善無畏三蔵抄

善無畏三蔵抄

 文永7年(ʼ70) 49歳 義浄房・浄顕房

  1. はじめに
      1. 道善房の釈迦仏造立について
      2. 本抄の大意
      3. 本抄の系年について
  2. 第一章 法華経最第一を明かす
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 法華経は一代聖教の肝心・八万法蔵の依りどころなり
  3. 第二章 諸宗の邪義を挙げる
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
  4. 第三章 誤りの所以を示す
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
  5. 第四章 天台・伝教の例を引く
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 正像末には依るべからず実経の文に依るべきぞ人には依るべからず専ら道理に依るべきか
  6. 第五章 真言の邪義を破す
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
  7. 第六章 念仏の邪義を破す
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賎民が子なり威徳なく有徳のものにあらず
  8. 第七章 題目の勝妙なるを教える
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし
  9. 第八章 教主釈尊の三徳を顕す
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
  10. 第九章 釈尊を本尊とすべきを説く
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし
  11. 第十章 他仏を本尊とする誤りをつく
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 而るに当世の智者とおぼしき人人・是を見て・わざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只称美讃歎の心のみあり云云
  12. 第十一章 善無畏の堕獄を示す
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
  13. 第十二章 善無畏の堕獄の理由を明かす
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
  14. 第十三章 善無畏以後の誤りを破す
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり
  15. 第十四章 立宗以来の折伏を述べる
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云
  16. 第十五章 恩師・道善房の法華経への帰依を喜ぶ
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ・輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり

はじめに

本抄は、文永7年(1270)、日蓮大聖人が49歳の時に著された書である。

御述作の動機については、この年の大聖人の行跡を示す明らかな文献がないので明確な断定はできない。しかし、本抄の最後の部分で、大聖人の清澄寺時代の旧師・道善房が、法華経を受持したことと釈迦仏を造立したこととを殊のほか喜ばれているところから推察するに、この文永七年のある時点で、道善房が大聖人のかねてからの教導にしたがって、不十分ながら阿弥陀仏信仰を捨て、法華経と釈迦仏とを立てるに至ったのであろうと思われる。この道善房の改宗の模様は、おそらく、同じ清澄寺の義浄房、浄顕房を通じて日蓮大聖人の処に知らされたに違いない。

郎報を聞かれた日蓮大聖人は、旧師への報恩の誠意が通じたことを率直に喜ばれるとともに、師の法華経・釈迦仏への信心が持続し、ますます強盛になっていくことを願われて、本抄を執筆されたものと思われる。

宛て名が、道善房ではなく、義浄房、浄顕房になっているのも、旧師の改心の模様がこの二人により大聖人に知らされたことをうかがわせるとともに、大聖人の旧師に対する報恩の気持ちを伝えるのに最もふさわしい仲介者と考えられたからであろう。このあたりにも、大聖人の旧師への細かい配慮が拝せられ、古来、本抄の別名を「師恩報酬抄」と呼びならわされてきたことも、十分うなずけるのである。

 

道善房の釈迦仏造立について

 

本抄で日蓮大聖人は、旧師・道善房が法華経を持ったのみならず、釈迦仏を造ったことに対して大きな称賛をもって迎えておられるが、この点について一言しておきたい。

末法の御本仏日蓮大聖人の一代の御化導の究極は、大聖人の御図顕された人法一箇の御本尊であることは改めていうまでもない。

にもかかわらず、本抄で、道善房の釈迦仏造立を称賛されているのには、それなりの理由がある。

ちなみに、日蓮大聖人が、門下の釈迦仏造立を称賛されている御手紙は、本抄の他にも数編ある。

例えば、本抄と同じく文永79月の真間釈迦仏御供養遂状には「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、『欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来』は是なり」(0950:01)とある。

また、建治2年(12767月の四条金吾釈迦仏供養事では「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云(中略)されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし(中略)此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ」(1144:01)と記されている。さらに、弘安2年(12792月の日眼女造立釈迦仏供養事には「三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(中略)一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべし(中略)今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし」(1187:01)とある。

このように、日蓮大聖人が釈迦仏の造立を認められ、その行為を賛嘆されている御文が数編あるところから、大聖人滅後の五老僧が、大聖人の出世の本懐たる御本尊を無視して、釈迦如来を本尊として崇拝する誤りを犯したことは、日興上人の富士一跡門徒存知の事に明らかである。すなわち「五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり(中略)日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1605:16)と。

ここで明らかに日興上人は、釈迦如来を本尊とする五老僧の立場を、末法の御本仏日蓮大聖人の真意を知らぬために誤りに堕した、と破折されているのである。

では、何故に日蓮大聖人は、御書の各所で釈迦仏の造立を賛嘆され、釈迦如来を本尊とすることを認められたのであろうか。この問題については、日寛上人が末法相応抄において、三点にわたり明快に論じられている。

「今謹んで案じて曰く、本尊に非ずと雖も、而も之を称歎する。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり。是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す。然るに彼の人適釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には、一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」。

三点の理由の中で、本抄の旧師・道善房の場合は、とくに第二の理由が最もよくあてはまるのではなかろうか。本抄の中で、日蓮大聖人が師・道善房を折伏された時、道善房は「世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし」(0889:02)と答えて、大聖人の仏法を受け入れることを拒否するくだりがある。この時の道善房のことばにもあるように、当時、猛烈な勢いで日本国全体に阿弥陀仏信仰が弘まっていたため、人々は本心からではなくとも、世間に弘まっているという理由だけで、阿弥陀仏を本尊としていたのである。この風潮のなかで、日蓮大聖人は文底深秘の法門を説かれる前段階として、まず娑婆世界における仏教の開祖であり、法華経を出世の本懐として説いた釈迦如来を立て、釈迦仏を本尊とすることを弟子檀那にすすめられたのである。

しかし、日蓮大聖人の元意は、どこまでも〝一念三千即自受用の本仏〟すなわち、大曼荼羅本尊にあられたことはいうまでもない。

その意味で、本抄を拝読するにあたって、究極的には「法華経」は寿量文底の南無妙法蓮華経を、「釈迦如来」は久遠元初の自受用身如来をそれぞれ表していると拝していくべきであろう。

 

本抄の大意

 

本抄は、大別して五段に分かれる。

第一段は冒頭から「終(つい)に九十五種の外道とこそ捨てられしか」(第四章)までで、法華経が無数の経典群の中で、最第一の経典であり、最も正しく仏意を表していることを主張されている。同時に、仏意に通じないインド、中国、日本の人師・論師が、いかに正法たる法華経を下し、邪義をかまえてきたかを論断されている。そして、天台大師、伝教大師にならって、いかに迫害があろうとも、人師・論師の説によらず、あくまで経文と道理に依って邪義を破折し、法華経の独勝性を宣揚すべきことを述べられている。

第二段は「日蓮八宗を勘へたるに法相宗……」(第五章)から「叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権経なり」(第七章)までである。前段でインド、中国、日本三国にわたる人師・論師の邪義を指摘されたのに対し、この段では、とくに日本の八宗に限定され、その誤りを指摘されるのであるが、なかでも破折の鋭鋒を、真言宗と浄土宗に向けられている。これは、旧師・道善房が法華経、釈迦仏に帰依した後の信心不動なるを願われて、旧師のこれまでの宗旨である真言・念仏を改めて破折されたのであろう。

つぎに、末法に衆生が立てて修行すべき正法として南無妙法蓮華経の題目を明かされている。

第三段は「又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり」(第八章)から「悪道を免るべからずと思食すべし」(第十章)までである。

ここでは、釈迦如来こそが娑婆世界に住む一切衆生の有縁の仏であることを論じられている。その理由として、釈迦如来が娑婆世界の一切衆生の尊主であり(主)、父母であり(親)、本師である(師)と、主・師・親三徳を具備した仏であることを述べられ、娑婆世界の衆生がいかに釈迦如来と縁が深く、かつ、その厚い大恩を受けているかを説かれている。

第四段は「例せば善無畏三蔵は……」(第十一章)から「劣る経に説く法門は勝れたる経の得分と成るべきなり」(第十三章)までである。ここでは、大恩ある釈迦如来に違背し、法華経を下せば、いかに八万法蔵を究め十二部経を誦んずるような智者であっても、悪道に堕すことを、真言宗の開祖・善無畏三蔵を例として説かれている。本抄の善無畏三蔵抄の題号は、この段からとられたのである。そして、善無畏三蔵の例を挙げられることにより、真言宗に堕していた清澄寺の邪法を間接的に破折されたのである。

第五段は「而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり」(第十四章)から最後までである。ここでは、日蓮大聖人が、建長5年(1253)の立教開宗から、本抄を著された文永7年(1270)年までの17年間、法華経・釈迦仏を根本に立て、諸宗・諸経・諸論の誤りを折伏してきたのは、ひとえに、虚空蔵菩薩の御利生と旧師・道善房の御恩である、と述べられている。とともに、17年間にわたる破邪顕正の実践の根底には、師の恩に報いようとする至誠の一念が貫かれていたことを明かされている。そして、道善房が法華経に帰依し、釈迦仏を造立するに至ったことを、師への報恩の心が酬いられたとして喜びを表明されるとともに、仏意の上からの強言が大切なことを述べられている。

 

本抄の系年について

 

本抄が文永7年(1270)に述作されたことは、本文中に「建長五年より今年・文永七年に至るまで十七年が間・是を責めたるに……」(0883:11)「殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に……」(0888:11)とある文から明らかである。しかし、具体的な月日については不明である。

また、本抄の御真筆は現存しないが、旧師・道善房への報恩を語られるくだりは、報恩抄をまのあたりに拝するような筆致が見られるところから、間違いなく、大聖人の御筆になるものと拝察される。

 

 

 

第一章 法華経最第一を明かす

法華経は一代聖教の肝心、八万法蔵の依りどころなり。大日経・華厳経・般若経・深密経等の諸の顕密の諸経は、震旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教、恒沙塵数なり。大海を硯の水とし、三千大千世界の草木を筆としても、書き尽くしがたき経々の中をも、あるいはこれを見、あるいは計り推するに、法華経は最第一におわします。

 

現代語訳

法華経は一代聖教の肝心であり、八万法蔵の依りどころである。仏法には大日経・華厳経・般若経・解深密経等の、諸の顕経・密経の経典がある。それらの経典は、中国・インド・竜宮城・天上界にまで弘められ、十方世界の国土における諸仏が説いた教法はガンジス河の沙塵のように無数である。これらの、大海を硯の水とし、三千大千世界の草木を筆としても書き尽くしがたいほどの経々の中において、あるいはこれらの諸経を見、あるいはその内容を計り推考してみても、法華経は諸経の中で最第一の位置にあるのである。

 

語釈

法華経

釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。

 

一代聖教

釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。

 

八万法蔵

煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

華厳経

正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。

 

般若経

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

深密経

解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。

 

顕密の諸経

顕教・密教を説いている種々の経典のこと。真言宗の教判で、大日の三部経を法身仏を説く密教の経典とし、それ以外の一切の経典を報身・応身仏である釈尊が衆生の機根に応じて説いた顕教の経典とするもの。

 

震旦

中国の歴史的呼称。真丹・真旦とも書く。梵語チーナ・スターナ(Cīnasthāna)の音写。チーナは秦の音写で「支那」の語源という。スターナは地域・場所の意。玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。おもに仏典の中で用いられた。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

竜宮

水底、または水上にあるとされる竜族の王城。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。また竜樹菩薩伝によると、竜樹菩薩が大竜菩薩から仏法の奥義を授けられた模様が記されている。「大竜は菩薩の、その是の如くなるを見、惜んで之を愍み、即ち之を接して海に入り、宮殿の中に於て、七宝の蔵を開き、七宝の華函を発き、諸の方等深奥の経典、無量の妙法を以て之に授け」と。

 

天上

天上界のこと。十法界のひとつで三界二十八天に細別される。三界とは欲界・色界・無色界をいい、欲界に四天王、忉利天・耶摩天・兜率天・化楽天・他化自在天の六欲天、色界に初禅の三天、二禅の三天、三禅の三天、四禅の九天の十八天、さらに無色界に空処、識処、無所有処、非想非非処の四色天があり、全部で三界二十八天となる。

 

十方世界

「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。

 

恒沙塵数

恒沙とは恒河沙の略で、ガンジス川の砂のこと。塵数とは塵の数のこと。ともに数えることができない数字を示した語。

 

三千大千世界

古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。

 

