四条金吾殿御返事(梵音声御書)2013:05月号大白蓮華より。先生の講義
勇んで語れ!正義と真実の声で
「大確信で語りに語れ!仏の力を持った声は必ず道を開く」
眼を閉じると、わが師・戸田先生の声が鮮明に蘇ってきます。
青年を薫陶する厳しくも温かな声。
苦悩に沈む声を包み込む優しい声。
そして、広宣流布を宣言する堂々たる声。
恩師の声は、今も耳朶を離れません。
私はかつて、戸田先生の「声」を後世、永遠に残したいと決意し、講義のレコード化を進めました。その着想の発端となったのは、昭和26年(1951)2月、恩師の膝下で英国の作家ホール・ケインの小説『永遠の都』を学んだ時のことです。
小説の舞台は1900年のローマ、主人公ロッシィが、師匠である老革命家の声を蓄音機で聴く場面がありなす。それは流刑地からの遺言でした。「跡を頼む」と。ロッシィは感涙にむせび、革命を誓うのです。
戸田先生を囲み、広宣流布の大理想を語り合いながら、私は思いました。
“先生の声を、永遠に残したい。いつかレコードのような形で”
そして、恩師の逝去後、初めて迎えた昭和34年(1959)の元旦、学会本部で皆と共に先生の講義の録音テープを聴きました。先生の凛とした声が響きわたると、誰もが襟を正し、感涙し、敢闘を誓ったのです。
師の叫びが、薄らいでしまうようなことがあっては断じてならない。ただただ、その一心で、ほどなくして、先生の「声」のレコード化の事業に着手しました。
「実に嬉しい。報恩」レコード一枚目が完成した時、私は率直な心境を日記に綴りました。
「声仏事を為す」
日蓮大聖人は「声」の力、その重要性を門下に教えてくださっています。
「声仏事を為す」(0708:御義口伝:09)
「音も惜まず」(0504:如説修行抄:02)
「師子の声には一切の獣・声を失ふ」(1393:松野殿後家尼御前御返事:03)
広宣流布地は、大聖人の時代も、現在も、そして未来永遠にわたって言論戦です。だからこそ「声」が大事です「声」が弾丸です。「声」が剣です。
真実を語り抜けば、必ず相手の心に響きます。正義を叫び抜けば、邪悪を打ち破っていけます。真剣な声、必死な声は、人々の心を突き動かしてやみません。
今月は「梵音声御書」の別名もある「四条金吾殿御返事」を拝し、時代変革の「声」の力について学んでまいりたいと思います。
本文
世間此くの如し仏法も又然なり、仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども王にしたがはざれば仏法流布せず、或は後には流布すれども始めには必ず大難来る、
現代語訳
以上に述べたことは世間の法についてであるが、仏法についてもまた同じである。仏陀は既に仏法を王法に付嘱した。したがって、たとえ聖人・賢人である智者であっても、王に従わなければ仏法は流布しない。あるいは後には流布するといっても、始めには必ず大難が来るのである。
講義
民衆に奉仕してこそ真の為政者
本抄は、文永9年(1272)9月に佐渡の地から四条金吾に送られたお手紙です。大聖人は、仏法のうえの大難であり、仏勅の使命のままに、いよいよ一切衆生を救済する法華経を宣揚していくと力強く宣言され、四条金吾の真心を讃嘆されています。
まず、本抄の冒頭では、中国・春秋時代の斉の桓公や楚の荘王の例を通して、一国の動向は王によって大きく決まることを教えられています。
そのうえで大聖人は、王とは前世で、十善戒を持った果報によって国王として生まれてくる。そして諸天の心にかなう限りは王たりえるとする当時の一般的な考え方を示されています。これは、王たる資質・条件について述べられたものと拝されます。
万人に尽くす人物が政治を司るべきであることは言うまでもありません。自分の利欲のために権力を濫用する者などは、本来、王とは呼べないからです。
例えば、インドのアショーカ大王は、「王のなかの王」と呼ばれた指導者でした。当初は暴虐を極め、人々から恐れる悪王でしたが、やがて仏法を基調として、平和と福祉の政治改革を行い人類史に不朽の名を留めました。
かつてアショーカ大王のことについて大いに論じ合った、インドの哲学者ラダクリシュナン博士は、次のように語っていました。
「アショーカ大王の偉大さは、彼が仏教の教えのなかに、合理的で倫理的な原理を見いだすことにあります」と。
戦乱によって苦しむ民衆を目の当たりにしたアショーカ大王は「軍事力による征服」から、「法による統治」へと、政治の在り方を大転換したのです。
