如説修行抄 2010:01・02・03月号大白蓮華より。先生の講義
1月号
広布に戦う師弟に真の「現世安穏」
「妙」の一字とは「開く義」です。そして「八」もまた「開く義」です。
いよいよ創立80周年が開幕しました。一切が開かれゆく年です。いな、一切を開きゆく年です。
師弟不二の祈りで開く!
勇猛精進の勇気で開く!
随縁真如の智慧で開く!
威風堂々の行動で開く!
創価学会は、初代会長の牧口常三郎先生以来、どこまでも「御書根本」によって、広宣流布の一切の環境を切り開き、前進してきました。ここに未来永劫にわたる学会の不滅の原点があります。この「絶対勝利の信心」の根幹の精神を拝していくのが、今回から学ぶ「如説修行抄」です。
「如説」とは文字通り「仏の説の如く」との意味です。また、「師の説の如く」とも拝することができます。
何よりも大聖人自身が、正法である法華経を身読され「如説修行」するお姿を門下に教えてくださいました。
それは、釈尊の説いた正法が見失われ、人心が乱れ、争いごとが惹起される末法の闘諍言訟の時に、決然と、万人成仏の旗を掲げられた「破邪顕正」の言論闘争であられます。この大折伏戦は、経文に説かれている通り三類の強敵を招き寄せました。大聖人は、その魔性に敢然と立ち向かって勝利され、法華経こそが真実であることを証明されたのであります。
私たちの如説修行とは、大聖人が仰せられるままに実践することです。
牧口先生は『価値論』の最終章で「如説修行抄」の一節を引用されました。
すなわち「人間の生命を説き明かす真実の仏法が流布されたとき、初めて無上最大の幸福なる寂光土が建設されるのである」と綴られ「法華折伏・破権門理の金言なれば…現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」との有名な御聖訓で、この名著を結ばれているのです。
真実の現世安穏が実現した「寂光土の建設」 これが、創価の父・牧口先生の切望であり『価値論』の帰結でありました。その理想のために、牧口先生は、権力の不当な弾圧に屈せず、身命を賭して戦い抜かれた。まさに、大聖人が仰せの「如説修行」を寸分も違わず実践されたのです。
戸田先生も、御自身の御書の「如説修行抄」の題号に、大きく赤字の二重丸をつけておられました。不二の弟子の私もまた、この「如説修行抄」を拝して、大聖人の折伏精神を心肝に染め抜いてまいりました。
男子部第一部隊長の時、わが家に集ったメンバーとともに、本抄を学びあったことも懐かしい。また、高等部の代表にも本抄を講義しました。未来を担う青年たちと、共々に御書を学び、実践する。 これほどの喜びはありません。青年部は今こそ、大聖人の大哲理を深く拝いて、「確信」と「言論の力」を鍛えに鍛えていただきたい。
どこまでも「師匠の仰せのまま」に、苦難に臆さず理想のために戦う仏弟子の生き方を教えられたのが本抄です。「師弟不二の書」ともいうべき重書をただただ末法万年の広布のために、未来永遠の創価の勝利のために、魂に刻みつけて拝してまいりたい。
本文
夫れ以んみれば末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり、
現代語訳
つらつら考えてみるに、この末法という三大秘法の南無妙法蓮華経を流布する時に、生をこの日本国に受け、この三大秘法を持ち、信心に励んでいく人に対しては、法華経法師品第十に「末法においては、釈迦如来在世にくらべて猶怨嫉が多いであろう」と。多くの大難が競い起こることを予言されている。
講義
真正の弟子に末法流布の覚悟を促す
「如説修行」は文永10年(1273)5月、流罪先の佐渡・一谷で認められました。本抄の末尾に「人々御中へ」「此の書御身を離さず常に御覧有るべき候」と綴られているように、門下一同に対して、不退転で信心に励んでいくよう示された書です。
佐渡流罪とは、普通であれば生きて帰ることのできない、死罪にも等しい刑罰でありました。その佐渡では、本抄の翌月に執筆された「顕仏未来記」に「今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり」(0509:03)と仰せのように、大聖人のお命も危うい逼迫した状況にあられた。
そうした筆舌に尽くしがたい苦境をはね返されて、大聖人は一切衆生の闇を照らす民衆救済の光明を掲げられ、末法の御本仏としての闘争を宣言なされたのです。
すなわち、文永9年(1272)2月には、人本尊開顕の書である「開目抄」を、翌10年(1273)4月には、法本尊開顕の書である「観心本尊抄」を認められております。この両書によって、末法万年にわたる民衆救済の仏法の骨格は確立されました。
後は、弟子です。
”これからは、本物の弟子によって一切が決まる”
”真剣な弟子が立ち上がれば、広宣流布は必ずできる”
この日蓮大聖人の御確信が「観心本尊抄」御執筆の翌月の著作である本抄「如説修行抄」さらにまた一月後の「顕仏未来記」から烈々と拝されてなりません。
これらの御抄は、まさに大聖人の御遺言の書とも拝察されます。本抄は”不惜の弟子よ、今こそ折伏行に立ち上がれ”との渾身の呼びかけであり、「顕仏未来記」は仏法西還・閻浮提広宣流布を遥かに展望された理想実現の書です。
すなわち、末法万年にわたる一切衆生救済という壮大な民衆仏法の大構想は、「日蓮と同意」「日蓮が如く」とあるように、真正の弟子が出現して初めて現実のものとなる。ゆえに、全門下に、わが本物の弟子よ、不惜の心で末法広宣流布の大聖業に立ち上がれ”と全魂の呼びかけをなされているのではないでしょうか。
本抄の冒頭は、末法において法華経流布の時に、この国に生を受け、法華経を信ずる者には、釈尊の時代よりも甚だしい難が競い起こるとの「猶多怨嫉况滅度後」の経文から説き起こされています。
これは末法流布の使命の自覚と苦難の覚悟を促されているのです。苦難に臆する弱き精神では、広宣流布の大業を成し遂げることはできません。大聖人と同じく民衆救済の深い精神に立ち、不惜身命の強靭な心で大難に立ち向かってこそ、真の弟子です。また、師匠と同じ心で共に戦える喜びが、あれゆる苦難を乗り越える力となるのです。
続く御文で大聖人は、釈尊の在世と、末法とを比べて、釈尊の時代よりも末法のほうが激しい大難が起こることは必然であることを明快に論じられています。
在世で「教えを説く人」は「仏」であり、かたや末法の師は「凡師」である。また、在世の弟子は「大菩薩・阿羅漢」かたや末法の弟子は「三毒強盛な悪人等」である。
仏が法を説き、立派な弟子が実践した時代にあってもなお、怨み嫉む者が多かった。ましてや、外見は凡夫の師匠が法を説き、貧瞋癡の三毒が強盛な人々が弟子である末法では、在世以上の大難が競うのは必然あると示されています。
ゆえに「善師をば遠離し悪師には親近す」と仰せのように、せっかく善き師・日蓮大聖人にめぐり会えたのに、正邪の判断を失い、自ら離れて悪師に近づいていってしまうのです。それが末法の現実です。
本文
真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり
現代語訳
そのうえで、真実の法華経を、仏の説の如く修行していく行者の弟子檀那となる以上は、三類の敵人が出現するのは決定的である。それゆえ「この大法を聞いた日から、覚悟を定めなさい。末法には在世以上に三類の敵人がはなはだしく現われるのである」とかねがねいってきていたのに、わが弟子檀那の中に、そう聞いてはいても、いざ、大小の難が来てみると、今はじめて聞いたかのように驚き肝をつぶして、信心を退転したものがいる。難が起こることはかねていっておいたことではなかったか。つねづね経文の文証を立てて、「况滅度後・况滅度後」と、朝夕に教えてきたのはこうした時のためであった。
講義
「何があっても恐れるな!」
私にとっても忘れえぬ原点となった御金言です。戸田先生との運命的な出会いを果たし、創価学会の信仰の道に入ったばかりの私は、この一節を肝に銘じました。
大聖人は如説修行の行者には「三類の強敵の出現は必定である」「况滅度後の大難は甚だしい」と厳然と示されています。
私は覚悟し、決意しました。
「革命は死なり」と。
私は、広宣流布の師匠・戸田先生の弟子である。師匠が獄に入り、壮絶なる闘争を刻まれた以上、この師匠と共に歩めば大難は必ず出来する。その時に何も恐れてはいけないと、深く心に誓いました。
もちろん、仏法は殉教主義ではありません。法のため、師匠のため、不惜の心で、働きに働き、尽くしに尽くし、生きて生き抜いて弘通してこそ、真実の死身弘法・不惜身命の実践です。
ここで大聖人は、いざ大小の難が現実に起こると、肝を潰して臆病になり、信心を失い退転してしまう。愚かな弟子の敗残の生命を峻厳なまでに打ち破られています。
この御聖訓を講義してくださったときの戸田先生は本当に厳しかった。東京・市ケ谷にあった先生の小さな事務所の一室であったと記憶しています。真の弟子には、厳格な日蓮仏法の真髄を教えておこうとの渾身の講義をしてくださいました。
「何があっても恐れるな! 一歩も退くな!」
日蓮大聖人の御精神に直結するがゆえのあまりにも峻厳なる御指導でした。
本当の信心とは、これほど厳しいのか!