講義

法華経は一代聖教の肝心であり、八万法蔵の依拠とすべき経典であり、十方世界の諸仏の説かれた経々の中で最第一であることをまず述べられている。

日蓮大聖人が、本抄冒頭に、法華経こそが最勝の経典であることを標示されたのは、師匠の道善房が法華経の信仰に目覚めはじめたことを義浄房・浄顕房の報告から聞かれて、道善房の法華経への信心をさらに強固にしたいという報恩の一念のためであったと思われる。

さて、釈尊の説かれた一代聖教は、八万法蔵と呼ばれ、膨大な量にのぼる。そのなかには、大日経、華厳経等の顕密の諸経があり、中国、インドから竜宮、天上界にまで流布された。さらに十方世界の諸仏の説かれた経典にいたっては恒沙塵数であるが、これらの無量無辺の経々を、あるいは直接に見、あるいは推察しても、法華経に勝る経典はないと断言されている。

いま本文で「顕密の諸経」と述べられているのは、一往は、一般的な顕密の立てわけである真言密経の教判を用いられたと考えられる。しかし、密経の根本的な意味は、仏のみが知る悟りの教えということであり、権実相対の立場からいえば、「顕経」とは法華経以外の経々をさし、「密経」とは釈尊内証の秘密の法門を説いた法華経である。

さらに、種脱相対を明かす日蓮大聖人の元意からすれば、真実の「密経」は、法華経の寿量文底に秘沈された大法であり、成仏根源の一法である三大秘法の南無妙法蓮華経であることを知らねばならない。

この御書は佐渡以前でもあり、また、道善房がようやく念仏を捨てて法華経に目覚めたところでもあるので、権実相対の立場で法華最第一を主張するにとどまり、本迹、種脱という真実の「密経」にまでは説き及んでおられないのである。

つぎに本文には、「顕密の諸経は震旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教恒沙塵数なり……或は此れを見或は計り推するに法華経は最第一におはします」と記されている。

この御文について、中国、日本に渡来した経典の中では、日蓮大聖人が読まれ、判断されたように、たしかに法華経が最第一であるかもしれないが、竜宮や、天上界、十方世界には法華経よりも勝れた経典があるのではないかという疑問を起こす人も当時いたのであろう。

本文では、簡単に「或は計り推するに」と述べるにとどめておられるが、日蓮大聖人は報恩抄で、こうした疑問に対して、次のように詳細な解答を示されている。

「或る人疑つて云く漢土・日本にわたりたる経経にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも月氏・竜宮・四王・日月・忉利天・都率天なんどには恒河沙の経経ましますなれば其中に法華経に勝れさせ給う御経やましますらん、答て云く(中略)法華経の法師品に釈迦如来金口の誠言をもつて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く『我所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説ん而も其の中に於て此法華経は最も為難信難解なり』等云云、此の経文は但釈迦如来・一仏の説なりとも等覚已下は仰いで信ずべき上多宝仏・東方より来りて真実なりと証明し十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ、已今当の三字は五十年並びに十方三世の諸仏の御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説せ給いて候を十方の諸仏・此座にして御判形を加えさせ給い各各・又自国に還らせ給いて我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説せ給はば其の所化の弟子等信用すべしや」(0295:13)。

この御文に明瞭なごとく、法華経法師品に説かれる〝已今当〟の三字は、多宝如来が〝真実〟と証明を加え、十方分身の諸仏が広長舌を出して証明されたところであって、釈尊五十年の説法はもとより、十方三世の諸仏の御経を一字一句も残さず集めて、法華経と比べられた金言なのである。

したがって、法華経は、釈尊の説かれたあらゆる経典、並びに、十方三世の諸仏の説いた経々の中で、最も難信難解であり、最第一の経典であることが明らかである。

なお、報恩抄では、この御文に引きつづいて、梵天、帝釈、日月、四天、竜王等も法華経の会座に連なっていたのであるから、月氏、竜宮、四天、日月等の宮殿にも法華経に勝れたる経典はありえないと強調されている。

 

法華経は一代聖教の肝心・八万法蔵の依りどころなり

 

この御文に、法華経の一代聖教の中で占める位置が示されている。同時に、釈尊が法華経を出世の本懐とされたゆえんが明かされている。

釈尊は五十年間の説法の中で、四十二年間は爾前経を説き、最後の八年間に法華経を説いたといわれる。

今、爾前経と法華経とを法体の面から比較してみると、爾前経は部分的・表面的真理を説いているのに対して、法華経は全体的・根本的真理を説いている。

まず、爾前経は、蒙古使御書に「己心の法を片端片端説きて候なり」(1473:08)と述べられているように、生命の法理を種々の角度から説いたものである。八万法蔵といわれるように、人間の持つ煩悩を打破する法を、さまざまな法理として展開されたのが爾前経である。

それに対して、法華経は、生命の全体像を示し、また生命の全体を包括する本源的な法理が説かれている。

法華経の開経とされる無量義経に「無量義とは、一法従り生ず」とあるが、生命のあらゆる現象、すなわち無量義は本源をたずねると一法に収斂していく。その一法を説き示そうとしたのが法華経である。

法華経は、生命の根源の一法を示そうとしているが故に、一代聖教の肝心であり、肝要の経典となるのである。また、法華経は、生命の全体的真理を説いているが故に、他のあらゆる経典の依拠となるべき位置を占めることになる。

部分的真理は、それ自体では、生きた真理としては働かない。全体的真理の中に位置づけられ、全体を貫く本源の一法を依りどころとしてはじめて、真理としての生きた働きを発現させるのである。

例えば、人間の身体は、種々の器官や組織から成り立っている。だからといって、これらの部分を寄せ集めたとしても、人間身体としての営みは生じてこない。

人間一個の身体という全体の働きのなかに位置づけられ、人間全体の生命の本源力に生かされてはじめて、各部分は本来の働きをなすことができるようなものである。

法華経の全体的・根源的真理の中で、はじめて、爾前経の部分的・表面的真理は、生きた法理として働くことができる。故に、八万法蔵といわれる一切経は、法華経を拠りどころとしなければならないのである。

だが、法華経が一切経の根本であり、依拠となりうるのは、あくまで、法華経という経典が、生命全体を包括し、貫く根源の一法を説き示しているが故である。この根源の一法こそ、日蓮大聖人の説かれる三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。

日蓮大聖人は三大秘法抄に「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)と述べられている。

つまり、三大秘法こそが、釈尊をはじめとする諸仏が覚り、出世の本懐とした〝一大事〟の法であり、法華経の説こうとした根源の一法なのである。

したがって、法華経が、一代聖教の肝要の経典となり、八万法蔵の依拠の経典となりえたのは、その文底に、三大秘法の南無妙法蓮華経を秘沈している故であることを知らねばならない。

 

 

 

第二章 諸宗の邪義を挙げる

而るを印度等の宗・日域の間に仏意を窺はざる論師・人師多くして或は大日経は法華経に勝れたり、或る人人は法華経は大日経に劣れるのみならず華厳経にも及ばず、或る人人は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る、或る人人は辺辺あり互に勝劣ある故に、或る人の云く機に随つて勝劣あり時機に叶へば勝れ叶はざれば劣る、或る人の云く有門より得道すべき機あれば空門をそしり有門をほむ余も是を以て知るべしなんど申す、其の時の人人の中に此の法門を申しやぶる人なければ・おろかなる国王等深く是を信ぜさせ給ひ田畠等を寄進して徒党あまたになりぬ、其の義久く旧ぬれば只正法なんめりと打ち思つて疑ふ事もなく過ぎ行く程に末世に彼等が論師・人師より智慧賢き人出来して、彼等が持つところの論師・人師の立義・一一に或は所依の経経に相違するやう或は一代聖教の始末・浅深等を弁へざる故に専ら経文を以て責め申す時、各各・宗宗の元祖の邪義扶け難き故に陳じ方を失ひ、或は疑つて云く論師・人師定めて経論に証文ありぬらん我が智及ばざれば扶けがたし、或は疑つて云く我が師は上古の賢哲なり今我等は末代の愚人なりなんど思う故に・有徳・高人をかたらひえて怨のみなすなり。

 

現代語訳

法華経が一代聖教中で最第一であるのを、インド等の宗派や日本の仏教界には、仏の本意を正しく知らない論師や人師が多くいて、ある者は大日経は法華経より勝れているといい、ある人々は法華経は大日経に劣るばかりでなく華厳経にも及ばないといい、ある人々は法華経は涅槃経や般若経や解深密経等よりも劣るといっている。またある人々はそれぞれの面で特色があり、互いに勝劣があるのだから視点を定めて経文の勝劣を判じなければならないという。そして、ある人は衆生の機根に随って勝劣があるのであり、時と機根とに叶えば勝れた経であり、時機に叶わなければ劣る経であるという。ある人は有門の教説によって得道する機根であれば、空門をそしり有門をほめて有門が勝れているとするのであり、その他のこともこのことをもって知るべきである等といっているのである。

その時代の人々のなかに、これらの法門を破折する人がいなかったから、愚かな国王等は深くこれらの法門を信奉されて田畠を寄進し、帰依する信徒も多くなった。

そしてそれらの法門が、時を経て古いものとなると、人々はそれらの法門がきっと正法なのだろうと思ってしまい疑うこともなくなって過ぎていくうちに末世となった。そのとき彼等が帰依した論師や人師よりも智慧の賢い人が出現して、彼等が持つ論師や人師の立義の一つ一つについて、あるいはその立義が依所とする経々と相違しているさまを責め、あるいはその立義が一代聖教の順序や浅深等を弁えていないため、もっぱら経文によってそれらの立義を責め立てたところ、彼等はおのおのの宗派の元祖の邪義を扶けることができないので、返答のしようがなく、ある者は疑って「論師や人師の説は必ず経論にその証拠の文があったのだろう。しかし私の智慧が及ばないから扶けることができない」といい、あるいは疑って〝私の師は上古の賢哲である。いまの私達は、末代の愚人である〟等と思う故に、徳のある人や身分の高い人を味方にして、法華経の行者に対して、怨嫉だけをするのである。

 

語釈

日域

日本国の異称。「じちいき」とも読む。日の出る国。

 

論師

阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

 

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

 

或る人の云く機に随つて勝劣あり……叶はざれば劣る

時機相応を教相判釈の基準とする説。浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を依経とする法然等の主張。

 

或る人の云く有門より得道……余も是を以て知るべし

有門によって成仏する機根があれば空門をそしって有門をほめるように、機にしたがって勝劣があるという意。有門と空門については次項参照。六世紀ごろ南インドに無著、世親系統の大乗の有を宣揚した護法と、竜樹の系統を受け継いで大乗の空門を宣揚した清弁との論争があった。これを「護法清弁有空の争い」という。

 

有門

釈尊の教説中で、諸法は有であると見ることによって、衆生を悟りに導こうとした教門。四門の一つ。門とは能通を意味し、仏教の真理に入るための門ということ。倶舎論・唯識論などが有門にあたる。

 

空門

すべての存在に固定的な実体はなく、一切が空であると観ずることによって、悟りへ導く法門のこと。四門の一つ。

 

有徳

徳行のすぐれた人。富み栄えていく人。

 

高人

高貴な人。身分の高い人。

 

講義

この章は大別して、前後二段に分かれる。

前半の部分では、インド・中国・日本の釈尊の本意を知らない人師・論師の邪義が挙げられ、後半ではその時代の人のなかに彼等の邪義を破る人がいなかったので、愚かな国王や人々が深く信じて信徒となってしまったことが示されている。

さて、法華経最勝という釈尊の本意を知らぬ人師・論師の邪義は、二つの側面から生じたことがわかる。一つは、教法の観点からの邪義であり、他は、機根の観点からの邪義である。

教法の立場からの邪義は、いずれも、自らの所依とする経典が法華経に勝ると主張するものである。

〝大日経は法華経に勝る〟との主張は、東密・台密に共通するものであるが、ここでは主として台密をさしていわれている。それは、慈覚・智証の理同事勝の教判である。また、善無畏三蔵も同様の説を立てている。

つぎの「法華経は大日経に劣れるのみならず華厳経にも及ばず」とは、東密の弘法大師空海の邪説である。

顕謗法抄で、日蓮大聖人は、次のようにいわれている。「真言宗には日本国に二の流あり東寺流は弘法大師・十住心を立て第八法華・第九華厳・第十真言・法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり、天台の真言は慈覚大師等・大日経と法華経とは広略の異・法華経は理秘密・大日経は事理倶密なり」(0454:05)。