指導者が仏法の精神を具現した社会にあって、平和的、文化的な国家を創り上げられました。歴史上、このような国家が築かれたことは極めて稀です。
大聖人は、聖人・賢人のような智者がいて、正しい法を理解する王がいれば、仏法は必ず流布するとの原理がしめされています。
しかし、王が悪法に帰依した場合は、正法の行者は大難を免れないとも教えられています。
悪王や邪法と戦われた大聖人
続く御文で、その具体的な例として、インド・中国・日本で、王の庇護があったために、劣った教えである法相宗や真言宗・華厳宗が一国に広まっていったことを述べられています。また、師子尊者や提婆菩薩、竺道生、法道三蔵が、正法を弘通したことによって迫害を受けた例を挙げられます。
争いごとが絶えず、正法正義が隠没する末法にあって、大聖人は、万人救済の「立正安国」の旗を掲げて、時の幕府権力者に国主諌暁されました。飢饉や疫病・地震など、災難にあえぐ民衆を救うには、一国にはびこる謗法の根を断ち、人々の心に正法を打ち立てる以外にないとの御心境から、不惜身命の闘争を起こされたのです。
正法を護持し、民衆を不幸に陥れる悪王や邪法とは徹底して戦っている。これは現在においても変わらない方程式です。
主権在民の現代においては、「王」とは主権者たる「民衆」一人一人であるといえます。問題は、その「民衆」が織り成す社会が、いかなる社会なのかです。人間を軽んじ、差別が横行する社会なのか、共々に境涯を高めゆく社会なのか、その帰趨を決めるのが、社会を構成する一人一人の思想です。
ゆえに、法華経の行者は、一人一人の変革を通して、民衆の境涯を高める社会を実現しようとする行動を続けます。
「民衆のための社会」「人間のための社会」を実現するためにこそ、社会に巣くう民衆蔑視、生命軽視の風潮や思想とは断固戦い、正義の「声」をあげてくことです。
これが私たち学会員の日々の対話運動の根本理念です。また、大聖人に連なる広宣流布の誉の闘争なのです。
本文
無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり先先の諸難はさておき候いぬ、去年九月十二日・御勘気をかほりて其の夜のうちに頭をはねらるべきにて・ありしが・いかなる事にやよりけん彼の夜は延びて此の国に来りていままで候に世間にも・すてられ仏法にも・すてられ天も・とぶらはれず二途にかけたるすてものなり、而るを何なる御志にて・これまで御使を・つかはし御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる
現代語訳
彼らが無尽の秘計をめぐらして日蓮を怨む根本原因はこれである。
先々の諸難はさておく、去年九月十二日に御勘気を蒙って、その夜のうちに頭を刎ねるはずであったが、いったい、いかなることによったのであろうか、その夜は延びてこの佐渡の国に来て今になるが、世間にも捨てられ、仏法にも捨てられ、天にも訪わない。世間・仏法の二途にかけて捨てられた者である
このように世間にも仏法にも捨てられた身であるのに、いかなるお志で、ここまで使いを遣わされ、あなたにとっては一生の大事である悲母の御追善第三年の御供養を送り遣わされたのであろうか。
講義
いかなる大難も一歩も退かず
「無尽の秘計をめぐらして日蓮をあだむ是なり」この段では、大聖人がなぜ大難を受けるかにつて、邪僧との関係から示されています。
すなわち、大聖人は凡夫僧であり、卑しい身分である。それにもかかわらず、世間の人々から阿弥陀仏の化身とされる善導や、勢至菩薩の化身とされる法然に対して、仏説に基づいて真っ向から破折を加えられているから、種々の大難を受けたのである。と。
さらに「去年九月十二日に・怨勘気をかほりて」以降の御文では、文永8年(1271)9月の「竜の口の法難」、続く「佐渡流罪」のことについて綴られています。
いうまでもなく竜の口の法難とは、幕府権力によって、何の罪もない大聖人が斬首されようとした不当な迫害でした。大聖人への嫉妬に狂った宗教的権威が政治権力と結託して起こした弾圧です。そして斬首に失敗すると、次は当時にあっては死罪にも等しい佐渡への流罪を命じたのです。
