はすなわち人本尊、心はすなわち法本尊である。

また色はこれ境であり、心はこれ智である。故に、人法体一・境智冥合、その義分明である。この故に本尊戒壇、人法本尊、体一互融となるのである。

以上のように証得すれば、すなわちこれ久遠元初の一身即三身、三身即一身の本有無作の自受用身である。この仏身まったく本門の題目、日蓮が弟子檀那等の外のいずこにも求め得られないのである。

次の法華の当体以下は勧誡であって、初めに勧門、次は誡門である。

「正直に方便を捨て但法華経を信じ」とは信力である。「南無妙法蓮華経と唱うる」とは行力である。「法華の当体」とはこれ法力である。「自在神力」とはこれ仏力である。この信・行・法・仏力の四義具足すれば、成仏は疑いない。しかして、法力・仏力はまさしく本尊にある。決してこれを疑ってはならない。われらはただただ信力・行力を励むべきである。

 

 

第四章(当体蓮華と譬喩蓮華を明かす)

本文

  問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華・果台・倶時に増長す三周各各当体譬喩有り、総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬・三平等・十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、妙楽大師の云く「須く七譬を以て各蓮華権実の義に対すべし○何者蓮華は只是れ為実施権・開権顕実・七譬皆然なり」文、又劫初に華草有り聖人理を見て号して蓮華と名く此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり故に此の華草同じく蓮華と名くるなり水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す天台大師の妙法は解し難し譬を仮りて顕れ易しと釈するは是の意なり。

 

現代語訳

問う、天台大師は法華玄義で、妙法蓮華を、当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。

答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを参考にしなさい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとって、その理にふさわしい名をつけていったようなものである」と。また法華玄義巻七に「今、蓮華という呼び名は、何かを喩えていったものではない。これこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法華の法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華こそが、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経の当体蓮華のことである。だが法蓮華といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いてはじめて知ることができる。そこでわかりやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華の譬えとしたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法に妙法の実相を説くとき、上根・中根・下根の機根にしたがって、それぞれの説法を行なった。しかして、この妙法蓮華は、上根の者にとっては当体蓮華であり、中根・下根の者にとっては譬喩蓮華なのである。このように三根合論し、ならべて法説と譬説をあらわしたのである。このように理解すれば、この問題でどうして論争する必要があろうか」と。

この釈の意は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人(仏)がその理を勧じて万物に名をつけるとき、因果俱時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行と果徳とを同時に得るのである。

聖人は、この法を師として修行し、覚道したことによって、妙因・妙果を俱時に感得した故に、妙覚果満の如来となられたのである。

ゆえに伝教大師は守護国界章の中の巻に「一心の妙法蓮華とは、因華・果台が俱時に増長するものである。仏の三周の説法に、おのおの当体蓮華・譬喩蓮華がある。総じて法華経一経を通じて皆、当体蓮華・譬喩蓮華がある。その中でも別しては、七譬・三平等・十無上の法門があって皆、当体蓮華があるのである。この当体蓮華の理を詮ずる教を名づけて妙法蓮華経というのである」と述べている。また、妙楽大師は法華玄義釈籤の巻一に「すべからく七譬を解釈するときには、蓮華が権実の義を顕わしているのと同じ義をもってしなければならない。何となれば、蓮華はただこれ実の為に権を施し、次にその権を開いて実を顕わすことを譬えたものであり、七譬もことごとく同様であるからである」と説いている。

また住劫の初めに、草花があり、聖人はその理を観察して蓮華と名づけた。この草花は花という因と実である果が一時にそなわっているところが、因果俱時の妙法蓮華に似ている故に、この草花を同じく蓮華と名づけたのである。水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華がこれである。譬喩の蓮華とは、この草花の蓮華を指しているのである。この草花の蓮華によって難解なる妙法蓮華をあらわしているのである。天台大師が法華玄義の巻一に「妙法は解し難いが、譬えを仮りれば理解しやすい」と釈したのはこの意である。

 

語釈

施開廃の三釈

法華玄義に法華経の経意から爾前経を判定するのに三つの深義がある。これを施開廃の三、または施開廃の三義といい、これを解釈するを三釈という。迹門と本門の二門に三釈があり、迹門は法の上で、本門は仏の上で論ぜられている。これを本迹の六義、または本迹の六釈という。図示すると次のようになる。

┌─ 為実施権(実の為に権を施す)

迹門の三義 ―┼― 開権顕実(権を開いて実を顕わす)

└― 廃権立実(権を廃して実を立つ)

┌─ 従本垂迹(本従(よ)り迹を垂る)

本門の三義 ―┼― 開迹顕本(迹を開いて本を顕わす)

└― 廃迹立本(迹を廃して本を立つ)

これを蓮華に見ると、蓮の実を守るために華が覆う(施)のと、華が開いて蓮の実が顕われる(開)のと、華が落ちて蓮の実る(廃)のとに、以上の三義が譬えられる。これを譬喩蓮華という。

 

玄義

法華玄義のこと。十巻。天台大師智顗が講述し、章安大師灌頂が編集整理した。妙法蓮華経玄義の略称。法華経玄義、妙玄ともいう。法華経の題号である妙法蓮華経の玄義(深玄な意義)を明かした書。妙法蓮華経の題号は一経の全意を顕すという考えから、五重玄(釈名・弁体・明宗・論用・判教)を用いて題号の意義を明らかにし、法華経の内容を総括的に示している。

 

三周の説法

法華経迹門正宗分の方便品第二から人記品第九までの八品にある法説周、譬説周、因縁説周の三つの説法の形式をいう。この三周の説法は、上・中・下の機根に応じて説法し、爾前の諸経では永不成仏とされていた声聞に成仏を許し、記別を授けた。①法説周の説法とは、方便品第二の法説を説いて、舎利弗を得道させた。②譬説周の説法とは、譬喩品第三の三車火宅の譬えを説いて、須菩提・迦旃延・迦葉・目連等を領解させた。③因縁説周の説法とは、三千塵点劫の昔に出現した大通智勝仏以来の因縁を説いて、富楼那、阿難、羅睺羅等の弟子を得道させた。

 

上中下根

上根・中根・下根の三種類の機根のこと。機根とは仏教を理解し信じ実践する能力・資質。この機根を、正法を信受した場合において、仏果を覚知する遅速により、上中下の三つに区分したものをいう。

 

三根合論

蓮華という言葉が上中下の三根を合わせて論じていること。法説、譬説、因縁説の三周の説法も、一つの法門を、上中下の三根に三周り説かれたのである。すなわち、上根には法の蓮華、中・下根には譬喩蓮華、三根合わせ論じて法と譬えとの二意をならべ標されたのである。したがって、上根にはただちに三乗即一乗の法を説き、中根には三車火宅の譬えをもってこれを示し、下根には三千塵点の昔に法華経を下種し、中間で熟し、今脱益すると往昔の因縁を説き、重ねて三百由旬の化城、五百由旬の宝処の譬えをもって三乗即一乗を信解させることをいうのである。簡単にいえば、蓮華について、上根は法の当体蓮華、中・下根は譬喩蓮華を説き示したことを三根合論といったのである。

 

伝教大師

(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬[万]貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻、「山家学生式」等がある。

 

七譬

法華経に説かれている七つの譬喩。①三車火宅の譬え(譬喩品)。②長者窮子の譬え(信解品)。③三草二木の譬え(薬草喩品)。④化城宝処の譬え(化城喩品)。⑤貧人繋珠の譬え(衣裏繋珠の譬え・五百弟子受記品)。⑥髻中明珠の譬え(安楽行品)。⑦良医病子の譬え(如来寿量品)。

 

三平等

天親(梵名ヴァスバンドゥ(Vasubandhu))著の法華論(妙法蓮華経憂波提舎)所説の三平等のこと。すなわち法華経見宝塔品第十一に「釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆(だいしゅ)の為めに説きたまう」とある文の「平等大慧」の義について、天親が説いた乗平等、世間涅槃平等、身平等(法身平等)をいう。平等大慧とは、一切法の根底に一貫している平等性を覚知する、また、一切衆生を平等に救済していく広大な御本仏の智慧(御本尊の智慧)をいう。①乗平等とは、乗は教法を指し、仏の教えは根本的に一切大衆に平等一味であること。②世間涅槃平等は、俗世間(世法)と悟りの世界(仏法)とは本来二なく別のないこと。③法身平等とは、法身とは中道を指し、両極に偏ることのなく、一様に平等であることを指す。

 

十無上の法門

天親著の法華論にある語。法華経が諸経より優れている点を十種挙げたもの。無上とは、最も勝れているものをいう。①種子無上、②修行無上、③増上力無上、④令解無上、⑤清浄国土無上、⑥説無上、⑦教化衆生無上、⑧成大菩薩無上、⑨涅槃無上、⑩勝妙力無上をいう。

 

講義

本章は、天台大師の法華玄義の釈を引いて、本有無作の当体蓮華を明かしている。すなわち当体蓮華とは因果俱時・不思議の一法であり、久遠元初において、自受用報身如来が、妙法蓮華と名づけられたのである。

また、譬喩蓮華とは、草花の蓮華であり、この蓮華も因果俱時であり、妙法蓮華と似ていることから、これを譬えとして難解の妙法蓮華を説いたのである。

 

譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし

 

天台が、玄義の序で難解の妙法を、蓮華をもって譬えていることを指す。この譬喩蓮華を、本門と迹門におのおの施開廃の三義を立て、六重の蓮華で釈した。法華経迹門については、法の上で釈し、本門については、仏の上で釈している。これらの関係を図示すると次のようになる。

 

① 為蓮故華(施)―┬─ 為実施権 ―― 法に約す ―― 迹門の三義

└― 従本垂迹 ―― 仏に約す ―― 本門の三義

② 華開蓮現(開)―┬─ 開権顕実 ―― 法に約す ―― 迹門の三義

└― 開迹顕本 ―― 仏に約す ―― 本門の三義

③ 華落蓮成(廃)―┬─ 廃権立実 ―― 法に約す ―― 迹門の三義

└― 廃迹立本 ―― 仏に約す ―― 本門の三義

 

さて天台は、先ず蓮華とは権実の法を譬うるなりといっている。すなわち、蓮は実教の妙法を譬え、華は権教を譬えている。

① 施の「為蓮故華」(蓮の為の故の華)とは蓮の実を守るために華がおおうということであり、これは為実施権を譬えている。為実施権とは「実の為に権を施し」と読み、随他意の教法である。法華経を説き明かすために、機根の低い衆生の機を熟させるため、四十二年間、爾前権教を説いて衆生を誘引してきたことを指している。

② 開の「華開蓮現」(華開き蓮現わる)とは華が開いて、蓮の実が現われるということであり、これは開権顕実を譬えている。開権顕実とは、爾前の方便権教を開いて、真実の法華経迹門を説き顕わしたことをいう。また事に約して、二乗作仏のこと、教に約して三乗を開いて一仏乗を顕わすこと、理に約して十界互具・百界千如の実相をあらわすことをいうのである。

③ 廃の「華落蓮成」(華落ち蓮成る)とは、華が落ちて蓮の実がみのることであり、これは廃権立実を譬えているのである。

廃権立実とは、法華経が説き顕わされたのちは、爾前権教を廃捨することをいう。方便品第二に「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」とは、廃権立実を示している。

この施開廃はあたかも蓮華に譬えられるのである。蓮華は、華が開いて実が顕われると同時に、華が落ちる、すなわち因果俱時である。また法華経も同様に開廃同時である。方便権教を開いて、法華の真実が顕われた時、同時に権教を廃しているのである。ここに、施開廃の三釈が譬喩蓮華をあらわしていることが明らかである。

また、蓮華をもって妙法に譬える意について、日寛上人の文段には次のようにある。

蓮華は多奇なるがゆえである。余花は妙法を顕わすに堪えられない。余花に多くの種類があるが、七種あげることにする。

一には、無花有菓である。いちじくのようなものである。いちじくは、華咲かずして実なる、実は葉の際に生ずる。ある人このいちじくを埋木といっている。古歌にいわく「埋木の花咲くことも無かりしに身のなる果ては哀れなりけり」等云云。

二には、有華無菓である。例えば山吹等のようなものである。集義和書八に云く「太田道灌、狩に出て、民家に蓑を借る。其の妻の言は無くて、山吹の花の一枝を指し置きぬ。後に和歌を知る人云く、是れ古歌の意なり。七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだに、なきぞかなしき。是より道灌、和歌を学ぶ云云」。

三には、一華多菓、例えば胡麻や芥子等のようなものである。

四には、多華一菓、桃や李のようなものである。

五には、一花一菓、柿のようなものである。

六には、前華後菓、瓜や稲のようなものである。

七には、前花後菓、一切の草木のほとんどはこれである。されば、花は因であり、菓は果である。しかるにこれらの草木は因果・一・多・前・後等であって妙法をあらわすに堪えることができない。この蓮華のみ因果俱時にして、微妙清浄である。故に妙法に譬えるのである。

 

因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す

 

この文は五重玄に約して、名玄義をあらわしている。またこれ一念の心法、すなわち色心総在の一念をあらわしている。

日寛上人の文段には次のようにある。

「問う、因果俱時、不思議の一法とはその体何物であろうか。

答う、これ、すなわち一念の心法である。故に伝教の釈に云く『一心妙法蓮華経なり』とある。されば、一念の心法とは、すなわち色心総在の一念である(総在の一念とは、現代の言葉をもっていえば、生命のことである。総在の一念を生命と解すれば、次の妙楽の言葉が明白に解るであろう)。妙楽云く『総は一念に有り、別は色心を分つ……別を摂して総に入る』等とは、これである。

問う、因果俱時・不思議の一法の相貌如何。答う、今これを説明するのに二義をもって説明する。

一には、一往、九因一果に約す。

この一念の心に十法界を具えている。九界を因とし仏界を果とする。十界宛然と雖も、しかも互具互融して、一念の心法にある故に、因果俱時の不思議の一法というのである。

二には、再往各具に約す。

地獄の因果のごときは、悪の境智冥合すれば、すなわち因果がある。謂く瞋恚は悪口の因である。悪口は瞋恚の果であり、因果を具すと雖も但刹那である。故に因果俱時の不思議の一法というのである。また善の境智冥合すれば、すなわち因果がある。謂く信心は唱題の因、唱題は信心の果、因果を具すといえどもただ一念にある。故に因果俱時の不思議の一法というのである。しこうして、これは仏界の因果であり、この仏界と地獄界との始終をあげて、中間の八界は同じきが故に略す」と。

さらに因果俱時について論究する。

一瞬の生命に因果を具しているとは、すなわち、過去のあらゆる行業、あらゆる行動の集積が因となって、現在を規定し、現在に結果としてあらわれている。また現在の行動が因となり、未来に果を生むのである。現在の瞬間を離れて未来はない。否、未来は現在の瞬間の一念でどのようにも変えることができるのである。されば、一瞬の実相のうちに過去永遠の生命をはらみ、かつ未来永遠の生命をはらんでいるのである。これを「因果俱時・不思議の一法」すなわち妙法蓮華と名づけるのである。日蓮大聖人の仏法はこの瞬間の生命をあますところなく説ききり、永遠の幸福確立の方途を示されたのであった。これこそ、末法の御本仏の所作なのである。

