妙法曼陀羅供養事

妙法曼陀羅供養事

文永10年(ʼ73) 52歳 (千日尼)

  1. 第一章(妙法漫荼羅の力用を教える)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世の諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり
  2. 第二章(大曼荼羅末弘の所以を説く)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は、人の煩悩と罪業の病軽かりしかば、智者と申す医師たちつづき出でさせ給いて、病に随って薬をあたえ給いき
  3. 第三章(末法衆生の謗法を破折する)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 日本国一同に一闡提大謗法の者となる。又物に譬うれば父母を殺す罪、謀叛ををこせる科、出仏身血等の重罪等にも過ぎたり
      2. 我が朝の一切衆生は皆我が身に科なしと思ひ、必ず往生すべし、成仏をとげんと思へり
      3. 女人よりも男子の科はをもく、男子よりも尼のとがは重し。尼よりも僧の科はをもく、破戒の僧よりも……智者の科はをもかるべし
  4. 第四章(大良薬の妙薬を明示する)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 大日如来の智拳の印並びに……薬師如来の十二大願、衆病悉除の誓も此の薬には及ぶべからず。つやつや病消滅せざる上、いよいよ倍増すべし
  5. 第五章(妙法の偉大な功力を明かす)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 此の良薬を持たん女人等をば、此の四人の大菩薩、前後左右に立そひて、此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ

第一章(妙法漫荼羅の力用を教える)

 本文

妙法蓮華経の御本尊、供養候いぬ。
 この曼陀羅は、文字は五字七字にて候えども、三世の諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月のごとし、地には須弥山のごとし。生死海の船なり、成仏得道の導師なり。

  

現代語訳

妙法蓮華経の御本尊を供養いたしました。この曼陀羅は、文字は五字七字であるけれども、三世諸仏の御師であり、一切の女人の成仏を約束する印文である。冥途ではともしびとなり、死出の山では良馬となる。天にあっては、日月のようであり、地にあっては須弥山のようなものである。生死の苦海を渡る船である。成仏得道に導く師である。

 

語釈

御本尊

本尊とは根本として尊敬する対象のこと。

 

曼陀羅

梵語マンダラ(Maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。

 

冥途

冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。

 

死出の山

冥途にある山。高く険しい山で獄卒に追われて登るが剣のごとくとがった岩でできており、獄卒に鉄棒で打たれるという。

 

須弥山

古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼・蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水の海がある。この鹹水の中に閻浮提などの四大州が浮かんでいるとする。

 

生死海

生死の苦しみのこと。六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。

 

成仏得道

成仏と得道。成仏は仏になること。仏界を開くこと。成道・作仏・成正覚と同意。得道は仏道を会得すること。仏果・涅槃に趣く道を得ること。いずれも仏法の悟りの境涯を得る意で、並べて用いることがある。

 

導師

衆生を正しく仏道に導く者のこと。

 

講義

本抄の御述作は「御書全集」で本抄は、文永10年(1973)於佐渡・52歳御作・与千日尼となってはいるが、いつ著されたか、また誰に与えられたかは明確ではない。女性に与えられていることは確かであるが、千日尼、日妙聖人、妙法尼等、さまざまな説がある。しかしここでは大方の説に従い、文永10年(1273)の作で、千日尼に与えられたものとしておく。

これは妙法蓮華経の御本尊の供養にともない、御本尊の意義についてしたためられたお手紙である。そこから本抄の名があるのであるが、大聖人が佐渡において御本尊を図顕されてから、まだ日の浅いころであろうと考えられる。

更に御本尊の依処である法華経が、末法の衆生の病を癒やす唯一の経であることを教えられている。そしてその妙法を末法に弘める使命を帯びているのは上行等の地涌の菩薩であるといわれ、御本尊を持つ人は、地涌の菩薩と共にあると締めくくられている。

 

此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世の諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり

 

此の曼陀羅は、文字は五字あるいは七字である。しかし、この文字が法華経の肝心であり、そのなかに一念三千の原理を含むのである。三世の諸仏もこの南無妙法蓮華経を悟って仏になることができたのであり、その意味で「御師」である。また、女人成仏は法華経にのみ説かれた法門であり、「女人の成仏の印文」であることも疑いない。

森羅万象の根源の法については、釈尊や天台大師もその存在は示唆しているが、それ自体を説くことはなかった。法華経においても四句の要法等として説かれ、天台大師も一念三千として説明はしたが、内鑑冷然・外適時宜で、それ自体を明かすことはなかったのである。その根源の法が南無妙法蓮華経であることを明かしたのは大聖人であり、建長5年(1253)、その題目を建立した後、文永8年(127110月頃から御本尊として顕されたのである。その故に「仏滅後二千二百二十余年の間、の内には未だひろまらせ給はず」といわれているのである。