本当の学会活動の使命とは、これほどまでに御聖訓通りの厳格があるのか。
強く深い衝撃と触発を受けました。
大聖人は、この御文の最後で、「猶多怨嫉况滅度後」と朝に夕に教えてきたのは、このことであると仰せです。
三類の強敵は、三障四魔の中で最も恐ろしい天子魔がその働きをつぶさにあらわしてきたものです。
大聖人はその迫害と敢然と戦い抜かれている師匠の立場から、「猶多怨嫉况滅後後」を日々教えられました。それでも門下たちは臆病の心を起こし退転してしまった。「千が九百九十九人は堕ちて候」(0907:新尼御前御返事:08)と述べられているほどです。
臆病に勝つか負けるか、末法流布において決定的に重大なことです。簡単に障魔に心を打ち破られていく弟子の姿を見ることほど師匠にとって辛いことはない。
大聖人は「開目抄」でも綴られています。「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234:08)
いざ苦難に直面した時に、いかに人の心とは弱くなるものか。難が起こった時こそが「まことの時」であり、信心の真価が試される時なのです。
本文
かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし
現代語訳
このような悪世末法の時に、日蓮は仏意仏勅を受けて日本国に生まれてきたのであるから、たいへんな時に生まれてきたのである。だが法王釈尊の命令に背くわけにはいかないので、一身を経文に任せて、あえて権教と実教との戦いを起こし、どんな難にも耐えて、一切衆生を救うという忍辱の鎧を着て、南無妙法蓮華経の利剣を提げ、法華経一部八巻の肝心たる妙法蓮華経の旗をかかげ、末顕真実の弓を張り、正直捨権の矢をつがえて、大白牛車に打ち乗って、権門をかっぱと破り、あちらへ押しかけこちらに押しよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の謗法の敵人をせめ立てたところ、ある者は逃げ、ある者は引き退き、あるいは日蓮に生け取られた者は、わが弟子となった。このように何度もせめ返したり、せめ落としたりはしたが、権教の敵は多勢である。法王の一人は無勢であるから、今にいたるまで戦いはやむことがない。
講義
「権実二教のいくさ」の本質
大聖人が「権実二教のいくさ」に敢然と打って出られたことを宣言なされた御聖訓です。
また、この御文は、如説修行の行者は「現世安穏」であるはずなのに、どうして三類の強敵が盛んなのかという、世間の人々や門下たちが抱いていた疑難に対する回答の一つでもあります。大聖人は本抄で、次の3つの観点から回答されています。
第1に、釈尊や、釈尊の過去世の修行の姿であ不軽菩薩、竺の道生・法道三蔵・師子尊者・天台大師・伝教大師などを挙げ「如説修行の行者」でありながら皆、大難を受けていると示されている。
第2に、末法の如説修行の行者は、仏の命令の通り「権実二教のいくさ」を起こし、妙法弘通に縦横の活躍をする人であることを示されます。それが今、拝している御文です。
第3に、末法の如説修行の行者が目指すのは、人も法も「不老不死の理」が現れた真実の理想世界を実現することであり、まさに「現世安穏」の経文が指し示す通りの世界であると断言されています。
その第2の部分に相当する、この御文では、如説修行の行者であられる大聖人御自身の戦いの肝要を明かされています。それは苦難を受けているのではなく、むしろこちらから「権実二教のいくさ」を起しているのであるといわれているのです。
末法の本質は「闘諍堅固・白法隠没」ということにあります。つまり、仏教が内部から乱れ、教えと教えの争いが起こり、何が釈尊の正法かわからなくなって、ついには仏法が滅びてしまう「法滅の時代」が末法です。そして、法の乱れとともに、万民が乱れ、ついには国土が滅びてしまうのです。
そのような法滅の時代に、法を正して法滅を阻止する折伏の戦いを起こす。それとともに、民衆を苦脳から救い、国土の崩壊を止めていく立正安国の理想を掲げて戦うのが、末法の如説修行の行者です。
これが「如説修行」であると言えるのは、法華経で仏が菩薩たちに向かって、この滅後の戦いを命じられているからです。それを「仏勅」「法王の宣旨」と言われています。
法華経では、仏の教えに方便と真実があることを示し、釈尊の滅後には正直に方便を捨てて、一乗たる法華経を弘めていくべきことを菩薩に命じます。ゆえに、法滅の危機に出現した末法の如説修行の行者は、方便権教と真実である実教を明確に立て分けていく「権実二教のいくさ」をあえて起こさなければならないのです。あくまでも法滅を阻止するためです。
すでに諸経が混乱している闘諍言訟の末法において、この権実二教の違いを明確にしていくならば、権教を拠り所として既存の宗教的権威と化した諸宗から、必ず反発があり、誤解と批判と迫害の嵐が押し寄せてくる。ゆえに、この「いくさ」を戦う人は「時の不祥」であると覚って覚悟の戦いをしなければならない。また「忍辱の鎧」を着て迫害の嵐に耐えなければならない。
この「いくさ」における最強の武器は、仏みずからが権実二教を立て分けて示された法華経そのものです。これを「妙教の剣」と言われています。仏の言葉以上に切れ味のよい折伏の力はありません。折伏はどこまでも「道理」を武器とする慈悲の戦いです。
もし道理以外のもの、たとえば権威や権力、また暴力などを武器としたならば、それは、仏の命じた思想戦とはいえません。宗教としての自己否定であり、最も堕落した末法の法滅の様相そのものと言わざるをえない。
「一部八巻の肝心・妙法五字の旗」とは、法華経の真髄としての南無妙法蓮華経の題目のことです。正義の軍勢の旗印です。万人成仏の妙法を高く掲げて、人々を不幸に陥れる悪と戦う「法華弘通のはたじるし」です。
「妙法蓮華経の五字」とは、全民衆の仏性の名であり、自他の仏性を呼びあらわす実践が唱題です。ゆえに、一人一人に生命の勝利の旗を打ち立てる力があるのです。「権実二教のくさ」とは、妙法への強盛な信を根本に、真剣な唱題で自他の不幸を打ち破り、幸福を切り開く「人間勝利の戦い」にほかなりません。
この妙法五字の旗を掲げた行者が「未顕真実」「正直捨権」の仏語を弓矢として使い、魔の働きを止めていけるのです。
また「大白牛車」とは、あらゆる人を成仏の目的地まで運ぶ「法華一乗」を意味します。壮大にして華麗な大安心の乗り物です。どのようなところでも自在に赴き、人々を救い出すのです。
この法華経の大白牛車に乗り込んで「権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ…今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。
なんと躍動感にあふれた御文でありましょうか。縦横無尽に広布に駆け巡る生命力が湧き起こってきます。この御文で、如説修行の行者が現世安穏ではないという疑難は一挙に吹き払われます。草創以来の学会員の活動も、この御聖訓通りの生き生きとした、そして力強い実践でした。
戸田先生はこの御文を通して、次のように指導されました。
「悪を放置してはならぬ!前へ前へ攻めて出て、敢然と打ち破っていくことだ」
戸田先生は民衆救済の指導者であり「破折顕正」の闘将でもあられた。先生の生命には、常に邪悪と戦う破折の精神が漲っておられました。
この攻撃精神、折伏精神こそ学会の魂です。青年部の心意気です。この御文に、「せめ返し」「せめおとし」ともあります。青年部の諸君には、この御聖訓通り、民衆を苦しめる一切の悪の根を断ち切るまで戦い抜く執念を持ってもらいたい。広宣流布のため、人々の心にはびこっていく魔性を打ち破っていかなくてはならないのです。
この御文の最後で大聖人は「かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり」「今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。
創価の三代の師弟は常にこの決定した一念で戦ってきました。牧口先生は軍国主義の荒波の中、日蓮仏法の興隆のため、一人、決然と立ち上がられました。戸田先生も戦後の荒野に一人立たれ、学会の再建と75万世帯の願業に挑まれました。そして第3代の私もまた、戸田先生の弟子として一人立ち、世界広布の大航海へと旅立ったのです。
広宣流布とは仏の軍勢と魔軍との連続闘争です「軍やむ事なし」です。戦い続けるなかにこそ、真の成仏の境涯が輝くことを「如説修行」の実践が示しているのです。
本文
法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。
現代語訳
しかし法華経は折伏であって、どこまでも権教の理を破折していくという金言であるから、最後には権教権門を信じている者を、一人も残さず折伏して、法王の家人となし、天下万民、すべての人々が一仏乗に帰して三大秘法の南無妙法蓮華経が独り繁昌する時になり、またすべての人々が一同に南無妙法蓮華経と唱えていくならば、吹く風は穏やかに枝をならすことなく、降る雨も壊を砕かないで、しかも世は義農の世のような理想社会となり、今生には不祥の災難を払い、人々は長生きできる方法を得る。人も法も共に、不老不死であるという道理が実現するその時を、みんなが見てご覧なさい。その時こそ「現世安穏」という証文が事実となって現われることに、いささかの疑いもないのである。
講義
粘り強い対話と人間性の輝きを
道理と仏意のうえから、「現世安穏」の経文が虚妄ではないことを明らかにされている御文です。
「法華折伏・破権門理」とは天台大師の「法華玄義」にある有名な言葉です。法華経における折伏は、権門の理を破折するところにある。との意です。