流罪地の佐渡での大聖人の御生活は、言語を絶する厳しいものでした。北国の厳寒の地です。文永8年(1271)11月から翌年の春まで住まわれた塚原三昧堂は、「上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし」(0916:種種御振舞御書:05)というありさまでした。
さらに、そもそも流人の身であるうえに、周囲には大聖人を敵視する勢力が取り巻き、常に命を狙う状況だったのです。
本抄で「世間・仏法の両方において捨てられた身である」と仰せになっているのは、佐渡での厳しい境遇を端的に表現されたものです。むろん、その御心境においては「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせ」(0232:開目抄:01)と仰せの通り、諸天の加護があろうとなかろうと、いわんや世間がどう見ようと、全民衆救済のために決然と一人立ち上がられた末法の御本仏としての魂が脈打っていると拝されるのです。
大聖人と共に戦う「志」に感謝
しかしながら、現状的には最も劣悪な環境の真っ只中にあって、そのような大聖人のもとに、使いを遣わされた四条金吾の「御志」を、大聖人は深く感謝されています。本抄の末尾においても、金吾が使者を遣わしたことは、釈迦仏もご存じであり、実に孝養の至りであると重ねて賞讃されています。
四条金吾は亡き母の三回忌の追善回向のため、鎌倉から佐渡まで使者を遣わし、大聖人に供養を届けられました。
金吾といえば、竜の口の法難の際には、自身の死を覚悟して、涙ながらに大聖人のお供をした模範の弟子です。法難後、鎌倉にあっても大聖人門下への迫害が激しくなる中で、誠心誠意、師匠に仕え師匠を守るために行動した弟子の姿を、大聖人はことのほかお喜びになったのではないでしょうか。
大恩ある師匠を何としてもお守りする。師匠のために戦う。師匠に喜んでいただく、これが誉の「弟子の道」です。
創価三代の師弟も、大聖人の御遺命たる広宣流布のため、師弟の道を貫き戦いました。戸田先生は牧口先生のために、そして、私も戸田先生のためには、我が身を顧みることなく死力を尽くして戦ってきました。
師匠のために何ができるか。ただ、そのことだけを考えて、半世紀以上にわたって、「弟子の道」を歩み通してきたのです。
師弟の栄光「5・3」を迎える5月、頼もしき後継の青年部の諸君にこそ、この創価の師弟の魂を、脈々と受け継いでもらいたいのです
本文
但し法華経に云く「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり」等云云、法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも・すぎたりと見えたり。
現代語訳
ただし法華経法師品には「若し善男子善女人が、我が滅度ののちに、能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説くならば、当に知りなさい。この人はすなわち如来の使いであり、如来の所遣として如来の事を行ずるのである」と。法華経を一字一句でも唱え、また、人にも語り申す者は教主釈尊の御使いである。この経の如くならば、日蓮は賎しい身であるけれども教主釈尊の勅宣を頂戴してこの日本国に生まれてきた。この日蓮を一言でも誹る人々は罪を無間に開き、一字一句でも供養した人は無数の仏を供養することよりもすぎると説かれている。
仏勅をもってこの国に生まれる
妙法を弘める「仏の使い」の意義について明かされています。
大聖人が引かれた法華経法師品には、一人のためにでも法華経の一句なりとも説く人は、「如来の使」であり「如来の所遣として如来の事を行ずる」人であると重ねて強調されています。
「如来の所遣」とは、仏にかわって衆生を化導するために派遣された者、すなわち「仏弟子」といえます。また「如来の事」とは、仏の大願である万人救済のための「妙法の弘通」をさします。
したがって大聖人は、仏にかわつて、法華経を一字一句でも唱え、語る者は「教主釈尊の御使」であり、一字一句でも供養する人は、大福徳を積むと仰せです。
不思議にも、末法に妙法を持った学会員一人一人が語った分だけ、間違いなく仏縁は広がる。正義が広がります。
「声」が」力です。「言葉」が武器です。そして「なんとか仏縁に触れさせたい」「幸福の道を歩んでもらいたい」との慈悲の勇気の祈りがある限り、私たちの「言葉」は必ず響きます。