五字七字が三世の諸仏の師であるというのは簡単すぎるように思える。しかし逆にいえば、根本の原理だからこそ、五字七字というように簡潔だともいえるのである。そして、簡潔であるがゆえに、万人が実践し、成仏することが可能なのである。

この南無妙法蓮華経を一幅の御本尊と顕されたことによって、仏法は一切衆生のものとなったともいえる。難解な法門に迂遠きわまる修行で迫るというのでは、大衆は仏法から遠ざかるばかりであろう。五字七字のなかに一切をおさめ、それを御本尊と顕して、これを対境とする唱題によって冥合をはかっていく大聖人の仏法こそ真実の民衆仏法といえよう。

 

 

第二章(大曼荼羅末弘の所以を説く)

 本文

   此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず、病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし重病には仙薬をあたうべし、仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は人の煩悩と罪業の病軽かりしかば・智者と申す医師たち・つづき出でさせ給いて病に随つて薬をあたえ給いき、所謂倶舎宗・成実宗・律宗.法相宗・三論宗.真言宗・華厳宗.天台宗.浄土宗.禅宗等なり、彼の宗宗に一一に薬あり、所謂.華厳の六相十玄・三論の八不中道.法相の唯識観・律宗の二百五十戒・浄土宗の弥陀の名号・禅宗の見性成仏.真言宗の五輪観・天台宗の一念三千等なり。

 

現代語訳

  この大曼陀羅は、仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内にはいまだ広まっていない。

病気によって応分の薬がある。軽病には凡薬をほどこし、重病には仙薬を投与すべきである。仏滅後から今日までの二千二百二十余年の間は、人の煩悩と罪業との病が軽かったので、智者という医師達が続いて出現されて病に応じて薬を与えられたのである。

いわゆる倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・天台宗・浄土宗・禅宗等である。これらの宗々にそれぞれ薬がある。いわゆる華厳宗の六相十玄、三論宗の八不中道、法相宗の唯識観、律宗の二百五十戒、浄土宗の阿弥陀仏の名号、禅宗の見性成仏、真言宗の五輪観、天台宗の一念三千等である。

 

語釈

 仏滅後二千二百二十余年の間

釈尊の入滅から、日蓮大聖人が本抄を御述作なされた文永10年(1273)の間をいう。正確には、仏滅後2,222年である。すなわち文永十年は大集経に説かれる第五の五百歳にあたり、すでに「我が法中に於て、闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」の悪世末法に入っていることを意味する。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

煩悩

貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。

 

罪業

罪悪の業。苦しみを招く因となる悪の行為。福業・善業・浄業に対する語。涅槃経巻二十に「一切衆生の所作の罪業に凡そ二種あり、一つには軽、二つには重なり、若し心口の作は則ち名づけて軽と為し、身口意の作は則ち名づけて重と為す」とある。罪業の中でも謗法は最も重い罪業で、無間地獄に堕ちる因となる。

 

智者

物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。

 

倶舎宗

仏滅後九百年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。

 

成実宗

四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。

 

律宗

戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。

 

法相宗

南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依として、諸法の性相を分別し体系化することを目的とする大乗の学問宗。唯識宗・応理円実宗・有相宗などともいい、開祖の名をとって慈恩宗ともいう。インドの弥勒、無著、世親らの唯識哲学に淵源をもつ。唐代の玄奘が成唯識論をインドから持ち帰って翻訳し、弟子の窺基が法相唯識の義を宣揚してから盛んになった。日本では、白雉4年(0563)に道昭が入唐して玄奘の教えを受け、帰国して後法興寺に住して弘めた。以後、元興寺・興福寺の両寺を中心に法相の学問研究が進められた。

 

三論宗

竜樹の中論、十二門論と提婆菩薩の百論の三つの論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵法師によって大成された。空の立場から仏教を解釈し、八不をもって一切の偏見を打破することが中道の真理を顕す道であるという八不中道を唱えた。日本へは推古天皇33年(0625)に高句麗の慧灌によって伝えられた。現在は東大寺に伝わるのみである。

 

真言宗

三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。

 

華厳宗

華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。

 

天台宗

法華経を依経として、中国・隋代に天台大師智顗が開いた宗派。法華宗・天台法華宗・天台法華円宗ともいう。教相には五時八教を立て、観心には円融の三諦を唱え、一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期すことを説く。中国では、北斉代の慧文が、竜樹の大智度論と中論によって一心三観の理を説き、これが慧思を経て天台に伝えられた。天台は南三北七の教義を破し、法華文句、法華玄義、摩訶止観の法華三大部を著し天台宗の教義を大成した。天台の没後、章安から智威、慧威、玄朗、妙楽と伝承され、妙楽は法華三大部の注釈書を著して天台の宗義を宣揚した。日本天台宗の開祖・伝教大師最澄は、入唐して妙楽の弟子の道邃と行満から相承を受け、延暦24年(0805)に帰国後、比叡山延暦寺に日本天台宗を開創した。