法華経において、仏自身が権門の理を破しているのですから、「権実二教のいくさ」においては、権教に執着する人々は結局のところ仏自身の折伏によって破折され、仏意に随わざるをえません。すべての人が仏意に正しく随っていくことを「法王の家人」となると言われ、すべての教えが一仏乗たる法華経のもとに統合されていくことを「諸乗一仏乗」と言われている。
また「妙法独り繁盛せん時」とは、仏が悟った成仏の法である妙法が正法として正しく信受され、妙法に対する誹謗・不信も一掃され、仏法が妙法を根本として栄える時を指しています。
ここで言われていることは、八宗十宗というように諸宗派が乱立して闘諍言訟の様相を呈しているなかで、そのなかの一宗派が諸宗を制覇いていくことではありません。諸宗の根源でもある仏の悟りの妙法が、社会の根本原理として妨げられることなく働いてくることを意味するのです。
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば」との仰せも、仏が実証し、説かれた万人成仏の法の功徳が、あまねく順縁広布の精神的状況を確立していくことにほかならない。それが即ち「立正安国」の「立正」ということでもあります。
牧口先生は、妙法流布によって、実現すべき精神的価値を、一次元から「大善」と言われた。戸田先生は、全人類の「人間革命」を高らかに謳われた。そのうえで私は、全人類が目指すべき精神的価値を「生命の尊厳」として展開してきました。
広宣流布は難事中の難事です。それは、人々の生命を内から変革する作業が伴うからです。妙法への「信」とは内発の力です。一人一人の生命の内から変革する「信」を芽生えさせるには、粘り強い一対一の対話が不可欠です。
したがって、言うまでもないことですが、「天下万民・諸乗一仏乗」といっても、強制されて法が広まることはありません。仏法の人間主義が人々に受け入れられ、社会の思潮となり、全人類の共通の価値観となって初めて「諸乗一仏乗」と言えるのです。粘り強い対話と、法を弘通する側の人間性の輝きがなければ広宣流布は実現しません。
その意味で、創価学会・SGIによって、現在、壮大なる対話の陣列が築かれたこと自体、現代の奇跡といっても過言ではありません。
学会が唯一の日蓮仏法の「如説修行」の仏勅の団体だからこそ、幾多の荒波を乗り越えて広宣流布に邁進することができたのです。
いまや大聖人の仏法を根幹とする、創価の人間主義の連帯は、世界192カ国・地域にまで興隆しました。国内においても、各地で会館建設が進み、地域の名士の方々も喜んで学会の集いに参加される時代となりました。すべては、粘り強く対話を重ね、地域友好に率先して取り組んでくださる学会員の皆様方の信頼の勝利です。
まさに「妙法独り繁昌」する時、必ず現世安穏の世の中になると御断言です。
では広宣流布の暁には、どのような世界が出現するのでしょうか。続く御文では「吹く風枝をならさず雨壌を砕かず」と仰せです。万人が生命尊厳の妙法を信じ、題目を唱えていくならば、大風や豪雨などが起こっても、必ず変毒為薬していくことができる。
「義農の世」という古代中国の伝説上の世のように、我が国土に平和と繁栄と幸福がもたらされていくのです。
「人法共に不老不死」ともあります。“法の不老不死”とは、万法を包み、支え、生かしていく妙法の働きが衰えることも絶えることもないことです。一次元で言えば、すべてのものが調和し、多様性のままに価値創造の働きを起している姿とも言えるでしょう。
また“人の不老不死”とは、もちろん老いない、死なないということではなく、老いの苦しみ、死の苦しみに負けない常楽我浄の境涯が実現するということです。釈尊が明らかにしたように、老いや苦しみは無明がもたらすものです。妙法の力が顕現する世にあっては、人々はおのずと妙法への確信に立ち、無明を打ち破っていけるのです。
このように、如説修行の行者が広宣流布の戦いによって実現する世界は「現世安穏」が明らかな理想社会です。しかし「現世安穏」といっても、決して彼方の理想社会のみのあるものではありません。法華経の教えの通りに、「自他共の幸福」と「平和安穏の国土」の実現を目指して戦う如説修行の行者の境涯そのものが、実は既に「現世安穏」なのです。
それは、大聖人御自身の戦いを示された先の御文にも明らかです。いかなる困難にも負けず、広宣流布のために戦う躍動の姿に、真の「現世安穏」が輝きわたるのです。これこそ、日蓮仏法の「現世安穏」の本義なのです。
戦えば、自身の仏界が躍動します。最高の歓喜が満ちあふれます。日蓮仏法の不惜身命には非壮感はありません。溌剌たる挑戦には、常に歓喜の生命が漲るものです。
「如説修行の行者」の戦いの意義を説かれた本抄の末文も、大聖人は「あらうれしや・あらうれしや」と結ばれています。また、「法華経の行者」の戦いの意義を余すところなく述べられた「開目抄」でも、その結びの一節に「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(0237:11)と、大歓喜の境涯を謳われています。
広宣流布への挑戦は苦闘の連続です。それは同時に歓喜が伴う仏界湧現の実践にほかならないのです。戦う生命の中に成仏の喜悦の大境涯が躍動する「大難即成仏」「大難即悟達」の境涯にまさる「現世安穏」はありません。
大聖人の御指導のままに、御書の仰せの通りに、広宣流布に戦う魂を赫々と燃え上がらせていくなかにこそ、幸福と希望の大前進があるのです。
如説修行抄 2010:01・02・03月号大白蓮華より。先生の講義 2月号
全民衆を幸福にする慈悲の折伏行
昭和27年(1952)1月末、あの「二月闘争」の出発に当たり、私は、縁も深き東京・蒲田の同志の前で、こう呼びかけました。「見事な勝利の結果をもって、戸田先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか」
2月は日蓮大聖人の御生誕の月であられる。そして、恩師・戸田城聖先生が誕生された月でもあります。「師恩」に感謝し、報いようとする心から、この「二月闘争」は始まったのです。
大聖人が末法に御出現され、万人救済の旗を掲げて妙法を弘通されたがゆえに、私たちは偉大なる仏法に巡り合うことができました。そして、戦後、殉教された牧口常三郎先生の遺志を受け継ぎ、戸田先生が広宣流布に一人立ち上がられたからこそ、創価学会員として正しき信仰の道を歩むことができたのです。
広宣流布は、慈悲から起こった「如来行」です。そして、その仏の心を真っ直ぐに受け止めた弟子が挑戦する「菩薩行」です。ゆえに、一人一人が、仏法の師、そして、広宣流布の師に直結していくところから、広宣流布をすすめていく本当の力が生まれるのです。
75万世帯の折伏とうい戸田先生の大誓願を受けて学会は蘇生しました。この広大無辺の師恩にいかに報いるか。師匠への一筋の思いで若き弟子が立ち上がったのが、「二月闘争」です。
この「二月闘争」こそ、学会として本格的な広宣流布の拡大に打って出た最初の大闘争でした。戸田先生の事業を支え続けてきた私自身にとって、先生の直接の命を受けて、組織の最前線に躍り出た初陣でもあった。私は、ただただ、戸田先生が掲げられた75万世帯の誓願の実現を、断じて成し遂げるという一念しかなかった。すべてを「戸田先生のために!」という思いで戦いました。わが身をなげうちました。結果として、それが「師の説の如く」仏法の真髄を実践する「如説修行」にほかならなかったのです。
如説修行に徹すれば、必ず壁は破れる。如説修行とは、要するに師の心に直結する不二の実践です。師匠の広大な境涯に触れて、勝利できないわけがない。師弟に徹すれば、無限の力が湧いてくるからです。
私は、この「如説修行」の信心と行動を、戸田先生のもとで学びました。先生が事業の苦境のために学会の理事長職を辞任された時もそうでした。ただ一人敢然と、広宣流布の師匠と定めた戸田先生をお護りする死闘の中で、私は当時の日記に、こう記しました。
「『如説修行抄』拝読、勇気ある信心を、深く自覚する」「詮ずるところは、信力と行力に尽きる。御本尊様には、法力と仏力があられるのだ。この御本尊様の、偉大なる大法則の力を、実証し、実験し、体得するには、自身の信心によりほかに何もないのだ」
如説修行の勇気ある信力と行力のあるところ、必ず、偉大な仏力・法力が現れます。この日蓮仏法の真髄を学ぶ意味でも、今月も「如説修行抄」をひもとき、師弟不二の「信力」「行力」の意義を深く拝してまいりたい。
本文
予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり我等が本師・釈迦如来は初成道の始より法華を説かんと思食しかども衆生の機根未熟なりしかば先ず権教たる方便を四十余年が間説きて後に真実たる法華経を説かせ給いしなり、此の経の序分無量義経にして権実のはうじを指て方便真実を分け給へり、所謂以方便力・四十余年・未顕真実是なり、大荘厳等の八万の大士・施権・開権・廃権等のいはれを心得分け給いて領解して言く法華経已前の歴劫修行等の諸経は終不得成・無上菩提と申しきり給ひぬ、然して後正宗の法華に至つて世尊法久後・要当説真実と説き給いしを始めとして無二亦無三・除仏方便説・正直捨方便・乃至不受余経一偈と禁め給へり、是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに末法の今の学者・何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思いて或は真言.或は念仏・或は禅宗・三論・法相・倶舎.成実・律等の諸宗・諸経を取取に信ずるなり、是くの如き人をば若人不信・毀謗此経・即断一切世間仏種・乃至其人命終・入阿鼻獄と定め給へり、此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり。
現代語訳