総勘文抄(三世諸仏総勘文教相廃立)にいわく「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(0562:08)と。過去、現在、未来は一念の心中におさまるとの明文である。

また御義口伝にいわく「所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」(0788:02)と。また本因妙抄にいわく「久遠一念の南無妙法蓮華経」(0871:09)と。また同抄にいわく「因果一念の宗」(0871:04)と。これらの文によれば、久遠の生命も、現在の一念におさまることが分明ではないか。

日蓮大聖人は、かかる大生命哲学を根本として、受持即観心を説き明かし、末法の一切衆生が、真実の幸福を会得する原理を打ち立てられたのである。

観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と。

あらゆる仏の因位の万行、果位の万徳はことごとく三大秘法の御本尊を信ずる一念のなかに具足するのであり、これ因果俱時である。

したがって、釈迦仏法のように、過去遠々劫よりの悪業を、歴劫修行をして消していくようなものではなく、たとえ過去に少しも福徳を積んでいなくても、御本尊を信ずる一念のなかにあらゆる因位の万行を具足し、それだけの修行を積んできたと同じことになり、また、未来のあらゆる幸福境涯を現在の瞬間に開くのである。

幸福というものは、どこか遠くに特別にあるものではない。また、過去の因によって現在というものが、がんじがらめに縛りつけられているものではない。大事なのは過去でもない。また、現在を離れた未来でもない。この現在の瞬間瞬間がたいせつなのである。しかして、御本尊を信ずる一念こそ、現在の瞬間を、真に幸福に生ききる源泉であり、金剛不壊の幸福境涯に住することのできる本源なのである。

所詮、歴劫修行を説く釈迦仏法は、因果異時であり、受持即観心を説く日蓮大聖人の仏法は、因果俱時の生命観に立脚しているのである。

次に因果俱時、因果異時を生活に約して述べてみよう。

春に種をまくと秋に実がなる。一生懸命に仕事に精を出して成功した。薬を飲んで、その薬が全身にまわり、効きだすのに時間がかかる。これらは、原因と結果が同時ではなく、ある一定の間隔がある。したがって、これらの事象の因果を表面的に追っていけば、因果異時である。

これに対し、例えば熱湯の中に手を入れて熱いと感ずるのは、瞬間の因果である。また、怒ると人相が変わるというのも因果である。このように因果が同時であるのを因果俱時というのである。しかし、これらの例はあくまでも因果俱時をわかりやすくするための類似の例であり、因果俱時そのものではない。因果俱時は、日蓮大聖人の生命哲学の奥底をなすものである。

もしも、厳密にいえば、因果異時の例としてあげた春種をまいて秋実が成るということも、因果俱時の例としてあげた、熱湯の中に手を入れて熱いと感ずることも、共に因果異時である。因果異時とか因果俱時というものは、決してこれが因果異時で、これが因果俱時であるというような、因果の法則のたんなる分類ではない。正しくいえば、一切が因果異時であり、一切が因果俱時である。

例えば、春種をまいて秋実が成るというのはたしかに因果異時にみえる。しかし春にまいた種のなかに秋に成る実が含まれていると考えた場合、それは因果俱時なのである。すなわち、ある事象のあらわれた姿について因果を追究していけば、因果異時であり、その事象の本質をみていけば、因果俱時なのである。

七百年前、日蓮大聖人を迫害した元凶である平左衛門尉頼綱の威勢は天をも突く勢いであった。ところが、この頼綱の晩年は悲惨であり、次男資宗を将軍の位に登らせようと計って、長男宗綱に訴えられ、永仁元年(1293)年4月、執権貞時によって父子ともに誅殺され、長子宗綱は佐渡に流罪された。実に大聖人滅後12年目のことであった。

もしも、頼綱の表面にあらわれた現実だけをみるならば、そのときは華々しい、また万人からうらやましがられる立ち場であった。しかし頼綱の生命の奥底は、無間地獄の苦悩をはらんだ生命であった。頼綱は大聖人滅後12年にして滅亡したとみれば、因果異時である。大聖人を迫害したときすでに頼綱の滅亡は決定していたとすれば、因果俱時である。

日寛上人は、撰時抄文段下に大要次のように述べている。

「平の左衛門入道果円が首を刎ねられたのは、日蓮大聖人の御顔を打った故である。また最愛の次男・安房守が首を刎ねられたのは、大聖人の御頸を刎ねようとした故である。嫡子宗綱が佐渡に流されたのは、大聖人を佐渡へ流した故である」と。

このように日蓮大聖人の仏法は、あらわれた事実を表面的に因果づけるのではなく、事物の本質、生命の奥底を問題にし、また瞬間というものを、徹底して説き究められているのである。

心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と。

これを表面的にみれば釈迦仏法の因果論である。しかしながら、日蓮大聖人の仏法の立ち場からみれば因果俱時をあらわしているといえる。すなわち、過去の因は現在の瞬間にあり、未来の果もまた現在の瞬間に含まれるのである。

われわれが御本尊を持ち、二十年、三十年と、うまずたゆまず信心を貫いていけば、必ず幸福に満ちた生活になる。どんなに落ちぶれた人でも、心に御本尊を信ずれば、将来、必ずや幸福になる。しかし以上のように考えることは、まだ因果異時の立ち場である。

御本尊をひとたび受持する者は、たとえ身はどんなに貧賤であろうと、その人の生命の本質は即座に仏界であり、いかなる大王よりも尊貴なのである。

十字(むしもち)御書にいわく「今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492:08)と。御本尊を信じた人は、すでにありとあらゆる福徳を積んでいるのである。現在の瞬間瞬間を幸福に生きることこそ大聖人の仏法に生きる態度なのである。だからといって因果異時が誤りなのではない。生命の本質、奥底は因果俱時である。しかし、あらわれた現象、姿は因果異時にみえることもあるのは当然である。直達正観とか、即身成仏というのは、因果俱時についていっているのであり、生命の奥底を問題にしているのである。だがその証拠として、幸福な姿を五年、十年、二十年先に現じていくのである。したがって、因果異時も因果俱時に摂せられるのである。仏法は厳しい。それは因果俱時だから厳しいのである。

御義口伝にいわく「秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し」(0714:07)と。三千万法も一念におさまる。一念がすべてを決定するのである。洋々たる未来を開くのも、悲惨な末路をとげるのも、決して現在の自分の地位や身分や立ち場ではなく、自己の一念が決定していくことを思えば、惰性を打ち破り、かけがえのない瞬間瞬間を強く逞しく生ききろうではないか。

 

 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し

 

日寛上人の文段には次のようにある。

「これは体玄義をあらわしている。天台いわく『十界十如三千の諸法、今経正体』等云云、これ一念三千なのである」と。今経の正体とは、妙法蓮華経の正体にして御本尊の正体である。されば、これを体玄義というのである。すなわち、御本尊には十界三千の諸法が一法も欠けることなくそなわっているのである。

 

之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり

 

同じく文段によれば「これは、宗玄義をあらわしており、本門の題目にあたる。すなわち玄義にいわく『宗とは要なり、いわゆる仏の自行の因果なり』と。

問う、因を修して果を感ずるは、常の所説である。今どうして因果を以って俱に感得する所に属するのか。

答う、一往の義辺は実に所問のとおりである。しかし、今は再往の義辺によるのである。

すなわち、九界の衆生は、この御本尊を修行して、仏界の因果を同時に感得するのである。故に『仏因・仏果同時に之を得る』というのである。次の行の『妙因・妙果・俱時に感得し給う』の文もこれに準じて知るべきである」と。

すなわち、仏因・仏果を同時に得るとは御本尊を信じ、唱題することに尽きる。これ以外に真実の幸福実現の要諦はない。

 

聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり

 

同じく文段によれば「これは用玄義をあらわす。俱時感得をもって、妙用をあらわすのである」と。

さて「此の法」たる本有無作の当体蓮華、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、自行化他にわたる題目を唱え、修行することにより、因果俱時にして、この瞬間に揺るがざる最高の幸福境涯を開いていくことができる。まさしくこの姿、特質こそ五重玄の用玄義を示すものであり、実に偉大な文と拝せよう。

 

 

第五章(如来の自証化他を明かす)

本文

  問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、今日又・中天竺摩訶陀国に出世して此の蓮華を顕わさんと欲すに機無く時無し故に一の法蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し擬宜誘引せしこと四十余年なり、此の間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施し設けて終に妙法蓮華を施したまわざる故に、無量義経に云く「我先に道場菩提樹下乃至四十余年未だ真実を顕さず」文、法華経に至つて四味三教の方便の権教・小乗・種種の草華を捨てて唯一の妙法蓮華を説き三の華草を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味・三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて開近顕遠の蓮華に至つて二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得るなり。

 

現代語訳

問う、劫初からこれまでの間に、いったい誰人がこの当体蓮華を証得したのであろうか。

答う、教主釈尊が五百塵点劫の当初、すなわち久遠元初に、この妙法の当体蓮華を証得してその後、迹を垂れて世々番々に成道を行ない、能証所証の本理を顕わし給うたのである。

そして今日(在世)、また釈尊は、中天竺摩訶陀国に出世して、この当体蓮華を顕わそうとしたが、いまだ時いたらず、また衆生の機も熟していなかったので、一法の当体蓮華ではあっても、三つの草花に分けて、それを三乗の権法すなわち、仮の教えとして衆生に施し、四十余年の間、擬宜誘引していったのである。この期間中は、衆生の根性が万差であったので、種々の草花の譬えをかりて権教に顕わし示して、ついに妙法蓮華を示されなかった。故に、法華経の開経である無量義経には「我先に道場菩提樹の下で乃至四十余年間真実は顕わさなかった」と示している。そして法華経にいたって、四味三教である方便の権教・小乗等に説かれた種々の譬喩の草花を捨てて、唯一の妙法蓮華を説き、三つの草花の譬喩蓮華を開いて一の妙法蓮華を顕わす際に、四味三教に従っていた権教の人達に、初住の蓮華を授けることから開始して、開近顕遠の蓮華にいたって、二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果を得たのである。

 

語釈

五百塵点劫

「五百千万億那由他阿僧祇」の「五百」を取って五百塵点劫という。法華経如来寿量品第16では、釈尊の成道は五百塵点劫という長遠な過去であり、それ以来、衆生を説法教化してきたことが明かされた。五百塵点劫とは、法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。すなわち、五百千万億那由他阿僧祇(極めて大きな数)の三千大千世界の国土を粉々にすりつぶして微塵とし、東方に進み五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて一塵を落とし、以下同様にしてすべて微塵を下ろし尽くして、今度は下ろした国土も下ろさない国土もことごとく合わせて微塵にし、その一塵を一劫とする、またそれに過ぎた長遠な時である。久遠実成の釈尊は、五百塵点劫という遠い昔に成道し、法華経を下種したことをさす。

 

初住

菩薩の修行の段階である五十二位の中の第十一位、十住の初め、発心住のこと。見惑(思想・見識の迷い)を断ずる菩薩の位をいう。円教の菩薩は初住で一分の中道の理を証得して正念に安住するので、初住位以上を菩薩道から退転しない不退位とする。

 

開近顕遠

「近を開いて遠を顕す」と読み下す。「近」とは近成(始成正覚)、「遠」とは遠成(久遠実成)のこと。すなわち法華経本門で釈尊が、自身が今世ではじめて成仏したと説く始成正覚は方便であり、実は久遠の過去に成仏していたと説き久遠実成を明かしたことをさす。

 

十住

菩薩の修行の五十二の階位である五十二位のうちの第十一から第二十の位。真実の空の理に安定して住する位。初住である発心住は、菩薩の不退位の初めであり、見思惑・塵沙惑を断ずる菩薩の初位にあたる。別教の菩薩の十住は内凡と位置づけられる。菩薩の修行の中で成仏の因である正因・了因・縁因の三仏性は初住から開き始めるので、五十二位中でも初住は大事な位となる。

 

等覚

①仏の異名。等正覚。等は平等の意、覚は覚悟の意。諸仏の覚りは真実一如にして平等であるので等覚という。②菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第五十一位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。

 

妙覚

①仏の優れた覚りの境地。②菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第五十二位。等覚位の菩薩が、四十二品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即にあたる。文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」と述べられている。法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで上って得脱したとされる。しかし日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に返り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という。

 

講義

この章からは、当体蓮華を証得した人を明かす段である。初めに久遠元初における証得と垂迹化他を明かし、次に釈尊在世の証得の人を論じ、最後に末法の証得の人を明かされている。

 

釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して

 

この文は、本地の自証を明かす。五百塵点劫の当初とは本地であり、釈尊とは能証の人、妙法の当体蓮華とは所証の法である。

五百塵点の当初とは正しくいずれの時を指すのであろうか。諸門流の意は天台大師に准じて、皆本果第一番の時を指して五百塵点の当初といっている。これすなわち不相伝の故である。当流の意は久遠元初の名字凡夫の時を指して五百塵点の当初という。日寛上人の文段に「当初の両字・意を留めて案ずべし」とある。

此の名字凡夫の御時に、妙法当体の蓮華を証得し給うが故に本門寿量の当体蓮華仏と名づけるのである。またこの本仏を、久遠元初の自受用身とも、久遠名字の報身とも名づけ、また所証の法を久遠名字の妙法とも名づけるのである。その証文として日寛上人は文段に次の文を引いている。総勘文抄に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0586:13五六八㌻)と。また三大秘法抄に「夫れ釈尊……実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021:03)と。

釈尊が久遠五百塵点劫の当初、いかなる法を修行して妙法の当体蓮華を証得したのかというと、これは下種家の本因妙によるのである。当抄の前文に「聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・俱時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」とあるとおりである。この文に聖人とは名字即の釈尊である。故にこれは位妙に当たる。後をもってこれを呼ぶ故に聖人というのである。名字凡夫の釈尊が一念三千の妙法蓮華をもって本尊となした。故に「此の法を師と為して」という。すなわち、これが境妙である。「修行」とは、修行に始終があり、始は信心、終は唱題である。信心は智妙であり、唱題は行妙なる故、修行の両字は智行の二妙に当たるのである。この境智行位を合して本因妙となす。この本因妙の修行により即座に本果に至る故、「妙因・妙果・俱時に感得し給う」という。すなわち、今の文に「妙法の当体蓮華を証得して」というのがこれである。またここで本因本果とは、すなわちこれ種家の本因本果である。名字即の釈尊とはすなわち日蓮大聖人である。

 

五百塵点劫の当初について

 

五百塵点劫の当初とは、久遠元初であるということは前項に述べたとおりである。当初とは、すなわち元初の意味である。諸御書に五百塵点劫の当初とあるのは、すべて久遠元初を意味していると知らなければ、日蓮大聖人の真意は、理解できない。

たとえば観心本尊抄に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」(0247:04)と。この「乃至」を諸門流では、所顕に対して能顕と読んでいる。蒙抄等には「能顕以て乃至という、所顕の二字に望むる故」等と説明しているのがそれである。だがそれは大聖人の元意を知らないのである。今、ここに五百塵点乃至とは時に約すべきである。蒙抄のごとくなれば「我等が己心の釈尊は、五百塵点能顕所顕の三身にして無始の古仏なり」となってしまうのである。