 

浄土宗

阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

華厳の六相十玄

六相も十玄もともに華厳宗の立てる法界観に関する法門。六相、すべての存在がそなえているという6種の姿のことで,総相,別相,同相,異相,成相,壊相をいう。華厳宗ではすべての存在がこれらをそなえ,部分的にも全体的にも完全に調和し合っている (六相円融という。十玄、奥深く微妙な縁起のことで、諸事象が相互に密接に関連する相を10の面から説明したもの。智儼の創唱と法蔵の配列がある。①智儼の説、同時具足相應門・一多相容不同門・諸法相即自在門・因陀羅微細境界門・微細相容安立門・秘密隱顯俱成門・諸藏純雜具德門・十世隔法異成門・唯心迴轉善成門・託事顯法生解門。②法蔵の説、同時具足相應門・因陀羅網境界門・秘密隱顯俱成門・微細相容安立門・十世隔法具法門・諸藏純雜具德門・一多相容不同門・諸法相即自在門・唯心迴轉善成門・託事顯法生解門。

 

三論の八不中道

三論宗の根本教義で竜樹の中論より「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」の八不を立てたもの。あらゆるものを縁起の理によって説明する論法。現象は断絶とか連結とかではとらえられない不思議の実在であり、ここに真理に合する中道の実践があるとする。これは、縁起を空と説く中道の立場から、外道の邪見ならびにそれに準ずる仏教内部の邪見を破したものである。三論宗では、八不は破邪、中道を顕正とする。

 

法相の唯識観

法相宗では唯識の教義を根本とする。唯識は「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」( siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による悟りの成就についての論」の意。世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典をいう。

 

律宗の二百五十戒

小乗の戒律を修行する律宗は二百五十戒等を受持することを宗義とする。二百五十戒は男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。

 

浄土宗の弥陀の名号

南無阿弥陀仏を口唱すること。浄土宗では娑婆世界を穢土としてきらい、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、西方極楽世界の阿弥陀仏の浄土に往生することができると説く。

 

禅宗の見性成仏

見性成仏は禅宗の根本精神を簡潔に表明した句。自分に本来そなわっている「仏となりうる性質」を発見して、悟りを開き、仏となること。ただちに迷いや疑いを去って、自己の本来の姿を悟り実現すること。

 

真言宗の五輪観

五輪を観ずる観法のこと。真言密教の行者が一切の依報・正法が五大(地・水・火・風・空)で構成されていることを覚知し、自身の五処(頂・面・胸・腹・膝)に五大の種子(阿・鎫・ラン・唅・欠)の五字を配し、我が身即五智如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)であると観ずる法をいう。五輪成身ともいう。

 

天台宗の一念三千

一念三千の法門は天台宗の根本教義である。一念三千とは、衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足することをいう。一念とは、瞬間・極微の生命をいい、三千とは現象世界のすべてをいう。すなわち、衆生の生命に現象世界のすべてが欠けることなく収まること。天台は、法華経方便品第二に説かれる十如是の文、法華経如来寿量品第十六に説かれる三世間の義等を明鏡として一念三千を創唱し、これを摩訶止観に説き明かした。摩訶止観巻五上に「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す」とある。一念三千は、衆生の一念に宇宙の無限の差別相が具足して欠けることがないと説く、卓越した生命哲理である。その上で日蓮大聖人は、この天台大師の一念三千を理としてしりぞけ、事の一念三千の当体としての御本尊を具現化し、この御本尊の受持を即、観心とされている。

 

講義

  大聖人建立の三大秘法の御本尊が、仏滅後、今日にいたるまで未曾有の大良薬であることを示唆されている。そして、これまで現れたあらゆる仏教が、衆生の病を癒やす薬として、何を立てたかを示されている。

 

仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は、人の煩悩と罪業の病軽かりしかば、智者と申す医師たちつづき出でさせ給いて、病に随って薬をあたえ給いき

 

釈尊滅後、正法時代、像法時代の衆生は生命も穢れていず罪業も浅かったので、小乗や権大乗、法華経迹門によって化導することができたといわれている。

末法の衆生は三毒強盛であるといわれるが、正像時代の人々よりも末法の機根が悪いというのは本当であろうか。貪・瞋・癡の三毒は現代よりも昔のほうが強かったようにみえる。知能程度は変わっているとは思えないが人を殺すことを何とも思っていなかったり、殺し合いがゲームにさえされた時代をみると、貪や瞋は激しかったように思われるし、科学知識が進んだ現代からみれば、昔は癡かであったことも確かなように思える。それでなおかつ末法の衆生が三毒強盛であるというのはどういうことか。