予がいわく、それはまったく違っている。詮ずるところ、仏法を修行するについては、人の言を用うべきではない。ただ仰いで仏の金言だけを守るべきである。われらが根本の師と仰ぐ釈迦如来は、成道のはじめから衆生を救う最高の法である法華経を説こうと考えておられたが、衆生の機根がまだそこまで熟していなかったので、まず権の教えである方便の経を四十余年間説法して、それから後に真実である法華経を説かれたのである。だからこの法華経の序文である無量義経で、権教と実教の境界を指し示し、法華経以前を方便、以後を真実と立て分けられたのであり。いわゆる無量義経の「方便力をもって四十余年末だ真実を顕わさず」というのがこれである。
これで無量義経にあるように、大荘厳等の八万の菩薩たちが、釈尊の法華経を説く準備として、権教を説き、権教を開いて実経を顕わし、そして権教を廃し実経を立てたことの由来を知って領解の言葉を述べ、「法華経以前の歴劫修行の諸経では、終に無上菩提を成ずることができなかった」と断言されたのである。
しかして後に正宗分である法華経方便品に至って「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」と説いたのをはじめ、「二無く亦三無し、仏の方便の説をば除く」「正直に方便を捨て」、譬喩品に「乃至余経の一偈をも受けざれ」と戒められたのである。このように仏が定められた後は、唯有一仏乗の妙法だけが一切衆生を仏にする大法であって、法華経以外の諸経は、少しの功徳もあるはずがないのに、末法の今の学者は、どの経でも仏の説経なのだからすべて成仏できるのだと思って、あるいは真言・あるいは念仏・あるいは禅宗・三論・法相・俱舎・成実・律等の諸宗・諸経を勝手に信仰している。このような人をば、譬喩品で「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と決定しておられるのである。
このように約束された経文の明鏡を根本として、仏説とすこしもたがうことなく、一乗の法が成仏の法であると信じて進むのが、如説修行の行者であると、仏は決定しておられるのである。
講義
仏意である「一仏乗」への信で確立せよ
本抄では「如説修行の行者とは、どのように法華経を信ずる人なのか」との問いが立てられます。そして、末法における法華経への「信」の在り方が明らかにされていきます。
釈尊の「仏意」を明かした経典が法華経です。法華経に示された仏意とは、何か。それは「諸乗一仏乗」であり、「万人の成仏」です。
「諸乗」とは、釈尊の教えとして残されている種々の教えです。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の「三乗」は、その代表です。釈尊は人々の機根の違いに合わせて、これらの種々の教えを説きました。しかし、その真意は人々の機根を整えて最終的には「一仏乗」を教えることにあったのです。
「一仏乗」とは、“人々を仏の境涯に至らしめる唯一の乗り物”という意味で、万人を成仏させる仏の教えは最終的に、この一仏乗以外にありません。
この「一仏乗」を説ききった経典こそ、法華経です。
法華経では、仏の真意が「万人の成仏」にあることを明らかにされています。とともに、成仏の大法の名を「妙法蓮華経」と明かし、その哲学的本質を「諸法実相」と説きました。その釈尊自身が行じた究極の成仏の因果を「本因本果」として示し、法華経を修行する功徳を「一念信解」「六根清浄」「其罪畢已」「即身成仏」等として究めたのです。
さらにまた、万人の成仏を実現していくための「広宣流布の大願」が掲げられました。この大願に生きることにこそ、真実にして永遠なる「菩薩道」があることを宣言されています。
このように法華経は、あらゆる角度から仏の真意である「一仏乗」を教えているのです。また、全編が「一仏乗」の教えで一貫しているのです。ゆえに、法華経を聞いて、受持していけば「一仏乗」への信が起こり、成仏を妨げる迷いが打ち破られていきます。そして、成仏の因果が我が生命に刻まれ、偉大なる一生成仏の大功徳が現れるのです。具体的な教法と修行の功徳としての一仏乗は、法華経にしか説かれておりません。
だからこそ、法華経を如説修行する行者の「信」の在り方は、「ただ法華経のみを信ずる」という在り方でなければならない。仏意が分からず他経に心を移せば、一仏乗への信をうしなうことになりかねないからです。
ところが、大聖人の御在世の多くの学者たちは「諸乗一仏乗」を誤解し、誤った「信」の捉え方を言い立てました。それは、「諸乗はすべて一仏乗であると法華経で開会されるのであるから、念仏・真言・禅のどれを信じて修行しても、また、諸経典に説かれる種々の仏菩薩を信ずる信仰も、すべて一仏乗を信じたことになる」という謬見です。
ここには「開会」という考え方をめぐって、重大な間違いがあります。「開会」とは、究極の真実を明らかにして、方便の諸経をその真実に関係づけて統一していくことです。諸経を統一する究極の真実、つまり一仏乗は法華経においてのみ明らかにされております。したがって統一される方便の諸経は、法華経において正しく位置づけられたうえで、その限りで法華経の一部を表現する教えとして用いることができるのです。方便の諸経は、一仏乗たる法華経を根本とした時に、初めて生かされるのです。
法華経の本義をよく知らない世間の学者は誤った「信」の在り方を主張しました。しかしながら法華経には、仏自身の言葉として正しい「信」の在り方が明確に示されております。ゆえに、この段で大聖人は、人々の誤りを認識させ、正しい「信」を確立させるために、仏法を修行する際には「人の言葉を用いてはならない」「仏の金言を根本とすべきである」と戒められているのです。
そして、法華経への正しい信の在り方を示す仏の金言として、本抄では、法華経の開経とされる無量義経や法華経の諸品から多くの経文が引用されております。
まず、無量義経からは、経典といっても権経と実経を明確に分けるべきことを示す「方便力を以てす。四十余年には末だ真実を顕さず」との経文があります。また歴劫修行を説く爾前経では永久に成仏できないことを示す経文も引かれている。
法華経からは、まず仏自身が法華経において方便を捨てて真実の一仏乗を説くことを示す経文があります。また、法華経を信ずる人はもっぱら法華経のみを信ずべきことを説く経文等を引かれている。
そして、結論として「唯有一乗法の経文を通して、仏法には一乗法のみがあるとの断固たる信心を立てる人が「如説修行の行者」であることを示されています。
ここで注意すべきことは、これらの経文は決して“排他的信仰”を示すものと誤解してはならないという点です。大聖人は、どこまでも仏意に従って、一仏乗への信仰を確立せよと促されているのであります。
末法は「闘諍言訟・白法隠没の時」です。すなわち、仏の真実の教えである一仏乗が分からなくなり、仏法としての統合の基軸を失い、仏法の内部の争いが生ずる。そして、ついには仏法自体が滅していかざるをえない時代です。大聖人の御在世の八宗・十宗という日本仏教の分裂状況は、一仏乗を忘れた法滅の危機を示すものにほかなりませんでした。
その仏法の危機を乗り越えるために、法華経信仰の確立をここで訴えられました。万人の成仏を成り立たせるために、究極の生命尊厳・人間尊敬の原理と実践が説き切られている経典は、法華経以外にないからです。
また、この法滅の危機は、人間の危機でもある。国土・社会の安穏を崩壊させゆく戦乱の危機でもあります。この危機を乗り越えるためにも、一仏乗への「信」の確立した主体者を輩出していくことが、法華経に目覚めた大聖人一門の使命なのです。
本文
凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや、極寒の時は厚き衣は用なり極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん、仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり
現代語訳
およそ仏道修行をする者は、摂受と折伏の二つの修行法を知るべきである。一切の経論も、摂折二門をでることはないのである。こうしてみると国中の多くの学者仏法をだいたい学んだというけれども、時節に合致する肝心な修行の道を知っていない。
譬えていえば、年の四節や春夏秋冬の四季も、その都度働きが変わるのである。つまり夏は暑く冬は寒く、春は花が咲き、秋には菓がなるのである。だから、その季節の働きに合わせて春に種子をまき、秋に菓を取るべきである。それを逆にして、秋に種子をまき、春に菓を取ろうとするならば、どうして取ることができようか。極寒の時には厚い着物は役に立つ。極熱の夏には何の必要があろうか。また涼風は夏には必要であるが、冬は何の役に立つであろうか。
仏法もまたこのようなものである。小乗教が流布して功徳のある時もあり、権大乗教が広まって功徳のある時もあり、実教である法華経が広まって成仏できる時もある。しかし、正法と像法の二千年間は、小乗教や権大乗教が流布する時である。釈尊二千年を過ぎて、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経だけが広宣流布していく時なのである。
講義
「摂受・折伏時によるべし」
前段では、末法における「如説修行の行者」の「信」の在り方について論じられました。この段からは「如説修行の行者」の「行」すなわち、如説修行の人が、末法においては、いかなる実践をなすべきかがテーマとなっていきます。
この段に最初に質問が掲げられています。それは、法華経のみを信受するというのであれば、法華経に説かれる五種の修行を安楽行品の如くに励むのは如説修行の行者といえるのか、という問いです。
