弥源太殿御返事

弥源太殿御返事

 文永11年(ʼ74)2月21日 53歳 北条弥源太

第一章 (値難の必然性を説く)

 本文

そもそも、日蓮は日本第一の僻人なり。その故は、皆人の父母よりもたかく主君よりも大事におもわれ候ところの阿弥陀仏・大日如来・薬師等を御信用ある故に三災七難先代にこえ天変地夭等昔にもすぎたりと申す故に、結句は今生には身をほろぼし国をそこない後生には大阿鼻地獄に堕ち給うべしと一日片時もたゆむことなくよばわりし故に、かかる大難にあえり。譬えば、夏の虫の火にとびくばり、ねずみがねこのまえに出でたるがごとし。これあに我が身を知って用心せざる畜生のごとくにあらずや。身命を失うこと、しかしながら心より出ずれば僻人なり。
ただし、石は玉をふくむ故にくだかれ、鹿は皮肉の故に殺され、魚はあじわいある故にとらる、すいは羽ある故にやぶらる、女人はみめかたちよければ必ずねたまる、この意なるべきか。日蓮は法華経の行者なる故に、三類の強敵あって種々の大難にあえり。しかるに、かかる者の弟子檀那とならせ給うこと不思議なり。定めて子細候らん。相構えて、能く能く御信心候いて、霊山浄土へまいり給え。

現代語訳

日蓮は日本第一の僻人である。そのゆえは、人が皆父母よりも高く、主君よりも大事に思っているところの阿弥陀仏、大日如来、薬師如来を固く信ずるゆえに、三災七難は先代に超え、天変地夭は昔にも過ぎるのだといい、そしてついには今生には身を滅ぼし、国を失い、後生は大阿鼻地獄に堕ちるのであると、一日片時もたゆむことなく叫び続けてきたゆえに、このような大難にあった。

譬えば、夏の虫が火の中に飛び込み、鼠が猫の前に出たようなものである。これはちょうど、わが身のほどを知らずに用心しない畜生のようなものではないか。身命を失うことが、そのままみずからの心から出ているので僻人である。

ただし、石はその中に玉を含むゆえに砕かれる。鹿は皮や肉のゆえに殺される。魚は美味のゆえに捕えられる。翡翠は美しい羽があるゆえに殺される。また、女人は容姿が美しければかならずねたまれる。これらと同じことであろうか。

日蓮は法華経の行者であるゆえに、三類の強敵があって、種々の大難にあったのである。しかるに、このようなものの弟子檀那となられたことは不思議である。きっと子細があるであろう。よくよく信心を強盛にして霊山浄土にまいりなさい。

語釈

僻人

ひねくれ者。変わり者。悪人。

阿弥陀仏

梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。

大日如来

大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。

薬師

薬師とは梵語(Bhaiṣajya)薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。

三災・七難

三災に「大の三災」と「小の三災」がある。「大の三災」は火災、水災、風災で、「小の三災」は穀貴(五穀の値段が高い、すなわち物価騰貴)、兵革(戦争)、疫病(伝染病等がはやること。また、精神分裂、思想の混乱なども疫病の一つといえよう)。七難は経文により多少の差異はあるが、いま薬師経の七難をあげれば、人衆疾疫の難(伝染病等がはやり、多くの人が死ぬ難)、他国侵逼の難(他国から侵略される難)、自界叛逆の難(仲間同士の争い、同士打ちをいう)、星宿変怪の難(天体の運行に異変があったり、彗星があらわれたりする)、日月薄蝕の難(日蝕月蝕をいう)、非時風雨の難(季節はずれの暴風や強雨)、過時不雨の難(雨期にはいっても雨が降らない天候の異変)をいう。この三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにあるのである。

天変・地夭

天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等と地上に起こる異変。風水害・地震等。

後生

未来世。後の世のこと。また未来世に生を受けること。三世のひとつ。

大阿鼻地獄

阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。

畜生

飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241:08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。

三種の強敵

法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。

霊山浄土

釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

講義

本抄は、在家信徒の一人であった北条弥源太が大聖人に太刀を御供養したのに対し、返礼のためにしたためられたものである。月日のみで年号は記されていないが、文永11年(1274)大聖53の時の御述作とされている。