この御文に示されるように、東密の弘法は、十住心をもって一代の教法を判じようとして、第八法華、第九華厳、第十真言という教判を立てた。これに対し、天台の真言、すなわち台密は、法華経は理秘密、すなわち諸法実相の理のみが秘密の教であるが、大日経は、理も真言の事も秘密であり、理秘密とともに、印と真言等の事秘密をも説く故に、大日経が勝る、という理同事勝を主張したのである。

さらに「或る人人は法華経は涅槃経・般若経・深密経等には劣る」とあるのは、法雲、慧観、吉蔵、窺基等のことである。教機時国抄には「但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う」(0440:02)と記されている。

以上のように、所依の経典を、その教法のうえで法華経に勝るという者に対して、それとは別に「辺辺あり互に勝劣ある故に」と主張する人師、論師もいた。

つまり、彼等は「それぞれの経典には、他の経典にはない長所があるから、長所とする点では他の経典に勝る。しかし、他の経典の長所とする点では、この経のほうが劣るというように、互いに勝劣があるのである」と主張する。それぞれの経典の長所を互いに尊重しあうべきであるとの言説であるが、これらも一代聖教の高低浅深をおおい隠す邪義であることに変わりはない。

その一例として、機根を中心とする立場からの邪義が挙げられている。或る人は「機に随つて勝劣あり時機に叶へば勝れ叶はざれば劣る」といって、その時代の機根を中心に法を弘めよと主張する。念仏こそ末法の時機相応の教法であると主張する法然等の所説をさしていわれたのであろう。

彼等は、末法という時代の衆生の機根は愚鈍であるから、聖道門である法華経を修行しても成仏ができるはずがないから法華経を捨てよといい、ただ浄土門の念仏を称えて往生することをすすめる。すなわち、理深解微の主張である。そして「念仏は末法の衆生の機根に合っているから勝れており、易行道でもある。それに対し、法華経は難行道であり、鈍根の衆生では理解し難い故に劣っている」と人々をたぶらかして、念仏を弘めたのである。

同じく機根中心の主張例が挙げられている。「或る人の云く有門より得道すべき機あれば空門をそしり有門をほむ」というのがそれである。

有門によって得道する機根の者には、空門をそしって有門を讃するのであり、逆に空門によって得道する機根の者には空門を讃して有門をそしるのであるという。

機根によって勝劣は違ってくるという考え方は、顕謗法抄にも、諸宗の主張として挙げられている。「或は衆生多く小乗の機あれば大乗を謗りて小乗経に信心をまし或は衆生多く大乗の機なれば小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす……或は衆生多く華厳経に縁あれば諸経をそしりて華厳経をほむ」(0456:05)等々と。

以上、教法の立場からにせよ、機根中心の立場からにせよ、法華経を他経に劣るとしたり、あるいは同等としたインド・中国・日本の人師・論師の説は、いずれも仏の本意に背く邪義といわなければならない。

後半の部分では、これらの邪義が弘まり、年久しくなったので、人々が盲目的に正法であろうと信じるようになった末代の世に、人師・論師よりも智慧賢き人が出現して、彼等の立義を破ることが記されている。その智人が日蓮大聖人御自身であることはいうまでもない。

邪義を破折された諸宗の人々は、あわてふためき、弁解し、ついには、有徳者や高位の人をかたらって、智者を怨み迫害するのである。

末代の智人、すなわち日蓮大聖人の諸宗に対する破折は、経文を根本としてなされるが、内容は次の二点に要約される。第一点は、彼等の立義が、彼等自身の所依とする経典に相違していることである。第二点は、一代聖教の前後始終ならびに浅深勝劣をわきまえていないことである。

そして、日蓮大聖人によって、元祖の立義をこのように責められた諸宗の末学等の態度は、次の三とおりに分けられると仰せである。

ある者は、元祖の邪義を大聖人に破折しつくされて、たすけることもできず、全く方途を失ってしまった。

つぎにある者は論師・人師はきっと経や論に何らかの証拠があって義を立てたのであろうが、自分のような者には知ることもできず、先師をたすけえないと嘆き、断念する者である。

第三番目の者は、自分たちの先師は上古の賢人で哲人であり、一方、我々は末代の愚人であるから、どうして、先師の立義をけなすことができようか、ただ、信ずべきのみではなかろうかといって、大聖人の訶責(かしゃく)から逃れようとする。すなわち、時代にことよせて、逃げ道をつくろうとする者である。

 

 

 

第三章 誤りの所以を示す

しかりといへども予自他の偏党をなげすて論師人師の料簡を閣いて専ら経文によるに法華経は勝れて第一におはすと意得て侍るなり、法華経に勝れておはする御経ありと申す人・出来候はば思食べし、此れは相似の経文を見たがへて申すか又人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて候か、智慧おろかなる者弁へずして仏説と号するなんどと思食すべし、慧能が壇経・善導が観念法門経・天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多し、其の外私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり、譬えば天に日月にすぎたる星有りなんど申せば眼無き者は・さもやなんど思はんが如し、我が師は上古の賢哲・汝は末代の愚人なんど申す事をば愚なる者はさもやと思うなり、

 

現代語訳

しかしながら、私は自他への執着や偏りをなげすて、論師・人師の考えを閣いて、もっぱら経文によってみるに、法華経は他の経より勝れて第一であると心得たのである。もし法華経より勝れている経があるという人が出てきたならば、つぎのように考えるべきである。この人は法華経によく似た経文を見誤っていうのであろうか。また人が自分で勝手に経文をつくり、仏説にことよせているのを、智慧の足りない者が、真偽を弁えずに仏説であるといっているのである等と思うべきである。たとえば慧能の壇経、善導の観念法門経等、インド・中国・日本国に自分勝手に経を説いた邪師の数は多い。そのほか自分で経文を作り、経文に自分のことばを加えるなどする人々がこれまた多い。

しかしながら、愚者はこれらを真実の経文であると思うのである。たとえば、天に日月よりまさる星があるなどといえば、盲目の人はそのとおりかもしれないなどと思うようなものである。我が師は上古の賢哲であるが、あなたは末代の愚人ではないか等ということを、愚かな者はそのとおりであると思うのである。

 

語釈

料簡

思いめぐらし考えること。思索すること。

 

相似の経文

法華経が一切経に勝れているというのと相似して他経も勝れていると説く経文のこと。密厳経の「十地花厳等、大樹と神通と、勝鬘及び余経は、皆この経より出ず。是くの如く密厳経は、一切経の中に勝れたり」、涅槃経巻十四の「この諸の大乗方等経典は……仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す」等々、その一例である。

 

慧能が壇経

慧能の言行録である六祖大師法宝壇経のこと。一巻。慧能(06380713)は中国禅宗の第六祖。曹渓の宝林寺に住したので曹渓大師とも呼ばれた。第五祖・弘忍に法を受け、広東省付近を中心に弘教し、禅宗南派の基礎を築いた。壇経は慧能が韶州の大梵寺の檀上で説法したものを、後に門人が集録した。〝経〟と呼ぶのは、後人が慧能を尊んで付けたもの。慧能の生涯の行業と語録が収められているが、後人が付加した部分もある。

 

善導が観念法門経

善導著の観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門のこと。一巻。善導(06130681)は中国浄土教の大成者。終南大師とも呼ばれた。道綽に師事して観無量寿経を学び、30年間、称名念仏の弘教に努めた。観念法門経は三段から成り、阿弥陀仏を観念することの行相・作法と、その功徳について述べ、観念を越えるものとして、称名念仏による修行を勧めている。

 

天竺

古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。

 

邪師

邪な師匠。仏法を正しく伝えず、邪義・邪見をもって衆生を不幸に導き入れる者。

 

経文に私の言を加へ

報恩抄に「玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき」(0307:13)とあり、宝法師は玄奘三蔵の高弟であったが、玄奘が「婆沙論」を訳し終わったとき、非想の見惑について疑問を発した。玄奘は、みずから十六字を論中に加えてその疑問に答えたが、宝法師は、仏語の中に私語を入れるとはもってのほかであるとし、玄奘の門を去った。

 

講義

法華経最第一の正義に反している諸宗の誤りがどこから生じたかを指摘された段である。

本章はまず最初に、日蓮大聖人はもっぱら経文によって諸経を判釈し、法華経こそが最第一であるとの結論を得られたことを示される。

つぎに、これに対し、法華経よりも勝れた経典があるなどという邪義をとなえる人々は、正しく経文をわきまえなかったり、偽経にたぼらかされているのであると、その誤りの根源を衛かれている。

法華経最第一を否定している邪義の生じた根源には、次の三とおりがあるとされる。

第一は、相似の経文に迷って、自らの所依の経典が法華経より勝れていると錯覚するのである。

つまり、法華経所説中の文と似かよった文が他の経典にもあるから、それを見誤って、法華経より勝ると判断してしまうのである。

法華経最第一の文を挙げると、法華経薬王菩薩本事品には「諸経の中に於いて、最も為れ其の上なり」、「此の経も亦復た是の如く、諸経の中の王なり」、等の文がある。また、法師品には「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」の文がある。

これらの法華経の文と、他経の相似の文を見誤るのである。例えば、語訳に示したように、密厳経には「是の如く密厳経は、一切経の中に勝れたり」とあり、ここから密厳経は一切経の中の王であると誤認してしまうのである。

しかし、密厳経のこの経文の意味は、華厳、勝鬘等の、それ以前の経に対しての〝勝〟であり、〝王〟であって、そこには法華経は含まれていないのである。法華経の薬王品や法師品の〝已今当〟の文に及ぶはずがないのである。

また、これも語訳に示すように、涅槃経にも、涅槃最勝をあらわすかのような文が記されている。しかし、涅槃経の方が勝るとする諸大乗経には、十二部経、修多羅、方等経、般若波羅蜜経等が列挙されているが、法華経は挙げられていない。つまり、法華経を除く諸大乗経の中では、涅槃経が最勝であり、王であるといっているにすぎないのである。

その他、阿弥陀経や大日経等にも、相似の経文はあっても、法華経のように、釈尊一代の経典すべてと自経とを比較して、大王であり、最勝であると説いたものは全くないのである。

他の経典が、たとえ王であるといっても、それは、ある範囲内での王であるにすぎず、部分的なものである。

それに対し法華経は、すべての諸経の大王であり、釈尊所説の経のみならず三世十方の諸仏の一切経に比して最勝なのである。

法華取要抄にも、相似の経文を引用されて次のように記されている。

「所謂金光明経の『是諸経之王』密厳経の『一切経中勝』六波羅蜜経の『総持第一』大日経の『云何菩提』華厳経の『能信是経・最為難』般若経の『会入法性・不見一事』大智度論の『般若波羅蜜最第一』涅槃論の『今者涅槃理』等なり、此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり・然りと雖も或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王なり或は小乗経に相対すれば諸経の中の王なり或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず」(0332:02)。

このような明瞭な違いがわからず、ただ、法華経の御文と似た文が他経にあるからといって、法華経最勝への説の疑難をなすのは全く愚かといわなければならない。

第二に、愚癡の故に誤ったのではなく、経文を偽作して、仏説であると詐称する者がいる。全く悪質な詐術であるが、それ等の人師・論師の邪義を聞いた愚者は、この事を弁えずに、かえって、仏説であるといわれれば、そのまま信じてしまうのである。

偽経の実例として、日蓮大聖人は、慧能の作である壇経、善導の作である観念法門経を挙げられている。

第三に、偽経とまではいかなくても、経典の中にある文を自分勝手に作ったり、そこに自分の意見を加えたりした人も、少なくないのである。

こうして、彼等は、経典の文を書き換え、経典の真意を失わせてしまったのである。ところが、愚かな者は、人師・論師が書き加えた文に惑わされて、法華経に勝る経典があるなどと信じてしまっている。

このように、法華経最勝を否定し背いている教説はいずれも正当な根拠のないものであり、愚癡か邪見の故の誤りであることを知らなければならない。

 

 

 

第四章 天台・伝教の例を引く

此の不審は今に始りたるにあらず陳隋の代に智顗法師と申せし小僧一人侍りき後には二代の天子の御師・天台智者大師と号し奉る、此の人始いやしかりし時・但漢土・五百余年の三蔵・人師を破るのみならず月氏・一千年の論師をも破せしかば南北の智人等・雲の如く起り東西の賢哲等・星の如く列りて雨の如く難を下し風の如く此の義を破りしかども終に論師・人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき、日域の桓武の御宇に最澄と申す小僧侍りき後には伝教大師と号し奉る、欽明已来の二百余年の諸の人師の諸宗を破りしかば始は諸人いかりをなせしかども後には一同に御弟子となりにき、此等の人人の難に我等が元祖は四依の論師・上古の賢哲なり汝は像末の凡夫愚人なりとこそ難じ侍りしか、正像末には依るべからず実経の文に依るべきぞ人には依るべからず専ら道理に依るべきか、外道・仏を難じて云く「汝は成劫の末・住劫の始の愚人なり我等が本師は先代の智者・二天・三仙是なり」なんど申せしかども終に九十五種の外道とこそ捨てられしか。