五種の修行というのは、法華経法師品などに説かれる修行法で、法華経を「受持」「読」「誦」「解説」「書写」することです。大聖人は、これに対して、「妙法蓮華経の五字の受持」の一行を法華経修行の根本として立てられました。
また、安楽行品には、初信の者が悪世に法華経を安楽に修行して仏果を得るための「摂受」の修行法が説かれています。例えば、「楽って人、及び経典の過を説かざれ」とあるように、悪口せず心静かに修行するという行き方です。
ここでの質問には、大聖人が末法の修行として「折伏」を重視することへの人々の疑問が含まれています。この問いは、諸宗の人々だけでなく、大聖人の門下からもなされました。
これに対して大聖人はまず、「仏法を修行する者は、摂受・折伏の二つの修行法を知らなければならない」と仰せです。
ここでいう「摂受」とは、仏道修行に独り静かに専念する修行法のことです。法華経の中では、安楽行品のように「摂受」の修行も説かれている一方で、不軽品のように法華経の真実をあらゆる人々に言い切っていく「折伏」の修行も説かれています。
この摂受と折伏とは、本来、両方とも時によって必要な修行で、摂受を行ずべき時には冷静に判断して摂受を行い、折伏を行ずべき時には勇気を起して折伏を実践すべきものです。どちらか一方が是で、どちらかが非であるとすべきものではありません。それゆえに、法華経にも両義が説かれているのです。
これに対して、折伏を排斥する摂受主義、摂受を認めない折伏主義などは、本来の「摂折二門」から外れた思想となります。
本抄の前年に認められた「開目抄」や「佐渡御書」では、摂受・折伏について次のように教えられています。
「開目抄」では、「末法に摂受・折伏あるべし」(0235:12)と言われ、無智の者・悪人が国土に充満している時は摂受を第一とし、邪智・謗法の者が多い時は折伏を第一とすべきであると仰せです。
「佐渡御書」にも「仏法は摂受・折伏時によるべし」(0957:02)とあります。
すなわち、大聖人はどちらの修行を用いるかは、「時」を基準に判断すべきであると仰せなのです。それが、本抄で言う「時刻相応の道」です。
ところが、大聖人御在世の現実の仏法者たちは、仏教を学んでいるようでいて、この基準を知らなかった。それゆえに、正法・像法時代の主流的な慣行であった摂受に偏って、大聖人の折伏を仏教にあってはならないものとして非難していったのです。それは、仏教の根本を知らない愚かな姿そのものでした。 本抄では、「時」が重要である例として、農作業などにおいても「時」や「季節」をわきまえるべきであることを示されます。仏法にも同じく小乗経、大乗経、実経のそれぞれが流布して得益がある「時」が存在します。
ここでいう「時」とは、単に時間の推移を意味する時ではありません。正法・像法・末法という、釈尊滅後の「法」の受容の変遷を鑑みた時代区分です。それは、衆生の生命状態や、衆生を取り巻く社会・国土の状況、思想・宗教の流布の次第などを含めた総合的な時代認識であるともいえます。
大聖人は、正法・像法の2000年は、小乗教や権大乗経が流布する時であると明かされています。正法時代、像法時代は、衆生の機根が整っている人が多い。また、過去世等における法華経の結縁が熟したことにより、小乗経や権大乗経を縁として、得道していける人がいました。また、大方の傾向として、一部の人が得道できれば、その人々の人格・振る舞いを通して社会によい影響力を及ぼすことができた時代であったともいえます。
一方、末法は「純円・一実の法華経」のみが広宣流布していくべき時であると示されています。「純円」とは、方便を交えずに、もっぱら完全なる成仏の法のみを説く教えのことです。また「一実」とは、究極の真実の教えという意味です。要するに「純円・一実の法華経」とは、先に述べた一仏乗を説き尽くした教えとしての法華経を指しております。
仏法が法滅の危機にあり、しかも、衆生の生命を惑わす悪縁に満ちた五濁悪世である末法の時代においては、一仏乗を力強く説き尽くした法華経以外に、衆生と時代を救う力を持ちません。
しかも、一仏乗を誹謗する魔性が跋扈するのが末法です。大聖人は、成仏するために信ずべき法を、このうえなく明確にされた御本尊を顕わされました。そして、信の持続を可能にする唱題行を立てられることによって、末法の人々の生命に内在する仏性を直接的に触発する下種仏法を確立されました。さらに、この日蓮仏法の修行の要諦として、謗法の魔性と戦う折伏の実践が不可欠であることを、御自身の実践を通して厳然と示してくださったのです。
本文
此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな
現代語訳
この時は諍いが絶えない、すなわち、闘諍堅固の時であり、しかも、釈尊の白法が隠れ、没する時と定められていて、権教と実教とが雑り、入り乱れ、はっきりしなくなる時である。敵があって戦わなければならない時には刀や杖や弓箭を持って戦うべきである。敵のない時ならば、こうした武器が何の役に立つだろうか。今、末法においては、権教が即実教・正法の敵となっているのである。一乗の法である法華経が流布されていくべき時には、権教が敵となって、権実の区別がはっきりしないならば、実教の立場からこれを責めるべきである。これを摂受・折伏の二門のなかでは、法華経は折伏というのである。天台大師が法華玄義巻九の上に「法華は折伏にして、権門の理を破す」といっているのは、まことに理由のあることである。
講義
末法は「法華経の敵」と戦う時
ここで大聖人は、末法は「闘諍堅固・白法穏没の時」であると仰せです。これについては先に述べました。また、この末法における仏法内の混乱を「権実雑乱の砌」ともいわれています。
権教は、本来釈尊の教えの中に位置づければ、衆生の機根を整えて、法華経の一仏乗に至らせしめるための方便の教えです。ところが、末法では、権教の一部を拠り所とする勢力が、自らが拠り所とする経典を絶対化して、果ては法華経を誹謗し、人々の正しい信仰を捨てさせる魔性を起していく濁った時代です。その意味で権教が、直ちに「実教の敵」「法華経の御敵」となる時代であるといわれています。
このような時代や国土にあっては、法華経による万人の成仏を実現させるためには、法華誹謗の魔性を帯びた権教の勢力の悪を力強く打ち破らなければならないと仰せです。これが大聖人の折伏です。
「実教より之を責む可し」と仰せです。この折伏戦は、部分的な教法である「権教」を絶対化してしまう仏法上の悪を、仏の真意である一仏乗を顕した「実教」によって鋭く打ち破っていく思想戦です。前回拝したように、大聖人はこれを「権実二教のいくさ」と呼ばれた。
大聖人が言われる「いくさ」は、徹頭徹尾「対話のいくさ」であり「道理の戦い」にほかならない。どうすれば仏の真意を納得させられるかという戦いである。いかに仏の心を人々に届けゆくかという勝負である。
そこで、大聖人は、天台大師の「法華折伏・破権門理」の文を再び引用されています。仏自ら、衆生を成仏させるために法華経を説いて、権門の理を鋭く破折されていった。この慈悲と道理の戦いが、法華の折伏にほかなりません。
加えて、諸宗を破折し、妙法を弘通すれば、三障四魔が競い、三類の強敵が立ちはだかることは、経典に照らして明白です。しかし、眼前に立ちはだかる民衆の不幸を黙って見過ごすわけにはいかない。何より、仏の正法が失われてしまうことを放っておくわけにはいかない。
こうした、やむにやまれぬ熱誠で立ち上がられた不惜身命・身軽法重による民衆救済の大闘争こそが、大聖人の「折伏精神」の本義なのです。万人成仏という、仏法本来の寛容の精神に満ちあふれた実践こそが「法華経の折伏」なのです。
「悪を排斥することと、善を包容することとは同一の両面である」とは、牧口先生の信念でした。
真の寛容とは、人間の尊厳と平等性を脅かす暴力や抑圧を断じて許さず、万人信敬の思想を掲げて、民衆を苦しめる魔性と戦うことです。そして「生命を手段化する思想」「人を差別・分断する思想」が広まっていくならば、その精神的土壌となっている元凶を強く打ち破らねばならない。人々を不幸に陥れる無明との戦い、これが「権実二教のいくさ」の本質であり、日蓮仏法の折伏精神の根幹にほかならないのです。
すなわち、自他の仏性を信じ抜く、ゆえに万人を尊敬する。折伏の根幹は「慈悲」の精神です。
同時に、人間の尊厳を嘲笑する魔性や無明とは毅然と戦う。「慈悲」即「勇気」の破折精神でもあります。
創価学会が、世界の宗教と文明間対話を繰り広げることができるのも、この「慈悲」即「破折」の人間主義の旗を掲げているからです。「生命の尊厳」「人間の尊敬」という哲学を共有する一切の思想・宗教とは、人類の不幸を根絶するために「人道的競争」が可能です。そもそも、人間の尊厳性を否定する「悪」と戦うことが、21世紀の人類に必要な宗教の要件なのであります。
いずれにせよ、不軽菩薩の実践に象徴される、人を敬うという尊貴な振る舞い、迫害や難にひるまない信念の強さ、邪悪と闘い抜く心、今いる場所で信頼を勝ち得て、妙法への理解を深める実証。 要するに、私たちの日々の活動のすべてが、破邪顕正の高貴な精神闘争であり、現代における折伏行であることを強く訴えておきたい。
本文
然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、雞の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや
現代語訳
そうであるのに摂受である身・口・意、誓願の四安楽の修行を、今の時に行ずるならば、それは冬に種子をまいて春に菓を取ろうとするようなものではないか。鷄が暁に鳴くのは当然のことであるが、宵に鳴くのは物怪である。権教と実教の立て分けが乱れているときに、法華経の敵を折伏しないで、世間を離れ山林の中にとじこもって摂受を修行するものは、まさしく法華経修行の時を失った者怪ではないか。