妙法の声は、必ず相手の仏性を呼び覚ます力があるからです。たとえ、すぐに目に見える結果は出なくとも、相手の心に深く浸透していくことを確信していきたい。
また、学会員は皆、尊き「教主釈尊の御使」であるからこそ、リーダーはどこまでも「会員根本」「会員第一」で進んでいっていただきたい。
法華経に「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」と説かれているように、広宣流布へ一生懸命に邁進する会員を、仏の如く最高に尊敬していくことです。
陰で戦っている人、苦労している人を見つけ出しては、「いつもご苦労さまです!」「本当にありがとうございます!」等と自分から声をかける、心から讃える、できることは何でもする、これがリーダーの鉄則です。
この段で大聖人は「日蓮は賤しき身ではあるが、教主釈尊から御遺命を頂戴して、この国に来た」とも仰せです。
仏法の眼から見れば、私たちも大聖人の門下として、かけがえのない使命をもって、自ら選んで、我が地域に生まれてきたのです。どうか「此の国に来れり」との御金言を深く深く拝していただきたいのです。自らの願い、誓いによって、この国土に涌出してきたのです。この「久遠からの誓い」を胸に、それぞれの地域に広宣流布を担い立つ崇高な使命に生き抜いていきましょう。
本文
此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠の如し一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の宝を雨す百珠も又無尽の宝あり、たとへば百草を抹りて一丸乃至百丸となせり 一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ、譬へば大海の一渧も衆流を備へ一海も万流の味を・もてるが如し。
妙法蓮華経と申すは総名なり二十八品と申すは別名なり、月支と申すは天竺の総名なり別しては五天竺是なり、日本と申すは総名なり別しては六十六州これあり、如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり竜王にこれを給いて頂上に頂戴して帝釈是を持ちて宝をふらす、仏の身骨の如意宝珠となれるは無量劫来持つ所の大戒・身に薫じて骨にそみ一切衆生をたすける珠となるなり、たとへば犬の牙の虎の骨にとく魚の骨の鸕の気に消ゆるが如し、乃至・師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、仏の説法をば師子吼と申す乃至法華経は師子吼の第一なり。
現代語訳
この法華経の一字は釈迦・多宝・十方の諸仏の功徳が収めてある。たとえば如意宝珠のようなもので、一珠も百珠も同じことである。一珠でも無量の宝を雨すし、百珠でも、また無尽の宝がある。たとえば百草を抹りて一丸乃至百丸とすると、一丸も百丸も共に病気を治することは同じである。たとえば大海の一渧の水にも、あらゆる川の水を含み、一海も万流の味をもっているようなものである。
妙法蓮華経というのは総名である。二十八品というのは別名である。月支というのは天竺の総名である。別しては五天竺がある。日本というのは総名である。別しては六十六州がある。如意宝珠というのは釈迦仏の舎利である。竜王はこれを給わり頂上に戴き、帝釈天がそれを持って宝をふらせる。仏の身骨が如意宝珠となることは無量劫以来持つところの大戒が、身に薫じて骨に染まって一切衆生を救う珠となるのである。たとえば犬の牙が虎の骨にとりつけ、魚の骨が鵜の気に消えるようなものである。また、師子の筋を琴の絃にかけて、他の一切の獣の筋の絃、皆切られてしまう。仏の説法を師子吼という。ないし法華経は師子吼の第一である。
講義
法華経の「一字」に無量の功徳
この段では、釈尊の説法はことごとく真実であるが、なかでも法華経が最高の経典であることを示し、あらためて大聖人が弘通する法華経の功徳について教えられています。
大聖人はまず、法華経方便品に「正直に方便を捨てて」「要ず当に真実を説きたまうべし」と説かれているので、誰も疑うはずがないと仰せです。さらに、法華経が真実であることを多宝如来が証明を加え、諸仏が舌を梵天につけて真実を証明した」とも仰せです。
ここで大聖人は「此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う」と明かされています。なぜなら釈尊も多宝仏も三世十方の諸仏も、真実の法である法華経を行じて成道したのであり、南無妙法蓮華経の妙法こそ諸仏を成道せしめゆく根源の法だからです。