 

現代語訳

この不審は今に始まったことではない。陳・隋の代に智顗法師という小僧が一人いた。後には二代の天子の御師となり、天台智者大師といわれたのである。この人が初め身分の低かったころ、ただ中国の五百余年間の三蔵や人師を破折しただけではなく、インド一千年間の論師をも破折したので、南北の智人等は雲の如く起こり、東西の賢哲等は星の如く列なって、雨のように非難をあびせ、風のように智顗の義を破ろうとしたけれども、終に智顗は論師・人師の偏頗な邪義を破して天台一宗の正義を立てたのである。

また日本の桓武天皇の御宇に最澄という小僧がいた。後には伝教大師といわれた人である。彼は欽明天皇以来の二百余年間の諸の人師の立てた諸宗の邪義を破折したので、初めは諸人が怒りをなしたが、後には諸人一同に最澄の弟子となった。

この天台・伝教を非難した人々は「我等の元祖は四依の論師・上古の賢哲である。しかるに、汝は像法の末の凡夫であり愚人ではないか」といった。しかし主張の邪正は正法・像法・末法という時代には依るべきではない。実経の文に依るべきである。人には依るべきではない。もっぱら道理に依るべきであろう。外道は仏を非難して「汝は成劫の末・住劫の始めの愚人である。我らの本師は先代の智者・二天・三仙である」などといったけれども、終に九十五種の外道といわれて捨てられたのであった。

 

語釈

陳隋

中国の王朝である陳王と隋王のこと。陳朝は05570589、隋朝は陳朝を滅ぼして南北に分裂していた中国を統合した。(05890619)。

 

智顗法師

05380597)。天台大師のこと。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。智顗は諱字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。

 

天台智者大師

05380597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。

 

三蔵

①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。

 

南北の智人

南北の十師をいう。中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三師・北に七師の合わせて十師に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。

 

東西の賢哲

東西の賢人・哲人のこと。

 

桓武

737806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。

 

最澄

07670822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

伝教大師

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

欽明

(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(055210月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。

 

四依の論師

仏滅後、正法を護持し、衆生の拠り所となる論師のこと。人の四依ともいう。涅槃経巻六には、①具煩悩性の人(三賢の位にある声聞)。②須陀洹・斯陀含の人(声聞四果のうち初果、二果を得た人)。③阿那含の人(声聞四果のうち三果を得た人)。④阿羅漢の人(声聞四果の最高位で見思惑を断じ尽くした人)とある。

 

正像末

仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

実経

真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

成劫

仏教では世界が成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫を循環すると説く。ただし俱舎論等の説である。

 

住劫

四劫のひとつ。そこにもろもろの有情が誕生し、存続する期間をいう。

 

二天

もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天、マヘシバラ(Maheśvara)と音写し大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写し遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。

 

三仙

インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派の開祖。漚楼僧佉は、同じくインド六派哲学の一つ、勝論学派の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道の開祖であるといわれている。

 

九十五種の外道

釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。

 

講義

末代の智慧賢き人として出現された日蓮大聖人が、経文を根本に法華経第一の正義を立てたのに対して、諸宗は種々の迷見、邪義をかまえて言い逃れをしたり、また弁解しようとする。

彼らが自己正当化の根拠としたのは、我が師は上古の賢哲・汝は末代の愚人ということであり、時代の上下をもって、自宗の師を権威づけることであった。

そこで、日蓮大聖人は、この章で、このような誤りは今に始まったことではないといわれ、天台大師、伝教大師が同じような非難を浴びながら、経文を根本として諸宗の邪義を論破した実例を挙げられる。

そして、天台大師、伝教大師のごとく、法華経の文を明鏡として、諸宗の邪義を破折されている日蓮大聖人こそ、末代の智者であり、末法の法華経の行者であることを立証されるのである。

まず最初に、中国の陳・隋の時代に現れ、国主の御師とあおがれた天台大師の事例が述べられている。

この人がまだ身分の低かった小僧のころ、漢土に仏法が伝来してから五百余年の間に現れたあらゆる三蔵や人師等の所説を研究し多くの誤りがあることを発見した。

そこで天台大師は、彼等を破折したばかりではなく、さらに、インド一千年間の論師等の所説にも破折を加えられたので、南北の諸師が雲のごとく起こって天台大師の論説を非難、攻撃した。しかし、ついに天台大師は彼等の偏見や邪義を破って、その誤りを明らかにし、正義を興隆したと述べられる。

つぎに、伝教大師の例が挙げられている。日本の桓武天皇の時代に伝教大師最澄はまだ有名でなかったころ、欽明天皇の当時に渡来して以来の二百余年間に流布していた諸の人師の諸宗を破折された。それに対して諸宗の人々は、はじめは怒り、伝教大師を憎んだが、後には皆、伝教大師に帰依したのである。報恩抄には、伝教大師の諸宗との公場対決の様子を、次のように記されている。

「而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あつて七寺の碩徳十四人・善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わす、華厳・三論・法相等の人人・各各・我宗の元祖が義にたがはず最澄上人は六宗の人人の所立・一一に牒を取りて本経・本論・並に諸経・諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ」(0303:06)。

このような天台大師・伝教大師の諸宗破折のときも、諸宗の僧たちは「我等が元祖は四依の論師であり、上古の賢人であり哲人である。しかるに、汝は像法の中末の愚人ではないか」と難じた。

だが、教法の正邪は、あくまで、真実の経にどのように説かれているかを根本にすべきであり、また、弘める人に依るのではなく、あくまでも道理に依るべきである。

天台大師・伝教大師も、上代の人師・論師の言説に左右されることなく、法華経の道理をもって訶責されたので、無数の疑難も破れ、正義があらわれたではないか、との仰せである。

諸宗のあおぐ人師・論師等が賢哲ではなく、暗師であり、愚人であることについては、曾谷入道殿許御書でも次のように述べられている。

「漢土の三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観・真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり」(1034:16)。

本章で、日蓮大聖人は、釈尊も時代の上下をもって外道から非難された例を挙げ、しかし、正しい教えが勝利を得ることを強調されている。すなわち、外道が、いかに「自分の本師は先代の賢者であり、二天・三仙といわれる聖者であるのに対して、釈尊は成劫の末、住劫の始めに出現した愚人である」などと釈尊をののしっても、釈尊の説かれた仏法が勝利を収め、外道はことごとく破れ去り、捨て去られたのである。

このように、教法の正邪は、上古の人の説だから正しく、後代の人の説は劣り誤るのではなく、あくまで法の内容によって決定されるというのが日蓮大聖人の御確信である。

 

正像末には依るべからず実経の文に依るべきぞ人には依るべからず専ら道理に依るべきか

 

教法の正邪を判釈するには、何によるべきかの基準を述べられた御文である。

時代が釈尊在世に近いから、その時の人師・論師の説が正しいとは限らない。また、逆に釈尊在世から遠く離れた像末や末法の時代の人だからといって誤りであるときめつけることはできないのである。

日蓮大聖人は、星名五郎太郎殿御返事で、次のように述べられている。

「其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず」(1206:11)。

すなわち、世人はその常として遠きことを貴び近きことを賎む傾向があるが、それは愚者の考え方である。もし、昔の人師・論師の説いたことでも、道理に反するものであれば、これを破折しなければならない。逆に、末代の人の説いたことでも、正理であれば、これを用いるべきであるとの仰せである。

では、道理に反するか否かは、どのようにして判断するのかといえば、それは、釈尊の悟りをあらわされた経典、すなわち、真実の経、法華経の文に依るべきなのである。

聖愚問答抄には、涅槃経の文、天台大師、伝教大師の文を引かれて、次のように述べられている。

「されば我等が慈父・教主釈尊・雙林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵・法門を説き給ふとも経文を手に把らずば用ゐざれとなり、天台大師の云く『修多羅と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず』文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』文、前の釈と同意なり、竜樹菩薩の云く『修多羅白論に依つて修多羅黒論に依らざれ』と文、意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり」(0481:17)。

ここに述べられたように、人師・論師ではなく経文に依るべきであり、その経文も方便権経でなく実経の文でなければならない。

涅槃経に説かれる法の四依は「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」の四句で表現されている。

このうち、法に依りて人に依らざれ、とは、人の説に依らず、法、すなわち仏法に依るべきだということである。

第二の、義に依りて語に依らざれ、とは、ことばの表面にとらわれず、仏の説かんとされた義に依るべきであるということである。

第三に、智に依りて識に依らざれ、とは、菩薩以下の識ではなく、仏の智慧に依るべきことを示している。

第四は、仏の智慧は了義経に顕れるが故に、不了義経ではなく、了義経に依らなければならないというのである。了義経とは、仏が自らの真意を余すところなく説き示した経ということである。

故に、日蓮大聖人は、報恩抄に涅槃経の法の四依を明かした後、「されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか」(0294:14)といわれるのである。

本文において、日蓮大聖人は、正像末という時代にとらわれ、上代の人師・論師の説をそのまま信じるのは愚人のすることである。賢者ならば、人の説を捨て去って仏法の道理に依るべきである。しかし、真実の道理は、仏の悟りにのみあらわれ、それを説く経典が法華経である故に、法華経の文に依って、教法の正邪を知ることができるのである。それこそ、邪師の邪義にまどわされない賢者の道である、と仰せられているのである。

 

 

 

第五章 真言の邪義を破す

日蓮八宗を勘へたるに法相宗・華厳宗・三論宗等は権経に依つて或は実経に同じ或は実経を下せり、是れ論師人師より誤りぬと見えぬ、倶舎・成実は子細ある上・律宗なんどは小乗最下の宗なり、人師より論師・権大乗より実大乗経なれば真言宗・大日経等は未だ華厳経等にも及ばず何に況や涅槃・法華経等に及ぶべしや、而るに善無畏三蔵は華厳・法華・大日経等の勝劣を判ずる時・理同事勝の謬釈を作りしより已来或はおごりをなして法華経は華厳経にも劣りなん何に況や真言経に及ぶべしや、或は云く印・真言のなき事は法華経に諍ふべからず、或は云く天台宗の祖師多く真言宗を勝ると云い世間の思いも真言宗勝れたるなんめりと思へり、日蓮此の事を計るに人多く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり、粗余処に注せり見るべし又志あらん人人は存生の時習い伝ふべし人の多く・おもふには・おそるべからず、又時節の久近にも依るべからず専ら経文と道理とに依るべし、

 

現代語訳

日蓮が八宗を考察してみるに、法相宗・華厳宗・三論宗等は権経を依経として、あるいは権経は実経と同じであるとしたり、あるいは実経を権経より低い教えであると下している。これは論師・人師から誤ったものと思われる。倶舎宗・成実宗は子細があるうえ、律宗などは小乗教の中でも最も低い宗である。人師より論師が勝れ、権大乗経より実大乗経が勝れるのであるから、真言宗とその依経である大日経等は、いまだ華厳経等にも及ばない。まして涅槃経・法華経等に及ぶはずがないのである。ところが善無畏三蔵が華厳経・法華経・大日経等の勝劣を判定した時、理同事勝の誤った解釈を作って以来、あるいは思い上がって「法華経は華厳経にも劣るであろう。まして真言経に及ぶことがあろうか」、あるいは「法華経に印・真言のないことは争う余地もないことである」といい、あるいは「天台宗の祖師の多くも真言宗が勝れているといい、世間の人々も真言宗が勝れているのであろうと思っている」という。日蓮はこの事を考えるにあたり、多くの人々が迷うことなので事細かに考えたのである。大略は他の書に記しておいたので見ておきなさい。また志がある人々は、存生の間によく習い伝えるべきである。

多くの人が思っているからといって、おそれてはいけない。また、その教義が立てられて年を経ているとか、新しいとかに依るべきでもない。ただ経文と道理とに依るべきである。

 

語釈

八宗

日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。

 

法相宗

南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、諸法はすべて衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の邪説を立てている。日本伝来については四伝あり、孝徳天皇白雉4年(0653)道昭が入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。

 

華厳宗

南都六宗の一つ。華厳経を所依とする宗派のこと。中国・唐代の杜順によって開かれ、法蔵によって大成された。日本には天平8年(0736)、唐の道璿により華厳経典が伝来し、天平12年(0740)新羅の審祥が講経し、その教えを受けた良弁が東大寺で宗旨を弘めた。教義は、一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという全宇宙を統一する理論である法界縁起を立て、これによってすみやかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。