講義
戦うべき時に戦ってこそ真実の修行
ここで大聖人は、権実雑乱の戦うべき時に戦わず、山林に閉じ籠って権威を飾るような既成仏教の「摂受主義」を痛烈に破折されます。それは、暁ではなく宵に鳴く役立たずの鷄のような「物怪」であると断じらえているのです。
末法は、魔性により権教と実教が入り乱れるということは先ほど述べました。加えて重大な問題として、本来、法華経を信仰の規範とすべき天台宗の者たちが、悪を放置して折伏もせず、現実を離れた山林で摂受の修行に耽っていたのです。
戦うべき時に戦わない。悪が跋扈しても傍観する。それは悪を助長していることと同じです。結果的に、仏法破壊に加担してしまっているからです。
仏の説いた法の厳格さが薄れ、曖昧になると、実践する人々の精神も腐敗・堕落していきます。修行が懶惰懈怠になれば、魂が脆弱になり保身に走ります。そうなれば、権力側にすり寄って宗教の権威化が始まる。この権威主義の悪弊が「摂受主義」の本質です。当時の仏教界の大半がそうであったといっても過言ではありません。社会の基底部たる宗教が混迷している時代だからこそ、精神の土壌を変革する折伏行の実践こそが、仏の真意を実現する如説修行となるのです。
今の日顕宗も、大聖人を迫害した当時の諸宗とまったく同じです。戦時中、軍部政府権力と対峙し、非道な弾圧にも屈せず平和と幸福のために戦ったのは、他の誰でもない。創価学会の牧口先生であり、戸田先生でした。宗門は権力の弾圧を恐れ、御書の刊行を禁止し、御書の御文を一部削除するという、大聖人門下としてはあってはならないという過ちを犯したのです。そればかりか、如説修行の牧口先生・戸田先生が逮捕されるや、両先生を登山禁止処分にしたのです。
戦後もまた、大聖人の仰せのままに折伏に励み、妙法を弘通してきたのは、宗門ではありません。学会です。その崇高な仏勅の広宣流布の団体・創価学会を破壊しとうと企んだのが今の日顕宗です。
どちらが如説修行の団体か、どちらに大聖人の折伏精神が脈打っているのか、正邪はあまりにも明白です。
戦うべき時に戦う その真正の勇者の道をあゆんだのが牧口先生・戸田先生です。創価学会は、大聖人の御精神のままに、立正安国論のために、自他共の幸福のため、現実に広宣流布をすすめている「如説修行」の和合僧です。まさに広宣流布の「時」に適った仏意仏勅の団体の出現、これが、学会が誕生した意義なのです。
牧口先生・戸田先生という不世出の仏法指導者が出現されたのが、法滅の戦乱期の日本であったということも、「時」の不思議さを感ぜずにはおられません。
牧口先生は、一国を戦乱に陥れた誤った思想に対して厳然と声をあげ、御本尊根本に「罰論」を主張された。戸田先生は、戦後の荒野に一人立たれ、不幸に喘ぐ民衆を救うべく、妙法に生き抜く「利益論」で折伏をされた。そして三代の私も、両先生の御精神を受け継ぎつつ、戦後の世界の動乱の中で、仏法に説かれる「人の振る舞い」を基軸とした「実証論」を展開し、一閻浮提の広宣流布を推し進めてきました。
これも「如説修行」の原理のままに「戦うべき時にどう戦うのか」「仏法のため、民衆のためどう戦うのか」という覚悟から生じた創価の智慧です。
私は戸田先生の叫びを忘れることはできません。
「いざという時、指導者は悪と戦う勇気がなくてはならない。そうでなければ、無責任である。最も大切な庶民を守れないからだ」
「ひとたび、広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。戦いを起しておいて、負けるのは、人間として最大の恥だ」
私は、この「師の説の如く」戦ったゆえに、一切に勝利してきました。特に、わが青年は、この勝利の因を勇敢に受け継いでほしいのです。
如説修行抄 2010:01・02・03月号大白蓮華より。先生の講義 3月号
大難こそ民衆救済の大法弘通の証し
「創価学会は宗教界の王者である!」
六千人の青年が勇み集った「3・16」記念式典。
恩師・戸田城聖先生が放たれた大音声は、今もなお、わが胸中に轟いて離れることはありません。
それは、獄中で妙法を悟達され、日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布へ不惜身命の実践を貫いてこられた恩師の大確信の叫びでありました。敗戦の焦土に一人立ち、幾多の大難を勝ち越えられた「如説修行」の王者の勝利宣言でもありました。まさに万代に輝きわたる、学会の永遠不滅の魂の大師子吼であります。
青年たちは皆、恩師のこの勝鬨に燃え立ち、崇高な使命を自覚し、日蓮仏法を行ずる歓喜と感動に打ち震えました。まさしく弟子が、恩師の正義の大確信をまっすぐに受け継いだ広宣流布の儀式でした。
以来52星霜「御義口伝」に「師弟共に唱うる所の音声なり」(0748:第五作師子吼の事:03)と仰せのままに、私は、師の叫びに呼応し、不世出の偉大なる師匠を宣揚し、日本中、いな、世界中を舞台に妙法を弘通し続けてきました。
我らは思想と哲学の王者なり!
平和と文化と教育の王者なり!
新しき「人間主義」の王者なり!
そして、いよいよ、この創価の魂のバトンを青年が受け継ぐ時を迎えました。君たちの青年が、末法万年の広宣流布の一切を継承しゆく段階に入っています。全世界に平和と人道の連帯を結びゆく使命を担う青年が立ち上がることを、人類は待望しています。ついに創価の青年が、自ら勝ち開いた凱歌とともに本舞台に躍り出る時が到来したのです。
今、「如説修行抄」を拝する意味も、青年に後事を託すためにあると言っても過言ではありません。
今回は、不二の「如説修行の弟子」の出現へ、師匠の厳たる期待が込められた本抄の結論部分を拝していきたい。
本文
されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。
現代語訳
そうであるなら、末法である現在、法華経の折伏の修行を、いったい誰が経文どおりに実践しているだろうか。だれでもいい、諸経は無得道であり、堕地獄の根源であり、ただ法華経だけが成仏の教えであると声を大にして主張し貫いて、諸宗の人々を、またその教法を、折伏してみられるがよい。三類の強敵が競い起こってくることは間違いない。
講義
正法弘通に三類の出現は必然
本抄の前段までで、日蓮大聖人は末法における「如説修行の行者」の「信」と「行」のあり方について論じられました。すなわち、万人救済の成仏の法たる「一仏乗」、つまり法華経のみを信ずることこそ、仏意に適った正しい信心であると明かされました。そして、民衆の幸福を阻む法華経誹謗の勢力は断じて戦うという「法華経の折伏」こそが末法の時に適った実践であることを教えられています。
以上を受けて、ここからは、正しい信心に立ち、正しい実践を貫く、末法の時に適った「如説修行の行者」とは誰なのかを示されていきます。
最初に「末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ」と仰せです。「末法・今の時」とは、前段で述べられているように「権実雑乱の時」です。この権実雑乱を正さなければ、「闘諍言訟・白法隠没」の法滅の時を迎えてしまうことは避けられません。だからこそ、「諸経は無得道・堕地獄の根源」「法華経独り成仏の法」と権実雑乱を正していく折伏が重要なのです。
爾前の諸経には、様々な得道が説かれていますが、爾前諸経に説かれている道だけでは決して成仏はできません。なぜならば、爾前諸経には十界互具・一念三千の法理が説かれているからです。ただし爾前諸経を縁として法華経に入り、十界互具・一念三千の妙法に触れれば得道は可能です。しかし末法今時においては、諸宗が乱立し、自らの拠り所とする諸経を絶対化し、法華経に入るどころか法華経を誹謗する教えを立ててしまっているのです。これが権実雑乱です。
ゆえに諸経はそれ自体は無得道であり、法華経のみが成仏の法であると破折しなければならないのです。
大聖人は、たとえ誰人であっても、この折伏を行えば、三類の強敵が出現することは疑いないと仰せです。
「法華経の折伏」とは、このように成仏の道理に基づく破折なのであって、決して、排他的、独善的なものではありません。これまでも確認してきましたが、「折伏」の根幹は、「慈悲」の精神です。正法を誹謗し、民衆を不幸に陥れる魔性と敢然と戦う「身軽法重」の破折精神です。それが根本にあればこそ、悪を打ち破ることができるのです。
この法華経の折伏は、法を護り、民衆を救う正義の実践であるがゆえに、増上慢の勢力から迫害が生じるのです。この構図を理解しなければ、法華経の行者が受ける大難の本質は分かりません。
末法は、三類の強敵との戦い
ここで、この点を理解する意味で、「三類の強敵」について再確認しておきたい。
法華経勧持品第十三の冒頭には、悪世の衆生は善根が少なく、増上慢が多いことが示されています。増上慢の者は、供養を貪り、悪の因を積み、解脱から遠ざかることも説かれています。この増上慢の勢力の中でも、正法である法華経を説けば、おのず迫害が生ずることは明らかです。
勧持品では、そうしたなかで、法華経の会座に蓮なった菩薩たちが、滅後悪世の娑婆世界で、いかなる大難を受けても、法華経を弘通していくことを誓います。その誓いが示され、迫害の様相を説かれるのが「勧持品二十行の偈」です。この中で、迫害者を三種に分類したのが「三類の強敵」です。
それぞれの特徴について経文にもとづいて言えば、第一の俗衆増上慢は「無智」の者であり、第二の道門増上慢は「邪智にして心諂曲」の者であり、第三の僣聖増上慢は「人間を軽賤」し「利養に貧著」する、「悪心」の者です。
この「無智」「邪悪」「悪心」という増上慢の心は、「無明」の働きによってもたらされます。