もし五百塵点の時と無始の時と同じであるというならば、あえて日蓮大聖人が五百塵点といった意味がなくなってしまうのである。しからば乃至とはいかに読むかというに、これは後より前に向かうことを乃至というので、乃至は「当初」と読んで、当抄の久遠元初の名字凡夫の御時となすべきである。

したがって五百塵点を久遠ともいい、元初を当初ともいうのである。久遠とは、御義口伝下に「所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(0755: 第廿三 久遠の事:01)とあり、すなわち仏の生命は、劫初よりの生命にして、無量なりとの御文である。同じくわれわれの生命は、神によってつくられたものでもなく、偶然に発生したものでもなく、久遠元初より宇宙と共に実在し、生死生死と連続し、現在にいたっている。したがって日蓮大聖人の仏法は、五百塵点劫の有始有終の仏法ではなく、久遠元初の仏法であり、無始無終の永遠の生命を説かれているのである。

所詮、この当体義抄の御文は、久遠元初の名字凡夫位の御時に、我即宇宙、宇宙即我と悟り、わが身が宇宙の本源たる妙法蓮華の当体であると開覚された方を、本門寿量の当体蓮華仏と名づけるとの意である。また、久遠元初の自受用身とも、久遠名字の報身とも名づけ、その所証の法を久遠名字の妙法とも名づけるのである。

次の文にあるように、後化他の為に世々番々に出現した本果第一番以後の仏も、結局、久遠元初の自受用身、南無妙法蓮華経の一仏一法の本地に帰趣することは明白である。

実にこの仏とそしてこの法こそ、一切の仏の能生の根源であり、十方三世諸仏の微塵の経々の功徳が具足しているのである。玄文第七にはこのことを「百千枝葉同じく一根に趣くがごとし」と述べている。さらに日寛上人は、この玄文第七の文を引用して、当流行事抄に「横に十方に徧じ竪に三世に亘り微塵の衆生を利益したもう垂迹化他の功、皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣するなり」と述べている。

日蓮大聖人は、末法において、この久遠元初の自受用身の再誕として出現され、南無妙法蓮華経をもって一切衆生の救済にあたられたのである。

 

 世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり

 

この文の下は垂迹化他を明かされている。初めに中間(五百塵点劫から釈尊在世の間)、次に今日(釈尊在世)を明かし、ことごとく垂迹化他の仏であり、化他のために身を荘厳して出世成道した本果妙の釈尊であることを論じられている。

この文は正に中間を明かされたものである。したがって五百塵点劫において、本果第一番成道の釈尊も、この迹仏であり、以来、世々番々に出世成道して衆生の機根を調養し、最後にインドに出現して法華経を説いて、それらの衆生を得脱させたのである。

他宗では、この文の「中間」について、天台家の法門に准じて本果第二番成道以後を指すと解しているが、それは誤りである。というのは文上の仏法の範囲で論ずれば、釈尊の本果である五百塵点劫の成道をもって源とするが、日蓮大聖人の下種仏法においては、さらに一歩深く立ち入って、文底の意により、本果の成道は迹中化他の成道となるのである。すでに明らかにしたように、久遠元初の名字凡夫位の時、妙法蓮華経を自証自得されているのである。したがって本地は久遠元初であり、五百塵点劫における本果第一番成道も中間に属するのである。

それでは本果の成道はなぜ迹中化他の成道となるのであろうか。

その理由は、在世今日の化儀とまったく同じだからである。在世の釈尊によって、化法化儀の四教八教という随他意の教えが説かれたが、五百塵点劫の本果第一番成道の時に、すでに随他意の四教八教があったのである。

故に天台は法華文句に「唯本地の四仏は皆是れ本なり」と述べている。もちろん、ここでいう本地とは五百塵点劫であり、四仏とは四教を説く仏を意味する。

また妙楽は法華玄義釈籤の七に「久遠に亦四教有り」とも「既に四教浅深不同有り。故に知んぬ不同は定めて迹に属す」とも、さらに法華文句記の一に「本地の自行は唯円と合す、化他は定まらず亦八教有り」と述べている。これによって本果第一番成道が垂迹化他であることは分明である。

これらの文は内証の寿量品の意によったのであり、文上の意ではない。また玄文第七の三世料簡の初めに久遠元初を本地自証とし本果以後を垂迹化他に属する明文がある。天台家の学者はこれを知らず、いたずらに異説紛々たる状態である。

この当体義抄の文は次の総勘文抄の文と同旨であるので、対比してみるとわかりやすい。

総勘文抄にいわく「後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す」(0568:14)と。

この文のうち「後に化他の為に世世・番番」云云が本果以後の中間を意味し、当抄の文にあたるのである。そして「王宮に誕生し」からは、十九出家・三十成道の、インド応誕の釈尊在世の振舞いをあらわし、「今日」を意味するのである。

次に「能証所証の本理を顕す」についていえば、能証はこれ智であり、所証はこれ境である。したがってこれは、本地難思の境智冥合・本有無作の当体蓮華を顕わすということである。本理とは極理と同意であり、兄弟抄には「法華経の極理・南無妙法蓮華経の七字」(1087:08)と仰せである。本果第一番成道の釈尊にしても、あるいは今日の釈尊にしても、その出世の本懐は、三大秘法の御本尊の相貌、本地難思の境智冥合・本有無作の当体蓮華を顕わすことにあったとの仰せである。したがって「能証所証の本理を顕す」とは、諸仏が本地を明かすことをもいうのである。

これは五仏道同の儀式といって、総諸仏、過去仏、未来仏、現在仏、釈迦仏にせよ、中間、今日のあらゆる仏が今日と同じ説法の儀式で当体蓮華を明かすということである。すなわち爾前において種々の草花を施し、迹門にいたって、開三顕一の蓮華を説き、本門にいたって開近顕遠の蓮華を顕わし、内証の寿量品には本地難思の境智冥合・本有無作の当体蓮華を顕わすのである。

 

妙覚の極果の蓮華を得るなり

 

法華経文上においては、悟りは等覚位までであって、仏の境涯たる妙覚位は説かれていない。しかるに大聖人は「妙覚の極果の蓮華を得るなり」と仰せられている。これは文底の意であって、文底の意では皆、名字妙覚位に入るのである。すなわち寿量品を聞いた大衆は文上の寿量品を聞き、等覚位に登ったことになっているが、文上を聞くと共に文底の深秘を悟り、ことごとく久遠元初に戻って名字妙覚の位に入ったのである。台家の口伝に「等覚一転理即に入る」とあり、当家深秘の口伝に「等覚一転名字妙覚」とあるのがこの意である。

 

 

 

第六章(本地の所証を示す)

本文

   問う法華経は何れの品何れの文にか正しく当体譬喩の蓮華を説き分けたるや、答う若し三周の声聞に約して之を論ぜば方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり、譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり、但方便品にも譬喩蓮華無きに非ず余品にも当体蓮華無きに非ざるなり、問う若し爾らば正く当体蓮華を説きし文は何れぞや答う方便品の諸法実相の文是なり、問う何を以て此の文が当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、答う天台妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり、又伝教大師釈して云く「問う法華経は何を以て体と為すや、答う諸法実相を以て体と為す」文、此の釈分明なり当世の学者此の釈を秘して名を顕さず然るに此の文の名を妙法蓮華と曰う義なり、又現証は宝塔品の三身是れ現証なり、或は涌出の菩薩・竜女の即身成仏是なり、地涌の菩薩を現証と為す事は経文に如蓮華在水と云う故なり、菩薩の当体と聞たり竜女を証拠と為す事は霊鷲山に詣で千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに坐しと説きたまう故なり、又妙音・観音の三十三・四身なり是をば解釈には法華三昧の不思議・自在の業を証得するに非ざるよりは安ぞ能く此の三十三身を現ぜんと云云、或は「世間相常住」文、此等は皆当世の学者の勘文なり、然りと雖も日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり、此の文をば天台大師も之を引いて今経の五重玄を釈せしなり、殊更此の一文正しき証文なり。

 

現代語訳

問う、法華経では、どの品の、どの文に正しく当体・譬喩の蓮華を説き分けているのであろうか。

答う、もし三周の声聞に約してこのことを論ずれば、方便品は全部、当体蓮華を説いており、譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説いているのである。ただし、方便品にも譬喩蓮華がないというのではなく、他の品にも当体蓮華が説かれてないというのではない。

問う、もしそうだとすると、正しく当体蓮華を説いた文は何か。

答う、方便品の諸法実相の文がこれである。

問う、どうしてこの文が当体蓮華の文であるということを知り得るのであるか。

答う、天台・妙楽が、今の諸法実相の文を引いて法華経の法体を解釈しているからである。また、伝教大師が釈して「問う法華経は何をもって法体とするのであるか。答う諸法実相をもって体とするのである」といっている。この釈で明白である。

また現証は宝塔品の釈迦・多宝・分身の三仏がこれである。あるいは湧出品の地涌の菩薩、提婆品の竜女の即身成仏がこれである。地涌の菩薩を現証とすることは、涌出品第十五に「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」という故である。これは菩薩の当体蓮華であると説かれているのである。竜女を現証とする理由は、提婆品の中に霊鷲山に詣でて、千葉の蓮華で車輪のように大きな蓮華に坐し、と説かれている故である。また観音菩薩の三十三身、妙音菩薩の三十四身がその現証である。これを妙楽は止観輔行伝弘決に「法華三昧の不思議自在の業を証得しなかったならば、どうしてよくこの三十三身を現ずることができようか」と説いている。あるいは方便品第二に「世間の相常住なり」と。以上の諸文は皆当世の学者の勘(かんが)えた文証である。しかしながら日蓮は方便品の十如実相の文と、神力品の如来一切所有之法等の四句の要法の文とを当体蓮華の正しき証文とするのである。この神力品の文を天台大師も引いて法華経の五重玄を釈している。故にこの神力品の一文はことさらに正しき当体蓮華の証文である。

 

語釈

涌出の菩薩

地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第二十一で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。これに対して、文殊・弥勒などは、迹仏(始成正覚の釈尊など)あるいは他方の世界の仏から教化された菩薩なので、迹化・他方の菩薩という。

 

竜女

海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で八歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第十二には次のように説かれている。竜女は、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我れは大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」と述べ、釈尊に宝珠を奉った後、その身がたちまちに成仏する姿を示した、と。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。

 

勘文

①占いや先例や古典を調べた結果を考察して作成した意見書。平安時代以後、朝廷や幕府の諮問に対して、諸道の専門家が答申した。②中世では勘状のこともいう。勘状とは自身の考えを述べた意見書。日蓮大聖人は御自身が国主諫暁のために出された「立正安国論」を勘文と呼ばれている。

 

五重玄

五重玄義のこと。天台大師智顗が諸経の深意を知るため、諸経の解釈をするにあたって用いた法門。五玄、五章ともいう。天台大師は法華玄義に釈名・弁体・明宗・論用・判教(名・体・宗・用・教)の五面から、妙法蓮華経を釈した。①釈名とは経題を解釈し名を明かすこと。②弁体とは一経の体である法理を究めること。③明宗とは一経の宗要を明かすこと。④論用とは一経の功徳・力用を論ずること。⑤判教とは一経の教相を判釈すること。天台大師は五重玄の依文として、法華経如来神力品第二十一の結要付嘱の文である「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法(名)、如来の一切の自在の神力(用)、如来の一切の秘要の蔵(体)、如来の一切の甚深の事(宗)は、皆な此の経(教)に於いて宣示顕説す」を挙げている。また教とは法華の一切の教えに対し優れている教相をいい、名体宗用をもって釈するときに法華の無上醍醐の妙教であることが明らかになる。日蓮大聖人は「曾谷入道殿許御書」で、法華経の肝心である妙法蓮華経という題目の五字に五重玄義がそなわることを示されている。

 

講義

この章からは日寛上人の文段に「文底秘沈の本地難思の境智の冥合・本有無作の当体の蓮華を明かすなり、略して本地の所証なりというべきも、此の義、卒爾に顕れ難き故に諄々として重々に之を明かす」とあり、中でもこの章は「当体譬喩の説処を示す」段である。

 

三周の声聞と当体・譬喩蓮華

 

まず三周の声聞に約して、法華経における当体蓮華、譬喩蓮華が明かされている。

三周の声聞とは、その機根に応じて、法説、譬喩説、因縁説の三段階の説法を聞いて得道した声聞界の弟子たちである。

第一に、迹門方便品の十如実相、理の一念三千の説法を聞いて、智慧第一といわれる舎利弗が、最初に得道した。これが上根の声聞であり法説周である。ここに方便品で説かれた十如実相、理の一念三千の法門こそ、まさに当体蓮華なのである。宇宙の森羅万象ことごとくが、一念三千の当体、すなわち妙法蓮華の当体なりとの説法であるが故である。

第二に、中根の声聞のために、釈尊は法華経の偉大なことを譬喩品の三車火宅の譬えや、信解品の長者窮子の譬えをもって説き明かした。この譬喩説を聞いて領解したのが、迦葉等の四大菩薩である。これが喩説周である。

第三に、法説でも譬喩説でもまだ解領できないでいる富楼那等の下根の声聞は、化城喩品で説く三千塵点劫の昔、大通智勝仏以来の化導の始終の因縁を聞いて初めて領解したのである。これを因縁周というのである。

このように、中根、下根たる譬喩説周、因縁周の声聞は、十如実相、理の一念三千の法門をただちに悟ることはできず、さまざまの譬喩、因縁をもって初めて悟りを開くことができたのである。したがって、当抄に、三周の声聞に約せば、方便品は当体蓮華を明かし、譬喩品、化城喩品には譬喩蓮華を説いたとあり、また日寛上人の文段に「方便一品は皆是れ法説の開権顕実なり、故に当体蓮華という。譬喩品は三車大車の開権顕実、化城喩品は化城宝所の開権顕実なり、故に譬喩の蓮華を説くという」とある。

天台大師は法華玄義巻七下に「法の蓮華は解し難し、故に草華を喩えとなす。利根は名に即して理を解す、譬喩を仮りず。但だ法華の解を作す。中下は未だ悟らず、譬を須いて乃ち知る。易解の蓮華を以って、難解の蓮華に喩う。故に三周の説法あり、上中下根に逗う。上根に約せば是れ法名なり、中下に約すれば是れ喩名なり」と述べている。

しかし、また方便品にも譬喩蓮華があり、余品にも当体蓮華が説かれている。

方便品にいわく「譬えば優曇華の 一切皆な愛楽し 天人の希有にする所にして 時時に乃し一たび出ずるが如し」とある。これは十如実相、一念三千の法門にあいがたきを優曇華のごとしと譬喩を用いて説明している。法華玄義釈籤の十六にいわく「これ蓮華に似る故に以て譬えとなす。この故に正応に須く蓮華を用ゆべし」と。これは方便品にも譬喩蓮華の説かれていることを示すものである。

また譬喩品にいわく「諸仏の方便力の故に、一仏乗に於いて分別して三を説きたまう」と。化城喩品にいわく「諸の比丘よ。若し如来は、自ら涅槃の時到り、衆は又た清浄に、信解堅固にして、空法を了達し、深く禅定に入れり」とある。これは譬喩品、化城喩品にも当体蓮華が説かれていることを示すものである。