確かに、一部の野蛮な風習を残しているとはいえ、全体的に死刑や拷問等、生命を傷つける行為に対しては自粛され、生命尊重がうたわれるようになってきた。しかし依然として争いは続けられ、貪瞋癡が盛んであることにちがいはない。いつの時代にも、三毒は強盛であるが、時を経るにしたがって、巧妙にして陰険になっていることも事実である。

あからさまに人を傷つけることは少なくなったかもしれない。しかし表面をとりつくろいながら、裏で残酷きわまりない方法で殺戮を繰り返しているのが末法という時代ではないだろうか。

欲望も、自分のまわりの小さな範囲に対するささやかな欲望から、国家や世界という大きな欲望に移り変わっており、戦争も世界的規模で行なわれるという悲惨をさえ経験した。科学知識が進み、利巧になっているかのようにみえながら、かえって幸福からは遠ざかっているのが実情ではないだろうか。なにより、宗教という、人生にとって最も大切な何かを教えようとする哲学に懐疑的になり、ある場合には盲目的に嫌悪する風潮は「癡」以外のなにものでもあるまい。

人間の犯している罪業もまた、巨大化の一途をたどっている。人間同士の殺戮にとどまらず人間同士のエゴのために一切を犠牲にしさる行為もとどまるところを知らない。略奪、虚偽も規模と陰険さを増しながら激しくなっている。まさしく末法の衆生の、煩悩と罪業の病は重いのである。

病気の軽い患者には薬も強いものはいらない。しかし重病人には強いききめの薬が必要となる。同じく、機根のよい衆生は小乗や権大乗等で悟りを得ることができるが、機根の劣る衆生に対しては、最も力ある教えでなければ救済することはできないのである。

機根がととのっている衆生は、単に真理を示し、また簡単な譬喩や因縁を説くだけで納得し修行する。しかし機根のととのわない衆生には、最初から直ちに絶対最高の法体を教え、その偉大な力用を現していかなければならない。教義の解明や方法論はそのあとになる。

正像時代の衆生は、宗教そのものに対する懐疑などはなかったであろう。そこでは具体的な修行法、つまり戒律や、あるいは経典を読誦したり書写したりすることを教えるだけでよかったし、また仏の偉大さ、極楽浄土の荘厳を讃嘆するだけで仏道に入っていったであろう。

しかし、末法の衆生は宗教そのものに対する懐疑がある。そうした衆生に対しては、まずそうした強固な懐疑の殻を打破し、生死の苦しみを根本から解決する方法を現実に指し示す必要がある。日蓮大聖人の仏法でなければ末法の衆生は救えないという理由はそこにあるのである。

 

 

第三章(末法衆生の謗法を破折する)

 本文

   今の世は既に末法にのぞみて諸宗の機にあらざる上、日本国一同に一闡提大謗法の者となる、又物に譬うれば父母を殺す罪・謀叛ををこせる科・出仏身血等の重罪等にも過ぎたり、三千大千世界の一切衆生の人の眼をぬける罪よりも深く・十方世界の堂塔を焼きはらへるよりも超えたる大罪を・一人して作れる程の衆生・日本国に充満せり、されば天は日日に眼をいからして日本国をにらめ、地神は忿りを作して時時に身をふるうなり、然るに我が朝の一切衆生は皆我が身に科なしと思ひ・必ず往生すべし・成仏をとげんと思へり、赫赫たる日輪をも目無き者は見ず知らず、譬えばたいこの如くなる地震をも・ねぶれる者の心には・おぼえず、日本国の一切衆生も是くの如し女人よりも男子の科はををく・男子よりも尼のとがは重し・尼よりも僧の科はををく・破戒の僧よりも持戒の法師のとがは重し、持戒の僧よりも智者の科はをもかるべし、此等は癩病の中の白癩病・白癩病の中の大白癩病なり。

 

現代語訳

  今の世は、すでに末法に入って、諸宗の凡薬で治る衆生の機根ではないうえ、日本国の衆生は一同に一闡提人・大謗法の者となった。また日本国の衆生の罪科は、たとえてみれば、父母を殺す罪、謀叛を起こす科、仏身より血を出す等の重罪等にも過ぎて重いのである。

三千大千世界の一切衆生の眼を抜いた罪よりも更に深く、十方世界の堂塔を焼き払ったよりも超えた大罪を、一人で作ったほどの衆生が、日本国に充満している。

それゆえ、天は日々に眼を怒らして日本国を睨み、地神は忿りをなして常に身を震わせるのである。

しかしながら、わが日本国の一切衆生は、皆が皆、わが身には科がないと思い、必ず往生するにちがいない、成仏を遂げるであろう思っている。

赫々たる日輪をも目の無い者は見ないし知らない。譬えば、太鼓を叩くような大きな響きの地震でも、眠っている者には覚えがないように、日本国の一切衆生もこのようなものである。