 

三論宗

南都六宗の一つ。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不(不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。日本には推古天皇33年(062511日、吉蔵の弟子の高句麗僧・慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもった以外は、法相宗に吸収された。

 

権経

権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。

 

倶舎

倶舎宗のこと。南都六宗の一つ。45世紀頃のインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、訳して付法蔵という。教義は、小乗有門(我空、法有)の思想を根拠とする。中国では、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に大いに研究されたが、一宗派を形成するにはいたらなかった。

 

成実

成実宗のこと。南都六宗の一つ。4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。5世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。教義は、自我も諸法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七(二十七賢聖)に分け、煩悩から脱することを説いている。日本へは三論宗とともに渡来して南都六宗の一つとされたが、一宗を成すに至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。

 

律宗

南都六宗の一つ。戒律を受持する実践によって涅槃の境地を得ようとする。中国では代表的なものとして、唐代初期に道宣が四分律を依拠として南山律宗を開いた。日本へは、道宣の孫弟子である鑑真が天平勝宝5年(0753)薩摩(鹿児島県)坊津に到着、翌年入京して伝えた。鑑真は天平宝字3年(0759)唐招提寺を開いた。

 

小乗最下の宗

小乗教のなかでも最も劣った宗。

 

権大乗

大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。

 

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。

 

善無畏三蔵

063780735)。中国・唐代の僧。中国に密教を伝えた最初の人といわれる。宋高僧伝巻二によれば、もと中インドの人で、王子として生まれた。王位についたがすぐ兄に位を譲って出家し、マガダ国の那爛陀寺に行き、達摩掬多に従い密教を学ぶ。開元4年(0716)に中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられ、「大日経」七巻などを翻訳し、「大日経疏」20巻を編纂した。とくに、大日経疏において、天台大師の一念三千の義を盗み入れ、大日経は法華経に対し理同事勝であるとの邪義を立てた。金剛智、不空と合わせて三三蔵と呼ばれた。

 

理同事勝

真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。

 

真言経

大日経・蘇悉地経・金剛頂経、真言三部経をいう。

 

印・真言

印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。

 

天台宗

天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。

 

講義

本章から日本において歴史と伝統を誇ってきた八宗の検討に入られるのである。本章では、最初に、八宗中でも奈良仏教の六宗について述べられている。

法相宗・華厳宗・三論宗の三宗は、ともに大乗仏教として伝来したものである。これらの諸宗は、解深密経・華厳経・般若経等の権大乗経を依経とし、それぞれの依経は或は法華経に同じであるといったり、或は法華経に勝れるなどといっている。

このような邪義の根源は、論師・人師等が誤って立てたところにあり、経文を正しく検討すれば、その誤りは明白である。この三宗の教義については、顕謗法抄に明快に述べられている。

「華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす、南三・北七・並に華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師・此の義なり、法相宗は三時に一代ををさめ其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす、深密・法華の中・法華経は了義経の中の不了義経・深密経は了義経の中の了義経なり、三論宗に又二蔵・三時を立つ三時の中の第三・中道教とは般若・法華なり、般若・法華の中には般若最第一なり」(0454:01)。

華厳宗の法蔵は、五教教判を立て、華厳経と法華経とはともに円経であるが、そのなかでも三乗に同じて説いた同教一乗である法華経は劣り、三乗とは別にただ一乗を説く別教一乗、すなわち華厳経が勝れるとする。

法相宗では、有教・空教・中道教の三時教判を立てる。中道教は最も勝れた了義経で、その中に解深密経と法華経が含まれるが、法華経は五性各別を明かさざる故に不了義経であり、解深密経はこれを明かす故に真実の了義経であるという邪義を立てる。中国の法相宗の開祖、慈恩等は、この説をとっている。

三論宗では、声聞蔵、菩薩蔵の二蔵説、または心境俱有(小乗経)、境空心有(法相大乗経)、心境俱空(無相大乗経)の三時教判を立てる。三時教判は、智光の立てたものである。この三時のうち、第三時教を中道教と名づけ、法華経と般若経はともにこの中に含まれるとする。しかし、そのなかでも般若経は、八不中道畢竟空を説くから第一であるとする。三論宗は、中国の吉蔵によって作られた宗派である。

ともあれ、華厳の法蔵、法相の慈恩、三論の吉蔵等の人師・論師は、いずれも自宗の依りどころとする権大乗経を実大乗経の法華経よりも勝れるとの邪義を立てたのである。

つぎに、俱舎・成美・律の各宗は小乗宗である。このうち、俱舎・成美の二宗についてはここで「子細ある上」といわれるのみである。

これは、俱舎・成美の二宗が、日本では学問の宗として取り入れられたが、独立した宗派を形成せず、俱舎は法相宗の、また成美は三論宗の付宗とされてきたことからこういわれたのであろう。

律宗は、日本において、独立した宗派を形成したが、これは小乗最下の宗である故に、とりたてて論ずるほどのこともないとの仰せである。

さて、大日経ははるかに法華経に劣るにもかかわらず、これを曲げて、法華経より大日経が勝れるとの邪義を立てたのが真言宗であった。真言宗の邪義は、善無畏三蔵が理同事勝の謬釈を作ったことから始まる。

善無畏三蔵については、本抄の後半で、その理同事勝の邪義を破するとともに、彼が頓死して地獄に堕ちたことにふれられている。この章では、善無畏三蔵が理同事勝を立てて以来の真言宗の経過を述べるにとどめられている。

善無畏三蔵が、大日経は法華経に対して理同事勝であるという邪義をつくりあげた経緯については、開目抄や撰時抄等の諸抄に述べられている。

開目抄には「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり」(0215:18)とある。

大日経には、二乗作仏も久遠実成も説かれていず、したがって一念三千の理がないにもかかわらず、善無畏三蔵は、大日経の「心実相」「我一切本初」の文が、一念三千・久遠実成に相当するとして、天台の法義を盗み入れて真言宗の肝心とした。のみならず、そのうえに印と真言は法華経にはなく大日経にあると主張して、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理は両方とも一念三千であるが、印と真言という事相において真言が勝れていると主張したのである。これが、善無畏三蔵の立てた理同事勝の邪義である。

日本の真言宗は、この邪義をさらに進めて、法華経は華厳経にも劣る、まして真言経にははるかに及ばない等の大謗法の悪義を立てたのである。

また、印と真言が法華経にないことは確かであるから、この点では真言経と諍えないであろう、という者もいる。あるいは、天台宗の開祖も、真言宗が勝れているといっており、世間の人々もそのように思っているようである、という者もいる。

いまここで挙げられた、法華経は大日経よりも三重の劣であるとの邪見を立てたのは日本の弘法であった。彼は、大日経の住心品によって十住心を立てて顕密両教の勝劣を判じたのであるが、しかし、住心品には全く法華経が華厳経に劣るなどということは説かれていないのである。この点について、日蓮大聖人は、法華真言勝劣事の中で詳しく破折されている。

ここで「天台の祖師」というのは、慈覚、智証等のことである。彼らは、善無畏三蔵の理同事勝の邪義をそのままとり入れたのである。座主自ら、なぜこのような重大な誤謬に陥るにいたったか、不可解という以外にないが、それだけ天台仏法は難解であったといえるし、またより根本的には正法を伝えることが至難であるということでもあろう。

これらの真言の邪義破折については「粗余処(ほぼよそ)に注せり見るべし」といわれているのであるが、その著作とは、前引の法華真言勝劣事をはじめとして、真言七重勝劣事、真言天台勝劣事等の諸抄を意味されていると思われる。

 

 

 

第六章 念仏の邪義を破す

浄土宗は曇鸞・道綽・善導より誤り多くして多くの人人を邪見に入れけるを日本の法然・是をうけ取つて人ごとに念仏を信ぜしむるのみならず天下の諸宗を皆失はんとするを叡山・三千の大衆・南都・興福寺・東大寺の八宗より是をせく故に代代の国王・勅宣を下し将軍家より御教書をなして・せけどもとどまらず、弥弥繁昌して返つて主上・上皇・万民等にいたるまで皆信伏せり。
 而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず、なににつけてか南都・北嶺のとどめがたき天子の虎牙の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども経文を亀鏡と定め天台・伝教の指南を手ににぎりて建長五年より今年・文永七年に至るまで十七年が間・是を責めたるに日本国の念仏・大体留り了ぬ眼前に是れ見えたり、又口にすてぬ人人はあれども心計りは念仏は生死をはなるる道にはあらざりけると思ふ、

 

現代語訳

浄土宗は曇鸞・道綽・善導から誤りが多くて、多くの人々を邪見に入れてしまったのを、日本の法然はこの浄土宗を受け取って、人ごとに念仏を信じさせただけでなく、国中の諸宗を皆滅ぼそうとした。そこで、比叡山の三千の大衆や奈良の興福寺、東大寺などの八宗がこれを防いだので、代々の天皇は勅宣を下し、将軍家からは御教書を下して防いだけれども止められず、ますます繁昌して、かえって天皇、上皇、万民等にいたるまでみな信状するようになった。

ところが日蓮は安房の国・東条の片海の磯に住む賎民の子である。威徳もなく有徳の者でもない。奈良や叡山が防ぎ止めることができず、さらに天皇の威力によっても制止できない念仏を、どうして防ぐことができるだろうかとは思うけれども、経文を亀鏡と定め、天台・伝教の指南を手にして建長五年から今年・文永七年に至るまで十七年の間、念仏を責めたので、日本国の念仏はだいたい防ぎ止め終わった。このことは眼前に見えるところである。また口には念仏を捨てていない人はあっても心の中では念仏は生死を離れる道ではなかったのだと思っている。

 

語釈

浄土宗

阿弥陀仏の本願を信じその名号を称えることによって、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期する宗派。中国では浄土教として廬山の慧遠流・道綽善導流・慈愍流の三派に分かれるが、南北朝時代の曇鸞、唐代の道綽、善導によって独立大成した。日本では平安時代末期に法然が浄土の三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)と浄土論の三経一論に依り、善導の教判を受け、専修念仏義を立てて開宗した。法然の専修念仏が世に弘まるにつれ、延暦寺・興福寺などの訴えによって、建永2年(12072月、念仏禁止の宣旨が出された。

 

曇鸞

04760542)。中国浄土教の祖師の一人。北魏代の人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽でインドから来た訳経僧の菩提流支に会い、観無量寿経を授かり浄土教に帰した。竜樹の十住毘婆沙論にある難行道・易行道を解釈し、念仏を易行道とし、その他の自力の修行を難行道として排した。汾州(山西省)の玄中寺に住み、平遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」2巻、「略論安楽浄土義」1巻、「讃阿弥陀仏偈」1巻等がある。

 

道綽

05620645)。中国の隋・唐代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。

 

善導

06130681)。中国浄土教善導流の大成者。唐代の人。幼くして出家し、貞観年中に道綽のもとで観無量寿経を学び、念仏を行じた。師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

邪見

仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。

 

法然

11331212)。平安時代末期の人。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、法然房源空と改名した。24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学び、再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(117543歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(高知県)に流された。同年12月に大赦があり、しばらく摂津(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、念仏の一門のみが往生成仏の正行であり浄土三部経以外の一切の経を捨閉閣抛すべきと説いた「選択集」2巻をはじめ、「浄土三部経釈」3巻、「往生要集釈」1巻等がある。

 

叡山・三千の大衆

比叡山延暦寺の僧の数。数字は「平家物語」等による。一説には僧兵を合わせて一万人ともいわれている。

 

南都

奈良のこと。京都(平安京)に対して南に位置するので、都であった奈良をこのように呼ぶ。

 

興福寺

法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。

 

東大寺

聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。

 

勅宣

天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。

 

御教書

摂関政治のころから始まった公文書の一つで、三位以上の公卿において家司が上位を奉じて出すという形式をとる。のち、鎌倉幕府、室町幕府にも取り入れられて、執権・管領などが将軍の上意を奉じて出す形式をとった。執建状ともいう。行政が出す公文書がこれにあたる。

 

主上

天皇を敬っていう語。 至尊。

 

上皇

譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号。または、その尊号を受けた天皇である。上皇と略することが多い。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。また、出家した上皇を、太上法皇(法皇)と称する。ただし「法皇」は通称であり、法的な根拠のある身位ではない。太上法皇も太上天皇に含まれる。

 

安房の国

千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222216日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。

 

東条

安房の国長狭軍東条郷(千葉県鴨川市広場)のこと。

 