 

当体蓮華の現証

 

次に、当世の学者が当体蓮華を説いた文として勘えているものとして、宝塔品の三身、地涌の菩薩、竜女の即身成仏、妙音菩薩の三十四身、観音菩薩の三十三身、さらには方便品の「世間の相は常住なり」の文をあげている。

<宝塔品の三身> 宝塔品の儀式に列なった釈迦・多宝・十方分身の諸仏をいう。すなわち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に坐したことを法華経見宝塔品第十一には「二如来の七宝塔中の師子座の上に在して」とあり、さらに十方分身の諸仏が宝塔品の儀式に列なった姿を同品には「諸仏は悉く已に来集して、各各師子の座に坐したまう」とある。これはまた法・報・応の三身を顕わすが故に宝塔品の三身というのである。天台大師は法華文句巻八に「多宝は法仏を表わし、釈尊は報仏を表わし、分身は応仏を表わす、三仏は三なりと雖も而も一にして異ならず」と述べている。

<地涌の菩薩> 宝塔品第十一より釈尊が滅後の弘経を勧進し、菩薩は勧持品第十三で滅後弘経の誓願を立てたが、涌出品第十五にいたって「止みね。善男子よ」とて、諸大菩薩の弘経を制止したとき、突然、大地より涌出したのが地涌の菩薩である。経文には、この地涌の菩薩の巍々堂々とした姿を「善く菩薩の道を学して 世間の法に染まらざること 蓮華の水に在るが如し」と説かれている。まさに、この地涌の菩薩こそ蓮華の当体であり、当体蓮華の現証であるとしたものである。

さらに地涌の菩薩の棟梁である上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩は常楽我浄の四徳を表わす。故に御義口伝に、道暹の法華文句輔正記の九を引いていわく「上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す」(0751:第一唱導之師の事:04)とある。

<竜女の即身成仏> 提婆品には、提婆達多の成仏の記と共に、竜女の即身成仏が説かれている。竜女といえば畜身であり、女身である。それが即身成仏するということは、それまでの爾前経の考え方とは、まったく相反するものである。

この竜女は、大海の娑竭羅竜宮より、自然に涌出して霊鷲山に詣でるのである。これを提婆達多品には竜女の成仏について「竜女の忽然の間に、変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方の無垢世界に往きて、宝蓮華に坐して」と説かれている。ここで竜女が宝蓮華に坐していると経文にあるのは、竜女が当体蓮華であることを示しているのである。

開目抄に「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」(0223:07)と。

このように竜女の成仏は、挙一例諸として、一切の女人成仏をあらわす。故に一切の女人が当体蓮華の仏なりとの偉大な哲理でもある。これこそ、人間生命の尊厳を説き、真実の男女平等論を説き明かした一文である。諸法実相抄に「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」(1360:08)とあるのが、それである。

<妙音の三十四身> 妙音菩薩とは、この菩薩が浄光荘厳国、浄華宿王智如来のもとからこの娑婆世界に来至するとき「経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」とあり、それはこの菩薩が過去に十万種の伎楽を仏に供養し、八万四千の宝鉢を奉った因縁によって、今は浄華宿王智仏の国に生まれて種々の神力があるからである。妙音菩薩品第二十四には、この妙音菩薩の普門示現が説かれているのである。すなわち妙音菩薩が機により、時により、種々の身を現じて法を説き、衆生を利益することを明かしているのである。

妙楽大師は止観輔行伝弘決に、法華三昧で不思議自在の力を得たのでなければ、どうして三十四身を現わすことができようかと述べている。妙音菩薩が、あるときは梵天に、帝釈にと三十四身を現じられるのも、妙音菩薩が当体蓮華であるが故に可能なのである。

<観音菩薩の三十三身> 観音菩薩は観世音菩薩普門品第二十五に説かれている菩薩で、三十三身の普門示現の妙用を垂れて、一切衆生を救っていくという。天台はこれを、聖身、天身、人身、四衆身、婦女身、童男身、八部身、執金剛身の八種に大別している。これは、われわれが地涌の菩薩として、あらゆる分野で活躍し、それぞれの立ち場で大聖人の仏法を証明し、ひいては世音を観じて民衆救済に邁進していく姿を指している。所詮観世音菩薩が、三十三身と種々に変現して衆生の機根に応じて説法していくその本源は、妙楽が止観輔行伝弘決に述べているように、法華三昧の不思議、自在の業を証得したが故である。これ実に観音が当体蓮華なる証拠ではないか。

<世間相常住> 方便品の文である。世間とは十界をいう。九界が因となり、仏界は果となるのである。常住とは俱時を顕わす故に、この文は因果俱時の当体蓮華をあらわしている。

 

日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり

 

当世の学者は、今まで明らかにしたごとく方便品の諸法実相の文に正しく当体蓮華が説かれているとし、その現証として、宝塔品の三身、竜女の即身成仏、地涌の菩薩等をあげている。だが、これは一往の義であり、理上の法相にすぎないのである。彼らは法華経といっても、文上の義にこだわって、その真意を理解していないのである。

日蓮大聖人の観心から、法華経のいずこに当体蓮華が明かされているのか、その実体は何かについて述べられたのがこの御文である。大聖人は敢えて、方便品の諸法実相の文と神力品の結要付嘱の文をあげられている。

今、大聖人が方便品の諸法実相の文をあげられたのは、当時の学者の考えとは大いに異なり、体内方便品の文を借りて、当体蓮華仏、すなわち人即法、法即人の御本尊の相貌を顕わさんがためである。まさに迹門方便品の文を借りて本地の所証を示し、合わせて迹の義を破折するのである。

したがって諸法実相の文も、大聖人の観心から拝すれば、正しく三大秘法の御本尊の相貌なのである。十界三千の諸法が南無妙法蓮華経の一法に具足している姿、これが御本尊の相貌であり、諸法実相なのである。すなわち、実相とは中央の南無妙法蓮華経であり、諸法とは左右の十界三千である。久遠元初の自受用身が、名字凡夫位において証得した当体蓮華こそ、まさに諸法実相であり、三大秘法の御本尊なのである。それを示さんがために、大聖人は方便品の諸法実相の文をあげて、当体蓮華の証文とされたのである。

さらに神力品の「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」という結要付嘱の文をあげられている。これは結要付嘱の文に寄せて、釈尊より地涌の菩薩の棟梁たる上行菩薩に付嘱された実体こそ当体蓮華なりとの仰せである。日寛上人も「此の次下に、能付の文に寄せて所属の法体を示すなり。能付の文は神力品の文にして、所属の法体とは寿量の妙法なり」と仰せである。これについては次章に詳しく明かされているので、ここでは略す。

 

 

第七章(結要付嘱の法体を明かす)

本文

   問う次上に引く所の文証・現証・殊勝なり何ぞ神力の一文に執するや、答う此の一文は深意有る故に殊更に吉なり、問う其の深意如何、答う此の文は釈尊・本眷属地涌の菩薩に結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり、久遠実成の釈迦如来は我が昔の所願の如き今は已に満足す、一切衆生を化して皆仏道に入ら令むとて御願已に満足し、如来の滅後・後五百歳中・広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給える文なれば釈尊出世の本懐・道場所得の秘法・末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり、故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるなり真実以て秘文なり真実以て大事なり真実以て尊きなり、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有つて具足の道を聞かんと欲す云云、是なり、

 

現代語訳

問う、次上に引いた数々の文証・現証は、殊に勝れている。それなのに、どうしてあなたは神力品の一文に執着するのであるか。

答う、この一文には、深い意味がある故に当体蓮華の文として最もふさわしいのである。

問う、その深意とは何か。

答う、この文は、釈尊が、本眷属である地涌の上行菩薩に結要の付属五字の当体を付嘱するとお説きになられた文だからである。久遠実成の釈迦如来は「わが昔の所願は今はすでに満足した。一切衆生を化導して全部仏道に入らしめた」といわれて、その願いである出世の本懐をすでに満足し、ついで「如来滅後・後五百歳の中において広宣流布させよう」という結要付嘱を説かんがために、地涌の菩薩を召し出し、本門の当体蓮華を要をもって付嘱した文である故に、釈尊の出世の本懐であり、道場所得の秘法であり、われらが現当二世の願いである成仏を成就する当体蓮華の誠証はこの文なのである。

故に末法今時において、如来の使い(日蓮大聖人)以外に、この当体蓮華の証文を知って取り出す人は絶対にありえないのである。真実もって秘文であり、真実もって大事であり、真実もって尊いのである。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。爾前の円の菩薩等が法華経の座に連なり、八万の大衆となって具足の道を聞かんと欲すと、仏にお願いしたのは、このことを意味しているのである。

 

語釈

本眷属

仏の本来の眷属のこと。眷属は梵語パリヴァーラ(parivāra)の訳。親しく従う者の意で、①一族・親族、②従者・配下、③仏・菩薩に従う脇侍・諸尊などをいう。ここでは法華経従地涌出品第十五において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた地涌の菩薩たちをさす。

 

久遠実成

インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第十六で説かれる。同品には「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」、「我れは仏を得て自り来経たる所の諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり」とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。

 

我が昔の所願

法華経方便品第二に、「舎利弗よ当に知るべし 我れは本と誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき 我が昔の願いし所の如きは 今者已に満足しぬ 一切衆生を化して 皆な仏道に入らしむ」の文。

 

誠証

真実の証拠、証言のこと。誠とは誠諦のことで、悟りまたは真実の意。証とは証明、証言、証拠の意。

 

爾前の円

法華経より前に説かれた諸経にも、部分的に円教(真実の完全な教え)にあたる教えが説かれており、これを爾前の円と呼ぶ。これに対して、法華経は純粋な円教(純円)とされる。しかし爾前の円は与奪の上で(与えて)言ったのであって(奪って言えば)成仏の実義はない。日寛上人は開目抄愚記で、爾前の円といえども、法華経の相待妙と比較した時は悪であり、たとえ法華経の相待妙と同じだと容認したとしても、法華経の絶待妙には到底、及ばないと解釈している。

 

具足の道

法華経方便品第二の文。妙法(一念三千)が即具足(完全円満)の義である旨をあらわす。開目抄に「妙とは具足」とも、また「具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり」と示されている。

 

講義

神力品の別付嘱の文の深義を明かす段である。

 

結要付嘱と当体蓮華

 

法華経神力品第二十一において、釈尊が法華経一部を四句の要法にくくって、上行菩薩に付嘱したことを結要付嘱という。その結要付嘱の文は神力品の「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」の文である。

このように釈尊は、本門の当体蓮華を、高弟たる文殊や薬王等に付嘱しないで、ただ涌出品から嘱累品にいたる八品の間に地涌千界の大菩薩を召し出して、これに付嘱したのである。すなわち涌出品には付嘱すべき地涌の菩薩を召し出し、寿量品に付嘱する実体、本門の当体蓮華を説きあらわし、神力品には別してこの本門の当体蓮華をまさしく上行菩薩に付嘱するのである。

天台大師は法華文句巻十に「総じて一経を結するに唯四のみ、其枢柄を撮って而して之を授与す」と述べている。すなわち、法華経の究極は名体宗用の四句の要法であって、その枢柄、肝心をとって上行菩薩に付嘱したといった。

このように天台は四句の要法をもって結要付嘱といったが、それがなにゆえ要法であるかは、たんに名体宗用と解釈するのみで、その当体は明かされていない。この解答は、末法における日蓮大聖人の出現を待つのである。大聖人は本抄の次下に「如来の滅後・後五百歳中・広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給える文なれば釈尊出世の本懐・道場所得の秘法・末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり」と述べられている。

三大秘法抄にいわく「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021:03)と。

また同じく三大秘法抄に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(1023:05)と。

さらに四句の要法を三大秘法に約せば、「如来の一切の所有の法」とは三大秘法総在の南無妙法蓮華経を、「如来の一切の自在の神力」とは本門の戒壇を、「如来の一切の秘要の蔵」とは本門の本尊を、「如来の一切の甚深の事」とは本門の題目を意味するのである。

以上のことにより四句の要法の実体は天台大師は三大秘法の御本尊であり、神力品で付嘱されたものは、まさしくこの偉大なる法体であったのである。されば日寛上人は結要付嘱の文をさらに本尊付嘱の文であると断言されているのである。

 

我が昔の所願の如き今は已に満足す

これは、方便品第二に「舎利弗当に知るべし、我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき、我が昔の所願の如き、今者は已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とあるのを指す。
天台大師の法華文句巻四下に「我本立誓願の下二行は、是れ因を挙げて勧信す、此れ亦二と為す。初め本立誓の下一行は昔誓を挙ぐ、二に如我昔の下一行は願満を明す」とある。また日寛上人は文段に「玄文第三の意、一には寂滅道場、二には大通智仏、三には本果、四には本行菩薩道なり、当流の意はこれなお近し。久遠元初の御誓願なり、在世の脱益は一往の御願満足なり、後五百歳の付嘱を説いて真実の御願円満なり」と釈尊の仏法と日蓮大聖人の文底仏法の相違を明確に示されている。
すなわち仏が昔に立てた誓願といっても、釈尊の場合は、爾前経では寂滅道場の三十歳成道から説法が始まっている。法華経迹門では三千塵点劫以前の大通智勝仏以来の因縁を説いている。また法華経本門寿量品では、五百塵点劫の本果成道を説き、それより以来、常にこの娑婆世界にあって説法教化してきたといい、また「我れ本、菩薩の道を行じ」とその本因を明かしている。これらはすべて釈尊の仏法における昔であって、末法における日蓮大聖人の仏法では、我は久遠元初の自受用身即日蓮大聖人、昔といえば久遠元初である。
釈尊が方便品において「今者已満足」と説いたのは、諸法実相を説き終わったことを指しているが、釈尊の真実の満足は、本門寿量品を説いて、一切衆生を得脱せしめ、しかも神力品において滅後末法の付嘱を終わったことをいう。そのことを日寛上人の文段で「在世の脱益は一往の御願満足なり。後五百歳の付嘱を説いて真実に音願円満なり」といわれている。
日蓮大聖人は、末法御本仏の「今者已満足」を次のように述べられている。
御義口伝に「我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如我の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり、爰を以て之を思うに釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり、此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を我が成仏せしめんと云う所の願併ら如我昔所願なり、終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり、此の今者已満足の已の字すでにと読むなり何の処を指して已にとは説けるや、凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり、爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり、されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」(0720:第六如我等無異如我昔所願の事:02)と仰せである。

故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるなり

神力品の四句の要法が、実は甚深の意を含んだものであり、釈尊の結要付嘱の当体であり、それをあらわさんがために釈尊は出世したわけであった。そして、末法においては、本門の当体蓮華として、まず地湧の菩薩が譲り受けたのである。これが一往の読み方である。ところが当門流においては、さらに一重立ち入って、地湧の菩薩とは、久遠元初の自受用法身如来の外用の姿であり、末法においては、この久遠の本仏がふたたび誕生されて、久遠名字の妙法を末法の衆生に授けられたのである。即ち、日蓮大聖人が、久遠元初の自受用法身如来の再誕として、五字七字の妙法を弘められた、と読むのである。そうした当流の意を前提として、日寛上人は文段において、本文をさらに釈されている。即ち「凡そ所属の法体は三大秘法総在の本地難思の境智冥合本有無作の当体の蓮華なり」といわれ、その次下に「ゆえに三箇の真実、二箇の題目恐らくは意あるか」と、本文次下の「真実以て秘文なり真実以て大事なり真実以て尊きなり、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」の深意にふれておられる。

爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有つて具足の道を聞かんと欲す云云

法華経方便品第二に諸法実相・略開三顕一が説かれた時、舎利弗等は驚いてさらに仏に対して「願わくは世尊、斯の事を敷演したまえ」と質問をする。その時に舎利弗と共に疑いをいだき質問を発した者の中に「仏を求むる諸の菩薩、大数八万有り、又諸の万億国、転輪聖王の至れる、合掌して敬心を以て、具足の道を聞きたてまつらんと欲す」とある。この「具足の道」こそ、神力品で結要付嘱された本門の当体蓮華である。「爾前の円」については一代聖教大意に「次に円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり、爾前の円に五十二位・又戒定慧あり、爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く『円満修多羅』文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』文、観経に云く『韋提希時に応じて即ち無生法忍を得』文、梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、その故は五十二位が互いに具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず。般若経の中には二乗の所学の法門を開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一亳の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり」(0396:01)と。
しかし爾前の円は与奪の上で与えていったのであって成仏の実義はない。なぜならば爾前には十界互具も三身相即も説かれていないからである。成仏の実義はあくまでも法華経のみにあり、法華初心成仏抄に「いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず、故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別せり」と云い又「終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり」(0548:05)と、また一代聖教大意に「爾前の円教の菩薩・皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり」(0398:08)と示されている。ゆえに法華の円に対するときは徧円となるのである。

 

 

第八章(当流の法門の意を明かす)

本文

  問う当流の法門の意は諸宗の人来つて当体蓮華の証文を問わん時は法華経何れの文を出す可きや、答う二十八品の始に妙法蓮華経と題す此の文を出す可きなり、問う何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、故は天台大師今経の首題を釈する時・蓮華とは譬喩を挙ぐると云つて譬喩蓮華と釈し給える者をや、答う題目の蓮華は当体譬喩を合説す天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり、玄文第一の本迹の六譬は此の意なり同じく第七は当体の辺を釈するなり、故に天台は題目の蓮華を以て当体譬喩の両説を釈する故に失無し、問う何を以て題目の蓮華は当体譬喩合説すと云う事を知ることを得んや、南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なる故に法とは衆生法なる故に蓮華とは是れ譬喩を借るなり」文、南岳天台の釈既に譬喩蓮華なりと釈し給う如何、答う南岳の釈も天台の釈の如し云云、但当体・譬喩合説すと云う事経文分明ならずと雖も南岳天台既に天親・竜樹の論に依て合説の意を判釈せり、所謂法華論に云く「妙法蓮華とは二種の義有り一には出水の義、乃至泥水を出るをば諸の声聞・如来大衆の中に入つて坐し諸の菩薩の如く蓮華の上に坐して如来無上智慧・清浄の境界を説くを聞いて如来の密蔵を証するを喩うるが故に・二に華開とは諸の衆生・大乗の中に於て其心怯弱にして信を生ずること能わず故に如来の浄妙法身を開示して信心を生ぜしめんが故なり」文、諸の菩薩の諸の字は法華已前の大小の諸菩薩法華経に来つて仏の蓮華を得ると云う事法華論の文分明なり、故に知ぬ菩薩処処得入とは方便なり、天台此の論の文を釈して云く今論の意を解せば若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言わば此れ妙因の開発するを以つて蓮華と為るなり、若し如来大衆に入るに蓮華の上に坐すと言わば此は妙報の国土を以て蓮華と為るなり、又天台が当体譬喩合説する様を委細に釈し給う時大集経の我今仏の蓮華を敬礼すと云う文と法華論の今の文とを引証して釈して云く「若し大集に依れば行法の因果を蓮華と為す菩薩上に処すれば即ち是れ因の華なり仏の蓮華を礼すれば即ち是れ果の華なり、若し法華論に依れば依報の国土を以て蓮華と為す復菩薩・蓮華の行を修するに由つて報・蓮華の国土を得当に知るべし依正因果悉く是れ蓮華の法なり、何ぞ譬をもつて顕すことをもちいん鈍人の法性の蓮華を解せざる為の故に世の華を挙げて譬と為す亦何の妨げかあるべき」文、又云く若し蓮華に非んば何に由つて遍く上来の諸法を喩えん法譬雙べ弁ずる故に妙法蓮華と称するなり、次に竜樹菩薩の大論に云く「蓮華とは法譬並びに挙ぐるなり」文、伝教大師が天親・竜樹の二論の文を釈して云く「論の文但妙法蓮華経と名くるに二種の義あり唯蓮華に二種の義有りと謂うには非ず、凡そ法喩とは相い似たるを好しと為す若し相い似ずんば何を以てか他を解せしめん、是の故に釈論に法喩並び挙ぐ一心の妙法蓮華は因華・果台・倶時に増長す此の義解し難し喩を仮れば解し易し此の理教を詮ずるを名けて妙法蓮華経と為す」文、此等の論文釈義分明なり文に在つて見る可し包蔵せざるが故に合説の義極成せり、凡そ法華経の意は譬喩即法体・法体即譬喩なり、故に伝教大師釈して云く「今経は譬喩多しと雖も大喩は是れ七喩なり此の七喩は即ち法体・法体は即ち譬喩なり、故に譬喩の外に法体無く法体の外に譬喩無し、但し法体とは法性の理体なり譬喩とは即ち妙法の事相の体なり事相即理体なり理体即事相なり故に法譬一体とは云うなり、是を以て論文山家の釈に皆蓮華を釈するには法譬並べ挙ぐ」等云云、釈の意分明なる故重ねて云わず。 

 

現代語訳

問う、当門流の法門の意は、諸宗の人が来て当体蓮華の証文を問うたときは、法華経のどの文を出していくべきであるのか。

答う、二十八品の始めに妙法蓮華経と題しているが、この文を出すべきである。

問う、何をもって、各々の品の題目が当体蓮華であるということを知ることができるのか。その故は、天台大師が法華経の首題を釈するについて、蓮華とは譬喩をあげているのであるといって譬喩蓮華なりと釈しているではないか。

答う、題目の蓮華は当体・譬喩の両方の蓮華を合説しているのである。天台大師の今の釈は、その譬喩の辺を釈した場合の釈である。玄文(玄義)第一にある本迹の六譬は、この意味なのである。それに対して、玄文第七は、当体蓮華の辺を釈してある。故に天台は、題目の蓮華をもって当体・譬喩の両方を釈している故に失は無いのである。

問う、どうして題目の蓮華が、当体・譬喩の両義を合わせて説き明かしているということを知ることができるのか。南岳大師も妙法蓮華経の五字を解釈する時に「妙とは衆生が妙であるからであり、法とは衆生が法そのものであるからである。蓮華とは、草花の蓮華を借りて、譬えたのである」と安楽行義の中で述べており、このように南岳も天台も共に譬喩蓮華と解釈しているのではないか、この点はどうか。

答う、南岳の解釈も、天台の解釈と同様である。ただ当体・譬喩の両義を合わせ説いたということは、経文上では、明らかではないが、南岳も天台も、すでに天親の法華論と竜樹の大智度論によって当体・譬喩の合説の意を判釈しているのである。

いわゆる天親の法華論には「妙法蓮華とは、二種の義がある。第一は、出水の義である。乃至、蓮華が泥水から水上に出るというのは、諸の声聞が、仏が大衆の中に交わり入って坐し、諸の菩薩たちと同様に蓮華の上に坐って、如来の無上の智慧、清浄の境界を説くのを聞いて、如来の秘密の蔵を証得することに喩えるが故である。二に華開とは、諸の衆生が大乗の中に於いて、その心が忶弱で、信心を生ずることができないので、如来が、自ら、浄妙法身を開示して信心を生ぜしめようとするが故である」と説かれている。この文の諸の菩薩の諸の字は、法華以前の大乗小乗の菩薩が、法華経の会座にきてはじめて、仏の蓮華を証得することができるということが、法華論の文に明らかである。したがって、菩薩が法華以前において、処々で悟りを得たということは方便なのである。天台大師は、この法華論の文を玄義巻七に解釈して、「此の論の意味を解釈すれば、法華論で、仏が衆生に対して浄妙法身を開示して見せしめるというのは、妙因の開発することを指して蓮華とすることなのである。また、仏が大衆の中に入って蓮華の上に坐るというのは、妙報の国土を指して蓮華とすることなのである」といっている。

また、天台大師が、当体・譬喩の両義を合わせ説く状況を詳しく解釈された時、大集経の「我れ今、仏の蓮華を敬い礼拝する」という文と、法華論の今の文とを引証して解釈して、次のようにいっている。「若し大集経によれば、行法(修行)上の因果を蓮華とする。菩薩が蓮華の上に坐していれば、これは因の華である。仏の蓮華を礼拝するならば、すなわちこれは果の華である。若し法華論によれば、依報の国土を蓮華とするのである。また菩薩が、蓮華の法を修行することによって、その果報として蓮華の国土を得るのである。これによって正に知るべきである。依報の国土も正報の自身も、因である菩薩も果である仏も、ことごとくが蓮華の法であることを。したがって、どうして譬えを借りてあらわすことを必要とするのであろうか。しかしながら、鈍根で、法性の蓮華を理解できない者のために、草花の蓮華を挙げて譬えとすることもまた、何の妨げとなろうか」と。

また「もし蓮華でなければ、何によって、完全に、以上述べた法華の諸法を喩えられるであろうか。法と譬えとを並べ論ずるが故に、妙法蓮華と称するのである」と述べている。

次に竜樹菩薩の大論には「蓮華とは法と譬えとを共に並べあげた表現である」といっている。

伝教大師は守護国界章巻中の中に、この天親の法華論と竜樹の大智度論の文を解釈して「法華論の文は、ただ妙法蓮華経と名づけるのに、二種の義があるといっているのであり、ただ華草の蓮華に二種の義があるといっているのではない。およそ、法と喩えとは、互いに良く似ていることが好ましいのである。もし、似ていなかったならば、どうして、他の人々を理解させられようか。この故に大論には法と喩えを並べ挙げあげたのである。一心の妙法蓮華とは、因の華と果の台とが同時に増長するのである。この義は非常に理解しがたい。しかし喩えを仮りれば理解しやすいのである。この理が教をあらわす故に妙法蓮華経と名づけるのである」と。

これらの法華論・大智度論の文や、天台、伝教の解釈によって明らかである。文についてよく見るべきである。包み隠すところは、まったくなく、法譬合説の義は、完全に説き尽くされているのである。およそ法華経の真意は、譬喩即法体・法体即譬喩なのである。故に伝教大師は、法華経を解釈して「法華経には、譬喩が多くあるけれども、大きな喩えは七つである。この七つの喩えは、そのまま法体であり、法体はそのまま、譬喩である。故に譬喩の外に法体はなく、法体の外に譬喩はない。ただし法体とは法性の理体であり、譬喩とはそのまま妙法の事相の体である。事相がそのまま理体であり、理体がそのまま事相である。故に法譬一体というのである。以上の理由によって竜樹・天親や南岳・天台等の解釈には、皆、蓮華を釈する時は法体と譬喩とを並べあげている」等と述べている。このように釈の意が明らかであるから、これ以上重ねて論ずることはしない。

 

語釈

玄文第一の本迹の六譬

法華玄義第一巻に蓮華の三つの譬えをもって、施開廃の三義を説いたもの。本迹におのおの三義ある故に本迹の六譬という。迹門の三義は為実施権、開権顕実、廃権立実である。本門の三義は、従本垂迹、開迹顕本、廃迹立本である。

 

法華論

二巻。梵名ヴァスバンドゥ(Vasubandhu)、漢訳して天親(旧訳)または世親(新訳)釈。中国・後魏代の菩提流支・曇林等共著。正しくは妙法蓮華経憂波提舎という。インドにおける法華経の注釈書として唯一現存する。法華経が諸経より優れている点を十種挙げた十無上などを説く。如来蔵思想による法華経解釈を特色とし、天台大師智顗や吉蔵(嘉祥)、基(慈恩)らに影響を与えた。

 

出水の義

妙法蓮華の二種の義のうちの一つ。出水の義とは、蓮華の泥の中より水上に出るのをもって、二乗が四味三教の泥濁の水を出離し、法華経に悟入して諸の菩薩のごとく当体蓮華を証得することに譬えたものである。

 

華開

妙法蓮華の二種の義のうちの一つ。華開とは、法華経に来て妙法蓮華経を開示し、信心を起こさせることを華開をもって譬えたのである。法華の時に約した義で、法華経に来たりて、浄妙法身の妙旨を開いて信心を起こすのを、蓮華であらわした。

 

菩薩処処得入

天台大師の釈義で、妙楽大師の法華玄義釈籤に「二乗は唯法華に在り、菩薩は処処に入ることを得る」とある。すなわち、二乗の得道は法華経に限るが、菩薩は利根なるが故に前四味の経々においても得道することを得るとの意味である。ただし、これは方便であって実義ではない。そもそも、法華経以外での得道というのは当分の得道であって、真実の得道ではない。そのことを無量義経には「種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と説かれている。すなわち、爾前経における得道は、人によって差別があり、あくまで分々の得道であるゆえに、無上菩提(一念三千の真の悟り)ではないと説かれている。そして法華経の会座に来至し、方便品第二に「菩薩は是の法を聞いて 疑網は皆な已に除く」とあり、菩薩が法華経の説法を聞いて、さまざまな疑問がすべて解決し、仏の教えを領解することができたと示されている。このように、あらゆる菩薩も、法華経によって真の得道ができるのである。

 

山家

一般には比叡山延暦寺のことを指す場合が多いが、ここでは伝教大師が南岳や天台等を指して呼んだもの。

 

講義

この章は、正しく日蓮大聖人の仏法における本地所証を明かす段である。

はじめに法華経二十八品の品々の題目をもって、本有無作の当体蓮華の証文とする。次に異文を会して、題目に当体・譬喩の両義が合わせて説かれていることを論証する。すなわち法華経の真意は、譬喩即法体、法体即譬喩の一体なのである。故に品々の題目の「妙法蓮華経」が、正しく本有無作の当体蓮華の証文となるのである。

この章で論ずる当体蓮華は、本門寿量品文上の釈尊が五百塵点劫に証得した当体蓮華を明かすのではない。あくまで再往、文底下種に約して、久遠名字の所証、三大秘法総在の南無妙法蓮華経をもって、本地所証と名づけることを知らなくてはならない。よって脱益の教主の所説たる題目を借りて、日蓮大聖人が久遠元初、名字凡夫位に証得した本有無作の当体蓮華の証文としているのである。

 

二十八品の始に妙法蓮華経と題す此の文を出す可きなり

 

この文は正しく当体蓮華の証文を明かされている。すなわち日蓮大聖人は、脱益の教主たる釈尊の所説である法華経品々の題号をもって、日蓮大聖人が久遠元初の名字凡夫位において証得したところの真実の当体蓮華の証文としているのである。