この広大無辺な妙法の功徳を大聖人は「如意宝珠」に譬えられています。如意宝珠とは、無量の宝を意のままに取り出すことができる珠のことです。
これが一珠であろうが、百珠であろうが、無量・無尽の宝が得られると述べられています。また別の譬として、百草をすって作った薬が一丸であっても、病気を治せること、さらに大海の一滴であっても、あらゆる川の水を含んでいることを通して、妙法の功徳の大きさを示されています。
この「如意宝珠」について、かつて戸田先生が語ってくださった指導が忘れられません。それは昭和30年(1955)7月の杉並支部総会のことです。
先生はまず、「如意宝珠とは、心のままに宝を出す珠のことをいうのです。家がほしいと思えば家ができ、金がほしいと思えば金ができ、なにひとつとして心のままにならぬものはないという珠を、無量宝珠というのです」と。私たちに分かりやすく教えてくださいました。
そして凛然と語られました。
「御本尊様は、しからば、なにごとを求めても得られるか。はっきりと私は申し上げます。いかなる願いも、かなわないことはないのです」
叶わない願いなど断じてない!恩師の烈々たる宣言でした。私たちも、この大確信で心して進んでまいりたい。
妙法を信じ抜き、題目を唱え抜き、果敢に実践しぬいていく限り、絶対に行き詰まりはありません。信心があれば、私たちの胸中に如意宝珠の御本尊が厳然と輝きわたっているからです。
一切の獣を破る「師子の筋」
続く御文で大聖人は、妙法の偉大さについて、「師子の筋」についての説話を通して教えられています。
師子の筋を、琴の絃にかけて、これを弾けば、他の一切の獣の筋の絃は皆、切らないのに切れてしまう 百獣の王の筋を絃として奏でる音は、他の絃を圧倒します。
それと同じように、仏の説法の中でも法華経こそが第一の「師子吼」であり、他の一切の経典を圧倒する正義と真実の叫びなのです。
「御義口伝」には「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(0748:第五作師子吼の事:01)と仰せです。師弟一体で師子王の題目を朗々と唱えていけば、いかなる苦難や宿命をも乗り越えていけます。そして必ずや、人生の幸福と勝利を開いていけるのです。
本文
乃至梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王・大王・転輪王等・此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国も破れ国も治まるなり、宣旨と申すは梵音声の一分なり、万民の万言・一王の一言に及ばず、則ち三墳・五典なんど申すは小王の御言なり、此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事・仏の大梵天王・帝釈等をしたがへ給う事もこの梵音声なり、此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり、たとへば種子と苗と草と稲とは・かはれども心はたがはず
現代語訳
また梵音声というのは仏の第一の相である。小王・大王・転輪王等も皆この相の一分をそなえているがゆえに、この王の一言によって国も、あるいは破れたり、あるいは治まったりするのである。王が下す宣旨というのは梵音声の一分である。万民の万言であっても一王の一言には及ばない。すなわち三墳・五典などというのは小王の言である。日本という小国を治め、また、大梵天王が三界の衆生をしたがえることも、さらに仏が大梵天王・帝釈等をしたがえられることも、この梵音声によるのである。これらの梵音声が一切経となって一切衆生を利益するのである。そのなかでも法華経は釈迦如来の御志を書き顕わして、釈迦如来の音を文字となしたのであり、仏のみ心はこの文字にそなわっている。たとえば種子と苗と草と稲とは、形は変わっているけれども、その生命自体は互いに異ならないのと同じである。
梵音声とは「仏の第一の相」
仏の三十二相を示し、なかでも第一の相である「梵音声」について教えられています。
経典には、仏は皮膚の色が金色で、眉間から白毫の光を放つなどの32の勝れた身体的特質を具えていることが説かれています。八十種好ともいいます。