女人よりも男子の科は重く、男子よりも尼の科は重い。尼よりも僧の科は重く、破戒の僧よりも持戒の法師の科は重い。持戒の僧の科よりも智者の科は重いであろう。これらの者は、癩病の中の白癩病、白癩病の中の大白癩病の者である。

 

語釈

 

説法を受ける所化の衆生の機根。

 

一闡提

梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。

 

大謗法

誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

出仏身血

悪心を起こし、仏の身体を傷つけて血を出すこと。五逆罪の一つ。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされる。

 

三千大千世界

古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。

 

一切衆生

すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。

 

十方世界

「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。

 

地神

大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。

 

往生

死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。

 

成仏

仏になること。成道、作仏、成正覚ともいう。

 

普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。

 

出家して仏門に入り、具足戒を受けた男子。本来は仏道修行の集団を意味したが、中国や日本では、修行者個人をさすようになった。

 

破戒の僧

受持した戒律を破る僧。

 

持戒の法師

戒律を守り犯さない法師。仏法に通じて修行に励み、衆生に教えを説いていく僧。

 

白癩病

癩病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。

 

講義

  末法の日本国の衆生が、いかに大謗法の極重罪を犯しているかを厳しく指摘されたところである。とくに仏法を学び、人々を正しい道へ指導すべき立場の者の謗法の罪が重いとの戒めは、仏教界の指導者に対する痛烈な破折であり警告である。

 

日本国一同に一闡提大謗法の者となる。又物に譬うれば父母を殺す罪、謀叛ををこせる科、出仏身血等の重罪等にも過ぎたり

 

謗法の罪と五逆罪を比較し、謗法の罪の重さをいわれている御文である。「謀叛」とは五逆罪の一つ、破和合僧にもあたるであろう。五逆罪は重罪である。なぜなら、自らがこの世に生を受け、人間として生きるうえで、最も大きい恩を受けたものに対する損傷を意味するからである。この五逆罪を犯した者は阿鼻獄に堕すること疑いない。その五逆罪より謗法の罪が重いとはどういうことであろうか。

これは仏法における罪の考え方に起因すると思われる。五逆罪は確かに重罪である。しかしそれは仏法そのものへの敵対行為とは限らない。殺父・殺母・殺阿羅漢はもとより、破和合僧や出仏身血に至っても、謗法の心より起こった場合は謗法に含まれるが、そうでない場合もあるであろう。偶発的なこともあるであろうし、人に教唆されて犯す場合もありうる。それに比べて謗法は、法そのものを謗る行為である。ゆえに、その罪は極めて大きいとするのである。法は一切の仏・菩薩等を出生する種子であるから最も尊貴であるとするのが仏教であり、したがって、これを誹謗する罪は無間に大きいといえよう。

また、一般論からみて、法律上の大前提として、犯意なき行為は犯罪を構成しないという。五逆罪に犯意がないことはありえないが、尊極無上の法そのものに対する敵意がない場合は、謗法よりは軽いと考えられるのである。もちろん、謗法に淵源をもって五逆罪が行なわれた場合は、逆謗の二罪が相乗されて大罰を受けるのは当然である。ここでは謗法の心をもたない五逆罪を論じておられるのはいうまでもない。

五逆罪をたとえ犯しても、正法に目覚め、仏道修行を積めば、その罪は、容易に消すことができる。しかし、謗法行為は、この究極の正法への信という仏種を自ら断ずる行為である。謗法が五逆罪よりも重いとされるのは、「即断一切・世間仏種」で、成仏の道を自ら閉ざすという意味において、当然のことなのである。

ただし、より深くみれば、正法誹謗は逆縁を形成していくとされ、いったんは無間地獄に堕ちても、将来必ず救われていくのである。

                                                           

我が朝の一切衆生は皆我が身に科なしと思ひ、必ず往生すべし、成仏をとげんと思へり

 

ここにいわれていることは、そのまま現代の日本人の大部分の宗教観にも、あてはまるのではないだろうか。大聖人の時代もそうであったろうが、宗教について真っ向から否定する人は少ない。大体、誰もが一応、必要だと答える。しかも自ら宗教を大切にしていると考えているのである。クリスマスを祝い、正月には神社に行き、また、寺院からお守りを買う。それによって、宗教を大事にしているのだから利益があるはずだと考えるのである。これは宗教の何たるかを全く知らない考え方である。むしろ、宗教を大事にしているという人が宗教の本筋から外れている場合も少なくない。