北嶺

比叡山延暦寺のこと。

 

天子の虎牙

天子は天に代わって国を統治する者。天命を受けて国民を治める者のこと。虎牙は牙のことであるが、転じて勇士・将軍・権力を意味する。天皇の権力。

 

亀鏡

亀と鏡で模範・手本の意。亀の甲は吉凶を占うために用いられ、鏡はものの姿を映すものであるところからこの意となる。

 

指南

教え示すこと。導くこと。師範の意味。中国唐代の「指南書」の故事によるものとされている。

 

生死

生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。

 

講義

本章では、仏教破壊の浄土宗に対して、これまでとどめようがなかったのを大聖人が破折し、人々を目覚めさせたことを述べられている。

浄土宗は、中国の曇鸞・道綽・善導の誤りを受けついだ法然によって弘まった。それは仏教破壊の邪義であったので、八宗の人々がこれを制止しようと運動し、歴代の天皇の念仏停止の宣旨や将軍家の御教書が出されたが、効きめがなく、ますます弘まって、ついには、主上、上皇まで念仏を信じるようになってしまった。

それに対し、日蓮大聖人が経文を鏡とし、天台大師・伝教大師の指南を手に、破折し責めたことによって日本国の念仏の勢いをその本源から止めることができたと述べられている。所詮、信仰は権力によって止めたり消滅させることはできないのであって、その邪義を打ち破り、人々を正法に目覚めさせる以外にないのである。

さて、浄土宗は、善導等の誤謬を法然が取り入れて邪義をつくり、日本国に弘めたものである。

日蓮大聖人は、当世念仏者無間地獄事で、法然の選択集の内容を次のように述べておられる。

「後鳥羽院の治天下・建仁年中に日本国に一の彗星出でたり名けて源空法然と曰う選択一巻を記して六十余紙に及べり、科段を十六に分つ第一段の意は道綽禅師の安楽集に依つて聖道浄土の名目を立つ(中略)又曇鸞法師の往生論註に依つて難易の二行を立つ第二段の意は善導和尚の五部九巻の書に依つて正雑二行を立つ(中略)下の十四段には或は聖道・難行・雑行をば小善根・随他意・有上功徳等と名け念仏等を以ては大善根・随自意・無上功徳等と名けて、念仏に対して末代の凡夫此れを捨てよ此の門を閉じよ之を閣けよ之を抛てよ等の四字を以て之を制止す」(0104:04)。

聖道門・浄土門の名目を立てたのは道綽である。また、竜樹の立てた難行道・易行道を、聖道門・浄土門とに配したのは曇鸞であり、正雑二行を立て、雑行の者は千中無一であり、正行の者は、十即十生と唱えたのは善導である。

法然は、選択集の中に、これらの邪義をすべて取り入れて、念仏以外の聖道門を捨閉閣抛すべきことを主張したのである。

法然が選択集を完成し、発表したのが、建久9年(11983月である。この選択集をもとに、法然の専修念仏門は当時の末法思想と世の混乱からくる無常観、厭世間に乗じて、みるみる広がっていった。

そこで、元久元年(1204)には延暦寺衆徒が蜂起して、専修念仏の禁止を天台座主に要求している。

元久2年(1205)には、興福寺衆徒が、念仏禁止を後鳥羽院に訴えている。

元久3年(12062月にも、興福寺衆徒が、法然の念仏を訴える。法然の弟子、行空・遵西(じゅんさい)ら即日配流となる。

建永2年(12072月、専修念仏を風俗壊乱の理由で禁じ、遵西・住蓮の二人は死刑にされ、法然は流罪になった。その後、法然は赦免になるが、建暦2年(12121月、死亡する。一時、念仏の勢いはとどまったかに見えたが、ふたたび勢力を強めはじめた。

建保5年(1217)三3月、叡山の衆徒が蜂起し、念仏禁止を訴え、貞応3年(12248月、専修念仏者禁止の令が出されている。

嘉禄三3年(1227)には、最大規模の弾圧が行われ、法然の墓は破壊され、念仏僧隆寛・空阿弥陀仏らは流罪に処せられている。

その後も、念仏禁止の宣旨が出されているが、念仏の弘まる勢いを止めることはできなかった。

それに対し、日蓮大聖人は、東条片海の石中の賤民の子として生まれられ、その生活からも、家柄からもなんらの威徳もなく有徳でもない立場であったが、経文を鏡とし、天台大師・伝教大師の指南をもって十七年間にわたって訶責したところ、日本国の念仏宗の勢いを止めることができた、と仰せである。口では念仏を称えていても、心の中では疑念を生じ、念仏は生死の苦悩を離れる道ではないと思うに至っている者も多い、と仰せである。

日蓮大聖人が念仏の勢いを止めえたのは、経文を根本とし、また、天台大師の立てた教判を用いて、その邪義を破折したからである。

破良観等御書には、日蓮大聖人の邪宗破折が次のように記されている。

「かく申す程に年卅二・建長五年の春の比より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて後に真言宗等をせむるほどに・念仏者等始にはあなづる、日蓮いかに・かしこくとも明円房・公胤僧上・顕真座主等には・すぐべからず、彼の人人だにもはじめは法然上人をなんぜしが後にみな堕ちて或は上人の弟子となり或は門家となる、日蓮は・かれがごとし我つめん我つめんとはやりし程に、いにしへの人人は但法然をなんじて善導・道綽等をせめず、又経の権実を・いわざりしかばこそ念仏者はをごりけれ、今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして専ら浄土の三部経を法華経に・をしあはせて・せむるゆへに、螢火に日月・江河に大海のやうなる上・念仏は仏のしばらくの戯論の法・実にこれをもつて生死を・はなれんとをもわば大石を船に造り大海をわたり・大山をになて嶮難を越ゆるがごとしと難ぜしかば・面をむかうる念仏者なし」(1293:09)。

ここに述べられているように、いかに高僧といわれる人々が念仏を責めても、念仏宗の勢いを弱めさせることができなかったのは、彼等が、ただ法然だけを責めて、その本源である善導等の邪見を破らなかったからであり、また、浄土三部経と法華経との権実を判じなかった故である。

日蓮大聖人は、善導等の人師と法然を一括して破折し、さらに彼等の依経である浄土三部経を権経であり無得道の経典であると訶責(かしゃく)され、法華経のみが真実の経典であり、成仏得道の教えであると正義を立てられたのである。すなわち、天台大師・伝教大師等の使用した教判である権実相対によって、念仏の依経そのものを打ち破ったのである。

念仏の邪義は、当時の高僧といわれた人によっても、また権力によっても制止しえず、むしろますます勢いを盛んにして弘まっていった。あくまで経文を根本として、人師・論師の誤りを打ち破らなければ、その根源を断つことはできなかったのである。これは、念仏に限らず、あらゆる邪悪な宗教についても共通する原理を教えられたものと拝すべきであろう。

 

而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賎民が子なり威徳なく有徳のものにあらず

 

日蓮大聖人は、公家でも武士でもない。安房の国、東条片海という辺地の平凡な庶民の家に生まれられ、世間的な意味では何の威徳もなく、有徳の立場でもなかったが、南都、北嶺の高僧も止めえず、天皇の威力も効果を発揮しなかった念仏の邪義が弘まるのを、経文を根本に破折することによって見事に止められたのである。

ここに、一往、天台大師・伝教大師の後をついで、釈尊の本意である法華経の正義を興隆される日蓮大聖人の立場が明確に示されている。

念仏無間地獄抄には「然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤・大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む」(0101:02)と述べられている。

こうした希代の学僧や智人といわれた人々が、念仏の邪義を破し、これが弘まるのを止めようとしたが、効果がなかった。

これに対し、日蓮大聖人は、威徳もなく有徳でもない立場でありながら、善導の再誕と仰がれ天下無双の智者、山門第一の学匠といわれた法然の選択集をことごとく打ち破られ、のみならず、この邪義が弘まるのを止められた。すなわち、現実に念仏を信仰していた多くの人々を正法に帰させたのである。

再往、日蓮大聖人が賤民の子であり、威徳もなく有徳でもない凡夫僧のお姿で正法を弘められたということは、日蓮大聖人の仏法が、下根下機の末法の民衆を救う大法であることをあらわすと拝せられる。

日寛上人が、開目抄愚記で、日蓮大聖人が下賤の家に生まれられた理由の一つとして「また悲門は下を妙と為す、即ちこれ慈悲の極なり」と述べられているように、日蓮大聖人の仏法が下賤の一切衆生を救うところを妙とするが故に、あえて、凡夫のお姿で下賤の人々の中に御聖誕されたのであり、また、御自身それを誇りとされたのである。

 

 

 

第七章 題目の勝妙なるを教える

禅宗以て是くの如し一を以て万を知れ真言等の諸宗の誤りをだに留めん事手ににぎりておぼゆるなり、況や当世の高僧・真言師等は其の智牛馬にもおとり螢火の光にもしかず只死せるものの手に弓箭をゆひつけ・ねごとするものに物をとふが如し、手に印を結び口に真言は誦すれども其の心中には義理を弁うる事なし、結句・慢心は山の如く高く欲心は海よりも深し、是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り祖師の誤りをたださざるによるなり、所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし、日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり、螢火は未だ国土を照さず宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、瓦石は財をふらさず念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し。
  我等が昧き眼を以て螢火の光を得て物の色を弁ふべしや、旁凡夫の叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権経なり、

 

現代語訳

禅宗もこれと同じである。一事をもって万事を知りなさい。真言宗等の諸宗の誤りを制止することさえ思うがままである。まして当世の高僧や真言師等は、その智慧は牛馬にも劣り、螢火の光にも及ばない。まさに死者の手に弓箭を結びつけ、寝言をいう者にものをたずねるようなもので、じつにはかないことである。手に印を結び、口に真言をとなえてはいるけれども、その心中には法門の義理をわきまえていない。そればかりか、慢心は山のように高く、欲望の心は海よりも深い。これは、皆、自らが経論の勝劣に迷うことから起こり、祖師の誤りをたださないことから起きるのである。

結局、智者は八万法蔵をも習うべきであり、十二部経をも学ぶべきである。しかし末代濁悪世の愚人は念仏等の難行道・易行道等の義を抛って、ただひたすらに法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱えるべきである。太陽が東方の空にのぼったならば、南閻浮提の空は皆明るくなる。太陽が大光を備えているからである。螢火は一国土でさえ照らすことができない。また、宝珠を懐中に持っていれば、どんなものでも降らすことができるが、瓦や石は財宝を降らすことはできない。念仏等は、法華経の題目にくらべれば、瓦石と宝珠、螢火と日光とのようなものである。

我等のような昧い眼の者が螢火の光によって物の色をわきまえることができようか。いずれにしても、凡夫の成仏が叶いがたい教法は、念仏・真言等の小乗教・権教である。

 

語釈

禅宗

菩提達磨所伝の禅定観法によって悟りに至ろうとする宗派。仏法の真髄は教理の追求ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を立てている。大聖人御在世当時は、大日房能忍と弟子の仏地房覚晏の弘めた臨済禅の流れで、楊岐派に属す大慧派の拙庵徳光から印可された看話禅が盛んであった。能忍の死後、鎌倉時代に栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を、江戸時代には明僧隠元が黄檗宗を開いた。

 

十二部経

十二部とも十二分経ともいう。一切経を形式・内容から十二種に分類したもの。①修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経(かいきょう)という。長行のことで、長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。②祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。③伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。④尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。⑤伊帝目多。伊帝目多伽とも。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事とも如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。⑥闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。⑦阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。⑧婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。仏弟子や敬虔な信者の過去および現在の物語に取材する譬喩物語。⑨優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。⑩優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。⑪毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。⑫和伽羅。和伽羅那とも。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。

 

難行

難行道のこと。易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。

 

易行

易行道のこと。難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。

 

南浮

南閻浮提のこと。須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。

 

宝珠

如意宝珠のこと。意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087:12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747:01)と仰せになっている。

 

講義

本章では諸宗破折を締めくくられて、末法の凡夫の行ずべき唯一の正法は法華経の題目・南無妙法蓮華経を唱えること以外にないと示されている。

本章の前半では、前章での真言宗と浄土宗破折を受けて禅宗も同様であると一言で片づけられている。禅宗については、本抄ではこれ以上はふれられてはいない。

これらの各宗の邪義は、いままで述べてこられたと同じ誤謬から生じている。すなわち、一つは、経論の勝劣に迷っていることであり、第二には、祖師の誤りを後世の人が正さないことである。