無明とは、生命に具わる根源的な無知です。その無知から煩悩などの暗い衝動が生じ、生命を不幸へと追いやっていく、特に万物が妙法の当体であることがわからない最も根源的な無知を「元品の無明」といいます。正法が説かれた時にも、それを信解できず、かえって反発して、正法を破ろうとする働きを生む。ここに無明の恐ろしさがあるのです。
人間自身に潜む元品の無明から第六天の魔王の働きが起こります。そして、この第六天の魔王に生命を支配された者が法華経の行者に敵対するのです。
「三沢抄」には、末代の凡夫が仏になろうとする時に、第六天の魔王が、それを妨げようとして様々な働きを起こすことが説かれています。
すなわち、その人が成仏すれば多くの人が導かれ仏になり、やがてこの娑婆世界が浄土に変革される。娑婆世界を所領とする第六天の魔王は、自分の国土が奪われることを恐れるために、家来全員に命じて法華経の行者が成仏することを妨げようとする。それが駄目であれば、今度は法華経の行者の弟子檀那や国土の人々の身に入り、諌めたり脅したりして妨げようと仕組みます。それでも駄目なら、第六天の魔王は自ら行動を起して、国主の身に入って法華経の行者を脅し、なんとしても成仏を止めようとする、というのです。
戸田先生はよく、「三障四魔のうち死魔までは勝てるが、本当に恐ろしいのは最後の天子魔である」と言われました。この天子魔とは第六天の魔王のことです。そして「三沢抄」に示されているように、第六天の魔王が、俗衆・道門増上慢の心を操作し、僣聖増上慢の身に入って、法華経の行者に対する迫害を引き起こすのです。
御書には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751:15)と仰せです。戸田先生は、「この第六天の魔王を破るのは信心の利剣しかないんだ」と幾度も強調されていた。妙法への「信」によって無明を打ち破れば、生命に本来的に具わる「元品の法性」が湧現するのです。元品の法性とは、仏が悟った究極の真理のことです。
成仏とは、いわば、この法性と無明との戦いに勝つことです。そして、法華経の行者の折伏行とは、元品の法性を現す行動にほかならないのです。
法華経は仏性を触発する経典
さて、この無明と法性の観点から、あらためて見れば、大聖人が「諸経は無得道」であると強く破折されているのは、諸経がそれを信奉する人々の無明をいっそう助長するからです。
本来、成仏の因果は、十界互具に基づかなければなりません。しかし、諸経が説くように、九界と仏界が断絶し、九界を否定して仏界を求める生き方のほうが、ある意味で凡夫には“常識的”に映り、理解しやすい面がある。それゆえに権経は衆生の機根に応じた随他意の教えなのです。
本当であれば、この随他意の方便の教えを捨てて、随自意の真実の教えに向かわなければならない。ところが、この権教の教えにとらわれてしまうと、むしろ、正しい成仏の因果が説かれている法華経を否定し、誤った因果に拘泥し、いっそう無明が助長されていくのです。
無明の働きが権教への執着を生み、権教の不十分な教えが無明をさらに助長する。この無明の連鎖ゆえに、諸経は「堕地獄の根源」であると断ぜざるを得ないのです。
反対に「法華経独り成仏の法なり」とは、十界互具の真の成仏の在り方を説く随自意の経典である法華経だかが、人々の仏性を触発する力ある経典にほかならないということです。
それゆえに、末法の一切衆生を救うためには、人々の無明を助長する諸経を破折し、法性を触発する法華経を弘通しなければなりません。しかしそれは同時に、法華経の行者に敵対する第六天の魔王の働きが激化することであり、三類の強敵が必然的に起こらざるをえないのです。ゆえに「三類の強敵来らん事疑い無し」なのです。
本文
我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十余年の間権理を破す其の間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口・怨嫉計りなり、是は両度の御勘気・遠国に流罪せられ竜口の頚の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ篭に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ
現代語訳
われらの本師である釈迦如来は、随時意の法華経を説いた在世八年の間折伏をなされ、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年の間折伏なされた。今また日蓮は二十余年の間、権教の邪義を折破してきた。その間に受けた大難は数えることができないくらいである。これは釈尊の九横の大難におよぶかおやばないかは論じられないが、像法時代の天台や伝教でさえも法華経のために日蓮ほどの大難にあっていない。彼らはただ悪口されたり怨嫉されたりしただけである。
日蓮は二度の御勘気をうけ、遠国に流罪され、また竜の口の法難では首の座にすえられ、小松原では頭に疵をうけた。そのほか悪口されたり、弟子等を流罪されたり、牢に入れられたり、また日蓮門下の檀那はその所領をとりあげられて領内から追放されたりしている。こうした大難は竜樹・天台・伝教の難といえどもどうしておよぶはずがあろうか。
したがって如説修行の法華経の行者には三類の強敵が必ず競い起こると知って覚悟を決めることである。
講義
大難を乗り越えゆく大慈悲の闘争
ここでは釈尊、天台大師、伝教大師等の受難の先例をあげて、誰がどのような大難を受けたのかを明かされます。
釈尊も、天台も、伝教も、法華経の正義を宣揚し、権教の教えを折破したがゆえに、大難を受けました。釈尊がうけた「九横の大難」は有名です。大聖人は、この釈尊の大難を別として、天台・伝教の受けた大難は「悪口・怨嫉計り」であり、大聖人ほどの大難ではなかったと明言されています。
大聖人が受けられた難は幕府からの二度の流罪、竜の口の頸の座、また、左腕を折られ、額に傷を負った小松原の法難など身命に及ぶ大難が続きました。また、大聖人と共に戦う弟子たちも、流罪・入牢・所領没収・追放などの大難を受けたことが記されています。
ここで大聖人がなにゆえに、天台・伝教が受けた難と、御自身が受けられた難を比較されているのか。それは、弘通する法の深さと大難が密接に関係しているからであると拝することができます。
大聖人は「治大小権実違目」で、法華経を修行する時に生ずる三障四魔について、天台・伝教が受けた時よりも大聖人のほうが、「具さに起こり」「ひとしをまさりたり」と示されています。そして、大難と教法の関係について、こう仰せです。
「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる」(0998:15)
「事の一念三千」とは、元品の法性を直ちに触発する下種の大法です。南無妙法蓮華経による直達正観です。無明を断ち切り、万人の仏性を呼びあらわす力ある大法です。ゆえに、元品の無明を揺さぶり、三障四魔、なかんずく天子魔、すなわち第六天の魔王をも呼び起こす動執生疑の力があるのです。
このように、末法の法華経の行者は、成仏の根源となる下種の法を弘通するがゆえに、像法時代の天台・伝教よりも激しい大難が起こるのです。
重要な点は、そうした大難を乗り越えてこそ、真の法華経の行者であるということです。大難を勝ち越えてこそ、弘通する法の力を証明できるからです。
大聖人は、大難の渦中において「自受法楽」の勝利の境地を悠然と表明されている。例えば、伊豆流罪の折にも、第六天の魔王が働きかけた大難の中で「大なる悦びあり」(0935:01)「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(0937:02)と、歓喜の大境涯を宣言されています。佐渡流罪の時にも「当世・日本国に第一に富める者」(0223:02)と仰せであられる。
そして大聖人は完璧に勝ち切られた。すなわち最大の法難である竜の口の法難について「竜口までもかちぬ」(0853:09)と仰せです。また、「今では魔王も懲りているであろう」とまで述べられ、あらゆる大難を乗り越えて第六天の魔王に打ち勝った凱歌の御心境を明かされています。
戸田先生はよく言われました。
「大聖人は、ありとあらゆる大難を忍ばれながら、一切衆生を救おうという大慈大悲の戦いをなされた。そして、すべての大難を勝ち越えられた。これが御本仏の実証であられる」と。
仏法は勝負です。三障四魔・三類の強敵に打ち勝ってこそ、真実の法華経の行者です。
「開目抄」に云く「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:08)と。
日蓮大聖人は、末法の民衆を救う大慈悲のゆえに、大難を覚悟のうえで莞爾と法華弘通に先駆なされた。苦しむ民衆を守る屋根の如く、混乱する国を支える柱の如く、一人立たれ障魔の嵐を受け切っていかれた。
それは、悪と不幸の見えざる根を看破し、苦脳する人々を励まし蘇生さしつつ、自他ともの幸福を目指す善の大連帯を永遠に築きゆくためであられた。いかなる障魔も強敵も、この巨大な慈悲即智慧の魂を侵すことはできません。末法万年の全人類に及ぶ究極の慈悲の姿を一身に現じておられるゆえに、私たちは日蓮大聖人を末法の御本仏と拝するのです。
本文
されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず
現代語訳
したがって如説修行の法華経の行者には三類の強敵が必ず競い起こると知って覚悟を決めることである。ゆえに釈尊の滅後から二千年の間に如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の三人はさておいて、末法に入ってからは日蓮とその門下の弟子檀那がその行者である。