しかるに釈迦仏法においても、この「妙法蓮華経」をもって本地所証の当体蓮華としている。なぜそのような迹中所説の題名をもって証文とするのかという疑問が起きる。すなわち、天台大師は法華玄義の一にいわく「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥義なり三世諸仏の証得する所なり」と。また妙楽大師は、この文を法華玄義釈籤の一に釈していわく「迹中に説くと雖も功を推すに在るなり、故に本地と云う」といっている。

この問いに答えて、日寛上人の文段に大要次のようにある。

すなわち、妙楽がすでに本果に証すると雖も推功有在(功を推すに有る)の故に、と述べているように、本果所証の当体蓮華は、一往脱益に約したもので、外適の辺で文上である。ここでは再往下種に約して、久遠名字の所証、三大秘法総在の妙法蓮華経をもって、本地所証の当体蓮華と名づけるのである。

この意味を文・義・意から、わかりやすく説明すると次のようになる。

四信五品抄にいわく「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(0342:04)と。

されば、二十八品の品々の題名は「文」の妙法蓮華である。五百塵点劫本果第一番成道の釈尊が証得した当体蓮華は「義」の妙法蓮華である。久遠名字の妙法は「意」の妙法蓮華である。迹門、本門の二門の所証が皆ことごとく文底に帰す故に、文底下種の妙法をもって「一部の意」と名づけるのである。まさに「文」の妙法蓮華を引いて「意」の妙法蓮華を証するのである。またまた、品品の題名は久遠名字の妙法の朽木書である。故に品々の題名をもって、真実の当体蓮華の証文とするのである。

富士宗学要集一巻「寿量品文底の大事」の項には「文底とは久遠下種の法華経、名字の妙法に今日熟脱の法華経の帰入する処を志し給うなり」と。また古徳いわく「文は謂く文字一部の始終なり義は則深く所以有り意は則所以帰する有り」と。

この釈を思い合わすならば「文」の当体蓮華を引いて「意」の当体蓮華を明かすことが理解できるであろう。したがって、文・義・意の中には意の妙法蓮華、種・熟・脱の中には種の妙法蓮華こそ、文底秘密の大法にして寿量品の肝心である。

ここで御書に「妙法蓮華経の五字は……唯一部の意なるのみ」とあるところから、妙法五字は本迹一致であるという邪義を立てた者がある。すなわち円明院日澄の本迹決疑抄上に「本迹二門の妙法蓮華経は但一遍なり。処々の御釈に二十八品の肝心の妙法蓮華経と判じ給うは是れなり。故に妙法蓮華経というは即本迹一致の法体なり」といっている。これに対して日寛上人は文段に次のように破折している。「此れは是れ名同義異を知らざる故なり。且らく当抄所引の大強精進経の『衆生と如来と同共一法身清浄妙にして無比なるを妙法蓮華経と名く』等云云。日澄若し此の文を見ば応に権迹一致と云うべきのみ、彼等なお迹中の本迹に迷えり、況んや種脱の本迹に於いておや云云」とある。

 

妙法蓮華とは二種の義有り

 

天親の法華論の文である。法華論には妙法蓮華に、出水の義と華開の義との二義があると説いている。出水の義とは、蓮華の泥水の中より水上に出るをもって、二乗が四味三教の泥濁の水を出離し、法華経に悟入して諸の菩薩のごとく当体蓮華を証得することに譬えたものである。

華開の義とは蓮の華が開くことをもって、法華経において浄妙法身の妙旨、すなわち、当体蓮華を開示し、信心を起こさせることをあらわしたものである。

この法華論の文を、当体・譬喩合説の文証として引かれている。だが、あくまで妙法蓮華に二種の義があるのであって、蓮華に二義の義があるというのではない。

日寛上人は当体義抄文段で「一義には、華開の義は直ちに当体の義に約し、出水の義は譬喩を兼ねる、故に合説の義となしている。また一義には、出水、華開の標文に譬喩を兼ねる。自余の釈相は当体に約す故に合説の意がある」と述べている。

この蓮華の二義すなわち出水の義、華開の義を、われわれの生活に約して論じておきたい。

蓮華は泥沼の中にあって、しかも泥沼の上にいくのである。これが出水の義である。そして、ここに、清浄な華が開くのである。これが華開の義である。

われわれの生命は、煩悩に満ち、苦悩が充満し、偏見、我見が渦巻いているといえる。これは泥水に譬えられる。むろん、それは人間である以上、誰しも同じである。だが、これだけであったならば不幸である。この上に出る何ものかがなくてはならない。それが信心である。また、地涌の菩薩としての自覚であり、広布への使命感である。平凡な人間でありながら、しかも力強い自己を発揮し、偉大なる人生を歩んでいくことこそ、まことの人間としての価値ではなかろうか。

また、泥水とは、汚濁した社会である。この現実の社会を離れて、特別な世界に住する人は、迹化他方であって、地涌の菩薩ではない。地涌の菩薩は、すすんで社会の泥沼に飛び込み、民衆と共に歩んでいくのである。しかし、泥沼の中に埋没していたのでは、何の価値もない。泥沼に生きつつ、しかも、それを出て、新しい、輝かしい社会の建設に邁進しゆくことこそ、地涌の菩薩の姿である。これ、出水の義ではないか。

そこにこそ、真に、清浄なる自身の開花も幸福な開花も、平和の開花もある。されば、出水の義なくして華開の義はない。

いま、創価学会員は、この現実の社会にあって戦い、これまさに地涌の菩薩の姿であり、この誠意と情熱と英知の人々により、必ずや、妙法の楽土に、幸福と平和の花が、いっぱいに咲き薫りゆくことを確信してやまない。

 

 

第九章(如来在世の証得を明かす)

本文

  問う如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや、答う四味三教の時は三乗・五乗・七方便・九法界・帯権の円の菩薩並びに教主乃至法華迹門の教主総じて本門寿量の教主を除くの外は本門の当体蓮華の名をも聞かず何に況んや証得せんをや、開三顕一の無上菩提の蓮華尚四十余年には之を顕さず、故に無量義経に終不得成無上菩提とて迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり、何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば迹化弥勒等之を知る可きや、問う何を以て爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云う事を知ることを得ん、答う爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり、天台云く「権教の補処は迹化の衆を知らず迹化の衆は本化の衆を知らず」文、伝教大師云く「是直道なりと雖も大直道ならず」云云、或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云此の意なり、爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も本門に対するの時は当分の断惑にして跨節の断惑に非ず未断惑と云わるるなり、然れば菩薩処処得入と釈すれども二乗を嫌うの時一往得入の名を与うるなり、故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり、天台大師・涌出品の五十小劫・仏の神力の故に・諸の大衆をして半日の如しと謂わしむの文を釈して云く「解者は短に即して長・五十小劫と見る惑者は長に即して短・半日の如しと謂えり」文、妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位に居す之を名けて惑と為す」文、釈の意分明なり爾前迹門の菩薩は惑者なり地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり、然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時・異り無しと云つて此の文を料簡するに解者の中に迹化の衆入りたりと云うは大なる僻見なり経の文・釈の義分明なり何ぞ横計を為す可けんや、文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり是れ即ち僻見なり、地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る是れ即ち正見なりと釈し給えるなり、妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給いし事文に在つて分明なり、迹化の菩薩なりとも住上の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云わん学者は無得道の諸経を有得道と習いし故なり、爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も本門寿量の真仏に望むる時は惑者仍お賢位に居ると云わるる者なり権教の三身未だ無常を免れざる故は夢中の虚仏なるが故なり、爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ彼に至る時正しく初住に叶うなり、妙楽の釈に云く「開迹顕本皆初住に入る」文、仍賢位に居すの釈之を思い合すべし、爾前迹化の衆は惑者未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云う事真実なり真実なり、故に知ぬ本門寿量の説顕れての後は霊山一会の衆皆悉く当体蓮華を証得せしなり、二乗・闡提・定性・女人等の悪人も本仏の蓮華を証得するなり、伝教大師一大事の蓮華を釈して云く「法華の肝心・一大事の因縁は蓮華の所顕なり、一とは一実相なり大とは性広博なり事とは法性の事なり一究竟事は円の理教智行、円の身・若・達なり一乗・三乗・定性・不定性・内道・外道・阿闡・阿顚・皆悉く一切智地に到る是の一大事仏の知見を開示し悟入して一切成仏す」女人・闡提・定性・二乗等の極悪人霊山に於て当体蓮華を証得するを云うなり。

 

現代語訳

問う、仏の在世においては、いったい誰が当体の蓮華を証得したのであるか。

答う、法華経以前の四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界・権を帯びて説かれた爾前の円教の菩薩や、その教主、さらには、法華迹門の教主にいたるまで、総じて本門寿量品の教主を除く外はすべて、本門の当体蓮華の名目をも聞かなかった。まして証得することがどうしてありえようか。

声聞、縁覚、菩薩の三乗の教えを開いて一仏乗をあらわした、迹門における無上菩提の蓮華の法門さえ、四十余年の間にはこれを顕わさなかった。その故に無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」と述べて、迹門で説かれた開三顕一の蓮華は、爾前四十余年の間には、これを説かなかったといっている。まして、開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の文底の当体蓮華を、迹化の弥勒菩薩等が、どうしてこれを知り得るわけがあるだろうか。

問う、いかなるわけで爾前の円の菩薩や、迹門の円の菩薩等が、本門の当体蓮華を証得しなかったということを知ることができるのか。

答う、爾前の円の菩薩は、迹門の蓮華を知らず、また迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らなかった。故に天台大師は「爾前権経の補処である大菩薩でも迹化の衆を知らない。同様に、迹化の衆は、本化の衆を知らない」といっている。また伝教大師が註無量義経巻二に「これは直道ではあるが、大直道ではない」あるいは同巻三に「未だ、菩提の大直道を知らない故に」といっているのは、このことをいっているのである。

したがって、爾前迹門の菩薩は、一分だけ断惑証理の義があるとはいっても、それらは本門に相対してみたときは、あくまで当分の断惑であって、一重立ち入った跨節の断惑ではないから、結局未断惑の者といわれるのである。

したがって爾前経においても菩薩が処々に得道したと釈しているけれども、それは、声聞、縁覚の二乗を弾呵するために、一往、菩薩に得道の名を与えたまでである。故に、爾前迹門の大菩薩が、仏の蓮華を悟ることができるのは、本門の時である。すなわち、真実の断惑は、寿量品の一品を聞いた時である。

天台大師が、涌出品の「五十小劫という長い年月を、仏は神通力をもって、諸の大衆に、わずか半日の短時日のようにおもわせた」という経文を解釈して、法華文句の巻九の上に「解者(地涌の菩薩)は、短に即して長、すなわち半日の時日を五十小劫という長い年月と悟ることができる。逆に、惑者(迹化の衆)は、すなわち五十小劫の長年月をわずか半日と見れない」と説いている。

妙楽大師は、この天台の解釈を受けて、法華文句記の巻九で「本化の菩薩は、すでに無明惑を破っている。これを称して解とするのである。迹化の大衆は、いぜんとして、無明を破ることができないので、賢位すなわち十信の位にとどまっている。これを名づけて惑とするのである」と解釈している。

この解釈によって意味は明らかである。すなわち爾前迹門の菩薩は惑者であり、ただ地涌の菩薩のみが解者であるということである。

このように両者の差がはっきりしているにもかかわらず、当世の天台宗の学者の中には、本門と迹門の同異を論ずるときに、本迹の相異はないといって、この文を解釈して、解者の中に迹化の菩薩衆も入っているのだというのは大きな僻見である。経文、そして天台等の解釈の義は明らかである。どうして、そのような邪な考えをすることができようか。

涌出品の文は「地涌の菩薩が五十小劫の長い間、仏を讃めたたえたことを、霊山の迹化の菩薩の衆はわずか半日のように謂った」と説き明かされたのを、天台大師が解者と惑者を出してそれを相対して、「迹化の菩薩衆は惑者であるために半日のように思った。これは、僻見である。地涌の菩薩は解者であるために五十小劫の長時日と見る。これが正しい見解である」と解釈されているのである。妙楽大師は、さらにこの天台大師の解釈をうけて、「無明を破した菩薩は解者であり、未だ無明を破すことのできない菩薩は惑者である」と解釈していることは、文についてまさに明らかである。迹化の菩薩であっても初住以上の位に登った菩薩は、すでに無明を破した菩薩であるなどという学者は、無得道の爾前経を得道できると習ったがためである。

爾前、迹門は当分において、一往、妙覚の位があるけれども、それは、本門寿量品の真実の仏に相対したときには、あくまで惑者で、賢位という位をでない者といわれるのである。権教における法報応の三身が、いまだ無常を免れない理由は、夢の中のできごとと同様な架空の仏だからである。

爾前と迹化の衆とは、まだ本門を聞かないうちは、未断惑の者といわれ、本門に来た時に初めて初住すなわち不退地に住することができたのである。故に妙楽大師は法華玄義釈籤の巻一に「迹を開いて本を顕した時に、皆が初住の位に入るのである」といっている。この意と先に述べた「大衆はいまだに賢位に居る」という解釈とを思い合わせてみなさい。爾前・迹化の衆は惑者であって、未だ無明惑を破っていない仏菩薩であるということは、まさに真実である。

故に、本門の寿量品が説き顕わされた後は、霊山の会座の大衆は、皆ことごとく、当体蓮華を証得したと知ることができるのである。声聞、縁覚の二乗も、不信誹謗の一闡提も、定性の者も、女人や悪人等も、皆、久遠本仏の蓮華を証得したのである。

伝教大師は「一大事の蓮華」を守護国界章の巻下に釈して「法華経の肝心である一大事の因縁は、蓮華の顕わすところである。一とは、中道実相であり、大とは、その中道実相が森羅万象にわたってのものであり、事とは法性すなわち本来そなわったところの事実の姿・振舞いという意である。一究竟事は円の理教と教義と智慧と修行と円の身(法身)・若(般若)・達(解達)の三徳とである。これによって一仏乗、三乗、決定性、不定性、内道の者、外道の者、阿闡提の者、阿顛提の者、皆ことごとく一切智地という仏の位にいたることができる。故に、この一大事によって仏の知見を開かしめ、示し悟らしめて一切の者が成仏したのである」と述べている。

これは在世の女人・一闡提・決定性・二乗等の極悪人が霊鷲山において、当体蓮華を証得したことをいっているのである。

 

語釈

三乗・五乗・七方便・九法界

三乗とは声聞・縁覚・菩薩。五乗とは三乗と人・天。七方便とは、蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩と別教の菩薩をいう。九法界は地獄界から菩薩界までの九界である。

 

帯権の円

爾前の円等は法華経に比べいずれも真の円教ではなく、権を帯びているので帯権の円といった。

 

当分・跨節

当分とは当位の分際のことで、その分、そのままの意で、ある限られた立場、また限定された視野でとらえた場合の意。跨節は節を跨ぐことで、更に広く深く、一重立ち入った立場の意。教相判釈の基準の一つ。天台宗ではこれを教判として、爾前経は当分、法華経は跨節となる。

 