故に、ここで、禅宗について事新しくいうまでもないのであって、「一を以て万を知れ」といわれているのである。

一往、真言宗といえば、当時の諸宗の中でも最も権威を誇った宗であるから、真言宗を破れば、それよりはるかに劣る禅宗等はいうまでもないことになる。しかも、そのように権威を誇っている真言師等も、その智慧は蛍火にも及ばぬほどで、手に印を結び、口に真言を誦してはいるが、心では、その義理を少しもわかってはいない。ただ、慢心、欲心のみが盛んである等と破折されている。

日蓮大聖人が、このように本抄で真言と念仏をとくに詳しく破折された理由の一つは、清澄寺の人々、とくに道善房に対して著された書だからであろう。当時、清澄寺は台密であり、その後さらに東密に移ったともいわれている。また、流行の念仏信仰も盛んで、道善房はことに念仏に心を惹かれていた。

つぎに、本章の後半では末法の正しい仏道修行を示されている。

智者ならば、八万法蔵、十二部経を習い学ぶのもよかろうが、末法の濁悪の世の愚人は念仏等のような権宗の修行をなげうって、一向に仏法の極理である法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱えるべきであり、末法は、唱題だけが唯一の正しい仏道修行であるとの仰せである。

ここに「念仏等の難行・易行」といわれているのは、一往、念仏の主張する難易二行の教判を用いて、爾前権教全体をさしていわれたと考えられる。元来、浄土宗は八万法蔵・十二部経を学ぶことを目指した天台宗・真言宗等の八宗に対して、末法の愚人は耐えられないといって専修念仏行を立てたのであった。したがって、いまこの御文は、そうした念仏宗をとくに意識して、このように述べられたのであろう。

つまり、権経の題目、権仏の名号に対して法華経の題目を挙げられ、念仏等を捨てることを示されているのである。

しかし、法門的には、本抄で力点を置かれているのは権実相対の次元であって、本迹相対から種脱相対という、妙法の深意を開示するには至っていないことはいうまでもない。

その一つの理由は、権経、権仏の名号を唱えても、法華経の題目を唱えても、その功徳は同じであるという邪見を打ち破ろうとするためであり、さらには日本国における念仏の流布を、法華経の題目の流布の序分であるととらえられて、まず、権実相対の立場から、念仏を簡び、法華経の題目を顕示されたのである。

撰時抄には、このことが明瞭に示されている。

「此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや、心あらん人は此れをすひしぬべし、権経流布せば実経流布すべし権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし」(0284:03)。

しかし、一往は、権実相対の立場で述べられていても、後に述べるように再往、「法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし」といわれる御文の中に、本迹、種脱相対して、成仏根源の種子である南無妙法蓮華経を顕示されようとする日蓮大聖人の元意をうかがうことができるのである。

最後の部分は、譬喩をもって、法華経の題目の功徳の大きさを示され、凡夫は念仏・真言等の小乗権経では成仏できず、法華経の題目を唱えることによってのみ成仏が可能であることを教示されている。

法華経の題目と念仏等との勝劣を示すのに、ここで大聖人は二つの譬喩を用いられている。一つは、太陽と蛍火の相対であり、他は如意宝珠と瓦石との相対である。

太陽の光が法華経の題目をたとえ、蛍火が念仏等をたとえていることはいうまでもない。太陽が東に出れば、一閻浮提の空全体が明るくなる。しかし、蛍の火は、一国土すら照らしえない弱いものである。

末法の凡夫の眜い眼は、太陽の光明をえてこそ、物の色を判別できるが、蛍火では全く不可能であるといわれている。

法華経題目抄にも、法華経を日月にたとえて、次のように記されている。

「譬えば大地の上に人畜・草木等あれども日月の光なければ眼ある人も人畜・草木の色形をしらず、日月・出で給いてこそ始めてこれをば知る事なれ、爾前の諸経は長夜の闇の如く法華経の本迹二門は日月の如し、諸の菩薩の二目ある二乗の眇目なる凡夫の盲目なる闡提の生盲なる共に爾前の経経にてはいろかたちをばわきまへずありし程に、法華経の時・迹門の月輪始めて出で給いし時・菩薩の両眼先にさとり二乗の眇目次にさとり凡夫の盲目次に開き生盲の一闡提未来に眼の開くべき縁を結ぶ是れ偏に妙の一字の徳なり」(0943:17)。

この御文について、日寛上人の文段には、次のように解説されている。

「一、人畜・草木等文。これ法体の本妙に譬うるなり。『日月の光なければ』とは、爾前の間は衆生の眼を閉じて、法体の本妙を見せしめざるに譬うるなり。次に『日月・出で給いて』等とは、法華の時は衆生の眼を開いて、法体の本妙を見せしむるに譬うるなり」。

また日月の徳について「一には世人の眼を開くの徳。二には人畜等の色形を見せしむるの徳なり」とある。

太陽の徳は、人々の眼を開き、物の色形を見せしむることである。故に、法華経の題目は、末代の眜き凡夫の眼を開いて、物の色を見えるようにする功徳をそなえているのである。蛍火にたとえられる権経の題目では、凡夫の眼を開くことも、物を見させることもできないのである。そして、本抄でいわれる物の色とは、法華経題目抄での「人畜・草木等」に相当する故に、このたとえは、法体の本妙を意味していることがわかる。法華経の題目という太陽の光によってはじめて、凡夫の眼が開き、法体すなわち宇宙根源の法の当体にそなわる妙力を知ることができるのである。

つぎに、如意宝珠と瓦石の譬喩についてみよう。

如意宝珠があらゆる財宝を生ずるように、法華経の題目はあらゆる福徳を生ずる。それに対して念仏等は瓦石のように、なんの功徳も生じない。

法華経題目抄では、妙法五字に具わる功徳を、如意宝珠にたとえて示された後に、次のように述べられている。

「妙法蓮華経の五字また是くの如し一切の九界の衆生並に仏界を納む、十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む」(0942:11)。

妙法の法華経の題目には、十界の依正をことごとく納めているが故に、これを受持すれば、如意宝珠のごとく、万法を降らさぬということはない。すなわち、十界のあらゆる功徳が、妙法より顕れているのである。法華経の題目、すなわち南無妙法蓮華経という宇宙根源の法体には十界の依正がすべてそなわり、凡夫を仏にする妙力を具している。故に、末代の眜き眼の凡夫も、妙法を唱えれば、題目の光明に照らされて眼が開き、宇宙根源の法体である南無妙法蓮華経の本妙に目覚め、その妙力によって成道することができるのである。

〝日光〟の譬えは仏智をあらわされており、〝宝珠〟の譬えは福徳をあらわされている。「所謂南無妙法蓮華経福智の二法なり」(0792:04)と仰せのように、法華経の題目・三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳は、福と智を兼ね具えておられるのである。

 

所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし

 

この御文で仰せの〝智者〟とは、〝末代濁悪世の愚人〟との対比で明らかなように、正像時代の智者をいわれている。正法・像法の智者ならば、八万法蔵を広く学び、また十二部経を深く習学することによって、釈尊の本意を知り、法華経に説き示される宇宙根源の法を覚知して成仏することが可能であるということである。その例が竜樹・天親・天台・伝教等である。

しかし、下根下機の末代の凡夫は、一代聖教の習学に堪えられないし、かりに習学しても、そこから南無妙法蓮華経という成仏根源の法にまで至ることは不可能である。

在世や正像時代の利根の人々は、過去世において釈尊に結縁し、妙法という種子を植えられ、種々の善根を積んできた本已有善(ほんいうぜん)の衆生である。だからこそ、智者と生まれたのであり、しかも並みなみならぬ修学・修行によってその善根を啓発しつつ、法華経の文底に秘沈された妙法を覚知することができたのである。

だが、末法濁悪世に生を受けた愚者は、本未有善の衆生であり、過去世に、いかなる善根をも積んでいない。だから、下根下機の衆生として生を受けたのであり、こうした末代の本未有善の衆生は、一切経を修学・修行すること自体至難であるし、かりに一切経を習得しようとも、そこから、その本源にある妙法を覚知する〝智〟をもっていないのである。釈尊の説いた文上の法華経も、それだけでは成仏根源の種子ではなく、まして、権経をどのように習学しても、権経・権仏の名号を唱えても、成仏など思いもよらないのである。

本未有善の衆生は、南無妙法蓮華経という成仏根源の種子を直接、生命に植えつける日蓮大聖人の下種仏法によってはじめて成仏することができるのである。この法華経の題目とは、たんなる法華経という経典の名題ではなく、法華経の体であり、心なのである。

曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり(中略)所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候」(1058:08)等と仰せのとおりである。

本抄では、題目の弘通を説いてはおられるが、題目の当体である末法出現の御本尊の実義を顕されず、一往、法華経二十八品と所弘の妙法とを通同の上に示されている。しかし、曾谷入道殿御返事にも記されているように、日蓮大聖人の元意からすれば、法華経の題目は法華経の本体であり、心なのである。法華経それ自体の本体とは、日蓮大聖人のあらわされた三大秘法総在の御本尊にほかならないのである。

故に「一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし」との御文も、日蓮大聖人の元意では、末代の本未有善の愚人は、ただ法華経の本門寿量文底下種の本尊を信じて、本門寿量文底下種の題目を、南無妙法蓮華経と唱えるべきである、と拝すべきである。

 

 

 

第八章 教主釈尊の三徳を顕す

又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり、此の娑婆・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり、東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教なるべし、譬えば皇帝已前は人・父をしらずして畜生の如し、堯王已前は四季を弁へず牛馬の癡なるに同じかりき、仏世に出でさせ給はざりしには比丘・比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき、今比丘・比丘尼の真言師等・大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて釈迦如来を抛てたるも教主釈尊の比丘・比丘尼なり元祖が誤を伝え来るなるべし。
  此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、一には此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず釈迦仏は譬えば我が国の主上のごとし先ず此の国の大王を敬つて後に他国の王をば敬ふべし、天照太神・正八幡宮等は我が国の本主なり迹化の後・神と顕れさせ給ふ、此の神にそむく人・此の国の主となるべからず、されば天照太神をば鏡にうつし奉りて内侍所と号す、八幡大菩薩に勅使有つて物申しあはさせ給いき、大覚世尊は我等が尊主なり先づ御本尊と定むべし、二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり、先づ我が父母を孝し後に他人の父母には及ぼすべし、例せば周の武王は父の形を木像に造つて車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ、舜王は父の眼の盲たるをなげきて涙をながし手をもつて・のごひしかば本のごとく眼あきにけり、此の仏も又是くの如く我等衆生の眼をば開仏知見とは開き給いしか、いまだ他仏は開き給はず、三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師なり、此の仏は賢劫第九・人寿百歳の時・中天竺・浄飯大王の御子・十九にして出家し三十にして成道し五十余年が間一代聖教を説き八十にして御入滅・舎利を留めて一切衆生を正像末に救ひ給ふ、阿弥陀如来・薬師仏・大日等は他土の仏にして此の世界の世尊にてはましまさず、此の娑婆世界は十方世界の中の最下の処・譬えば此の国土の中の獄門の如し、十方世界の中の十悪・五逆・誹謗正法の重罪・逆罪の者を諸仏如来・擯出し給いしを釈迦如来・此の土にあつめ給ふ、三悪並びに無間大城に堕ちて其の苦をつぐのひて人中天上には生れたれども其の罪の余残ありてややもすれば正法を謗じ智者を罵り罪つくりやすし、例せば身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり、畢陵は見思を断ぜしかども慢心の形みゆ、難陀は婬欲を断じても女人に交る心あり、煩悩を断じたれども余残あり何に況や凡夫にをいてをや、されば釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり、

 

現代語訳

また、我が師釈迦如来は、一代聖教・八万法蔵を説かれた仏である。この娑婆世界の仏のいない世に、最初に出現されて一切衆生の眼目を開かれた御仏である。東西十方の諸仏・菩薩も皆この仏が教えられたのである。たとえば、三皇五帝以前は、人間は父を知らないで畜生のようであった。堯王以前には、四季をわきまえず、愚かな牛馬と同じであった。同様に、仏がこの世に出現されなかったときには、比丘・比丘尼の二衆はなく、ただ男女の区別があるだけであった。今、比丘・比丘尼の真言師等が大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏のみを一向に持って釈迦如来を抛てているが、その者も教主釈尊の比丘・比丘尼である。にもかかわらず、本師に背くのは、各宗派の元祖の誤りを伝えてきたからであろう。

この釈迦如来は三つの理由があって他仏に代わって娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となられたのである。