内容は、災難の根源である邪義を責めているために難にあっている御自身を、一往は日本第一の僻人と呼ばれながら、しかし再往は法華経の行者であるがゆえに大難にあうのであると明かされ、その弟子となり、太刀まで供養した弥源太に対しては、必ずや成仏という妙法の大功徳があることを教え信心を励まされている。

また、末尾においては、大聖人が安房のお生まれであることに触れられ、その仏法上の深い因縁をほのめかされている。

文永11年(1274)の2月21日といえば、大聖人は、まだ流罪地の佐渡・一の谷におられた時である。種種御振舞御書によると、赦免状が幕府から出たのが2月14日、それが佐渡に着いたのは3月8日であるから、正式にはまだ赦免のことをご存知なかったはずである。

しかし、弥源太は北条氏の一族であったから(幕府の要人であり、11通御書の対告衆のひとり)邪免状が出た2月14日以前の時点で、幕府内に大聖人赦免の動きが決定的になった事を知り、あるいは、それを暗にお知らせしたかもしれない。

しかし、文面で知られるところでは、御祈祷のために太刀、刀を大聖人に御供養したということである。この御祈祷の内容としては、いよいよ蒙古襲来が切迫したため、幕府要人の一人として、国を守りたい一心で、大聖人にお願い申し上げたということも考えられる。

それにしては、このお手紙の中で、このことに触れられていなのは、北条弥源太に大聖人の弟子としての強い自覚と、成仏という妙法の無上の功力への確信を持たせることを主眼にされたのであろう。ただ最後に、大聖人が、天照大神ゆかりの安房に生まれたことを述べ、さらに「能く能く諸天にいのり申すべし、信心にあかなくして所願を成就給へ」と結ばれているところに、そうした弥源太の祈りに対するお答えが秘められているようにも思われる。

まず本章では、世間の常識からみれば僻人のようであるけれども、大聖人は法華経の行者ゆえに、三類の強敵のために種々の大難にあっていることを述べられ、その弟子檀那となったのは不思議な宿縁があることを示唆されている。

北条弥源太、大聖人が文応元年(1260)、立正安国論をもって、北条時頼を諌暁されたころから大聖人に深い関心と敬意を寄せていたといわれている。だが、明確に大聖人に帰依したのがいつであったかは、はっきりしない。本抄が文永11年の御述作であるとすれば、大聖人の流罪中も、北条一族の名を連ねながら信心を貫いたわけであるから、このように大聖人との宿縁を「不思議なり、定めて子細候らん」といわれたおことばがうなずける。

冒頭に「日蓮は日本第一の僻人なり」と仰せられているのは、世間一般の人々からいった場合であり、なかんずく幕府の人々の共通の思いであったであろう。

国中の宗教をさして災難の根源であるといい、後生には無間地獄に堕ちると弾劾しつづけてこられたのであるから、迫害を受けるのは当然である。世間の人々からみれば、みずから災いを招いている僻人としか映らなかったに違いない。

多少なりとも大聖人に心を寄せている人でも、あのように激しく他宗の悪口をいわなければ、佐渡流罪にもあわないですんだであろうに、とうわさしたことは十分想像される。大聖人は、そうした常識的な考え方の人々の中に身を置いている北条弥源太の気持ちを察して、このような書き方をされたのであろう。

だが、われとわが身に災いを招くのは、僻人、愚人の場合とは限らない。他にない優れたものを持っているものは、そのために身を破られるのである。そして、大聖人がいおうとされている真意が、この法華経の行者ゆえの難にあっているのだということを示すにあったことはもちろんである。

いわゆる末法において法華経を修行する行者に、三類の強敵が迫害を加えることは、法華経勧持品に記されているところである。この時大聖人がうけられていた佐渡流罪は、極楽寺良観、建長寺道隆等が幕府権力を唆して起きたものであり、それはまさしく第三類、僭聖増上慢の働きによるものであった。

ひるがえっていえば、このように三類の強敵が大聖人を現実に苦しめている事実こそ、日蓮大聖人が未曾有の法華経の行者であることを立証するものだったのである。

したがって、世間の常識からいえば、大聖人は甚だしい僻人ということになるが、仏法の鏡に照らせば、偉大な法華経の行者であるがゆえに、そうした大聖人の弟子檀那であることに無上の誇りをもっていきなさいと、大確信の指導をされているのである。