しかも、自分は宗教を大事にしていると思っている人ほど、宗教の教義を厳密に批判すると、宗教に対する冒瀆だと嫌うのである。したがって、そのような人々に宗教に対する無知を知らしめる折伏こそ、広宣流布を進めていくうえで最も肝要なことであろう。

 

女人よりも男子の科はをもく、男子よりも尼のとがは重し。尼よりも僧の科はをもく、破戒の僧よりも……智者の科はをもかるべし

 

当時の社会にあって、女性より男性の与える影響は極めて大きかったし、出家者のそれは在家よりなお大きかったのは事実である。僧侶は当時の社会で知識階層を構成していた。

社会的な地位のない人が仏法を批判しても、人々はあまり影響されることもない。それよりも人々から尊敬される立場にある人が批判すると、そういうものかと信ずる人が多くなるのは当然である。まして仏教を究めていると思われている僧侶が正しい法に批判的な態度をとり、人々を欺いたりする罪は極めて大きい。なかんずく、僧侶のなかでも人格高潔とされ、人々から生き仏のように崇められている人が、人々をだまして正法を誹謗したとすれば、これにまさる罪はない。

提婆達多は生きながら阿鼻地獄に堕ちたと説かれるのは、釈尊のいとこであり、阿闍世王をはじめ、さまざまな人々の尊敬を集めるほどの立場にいて釈尊に敵対した故である。極楽寺良観が三類の強敵の最たるものとされるのも、人々から持戒の僧と尊敬され、なおかつ陰険な策謀をめぐらして大聖人に敵対した故である。

社会的に、また宗教の世界において重要な位置にある人が正法を感情的に批判することは、それだけで人々が盲目的に従いがちであるのみならず、仏法の教義や社会的知識に乏しい人がやみくもに批判するのに比べて、その誤りが容易に発見できないところに罪の大きさがある。

例えば、宗教は先祖伝来のものだから離れたくないとか、ただ嫌いだというのではなく、仏教は釈尊の説いたものだから何でも同じだと、もっともらしい言い方をした場合は、人々もそれに同調しやすい。まして、真言宗などのように一念三千の法門が大日経にもあると、その義を盗みとって糊塗しても、普通の人は気づかなかったのである。したがって、そういう誹謗ほど、罪が重いのである。

御本尊を持っている者が、もし退転して誹謗するようであれば、信仰していない人が批判するよりも、なお大きな罪となることは疑いない。対社会にあっても、また信仰している人に対しても、その与える影響は大きく、また邪智も進んでいるとみなければならない。それだけ罪も大きいのである。退転して批判することは、最も恐るべきであり、戒めなければならないことでもある。

 

 

第四章(大良薬の妙薬を明示する)

 本文

末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬を以てか治す可きとかんがへ候へば・大日如来の智拳の印並びに大日の真言・阿弥陀如来の四十八願・薬師如来の十二大願・衆病悉除の誓も此の薬には及ぶべからず、つやつや病・消滅せざる上・いよいよ倍増すべし、此等の末法の時のために教主釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙薬をとどめ給へり・所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず、何に況や迦葉・舎利弗等をや、上行菩薩等と申して四人の大菩薩まします、此の菩薩は釈迦如来・五百塵点劫よりこのかた御弟子とならせ給いて一念も仏を・わすれず・まします大菩薩を召し出して授けさせ給へり、

  

現代語訳

末代の一切衆生は、どのような大医、どのような良薬で、大重病を治すことができるであろうかと考えてみるのに、大日如来の智拳の印ならびに大日如来の真言、阿弥陀如来の四十八願、薬師如来の十二大願、とくにその中の衆病悉除の誓いも、この重病を治す薬の働きをすることができない。一向に病が消滅しないうえ、ますます病は倍増するであろう。

このような末法の時のために、教主釈尊は多宝如来や十方分身の諸仏を集められて、一つの仙薬をとどめおかれた。

いわゆる、妙法蓮華経の五つの文字である。この文字を法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等の菩薩にも依託されなかった。まして迦葉・舎利弗等の二乗についてはいうまでもない。

上行菩薩等と申して四人の大菩薩がおられる。この四菩薩は、釈迦如来の五百塵点劫の大昔以来、御弟子となられて、一念も仏を忘れないで来られた大菩薩であって、仏は、こうした大菩薩を召し出して、この五文字を授けられたのである。

 

語釈

大日如来の智拳の印

金剛界の大日如来が結ぶ印のこと。無明を滅して仏智に入ることのできる拳印とされるゆえに智拳の印という。印相は、両手で金剛拳を結び、次に左手の親指を伸ばして右手の中に入れたもの。右手は仏界、左手は衆生をあらわすとされることから、理智不二、生仏一如、迷悟一体をあらわすという。

 

大日の真言

真言宗の立てる大日経等の真言。真言は咒・神呪・密言のこと。真実の言葉・真実の意。仏や菩薩の本誓を表す秘密の言葉。

 