賢位

仏教では修行の段階(位)を賢と聖に区別する。声聞の位としては、いまだ覚りを得ず凡夫の位にある者を賢、煩悩を断じて何らかの覚りを得ている者を聖という。俱舎論では、見道(見惑を断ずる位)以前の三賢(外凡)と四善根(内凡)の段階を七賢とし、見道以上の段階を七聖とする。また大乗では、菩薩の修行段階である五十二位のうち、十住・十行・十回向を賢、十地以上を聖としている。五十二位の中の第十一位、十住の初め、発心住(初住)から聖位に入る。

 

初住

菩薩の修行の段階である五十二位の中の第十一位、十住の初め、発心住のこと。見惑(思想・見識の迷い)を断ずる菩薩の位をいう。円教の菩薩は初住で一分の中道の理を証得して正念に安住するので、初住位以上を菩薩道から退転しない不退位とする。

 

闡提

一闡提の略称。梵語(icchantika)の音写で、一闡底迦とも書く。本来は欲求しつつある人の意で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者をさした。仏法では、覚りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生をいう。仏の正法を信じないでかえって反発・誹謗し、その重罪を悔い改めない不信・謗法の者のことで、無間地獄に堕ちるとされる。

 

定性・不定性

法相宗の教判で、五性各別のこと。衆生が本来そなえている、仏教を信じ理解し実践する宗教的能力を五つに分類したというもの。五性の「性」は「姓」とも書く。声聞定性・独覚定性・菩薩定性・不定性・無性の五種。詳しくは、①声聞定性は、声聞の覚りである阿羅漢果を得ることが決まっているとされるもの。②独覚定性は、縁覚の覚りである辟支仏果が得られると決まっているとされるもの。③菩薩定性は、菩薩の覚りである仏果が得られると決まっているとされるもの。④不定性(不定種性、三乗不定姓)は、以上の三乗の修行とその結果が定まっていないもの。⑤無性(無種性)は、覚りの果を得ることができないもの。これらのうち、成仏すなわち仏果が得られるのは③④のみとなる。

 

阿闡・阿顚

阿闡は阿闡提の略、阿顚は阿顚提の略である。法相宗の宗祖・窺基が師の玄奘著の成唯識論を注釈した成唯識論掌中枢要において、衆生を五種に分類した五性のうちの無性(無種性)を、①一闡底迦(icchantika)、②阿闡底迦(acchantika)、③阿顚底迦(atyantika)の三つに分類した。①は一闡提とも書き、断善根・信不具足と訳す。②は阿闡提とも書き、不楽欲・無欲・随意作と訳す。成仏を願わないのでこういう。③は阿顚提とも書き、畢竟の義。とどのつまり正法を信ずることができない者。

 

講義

この章は釈尊の在世に誰が当体蓮華を証得したかとの問いに対して、本門の教主の化導を受けた者のみが当体蓮華を証得したのであると答える段で、当分、跨節、所対不同にしたがい、爾前迹門の菩薩は久遠下種を知らない故に無明を断ぜざる惑者であり、本門、寿量の真仏に下種を受けた者が解者であり、当体蓮華を証得した者である。そして従地涌出品第十五の「五十小劫、仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ」の文をもちいて、断惑・未断惑、解者・惑者の差別をくわえ、本門寿量の真仏の化導により、霊山一会の大衆も皆未断惑の菩薩が断惑の菩薩となり、惑者が解者となるごとく、皆ことごとく当体蓮華を証得することを示したところである。

 

迹門開三顕一の蓮華

 

法華経方便品第二に「如来は但だ一仏乗を以ての故に、衆生の為めに法を説きたまう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し。舎利弗よ。一切十方の諸仏の法も亦た是の如し。 舎利弗よ。過去の諸仏は無量無数の方便、種々の因縁、譬喩言辞を以て、衆生の為めに諸法を演説したまう。是の法は皆な一仏乗の為めの故なり」と。

また「一仏乗に於いて分別して三を説きたまう」と。さらに同品に「十方仏土の中には 唯だ一乗の法のみ有り 二無く亦た三無し」とある。すなわち、人生の目的は声聞、縁覚、菩薩の三乗ではない。一切衆生済度の願いも、一仏乗の大目的の中に統合されたのである。この一大統合こそ釈尊の出世の本懐にあたるのである。

釈尊は成道してより、四十二年にいたるまで方便権教を説き、声聞には、世相の無常の原因は苦・空・無常・無我であるとし、これらを観ぜしめ、見思の惑を断じて阿羅漢果を得さしめ、縁覚には、この世の不幸の原因である三界の迷いを十二因縁と説き、これらを観ぜしめ、根本の無明を打ち破るために、煩悩を断じ、灰身滅智を究極とし、菩薩には、一切衆生の済度を願わしめ、無上菩提を求めるために六波羅密を行じ、解脱を目的とし、歴劫修行を説き、成仏を説くにいたらなかったのである。すなわち法華経の開経たる無量義経説法品第二に「我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と説き、方便品にいたって「世尊は法久しくして後 要ず当に真実を説きたまうべし」「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」と宣言して、法華経の真髄を説くのである。以上が開三顕一の経文上の意味である。

この開三顕一を、さらに理として解すると、二意となる。すなわち一は略開三顕一であり、二は広開三顕一である。

略開三顕一とは法華経方便品の十如実相を指す。十如実相は開三顕一それ自体の文ではないが、その内容が三乗を開いて一仏乗を顕わすことに帰着する故である。これにより爾前経では、各別に説いてきた空諦、仮諦、中諦も円融相即していると説き、四十余年の爾前権教は、実教を説くための、前提として説かれた経教で、いまここに権を開いて実を示すにいたって、権を廃するのである。これすなわち開三顕一である。しかして方便品の十如実相の理こそ、一念三千の本理をほぼ説いた故に、略開三顕一というのである。開目抄に「法華経・方便品の略開三顕一の時・仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う」(0208:14)とある。

次に広略開三顕一とは法華経迹門の正宗分たる方便品長行から人記品にいたるまで、開三顕一を広く三周の声聞に説き、仏出世の一大事因縁を開示悟入せしめるために五つの譬喩をもって、三乗を開いて一切衆生の心中には必ず仏性があり、成仏できると説くことをいう。

しかし迹門で開三顕一を説いても、成仏できる実体が顕わされなければ机上の空論である。すなわち真の一念三千が説かれなければ真実の開三顕一とはなりえない。ここに真の一念三千、開三顕一を説く法門が必要不可欠となるのである。このことを二乗作仏事に「爾前迹門は異なれども二乗は見思を断じ菩薩は無明を断ずと申すことは一往之を許して再往は之を許さず、本門寿量品の意は爾前迹門に於て一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得きなり」(0593:17)とある。

ここにいたって法華経本門の必然性がでてくるのである。しかして本門の元意は寿量品の文底にあり、事の一念三千を説くことにある。それが開近顕遠なのである。

 

開近顕遠の当体蓮華

 

開近顕遠とは「近を開いて遠を顕わす」と読み、仏の始成正覚を開いて仏の本地を顕わすとの意である。すなわち、「近」とは生命はこの世限りとする思想を底流としての始成正覚である。すなわち釈尊はこの世で始めて成仏したとする説である。これに対して「遠」とは現世に成仏したとする始覚の説を打ち破り、仏の生命は永遠なりと顕わすのである。すなわち、廃迹立本したところの本門の当体蓮華のことである。

開近顕遠には日蓮大聖人のそれと天台大師のそれとがある。この両者の開近顕遠を図示すると次の通りである。

┌ 日蓮大聖人の略開近顕遠 ┬ 天台の略開近顕遠 ── 涌出品

|             └ 天台の広開近顕遠 ── 寿量品

└ 日蓮大聖人の広開近顕遠 ──―――――――――― 寿量文底

 

<天台大師配立の開近顕遠> 図示のごとく広略の両意がある。まずその略開近顕遠とは爾前迹門において、仏はインドに出現して今世に成仏したと説いている。しかるに涌出品では地涌の菩薩が出現したのを、一座の大衆は驚き、どこの国の、なんという仏の弟子で、なんという仏法を修行したのかとの質問を発したのに対し、仏は従地涌出品第十五で「我れは伽耶城 菩提樹の下に於いて坐して 最正覚を成ずることを得て 無上の法輪を転じ 爾して乃ち之れを教化して 初めて道心を発さしむ 今皆な不退に住せり 悉く当に成仏を得べし 我れは今実語を説く 汝等は一心に信ぜよ 我れは久遠従り来 是れ等の衆を教化せり」と説いて、近を開いて、ほぼ久遠を明かし、仏の生命の長遠の一端を説いている。これが略開近顕遠である。この略開近顕遠に一座の大衆は、疑念の問いを発するのである。この仏の答えが広開近顕遠となるのである。

すなわち広開近顕遠とは寿量品の「一切世間の天・人、及び阿修羅は、皆な今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たと謂えり。然るに善男子よ。我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と説き答えたのである。この答えをもって、一切世間の者が、釈尊はこの世で出家し修行して成仏した(始覚)と思っていたのに対し、実は五百塵点劫の昔に成道した(久成)と説くのが広開近顕遠である。

<日蓮大聖人の開近顕遠> 大聖人の開近顕遠は天台の広略両意の開近顕遠をともに略開近顕遠とし、あらたに広開近顕遠を立てて、真実の永遠の生命観を確立したのである。すなわち、大聖人の略開近顕遠とは天台が立てたところの、久遠本果第一番成道の釈尊の遠寿(五百塵点劫)をもってほぼ久遠を顕わしたのである。すなわち五百塵点劫という想像もつかない昔で、無始に近いのではあるが、依然として無始ではないのである。そこで大聖人は永遠の生命を顕わすために、広開近顕遠を説かれるのである。

では日蓮大聖人の広開近顕遠とは何かといえば、大聖人内証の寿量品文底に秘し沈めたるところの久遠元初の名字の遠本を指すのである。すなわち総勘文抄に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568:13)とあり、この文の釈迦如来とは日蓮大聖人の御内証の姿であり、五百塵点劫の当初とは久遠元初を指すのである。日寛上人は当流行事抄に「五百塵点は即ち久遠なり、当初の二字あに元初にあらずや」と答えられている。

日寛上人は天台の広開近顕遠・大聖人の略開近顕遠を「我実成仏の文の如き若し久遠本果の成道を我実成仏と説くと言わば即ち是れ文上顕本なり」として、天台未弘の法門・日蓮大聖人の広開近顕遠については「若し久遠元初の成道を我実成仏と説くと言わば即ち是れ文底顕本なり」と述べられている。日寛上人の文でわかるとおり、開近顕遠の真意は久遠元初を説き明かすことであり、仏の遠寿・生命とは無始無終なのである。ここに前人未到の生命観が打ち立てられたのである。

 

本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華

 

以上の迹門・本門・本門文底の比較相対について、日寛上人は当体義抄文段に「即ち是れ文底秘沈の妙法、我れ等が朝暮行ずるところの妙法なり。迹門は開三顕一の妙法・文の妙法・熟益の妙法なり、本門は開近顕遠の妙法・義の妙法・脱益の妙法なり。文底は本地難思の境智の妙法・意の妙法・下種の妙法なり。当に知るべし、迹門は華の如く、本門は蓮の如く・文底は種子の如し」と仰せられている。

この文を図示すると次の通りである。

迹門 ── 開三顕一の妙法 ── 文 ── 熟益の妙法 ──華

本門 ── 開近顕遠の妙法 ── 義 ── 脱益の妙法 ──蓮

文底 ── 本地難思の妙法 ── 意 ── 下種の妙法 ──種子

しかして、本講においては「本地難思・境智冥合・本有無作」についておのおのの意味を述べることにする。

① 本地難思

字義の通り解釈すれば、仏の本地は実に思い知り難しとなるが、この仏とはいうまでもなく、御本仏日蓮大聖人のことであり、御本仏の本地は、久遠元初である。すなわち、久遠元初の自受用報身如来が日蓮大聖人の本地である。その仏が末法においてそのまま日蓮大聖人として出現したのである。

文底秘沈抄に「若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知りぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」と。

② 境智冥合

境智の二法を総別の二義に分けて論ずると、まず御本尊それ自体が境智冥合の当体であられる。境とは御本尊の宇宙大の広さがそれで、智とは御本仏の甚深無量の智慧を指す。しかして境智和合した姿、御本尊の当体をいう。曾谷殿御返事に「夫れ法華経第一方便品に云く『諸仏の智慧は甚深無量なり』云云、釈に云く『境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う』と、抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」(1055:01)と。

次に御本尊とわれわれの関係が境智の二法となり、境とは日蓮大聖人御図顕の三大秘法の御本尊であり、智とは御本尊を信じ奉るわれわれ衆生である。すなわち、われら衆生が正境たる御本尊の仏界を、信心唱題によって涌現し、成仏の境涯にいたる姿が境智冥合した姿である。

文底秘沈抄に「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざれば、智行も亦随って正しからず。妙楽大師謂える有り。『仮使発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し。若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種とならず』等云云。故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし」と。

③ 本有無作

久遠元初以来、無作三身の当体として、もとのままに存在することをいう。すなわち御本仏は、はたらかず、くつろわず、もとのままあることをいう。

御義口伝下にいわく「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云」(0759:第廿三 久遠の事)と。

さらに本有無作こそ如来であり、かつまた一切衆生であることについて「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」(0753:第四如来如実知見三界之相無有生死の事)と述べ、仏即衆生即生命として、永遠の生命の当体を明らかにしている。

所詮、本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華とは南無妙法蓮華経のことである。この妙法の当体を、まずその本地を尋ね、次に境智の二法より論じ、そして本有無作と開いたわけである。

日寛上人は文段で、総勘文抄(三世諸仏総勘文教相廃立)の「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568:13)の文をもちいて、「地水火風空とは即ち妙法蓮華経なり云云、五百塵点劫の当初なり、故に本地と云う。知は是れ能証の智なり、わが身等は所証の境なり、故に境智と云う。我が身即ち地水火風空・妙法蓮華とは即ち是れ本有無作の当体の蓮華なり、是くの如く境智冥合して本有無作の当体の蓮華を証得する故に即座開悟と云うなり」と述べている。

次に日寛上人は文段でさらに末法の衆生の境智行位を立て、この境智行位は本因妙であって、しかも南無妙法蓮華経を唱えることにより、即座開悟し、本果妙となる、すなわち、われらの一念のうちに本因本果を共にそなえ、しかも、妙法の当体なのであると次のように述べられている。

「凡夫はすなわち名字即、是れ位妙なり。知の一字は能証の智、即ち是れ智妙なり、以信代慧の故に、亦是れ信心なり。信心是れ唱題の始めなる故に、始を挙げて後を摂す、故に行妙を兼ねるなり、故に知んぬ我が身は地水火風空の妙法蓮華経と知ろしめし南無妙法蓮華経と唱え給うなり。即ち是れ行妙なり。我が身等は是れ境妙なり、此の境智行位は即ち是れ本因妙なり。即座開悟は即ち是れ本果妙なり、是れ即ち種が家の本因本果なり。譬えば蓮の種子の中に花菓を具するが如きなり。当に知るべし、前は一念の心法に約して境妙を明かす。今は本有の五大に約して境妙を明かす、心に即してしかも色、色に即してしかも心、人法体一の本尊これを思え」と述べている。