 

 

第二章 (供養を讃え信心を勧める)

 本文

   又御祈禱のために御太刀同く刀あはせて二つ送り給はて候、此の太刀はしかるべきかぢ・作り候かと覚へ候、あまくに或は鬼きり或はやつるぎ・異朝には・かむしやうばくやが剣に争でか・ことなるべきや・此れを法華経にま

いらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし、法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも・たのみ給うべし、けはしき山・あしき道・つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし日蓮さきに立ち候はば御迎にまいり候事もやあらんずらん、又さきに行かせ給はば日蓮必ず閻魔法王にも委く申すべく候、此の事少しもそら事あるべからず、日蓮・法華経の文の如くならば通塞の案内者なり、只一心に信心おはして霊山を期し給へ、ぜにと云うものは用に・したがつて変ずるなり、法華経も亦復是くの如し、やみには燈となり・渡りには舟となり・或は水ともなり或は火ともなり給うなり、若し然らば法華経は現世安穏・後生善処の御経なり。

現代語訳

  また御祈祷のために太刀と合わせて二振をお送りいただきました。この太刀は相当な刀鍛冶が作ったかと思われる。日本の天国あるいは鬼切あるいは八剣、外国の干将・莫耶の剣とどうして異なるであろう。これを法華経に供養されたのである。あなたのお持ちの時は悪の刀であったが、今は仏前にきたのであるから、善の刀である。譬えば鬼が道心を発したようなものである。まことに不思議なことである。後生この刀を杖と頼みなさい。

 法華経は三世の諸仏の発心の杖である。ただし日蓮を杖、柱と頼まれるがよい。険しい山、悪い道では杖をつくならば倒れない。ことに手を引かれるならば転ぶことはない。南無妙法蓮華経は死出の山では杖・柱となられ、釈迦仏、多宝仏、上行等の四菩薩はあなたの手をとられるであろう。日蓮が先に霊山にたつならば、お迎えにいくこともあるであろう。また、あなたが先にお行きになるなら、日蓮はかならず閻魔法王にもくわしく申しあげよう。このことは少しも虚偽の事ではない。日蓮は法華経の文のとおりであるなら、通塞の案内者である。ただ一心に信心を持たれて霊山を期しなさい。銭というものは用いようになって変わる。法華経もまた同じである。闇には燈となり、渡りには舟となり、あるいは水ともなるのである。それゆえ、法華経は「現世安穏後生善処」の御経である。

 

語釈

 太刀

 長刀の総称。

 

あまくに

 日本の刀鍛冶の祖。飛鳥時代・文武天皇の時、大和の国に住したといわれる。平家伝作小烏丸は彼の作といわれ、後に彼の作を天国とよぶようになった。

 

鬼きり

 多田満仲が戸隠山の鬼を切ったと伝えられる源氏重代の名刀。

 

やつるぎ

 名刀、草薙の剣。

 

かむしやうばくや

 「干将」「莫耶」とも、中国における名剣、もしくはその剣の製作者である夫婦の名である。剣については干将が陽剣(雄剣)、莫耶が陰剣(雌剣)である。また、干将は亀裂模様(龜文)、莫耶は水波模様(漫理)が剣に浮かんでいたとされる。なお、この剣は作成経緯から、鋳剣である。人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり欧冶子と同門であったとされる。この夫婦および子と、この剣の逸話については『呉越春秋』の闔閭内伝や『捜神記』などに登場しているが、後述するように差異が大きい。20世紀には魯迅がこの逸話を基に『眉間尺』を著わしている。なお、莫耶、莫邪の表記については、『呉越春秋』が莫耶、『捜神記』が莫邪となっているが、日本の作品では、いずれも莫耶と表記する。

 

三世の諸仏

 過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。

 

釈迦仏

 釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。

 

多宝仏

 東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。

 

上行等の四菩薩

 涌出品に出てくる上行菩薩を筆頭とする無辺行・浄行・安立行の四菩薩のこと。

 

閻魔法王

 閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。

 

霊山

 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

 

現世安穏・後生善処

 法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信ずることにより、現世には幸福な生活が築かれ、後世にもまた恵まれた処に生ずると説かれている。

 