仏がこのような三十二相を示す意義は、衆生に仏への渇仰の心を起こさせて化導するためとされています。
すなわち、より本質的には、三十二相とは仏の境涯を示すのであり、人格のうえに具わる内面的価値を表したものであるといえるでしょう。
このことについて大聖人は「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり」(1443:新池御書:07)と仰せです。
私たち凡夫も、南無妙法蓮華経の題目を唱えることで、自然と仏の三十二相八十種好が具わると教えられています。もちろん、色相荘厳のきらびやかな仏になるという意味ではありません。妙法の信心によって、仏が具える智慧や人格の輝き、そして功徳を具えることができると仰せなのです。
本抄では「仏の第一の相」である「梵音声」について述べ、各国の国王も、梵音声の一分を具えているので、王の一言によって国の動向が決まることを教えられています。まして、仏の梵音声には無量の力があります。大聖人は、この仏の梵音声が一切衆生を救う経典となったのであり、なかんずく法華経の文字こそが仏の真意を書き表したものであることが明かされています。
大智度論では、梵音声の特質について、次の五つの観点から示されています。
第1に、深きことは雷のようである。
第2に、清く徹して遠くまで聞こえ、聴く者は悦び楽しむ。
第3に、心に入って敬愛の心を起こす。
第4に、明瞭にして分かりやすい。
第5に、聞く者が嫌がることがない。
すなわち、人々に勇気と希望を与える、清々しい確信の声のことであるといえます。王に例えれば、人々を動かし、社会をリードする責任ある力強い声ともいえるでしょう。
「人を励ます」真実の声を
ここで、別の御書で「三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は 不可見無対色なれば書く可らず作る可らず」(0468:木絵二像開眼之事:01)と仰せのように、仏の三十二相のうち、梵音声だけは目で見ることができません。それは、心の表れだからです。大聖人が、この梵音声を「第一の相」とされたことは、甚深の意義が拝されます。
仏の願いとは万人の成仏、一切衆生の救済です。その願いを外に現し、人々に実際に働きかけるのが、声です。仏といっても、その他の三十一相が色相荘厳の姿を見せるだけでなく、人々を具体的に救っていくために「声」を出し続けたのかどうか、「言葉」を発し続けたのかどうか、「対話」し続けたのかどうかに尽きるのではないでしょうか。
妙法を唱えることは、御本尊を讃嘆することであります。その声を聞いて、諸天善神が働き、唱える人を守ります。
何を言っているかわからない弱々しい声では、諸天も動きません。朗々たる音声で、力強く題目を挙げていくことです。
病気などで声が出せないこともあるでしょう。そういう場合は「心の声」を響かせるのです。同志の幸福、広宣流布の勝利、自身の人間革命をどこまで真剣に祈っているのか。そのやむにやまれぬ「心の声」が、諸天を動かし、友の心を希望へ、蘇生へ、前進へと奮い立たせていくのです。
どういう声かが大事です。「いい声だな」「聞くと元気になるな」と言われるような、爽やかな温かみのある、真心が響く声で語りかけていただきたい。
特にリーダーの声は、温かく、優しい感じで、確信を持って、そして、胸を張り、生命力を大きく漲らせて、指導・激励していくことです。大誠実の振る舞いに徹してゆくことが、自身の人格を大きくします。そして、信心を、強く深くしていくのです。
大変な中でも、人を励ますからこそ、功徳があります。確信の声は、皆を安心させます。指導者は声で決まるといっても過言ではないのです。
確信ある青年の声の響きを
戸田先生は「命をかけてやる声は、必ず響く」「確信ある声の響きこそが、新たな革命の力である」と語られました。
そして、民衆を救う「声」であるゆえに、粘り強く、語り続けることが大事です。
「百回語れば、百倍の功徳となって返ってくる。これが『声仏事を為す』ということだよ」とも、戸田先生は指導されました。
「声」は仏の名代です。
満々たる生命力の題目の声を!
友を励ます勇気と希望の声を!
時代変革の正義と真実の声を!
さあ、平和社会の建設へ、民衆の幸福拡大へ、「立正安国」の大願に燃えて、声を張り上げて打って出ていくには、「今」この時なのです。