以上、標題「本地難思等の文」について述べたが、所詮、信心を開き、自行化他にわたる修行によって、妙法の当体蓮華を証得する以外にない。

 

当分の断惑と跨節の断惑

 

まず仏法を論ずるにあたって、常に念頭におかねばならぬことは、教えの高低・浅深を判ずることである。よって教・機・時・国・教法流布の先後である五綱、五重の相対、一往・再往の両意、総別の二義等をよくよく熟慮して、さらに経釈論をも立てて読まねばならない。なかんずく日蓮大聖人の御門下であるなら、先に述べた基準に基づいて御文証を拝読しなければ、正しい深い読み方とはならない。さて本講における「当分の断惑と跨節の断惑」は、当分・跨節の両意から、爾前、迹門、本門、文底(独一本門)の菩薩の断惑について、権実・本迹・種脱等の相対の上から論じなければならないのである。

その前に当分と跨節についていえば、当分とは、字義の通り解すれば、そのまま、そのところでということ、跨節とは、そのところより跨(また)がってということで、さらに一重立ち入ることをいい、竹の譬えを仮りて説明することができる。すなわち当分は一節を示し、跨節は一節から次の節に跨がることを示すのである。よって一往・再往と似た意味合いである。

次に当分と跨節について三重秘伝抄に「一には爾前は当分、迹門は跨節なり、是れは権実相対にして第一の法門なり。二には迹門は当分、本門は跨節なり、是れは本迹相対にして第二の法門なり。三には脱益は当分、下種は跨節なり、是れは種脱相対にして第三の法門なり。此れ即ち宗祖出世の本意なり、故に日蓮が法門と云うなり」とある。

次に菩薩の断惑について述べると、爾前の菩薩、帯権の円の菩薩においては、見思・塵沙の二惑を断じたという経文はあるが、これは二乗を弾呵するために、菩薩の得道を許したのであるが、爾前権教では、成道できる根源の種(下種)を明かしていないために当分の菩薩の断惑なのであり、法華経迹門と相対(権実相対)して跨説の菩薩の断惑ではない。一方の迹門の菩薩の断惑は跨節の断惑である。すなわち、迹門の化城喩品で、三千塵点劫における大通智勝仏の下種を明かしている故に爾前の菩薩にくらべれば、跨節の断惑である。

しかし、本門に対すれば迹門の菩薩の断惑証理の義分が三千塵点劫にありといえども、未だに久遠下種を明かしていない故に、当分の断惑となる。

本門において久遠下種を明かす故に跨節の断惑となるのである。しかし本門においても再往これを論ずれば、本門文上は五百塵点劫本果第一番成道の下種を明かしたとはいえ、本門文底に相対(種脱相対)すれば、本門文上の久遠下種(久遠実成)は当分の断惑となり、文底下種(久遠元初)を明かした独一本門が跨節の断惑となるのである。

結論して、爾前、迹門、本門、独一本門の菩薩の断惑・証得は峻別され、独一本門の菩薩にこそ真実の断惑がある。

 

五十小劫……半日の如し

 

これは、従地涌出品第十五の「是の諸の菩薩摩訶薩は、地従り涌出して、諸の菩薩の種種の讃法を以て、仏を讃めたてまつる。是の如くする時の間に、五十小劫を逕たり。是の時、釈迦牟尼仏は黙然として坐したまえり(中略)黙然たること、五十小劫、仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ」の文である。

湧出品で大地より涌現した六万恒河沙の地涌の菩薩は、さまざまな賛辞をもって仏を賛嘆したのである。仏は黙燃と坐し、この間五十小劫という長い時間がたった。しかし、久遠を知らない爾前迹門の菩薩は、そのように長い期間のたったことを知らず、あたかも半日のことと思っているのみであったというのである。

したがって、爾前迹門の段階では無明を断じたと思われていた菩薩も、本門の段階からみるならば、まだ惑者の範疇であって、真の生命観を知らざる者なのである。

すなわち、迹門の菩薩は、久遠実成を知らず、いわんや永遠の生命を悟るわけがない。したがって仏と地涌の菩薩の関係を、虚空会の半日の間柄のように思い、地涌の菩薩を見て驚嘆し、いったいいかなる仏が教化し、いかなる修行を積んだ大菩薩であろうと疑い惑ったのである。さらに釈尊がこれらの菩薩は、ことごとく自分が久遠の昔より教化してきたのであると説いた(略開近顕遠)ので、ますます疑いを深めていき、いままでの考え方が大きくゆさぶられるのである(動執生疑)。

これに対し地涌の菩薩は、たった半日のことから、五十小劫もの長遠の仏と自分との関係を悟ったのである。わずか「半日の如し」と見えても、その事実のはらむ内容は、過去遠々劫に起因していると悟るのが解者である。

ものごとには近因と遠因がある。近因にのみ心を奪われていれば、これ「半日の如し」と思う惑者である。遠因すなわち本源の原因に心を留め、解決を見いだす人は半日を五十小劫と見る解者である。

末法今時においては、御本尊を信じ、永遠の生命観に立脚し、久遠以来の使命に目覚める人こそが、宿命転換の道を歩む解者といえるのである。

 

 

第十章(末法の衆生の証得を明かす)

本文

問う末法今時誰れ人か当体蓮華を証得せるや、答う当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多しと雖も仏の蓮華を証得せるの人之れ無し其の故は無得道の権教方便を信仰して法華の当体真実の蓮華を毀謗する故なり、仏説いて云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文、天台云く「此の経は徧く六道の仏種を開く若此の経を謗ぜば義・断ずるに当るなり」文、日蓮云く此の経は是れ十界の仏種に通ず若し此の経を謗ぜば義是れ十界の仏種を断ずるに当る是の人無間に於て決定して堕在す何ぞ出ずる期を得んや、然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり、

 

現代語訳

問う、末法今時において、誰人か、当体蓮華を証得したものがあるだろうか。

答う、当今の世相を見る時、正法を誹謗して無間地獄の当体を証得する人は数多いけれども、仏の蓮華を証得した人はまったくいない。その理由は、得道できない権教方便の教えを信じて、法華の当体である真実の蓮華を毀謗するからである。

釈尊は法華経譬喩品第三にこのように説いている。「もし、人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その者は、一切世間の仏の因種を断ってしまうであろう。あるいは、その者は、死んで後、無間地獄に堕ちるであろう」と。

天台大師は「此の法華経は、あまねく、地獄界から天上界までの六道の者の仏種を開くのである。もしも、この経を謗ずるならば、それは六道所具の仏種を断絶することになる」と解釈している。

これをうけて日蓮は、次のようにいいたい。すなわち、この法華経(御本尊)は、ただ六道だけではなく、広く十界の仏種に通ずるのである。もしも、この経(御本尊)を謗ずれば、それは十界の仏種をことごとく断絶することになる。したがって、その者は死んで後、必ず無間地獄に堕ちて、永久にそこから出られる機会は得られないのだと。

しかるに、日蓮の一門は正直に権教方便の邪法・邪師の邪義を捨てて、正直に正法・正師の正義を信ずるが故に当体蓮華を証得して、常寂光の当体の妙理を顕わすことは、本門寿量の教主の金言を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるからである。

 

語釈

大阿鼻地獄

無間地獄ともいう。八大地獄の一つ。阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。

 

天台云く「此の経は徧く六道の仏種を開く若此の経を謗せば義・断ずるに当るなり」文

「天台云く」となっているが、妙楽の法華文句記末の文。守護国家論に「天台の釈に云く『若し小善成仏を信ぜずんば則世間の仏種を断ずるなり』妙楽重ねて此の義を宣べて云く『此の経は遍く六道の仏種を開す若し此の経を謗ぜば義・断に当るなり』」(0051:04)とある通り、天台は法華文句巻五で譬喩品の文を釈し、また重ねて妙楽がこう補足している文である。

 

講義

この章は、末法今時において、誰が当体蓮華を証得したのかを明かす段である。末法万年尽未来際における成仏の直道は何か、絶対の幸福境涯を現出する、その当体蓮華を証得できる人は誰であるか。

大聖人は、三大秘法の御本尊を信受する者のみが、当体蓮華を証得して、常寂光の当体の妙理を顕わすのだと断言されている。

 

当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多し

 

この御文によれば、証得には、必ずしも仏界の証得だけではなく、地獄の証得、餓鬼の証得等もあることは明らかである。証得とは、生命自体の感得であり、生命に強く、はっきりとにじみ出るものである。地獄の証得ほど、悲惨な人生はない。なかんずく、大阿鼻地獄の当体を証得した人の苦悩は、筆舌に尽くせるものではない。

日蓮大聖人は、「当世の体を見るに」といわれて、当時の人々の多くが、苦悩に呻吟しているのを、心から嘆かれ、なんとしても救われようとなされた。三災七難が並び起こり、いかに当時の世相が、すさまじいばかりの地獄の絵巻図を展開したかは、「立正安国論講義」の第一段・第一章に示されている通りである。

しかして、現代の世相をみるに、人類は、まさしく無間地獄への道を歩んでいるといっても過言ではない。すなわち、現代において、大阿鼻地獄とは、まさに第三次世界大戦なりと断じたい。所詮、国土の安穏、世界の平和といっても、人間自身の胸中にある。この胸中を開いてみるに、地獄の本質があらわれてくるのが、多くの人々の実相なのである。

だが、これを断じて阻止し、この地上に、永遠の楽土を築くべく立ち上がったのが創価学会である。報恩抄にいわく「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:03)と。この「無間地獄の道をふさぎぬ」の一句を、今日実践しつつあるものは、絶対に、創価学会以外にないことを知るべきである。

いま、われらの証得は、仏界の証得であり、人間として、ありのままの凡夫として、最高価値の体現である。すなわち、最も偉大な、光輝に満ちた人生の大道を刻印しゆくことである。この誇りを忘れず、勇気をもち、希望に燃えて力強く、未来をめざし進んでいきたいものである。

 

然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり

 

日寛上人は、この文に三大秘法が説かれていると述べている。すなわち「当体蓮華を証得して」とは本門の本尊にあたり、「常寂光の当体の妙理を顕す」とは本門の戒壇にあたる。われわれが本門の本尊、本有無作の当体蓮華を証得し、我が身即本門寿量の当体の蓮華仏と顕われ、所住の処が戒壇、寂光当体の妙理と顕われることは、本門内証の寿量品、本因妙の教主の金言を信じて、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経と唱える故である。これはまさに本門の題目にあたるのである。

「正法」とは法本尊であり、「正師」とは人本尊であり、この人法一箇の御本尊を信ずる故に、当体蓮華を証得できるのである。

 

本門寿量の教主について

 

本門寿量の教主とは、すなわち内証の寿量品、本因妙の教主日蓮大聖人の御事である。

これに対して、本門寿量品の教主とは在世の本門寿量品であって、どうして末法の日蓮大聖人をもって本門寿量の教主となすのかという反論がある。

この問いは、教主といい、釈尊という真の意味を知らないところから発せられたものである。まさに、日蓮大聖人こそ、その内証は久遠元初自受用報身如来であり、即末法下種の主師親として後五百歳の世に出現し、初めて、事の一念三千の御本尊を弘宣せられたのである。これ本因妙の教主ではないか。儒教においては三皇五帝を教主とし、真言宗では善無畏三蔵を教主とし、天台宗においては、智者大師を教主と仰いでいる。いま、日蓮大聖人を教主と称するのは、あまりにも当然のことである。また、釈尊にはおよそ六種類の釈尊があることを知らなければならない。

一に蔵教の釈尊、二に通教の釈尊、三に別教の釈尊、四に法華経迹門の釈尊、五に本門文上の釈尊、六に本門文底の釈尊。

ここに「本門寿量の教主」と仰せられるのは、実に第六の本門文底の釈尊であり、即日蓮大聖人のことを示されているのである。釈尊というのは、必ずしもインド応誕の釈尊とは限らない。「如来」等と同じく「仏」という意味で使われる場合が多い。

教行証御書にいわく「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」(1282:03)と。

この文にも明らかなように、釈尊とは、決して固定した一人の人を指すのではなく仏の別名である。船守弥三郎許御書にいわく「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」(1446:04)と。五百塵点劫の当初とは久遠元初のことである。またここに「我等衆生」と仰せられているのは、総じては一切衆生、別しては無作三身如来の日蓮大聖人である。ここに久遠元初すなわち本因妙の教主釈尊とは、末法に凡夫僧としてご出現された日蓮大聖人であることは歴然としている。

また、次にあげる御文によっても明らかである。

報恩抄にいわく「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328:15)と。

観心本尊抄にいわく「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)と。

また同抄にいわく「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏……」(0247:16)と。

日女御前御返事にいわく「されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ……」(1243:09)と。

以上の四文によってもわかるように、釈尊は脇士に連なっているのが、御本尊の厳然たる相貌である。事実、大聖人の顕された御本尊は、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」としたためられており、釈迦・多宝等は脇士となっているのである。

また、本尊問答抄の「此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず」(0365:14)との御文を思い合わせるならば、本抄の「本門寿量品の教主釈尊」とは、末法の南無妙法蓮華経所持の仏、すなわち日蓮大聖人の事なのである。末法の御本仏こそ、久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人である。

この本仏論に対して「蓮祖は本化上行菩薩の再誕である」との浅義を唱えているのが、一般の日蓮宗である。たしかに本化上行の再誕説には一理ある。しかし、それは外用浅近の面からみたのであって、これのみに執着して、内証深秘の面からみることを忘れるならば、浅識もはなはだしいといわなければならない。

外用、内証は、言葉をかえていえば、一往、再往、当分、跨節といえよう。これも所対によって不同である。たとえば、本因妙抄に「予が外用の師・伝教大師」(0870:01)と述べられているのは、一往、迹化である伝教大師は、大聖人の外用の師であるが、再往、大聖人の内証は迹化とは比較にもならない本化地湧の上行菩薩である。しかしながら、これはあくまでも、文上の上で外用、内証を論じたのである。文底に立つならば、本化地湧の再誕というのも外用であって、その内証は久遠元初の本仏であられる。
百六箇抄に「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」(0854:03)と。
この御文でもわかるように、次の三段になっている。
本地──自受用報身
垂迹──上行菩薩
再誕──日蓮
久遠元初の自受用身が、釈尊の説法を助けるために迹を垂れて、法華経の説法の時に上行菩薩として出現した。この垂迹、上行菩薩の本地は、久遠元初の自受用報身である。故に、日蓮大聖人の末法出現を、垂迹上行という中間の立場からみれば、外用浅近にとどまって、真のお姿を拝することはできないのである。
大聖人のご出現の意義を知るためには、法華経説法会座に上行菩薩にまでさかのぼっていくことは当然であるが、さらにその奥、すなわち上行菩薩の本地を究めることが大事である。その本地にまでさかのぼり、そして本地から立ち返って、末法出現の日蓮大聖人を拝するとき、御本尊の尊容をまのあたりに仰ぐことができる。
本因妙抄にいわく「釈尊.久遠名字即の位の御身の修行を末法今時.日蓮が名字即の身に移せり」(0877:06)と。また百六箇抄にいわく「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」(0863:不渡余行法華経の本迹)と。

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