講義

  北条弥源太が、なにかの祈祷のために、大聖人に太刀と刀を御供養したことにつて、妙法の功力と大聖人の立場を述べて、信心を教えられている。前述したように、弥源太が何を祈ったかは、文面に明らかでないが、そのために太刀を御供養したこと、もし文永11年(12742月とすると、その時代的背景から考えて、迫りくる蒙古襲来に備えての、敵国調伏あるいは武運長久の祈りであったかもしれない。

 まず大聖人は、この太刀が一流の鍛冶によって作られた立派な太刀であることを讃えられ、そのような貴い刀を供養した信心を讃えられている。刀は武士にとって命であり、なかんずく名のある刀鍛冶の作った刀は、家宝として代々伝えられたものであった。大聖人は、そうした立派な太刀、刀を大聖人に御供養した弥源太の潔い信心を見られたのである。

 次に、そのような弥源太の信心の御供養によって、刀自体、悪の刀から善の刀へと変わり、弥源太の後生を助ける杖となるであろうと述べられている。

 そしてさらに「法華経は三世の諸仏発心のつえにて候ぞかし」と、法華経こそ死後の安穏を助け守ってくれる、もっとも力強い杖、柱であることを強調され、その法華経の行者である大聖人を頼りとすべきことを勧められている。

 

殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし

 

 いうまでもなく刀は殺生、なかんずく殺人の道具である。したがって、本来ならば、これを持ち、使う人を悪道に引き込む悪鬼である。

 しかるに、法華経への信心によって、真実の法華経の行者である日蓮大聖人に御供養されたことによって、この刀は、その持ち主である弥源太を、死後、悪道に堕ちないように支える善の刀となりえたのであるとの仰せである。

 それが、あたかも悪鬼が道心を起こして妙法を信ずる人を助ける善鬼となったようなものだと譬喩的に「鬼の道心をおこしたらんが如し」といわれたのである。

 この背景には、悪を転じて善となす、いわゆる変毒為薬の、妙法の功力の原理がある。と同時に、それはひとえに、持ち主である弥源太の法華経への純真な信心によるものであることを忘れてはならない。

 もとより、殺人は恐るべき罪である。しかし、当時の社会にあって、武士として生きてゆく人々にとって、それから逃れるすべはなかった。仏法は、殺生、殺人をあくまで罪としながらも、そうした罪のなかに生きざるをえない人々をも救う大慈悲の教えである。

 この段を拝して、仏法は殺人を認めるかというならば、それは大なる誤りである。そうした時代の、武士という身に生まれた人々にとって、これは避けがたい運命だったのであり、もし、これを絶対悪として排撃するなら、それこそ無慈悲となろう。

 さらにいえば、人間は生きていくうえで、さまざまな悪をなさざるをえない。他の生き物の生命の犠牲なくして、生命は維持できないからである。もし、厳しく罪を挙げ、これを弾劾するなら、だれびとも救われないことになってしまう。

 仏法は、そうした避けがたいあらゆる悪に対して、法華経の信による変毒為薬を教え、救いの道を開いたのである。

 

法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも.たのみ給うべし

 

 法華経すなわち南無妙法蓮華経が過去・現在・未来のあらゆる仏にとって「発心のつえ」であるとの仰せである。「発心のつえ」であるとは、南無妙法蓮華経を根本に信を起こし、不退の境地に入り、仏道を遂げるということである。この御文は、したがって南無妙法蓮華経こそ、三世にわたって仏法のもっとも究極であることを断言されているのである。

 さらに「但し日蓮をつえはしらとも.たのみ給うべし」とは、日蓮大聖人こそ、この南無妙法蓮華経の法と一体である久遠元初の自受用報身如来であるとの意である。すなわち、人法一箇の御本仏であることを宣言された御文と拝することができる。

 このことは、以下「南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏上行等の四菩薩は手を取り給うべし」の御文で、南無妙法蓮華経が本仏であり、釈迦・多宝はその迹であり眷属であることを示されていることによって、さらに明らかである。また「日蓮・法華経の文の如くならば通塞の案内者なり」は、人の立場の御教示である。

 このように、本章では日蓮大聖人が人法一箇の御本仏であり、もっとも究極最高の仏であるがゆえに、大聖人の教えに帰依するならば、死後未来の安穏は、絶対に得られることを具体的な表現をもって教えられている。

 

 

 

第三章 (安房御誕生の果報を明かす)