阿弥陀如来の四十八願

阿弥陀仏が過去世に法蔵比丘という因位にあった時に立てた四十八種の誓願。無量寿経巻上に説かれる。浄土宗では第十八の念仏往生願をとくに重視し、専修念仏の根拠としている。

 

薬師如来の十二大願

薬師如来がかつて浄瑠璃世界で菩薩道を行じていた際、来世に菩提を得て仏になった時に成就しようと願って立てた十二の誓願。薬師本願功徳経に説かれる。衆生の進むべき道を正しく示す、衆生の必要とする物を不足させない、衆病を治して身心ともに安楽にし、無上の菩提を得させる、等の諸願からなっている。

 

衆病悉除の誓

薬師如来の十二大願の第七願のこと。薬師本願功徳経には「第七の大願とは……若し諸の有情に衆病逼切して救い無く……我が名号一たび其の耳に経れば、衆病悉く除こり身心安楽にして、家属資具悉く皆豊足し、乃至無上菩提を証得せん」とある。

 

末法

正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

教主釈尊

一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。

 

多宝如来

東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。

 

十方分身の諸仏

中心となる仏が衆生教化のために、十方の世界に身を分かちあらわれた仏のこと。ここでは、虚空会座に集まった釈尊の分身仏をさす。

 

法慧

法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。

 

功徳林

華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。

 

金剛薩埵

真言八祖の第二祖。大日経の対告衆。

 

普賢

普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

 

文殊

文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

薬王

薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。

 

観音

観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。

 

迦葉

釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある

 

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

上行菩薩

法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。

 

四人の大菩薩

①華厳経の四菩薩(法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵)。②胎蔵界の四菩薩(文殊、普賢、弥勒、観音)。③法華迹門の四菩薩(文殊、普賢、薬王、観音)。④法華経本門の釈尊(上行、無辺行、浄行、安立行)。

 

釈迦如来

釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。

 

五百塵点劫

法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

 

講義

最も悪業深重の末法の一切衆生のためには、法華経の究極である妙法しかないこと、それは、地涌の菩薩に授けられたことを述べられている。

 

大日如来の智拳の印並びに……薬師如来の十二大願、衆病悉除の誓も此の薬には及ぶべからず。つやつや病消滅せざる上、いよいよ倍増すべし

 

真言宗、浄土宗、天台宗の代表的な教義を破り、末法には功徳がないどころか、かえって病気を倍増させるであろうといわれている。

権大乗の教えは正法時代の後半五百年、法華経迹門は像法時代の人々を救済する働きがあったという。その教えが末法に入ると功徳がなくなり、加えてますます病を重くさせるとはどういうことであろうか。

それは、一つには正法誹謗の故である。真言宗は理同事勝とけなし、浄土宗は理深解微、千中無一等と批判した。天台宗は法華経を依経としながら、真言宗に同じて謗法と化したのである。良薬があっても毒を混じれば毒薬となってしまう。病気が治るどころか、病気を重くするのは当然である。法華経譬喩品第三には、「斯の如き経典を、誹謗すること有らん……此の人の罪報を、汝今復た聴け……若し医道を修して、方に順じて病を冶せば、更に他の疾を増し、或は復た死を致さん。若し自ら病有らば、人の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復た増劇せん」とある。

また、第二には正法の修行を妨げる故である。末法の衆生は生命の真実相をそのまま説き明かした南無妙法蓮華経を受持することによって仏界を顕す機根の衆生である。その人々に現実逃避の極楽往生を教えたり観念観法を勧めても、かえって欺瞞性や現実遊離を感じて、仏法そのものから離れてしまうこともあろう。観念観法等が現代社会では非現実的な修行であることも当然である。去年の暦を今年使用するならば、かえって混乱を生むであろう。医学の発達しない時代にはある意味で有効であった占い師も、医学が発達している現在では、人々がこれに拠りかかるとすれば、病気の解消にとって邪魔な存在にさえなってくるであろう。

このように考えれば、末法においては、大聖人の仏法のみが時にかなった教えであり、他の教えは妙法を覆い隠す存在と化してしまうことがわかるのである。

今の世は、すでに末法に入って、諸宗の凡薬で治る衆生の機根ではないうえ、日本国の衆生は一同に一闡提人・大謗法の者となった。また日本国の衆生の罪科は、たとえてみれば、父母を殺す罪、謀叛を起こす科、仏身より血を出す等の重罪等にも過ぎて重いのである。