われわれを如説修行の者であるといわなければ、釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の行者ではなくなってしまう。
講義
真実の「如説修行の師弟」を明かす
「如説修行」の行者とは一体、誰なのか。本抄の結論を明かされる重要な御文です。
釈尊滅後において、釈尊・天台・伝教はさておいて、末法に入ってからの「如説修行」の行者は、「日蓮並びに弟子檀那」だけであるとの絶対の御確信です。
ここで肝心なことは、大聖人お一人ではなく「日蓮並びに弟子檀那」「我等」と、大聖人に連なる弟子、門下一同まで含んでくださっていることです。大聖人も同じく、死身弘法・不惜身命の心で仏道修行に励む弟子は、如説修行の行者にほかならないことを明かされているのです。
何という大聖人の大慈悲でしょうか。
仏法の精髄は師弟です。「如説修行」という師弟不二の実践の中に真実の成仏があるのです。
日寛上人の文段には、「如説とは師弟なり、修行とは弟子に約す。謂く、師の所説の如く弟子これを修行す。これ如説修行なり」と明かされています。すなわち、「如説修行」即「師弟不二」の実践が、一切の要諦なのです。
師匠の願いはただ一つです。それは、不二の弟子が誕生することです。そして、師匠と同じ志に立った地湧の群像が、ここかしこで活躍することです。本物の弟子を求めるゆえに、あえて同じ苦労の道を歩めと、師匠は厳命するのです。本物の弟子であるがゆえの苦労と試練こそ誇りである。「日蓮並びに弟子檀那」との仰せからは、甚深の意義が拝されます。
また、今日まで様々な大難の中、「師と共に」との思いで一緒に戦ってきたわが弟子に対する最大の御自愛のお言葉であったに違いありません。
いずれにしても、本抄のこの一節を拝して、弟子たちが、不二の覚悟に立ち上がったことは想像に難くありません。
真実の弟子たちが立ち上がってこそ、師弟の如説修行が完成します。広宣流布の大河の流れが滔々と始まるのです。
この民衆の大河を受け継ぎ、大聖人の御精神のままに、現代において大難と戦いながら、広布の前進を続けてきているのが、わが創価学会です。
軍部政府からの弾圧と戦われた初代の牧口常三郎先生も二代の戸田城聖先生も、そして私もまた、数々の「三類の強敵」「三障四魔」と戦い、厳然と勝利してきました。 不当な権力による弾圧と戦った、あの大阪事件の渦中、戸田先生は訴えられました。
「破折すべきことは徹底して破折していくんです。黙っていれば、世間はそれが真実だと思い込んでしまう」
「正義が嘘八百に負けてたまるものですか」
「正義が勝つというのが、かならずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も破れる。学会は正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです。
正義の中の正義であるがゆえに、戦い続けなければならない。そして断固、勝たねばならない。これこそ三代の師弟に脈打つ学会精神であり「宗教界の王者」たる学会の如説修行の魂です。
大聖人は、女性の千日尼への御消息文の中で「よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり」(1308:阿仏房尼御前御返事:04)と記されています。大聖人は女性の弟子にも師と同じ「如説修行」に生きる重要性を訴えられているのです。
学会も、婦人部・女子部の「如説修行」の祈りと行動と団結で築かれてきたことを絶対に忘れてはなりません。
本文
一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦ひ頚をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指し旛を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。
現代語訳
一生は束の間に過ぎてしまう。いかに三類の強敵が重なろうとも、決して退転することなく、恐れる心をもつようなことがあってはならない。迫害を受けて、たとえ頸を鋸で引き切られようとも、胴をひしや鉾でつきさされ、足にほだしを打って、その上に錐でもまれたとしても、命の続いているかぎりは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と題目を唱えに唱えとおして死んでいくならば、釈迦・多宝・それに十方の諸仏が、霊山会上で約束があったとおりに、ただちに飛んで来て、手を取って肩にかけ、霊山にたちまち連れていって下さるのであり、薬王菩薩と勇勢菩薩の二聖、持国天王と毘沙門天王の二天、それから十羅刹女等が、妙法受持の者をかばい護り、諸天善神は天蓋を指し旗をかかげわれわれを守護して、たしかに常寂光の仏国土に、送りとどけて下さるのである。なんとうれしいことではないか。なんとうれしいことではないか。
講義
三世永遠の成仏の境涯を確立
大聖人は、三類の強敵の責めにあい、苦難と戦う門下に対して「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と、烈々と御指導なされています。私は若き日、恩師・戸田先生から、この御文の講義を直接、うけたことがあります。その時、戸田先生は語られました。
「この決心なくして、信心のリーダーとはいえない」
そしてさらに、死身弘法・不惜身命の信心を教えられた「縦ひ頸をば」以下の御文では「これが信心の真髄なのである」と強く語られました。
恩師の鋭く痛烈なる指導は、今も鮮明に胸中に焼き付いています。
この仰せは、当時の大聖人や門下への迫害の様子からして、決して誇大な表現ではなかったと推察されます。
もちろん仏法は、命を軽んずるような殉教主義ではありません。「命のかよはんほどは」「唱えて唱え死に死ぬならば」とある通り、最後の最後まで生き抜き、正法を行じ抜いていくべきであります。生きて生きて生き抜くための信仰です。
そのうえで、もし仮に仏法のために殉教するようなことがあったとしても、それは不幸の死、悲嘆の死では決してない。戸田先生は、「妙法のための死であるならば、それは、たとえば眠ったとき、はじめ、ちょっと何か夢をみたが、あとはぐっすり休めるようなものであるから、成仏は間違いない」と厳粛に語られたことがあります。また、不慮の事故などで亡くなる場合もあります。しかし、妙法の大功力を思えば、まったく心配はありません。
続く御文でお約束されている通り、題目を唱えた生命は、命終の時には、仏界の大境涯に入り、未来永劫の絶対的幸福境涯へと到達することは必定なのであります。
釈迦・多宝の二仏・十方の諸仏が、たちまちのうちに飛んできて、手を取り肩に担いで霊山へと走ってくださると仰せです。
まさに、二聖・二天・十羅刹女等の諸天善神が、法華経を受持した者を守護し、功徳に満ちた仏国土へと送って下さると明かされています。なんとありがたいことではないでしょうか。
大聖人は門下に対して、もし大聖人より先に亡くなるのであれば、梵天・帝釈・閻魔大王等に「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なり」と名乗りなさいと仰せです。また、大聖人の名前は十方の浄土にも伝わっているから、どんな悪鬼でも知らないと言うはずがないと示されている御書もあります。
師弟不二の信心は、生死不二の安穏を約束するのです。「生も歓喜・死も歓喜」です。法華経の行者の弟子として妙法に生き抜いた時、師弟共に「生も安穏・死も安穏」「生も勝利・死も勝利」の三世永遠の幸福境涯を実現できることは断じて間違いありません。
「只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん」と仰せです。妙法を根幹に生き抜いていけば誰もがこの絶対的幸福の境地を得ることができると約束されているのです。それゆえに文末には「あらうれしや・あらうれしや」と示されているのです。
師に誓った不二の信心を貫きゆく人生以上の誉れはありません。まして、その人生は必ず「仏果」に叶い「寂光の本土」に住して大安心の境涯となると御断言です。したがって、いかなる大難があっても何も心配することはないし、恐れる必要もありません。さらに、御本仏の永遠の眼から見れば、「自受法楽」は間違いないと保証してくださっている。これ以上の喜びはありません。
本抄に「唱えて唱え死るならば」と仰せの如く、最後まで自行化他にわたる題目を声も惜しまず唱え抜いていけるかどうか。それが師弟不二の「如説修行の信心」の肝要です。
あらためて先に拝した「法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給いて」の一節が心に蘇ってきます。これこそが「如説修行の実践」の要諦と言えるでしょう。
諸御抄にも「声も惜まず」「声をも惜まず」等とあります。また「声仏事を為す」とも仰せです。
声を惜しむこともなく、言うべきことをはっきりと言う。語るべきことは、一言一句たりとも、語らずにはいかない。 この折伏精神に基づいた弘教の方軌を忘れない限り、広宣流布は必ず大きく前進します。そう御本仏・日蓮大聖人が御断言されているのです。
また、これが学会精神です。
牧口先生は「言わなければならないことを言えないような臆病者は、大聖人の弟子にはなれない」と語られています。
大聖人は「此の書御身を離さず常に御覧有るべき候」と仰せです。私たちも、この御書の精神を常に忘れず、誉れの「大聖人の弟子」として、どこまでも折伏精神を根幹に「一対一の対話」を真剣に実践して、自他の生命変革を遂げていきたい。
それが「宗教界の王者」たる創価学会の根本の活動です。題目を唱えに唱え、語りに語り抜きながら諸天善神が賛嘆する仏勅の如説修行の拡大の歴史を勝ち開いていこうではありませんか。
わが真正の弟子の勝利を祈りつつ