 本文

其上日蓮は日本国の中には安州のものなり総じて彼国は天照太神のすみそめ給いし国なりといへりかしこにして日本国をさぐり出し給ふあはの国御くりやなり・しかも此国の一切衆生の慈父悲母なりかかるいみじき国なれば定んで故ぞ候らんいかなる宿習にてや候らん日蓮又彼国に生れたり第一の果報なるなり此消息の詮にあらざれば委しくはかかず但おしはかり給うべし。
 能く能く諸天にいのり申べし、信心にあかなくして所願を成就し給へ女房にも・よく・よく・かたらせ給へ、恐恐謹言。

       二月二十一日                              日蓮花押

     弥源太殿御返事

 

現代語訳

そのうえ、日蓮は日本国の中には安州の者である。一体かの国は天照大神がはじめて住まわれた国であるといわれている。かの所にあって日本の国を採り出されたのである。そこが安房国御厨である。しかも天照大神は、この国の一切衆生の慈父、悲母である。このような尊い国であるから、きっと深いいわれがあるのであろう。どのような宿習であろうか、日蓮もまたかの国に生まれたのである。これは第一の果報である。このことは手紙の主意ではないのでくわしくは書かない。ただ推量していただきたい。

よくよく諸天に祈りなさい。信心に怠りないようにして、所願を成就されるがよい。女房にもよくよくお伝えください。恐恐謹言。

二月二十一日                             日蓮花押

 

語釈

安州

現在の千葉県南部。安房国の別呼。

 

天照太神

日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。

 

あはの国

千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222216日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。

 

御くりや

神の台の意で、神饌を調進する場所・領地のこと。本来は神饌を用意するための屋舎を意味する。御園ともいう。

 

宿習

宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。

 

果報

①果は過去世の業因による結果。報はその業因に応じた報い。②摩訶止観の正説分の第八章。この章から不説のままで終わっているが、大意章の五略によると、止観の結果として証得される果報が略説されている。

 

弥源太

北条弥源太のこと。北条氏一門であり、幕府の要人・大聖人一門の弟子でもある。御書には大聖人に太刀・刀を供養したとある。

 

講義

日蓮大聖人が安房の国にお生まれなさったことに、天照大神との関係から、深いゆかりがあることを述べられている。

安房には、源頼朝が伊勢神宮のために寄進した日本最大の領地があり、天照大神のゆかりの地として、大聖人も各所で述べられている。

天照大神は日本民族の祖先神ともいうべき神で、したがって、天照大神にもっともゆかりの深い安房は、伝統的・精神的な意味で、日本の中心であるとの誇りを大聖人がもっておられたことが拝される。

新尼御前御返事には次のように述べられている。

「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり、昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりしかば、太神・瞋りおぼせし時・源右将軍と申せし人・御起請文をもつて・あをかの小大夫に仰せつけて頂戴し・伊勢の外宮にしのび・をさめしかば太神の御心に叶はせ給いけるかの故に・日本を手ににぎる将軍となり給いぬ、此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、 されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず 安房の国東条の郡にすませ給うか、」(0906:09

大聖人が末法流布の大法をはじめて世に宣言するために、留学地の京・近畿から、わざわざ安房へ帰られたのも、一つには故郷の人への報恩のお心と拝せるが、また、より根本的には、この宗教上の日本国の中心であるとのお考えからであったと推察される。この点については、御自身の出世の本懐を明らかにされた「聖人御難事」でも、はじめて法門を申し出した地を強調して述べられているところから、より深く拝察されるのである。

本抄のこの御文は、それらと共通しているが、また違った角度でいわれている。すなわち、ここでは大聖人が、この安房の国に生まれられたことを、深い意義があり「第一の果報」であると仰せられているのである。

もとより本抄では、これは「此消息詮にあらざれば」と、詳しい論述を避けておられる。「但おしはかり給うべし」との御言葉にしたがって推測するならば、日蓮大聖人が、宗教上、重大な使命と資格をもって出現された方であり、末法一切衆生を救う御本仏であるということである。さらにこの時の背景のなかでいえば、日本を未曾有の国難から救うべき使命をもって生まれた、とのお心も含められるといえよう。

最後に、どこまでも信心に励み、妻ともども心を合わせて祈ることによって、所願を成就するよう激励して結ばれている。

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