三千大千世界の一切衆生の眼を抜いた罪よりも更に深く、十方世界の堂塔を焼き払ったよりも超えた大罪を、一人で作ったほどの衆生が、日本国に充満している。

それゆえ、天は日々に眼を怒らして日本国を睨み、地神は忿りをなして常に身を震わせるのである。

しかしながら、わが日本国の一切衆生は、皆が皆、わが身には科がないと思い、必ず往生するにちがいない、成仏を遂げるであろう思っている。

赫々たる日輪をも目の無い者は見ないし知らない。譬えば、太鼓を叩くような大きな響きの地震でも、眠っている者には覚えがないように、日本国の一切衆生もこのようなものである。

女人よりも男子の科は重く、男子よりも尼の科は重い。尼よりも僧の科は重く、破戒の僧よりも持戒の法師の科は重い。持戒の僧の科よりも智者の科は重いであろう。これらの者は、癩病の中の白癩病、白癩病の中の大白癩病の者である。

 

 

第五章(妙法の偉大な功力を明かす)

 本文

されば此の良薬を持たん女人等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立そひて・此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ乃至此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ、譬へば・かげと身と水と魚と声とひびきと月と光との如し、此の四大菩薩南無妙法蓮華経と唱えたてまつる女人をはなるるならば・釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気を此の菩薩の身に蒙らせ給うべし、提婆よりも罪深く瞿迦利よりも大妄語のものたるべしと・をぼしめすべし、あら悦ばしや・あら悦ばしや、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

                                  日蓮花押

  

現代語訳

それゆえ、この五文字の良薬を持つ女人等を、これら上行等の四人の大菩薩は、前後、左右に立ち添って、この女人に立たれたならば、これら四大菩薩も立たれるのである。乃至、この女人が道を行く時には、これら四大菩薩も道を行かれる。譬えば、影と身と、水と魚と、声と響きと、月と光とのようなものである。

これら四大菩薩は、南無妙法蓮華経と唱える女人を離れるならば、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気をわが身に受けられるのである。その罪は、提婆達多のそれよりも深く、瞿迦利よりも大妄語のものとなるとお考えになりなさい。なんと悦ばしいことであろうか。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

日蓮花押

 

語釈

提婆

提婆達多のこと。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。

 

瞿迦利

梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写で、倶迦利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身で提婆達多を師と仰ぎ、舎利弗や目連等を誹謗して地獄に落ちたといわれる。

 

講義

末法の大良薬である御本尊の功力の大きさを、四菩薩の守護というわかりやすい例で述べられている。

 

此の良薬を持たん女人等をば、此の四人の大菩薩、前後左右に立そひて、此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ

 

法華経を持つ衆生を、四菩薩が前後左右に堅固に守護してくれるので、絶対に恐れることはないのであり、もしも守護を怠れば四菩薩さえも、仏が譴責するといわれているのである。妙法信仰の功徳は絶大であると教えられている。

一往、ここでは上行等の四菩薩を、法華経の行者を守護する菩薩として表現されているが、再往は大聖人御自身が外用は上行の再誕であり、大聖人が法華経の行者たる千日尼を絶対に守るとの文である。

しかし、このことを前提としたうえで、もう一歩「守護」というものの本義を考えておきたい。法華経を持つ人は、すでにその人自体、地涌の菩薩である。したがって「此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ」とは、此の女人、つまり千日尼自身が地涌の菩薩として立つということにほかならない。仏法の守護というのは、力なき人を諸天善神等が支えて守るというのではない。地涌の菩薩とし、大聖人の本眷属として力強く立ったとき、この人を主人として、諸天等がつき従い、守る働きをするのである。

「守護」ということの意義は、ここにある。信仰する人が力のない弱い存在で、それを神や仏が愍みをたれて守護するというのではない。あくまで妙法を持つ人が諸天善神等の働きを使いこなして、十分に力を発揮できるようにするのである。諸仏・諸菩薩・諸天善神が主人なのではなく、法華経を持つ人が主人なのである。

諸天善神といっても決して、何か特別な、いかにも諸天善神であるという姿をして現れるものではない。それは衆生に理解しやすいように表現されたものであり、大日天や大月天等にしても、それらのもつ「衆生の生命を守る働き」をそう名づけたのである。したがって、それをどう受け入れ、生命を守る働きとして使いこなしていくかは、その人自身の生命力によるのである。

生命力の衰退した人は、いくら良い条件に囲まれていても、それを栄養素として受け入れることができず、結果として「守護」がないことになってしまう。法華経の行者は、御本尊を信ずることによって、御本仏の生命をわが身に湧現させ、一切を諸天の働きとしてくのである。「魔及び魔民有りと雖も、皆な仏法を護らん」とあるのもその意である。

大聖人は、法華経の行者が、諸菩薩に守護される弱い存在であることをいおうとしておられるのではなく、千日尼に、諸菩薩や諸天善神を従えて「遊行して畏れ無きこと師子王の如く」(1124:経王殿御返事:09)堂々とした確信に立つべきことを教えられていると拝しておきたい。

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