第一には、この娑婆世界の一切衆生の世尊であられる。阿弥陀仏はこの国の大王ではない。釈迦仏は、たとえば我が国の主上のようなものである。まずこの国の大王を敬って後に他国の王を敬うべきである。天照太神・正八幡宮等は我が国の本主であるが、釈迦仏が迹化の後、神と顕れたのである。この神にそむく人はこの国の主となることはできない。それゆえに、朝廷では、天照太神を鏡にうつし祭って、そこを内侍所と称し、また八幡大菩薩へ勅使を遣して神の託宣を受けられたのである。大覚世尊は我等が尊主である。まず御本尊と定むべきである。

第二には、釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母である。まず我が父母に孝行し、後に他人の父母に孝を及ぼすべきである。例えば周の武王は、父の形を木像に刻んで車にのせて戦の大将と定め、天の感応を受けて殷の紂王を討った。舜王は父が盲目となったことを嘆いて涙を流し、手をもって父の目を拭ったところ、もとのように眼が開いたという。この仏もまたこのように我等衆生の眼を「開仏知見」と開かれた。いまだかつて他仏が開かれたことはない。

第三には、この仏は娑婆世界の一切衆生の本師である。この仏は賢劫第九の減・人寿百歳の時・中天竺に浄飯大王(じょうぼんだいおう)の御子として誕生、十九歳で出家し三十で成道し、以後五十余年の間、一代聖教を説いて八十歳で入滅された。そして舎利を留めて一切衆生を正像末の三時にわたって救われた。阿弥陀如来・薬師仏・大日如来等は他土の仏であってこの世界の世尊ではないのである。

この娑婆世界は十方世界の中の最下の場所であり、たとえばこの国土の中の獄門のような所である。十方世界の中の十悪・五逆・誹謗正法の重罪・逆罪を犯した者を諸仏如来がおのおのの世界から追い出されたのを、釈迦如来がこの土に集められたのである。三悪道ならびに無間大城に堕ちて罪の償いを終え、人界・天上界に生まれたけれども、その罪の余残があってややもすれば正法を謗じたり、智者を罵ったりして罪をつくりやすい。たとえば、身子(舎利弗)は阿羅漢であるけれども瞋恚の気色があり、畢陵は見思惑を断じたけれども慢心の様子が見え、難陀は婬欲を断じても女人と交わる心があった。これらの声聞ですら煩悩を断じたといってもその余残がある。ましてや凡夫においてはなおさらのことである。それ故、釈迦如来はその御名をば能忍と名づけてこの土に出現されたわけであるが、それは一切衆生の誹謗の罪をとがめず、よく忍ばれる故である。これらの秘術は他の仏には欠けているところである。

 

語釈

娑婆

雑会の意で忍土、忍界と訳す。権教の意においては、もろもろの煩悩を忍受していかねばならないということであるが、妙法を弘通する立場からは、いま「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり」と仰せのごとく、三障四魔・三類の強敵を耐え忍び、これを乗り越えていかねばならない。

 

東西十方の諸仏・菩薩

全宇宙の諸仏・諸菩薩のこと。

 

皇帝

三皇五帝のこと。中国古代の伝説的な理想的帝王で、人間に技術・知恵・人倫を教えたとされる。

 

尭王

中国神話に登場する君主。姓は伊祁、名は放勲。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。

 

大日如来

大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。

 

阿弥陀仏

梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。

 

教主釈尊

一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。

 

世尊

世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。

 

主上

天皇を敬っていう語。 至尊。

 

天照太神

「あまてらすおおみかみ」といい、大日孁貴・日の神とも呼ばれる。日本書紀、古事記等によると、高天原の主神で、伊弉諾・伊弉冉の二神の第一子とされる。皇室の祖神として、伊勢皇大神宮に祀られている。仏法上では守護神の一つとされる。

 

正八幡宮

八幡宮の祭神である正八幡大菩薩のこと。古くは農耕・銅産の神で広い信仰を集めた。日本の鎮守神で、百王を守護する誓願を立てたと伝えられる。貞観元年(0859)行教によって山城国(京都)石清水に勧請された(石清水八幡宮)ころから皇室の祖先とされる一方、武士の守護神としても崇拝されるようになり、以後、全国に八幡信仰がひろまった。仏法上では諸天善神の一つとされる。

 

迹化

迹化の菩薩のこと。本化の菩薩に対する語。釈尊が三十成道して以来、華厳・阿含・方等・般若の爾前経および法華経迹門において化導された菩薩。

 

三種の神器のひとつ。八咫鏡のこと。

 

内侍所

三種の神器の一つ・八咫鏡を奉安する宮殿のこと。内侍(女官の職名)が守護していたので内侍所という。また畏み敬うべきところの意から、賢所とも称される。転じて八咫鏡の別称となった。

 

大覚世尊

仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。

 

周の武王

生没年不明。中国古代の周王朝創始の王。父の文王の遺志を継ぎ、殷の紂王を破り、天下を統一した。

 

殷の紂王

殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。

 

舜王は父の眼の盲たるを……眼あきにけり

舜王は、中国古代の伝説上の皇帝で、儒家で堯王とともに理想的帝王とされた。三皇五帝の一人。平民であった父は異母弟の象を偏愛して舜を虐待したが、よく両親に仕え孝養を尽くしたとされる。堯は舜を登用し、天下を摂政させ、のち舜に禅譲した。

 

開仏知見

開示悟入・四仏知見のひとつ。開とは信心のことである。信心をもって妙法を唱え奉れば、やがて仏知見を開くことができるのである。信心の異名である。

 

本師

①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。

 

賢劫第九の減・人寿百歳

「劫」とは一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。この一小劫を20あわせたものを中劫といい、中劫は成住壊空の四中劫からなる。賢劫とは現在の住劫のとで、住劫の第九番目の減劫の人寿100歳の時に釈尊は出世したと経論にはある。

 

中天竺

インドを五つの地域、東・南・西・北・中と立て分けたうちの「中」釈尊はこの中天竺の迦毘羅衛国の太子として生まれた。

 

浄飯大王

梵語、シュッドーダナ(Śuddhodana)。インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。はじめ釈尊の出家に反対したが、後に釈尊の化導によって仏法に帰依した。夫人を摩耶という。

 

舎利

梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。

 

薬師仏

梵語( Bhaiajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。

 

十方世界

「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。

 

十悪

十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。

 

五逆

五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。

 

誹謗正法

謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

三悪

三悪道・三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。

 

無間大城

無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。

 

身子

舎利弗のこと。釈尊十大弟子の一人。身子とは梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の訳。マガダ国・王舎城外のバラモンの家に生まれる。八歳の時に、王舎城の諸学者と議論して負けなかったという。目連とともに六師外道の一人、刪闍耶に学んだが、その後、釈尊の弟子となった。声聞衆の中で智慧第一と称される。大智度論巻二には「阿羅漢・辟支仏は三毒を破ると雖も気分を尽さず……舎利弗の如きは瞋恚の気残り、難陀は婬欲の気残り、畢陵伽婆蹉は慢の気残れり」とある。

 

阿羅漢

羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。

 

瞋恚

怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。

 

畢陵

畢陵伽婆蹉のこと。梵語ピリンダ・ヴァスタ(Pilinda-vasta)の音写。悪口・余習と訳す。阿羅漢の一人。バラモンの出身。他人を軽賤するなど性格は憍慢であった。呪術を用いて名声を得るが、後、釈尊に会って呪術の力を失い、仏弟子となった。

 

見思

見思惑のこと。三惑の一つで見惑と思惑に分かれる。惑は煩悩の異名、迷妄の心・対境に迷って事理を顚倒することをいう。見惑は意識が法境に縁して起こる煩悩で、物事の理に迷って起こす身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見等の妄見をいう。思惑は五識(眼・耳・鼻・舌・身)が五境(色・声・香・味・触)に縁して起こる煩悩で、事物に執着して起こす貧・瞋・癡等の妄情をいう。爾前経では、この見思を断ずることによって、涅槃が得られ、三界の生死を免れることができるとした。そして、これを断ずる順序があって、まず見惑を断じ、次に思惑を断ずるとし、見惑を断ずる位を見道といい、思惑を断ずる位を修道といった。声聞・縁覚は見思惑を断じて阿羅漢となり、三界の生死を免れて涅槃を得ることができるとする。更に菩薩は後の二惑を断じていく。また見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗に通ずる故に通惑ともいい、塵沙惑・無明惑を別惑という。

 

難陀

孫陀羅難陀のこと。梵語スンダラナンダ(Sundara-nanda)の音写。釈尊の弟子。摩訶波闍波提の子で、釈尊の異母弟にあたる。容姿端正三十相を具足していたとされる。美しい妻・孫陀利を娶り、出家した後も妻を忘れられず、釈尊にたびたび教誡を受けた。後、諸根を調伏すること第一といわれた。

 

煩悩

貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能。

 

能忍

釈迦如来のこと。「能く難を忍ぶ」の意で、仏が誹謗・迫害を忍んでなお一切衆生を救わんとする大慈悲の精神をいう。善無畏三蔵抄には「釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり」(0885:08)

講義

これまでの段で、根本とすべき正法が南無妙法蓮華経であることを示しおえたので、本章から根本とすべき〝仏〟を教示されるのである。

つまり〝法の本尊〟に次いで、本章より〝人の本尊〟、一切衆生の信ずべき仏について説かれるのである。しかし、法の場合と同じく、仏を顕されるにあたっても、阿弥陀仏、大日如来等の権仏を対破されることに主眼をおかれているため、権実相対の立場で論じておられ、日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法との種脱相対にまでは至っていない。

本章は大別して、三つの部分より成り立っている。第一に、我等衆生の教主は、釈尊であることを示され、第二に、その教主釈尊に具備した主師親の三徳を述べられている。そして、第三に、釈尊こそ、娑婆世界の有縁の仏であることを結論されるのである。

まず、この娑婆世界の我々にとって、仏法を知り、仏の尊さを知り得たのは釈迦如来のおかげであり、釈尊こそ娑婆世界の一切衆生にとって本師であることを述べられている。

私たち、すなわち、この地球上の人類が仏法を知るのは八万法蔵といわれる仏教経典によってである。この一切経を説かれた教主が釈尊である。釈尊こそ、未だ仏の出ておられなかったこの世界に最初に出現されて、仏法への眼を開いてくださった本師である。

十方世界におられる仏や菩薩のことを教え、娑婆世界の衆生に仏道修行をしようという心を起こさせてくださったのも釈尊である。釈尊に教えていただいたが故に、ちょうど、三皇五帝以前は父というものを知らないで畜生と同じであったのが、人倫の道を教わり人間らしくなったように、また堯王以前は四季の変化の法則を知らず牛馬のように愚かであったのが知恵を得たのと同じように、仏・菩薩の尊さを知り、仏道を求める心を起こすようになったのである。

いわゆる比丘・比丘尼という仏法修行の人は、釈尊の教えあっての比丘・比丘尼なのである。にもかかわらず、いま、そうした比丘や比丘尼が、大恩のある釈迦如来を忘れて、他方の国土の仏である阿弥陀如来や、架空の仏である大日如来を本尊としていることは、大なる誤りである。その誤りの根源は、彼らの宗の元祖にある、と指摘されるのである。

そして、このことから、釈迦如来がなぜこの娑婆世界有縁の仏となられたかを第二段で示される。逆にいえば、これは、なぜ阿弥陀如来や大日如来を根本にしてはならないか、ということでもある。「他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ」と仰せられている言葉は、他仏である阿弥陀如来や大日如来は娑婆世界の一切衆生にとって無縁の仏であるということを意味しておられる。

釈尊が娑婆世界の衆生にとって有縁の仏であるのは、娑婆世界の衆生に対して主師親の三徳を具えておられるからである。

三徳の第一は主徳である。主徳とは、自らの眷属を守護し、外敵から守る働きをさす。教主釈尊は、この娑婆世界の一切衆生を守護する徳をそなえた仏であるから、一切衆生の世尊といわれるのである。

それに対して、阿弥陀仏は、この娑婆世界とは別の国土、すなわち、西方十万億土のかなたにある極楽世界の主である。だから、阿弥陀仏を先にして、釈尊を後にするのは、忘恩の人である。大覚世尊が、娑婆世界の尊主であるから、まず、釈尊を本尊と定むべきであると述べられている。

この道理をわかりやすくするために、一国の王との譬えや天照太神、八幡といった神を事例に挙げられている。

三徳の第二は、親徳である。父母の徳は、悪を除き、諸の苦患を救う慈愛の働きをさしている。

釈尊は、娑婆世界の一切衆生の苦悩を取り除き救う父母の徳をそなえておられる。法華経方便品にあるように衆生の「仏知見」を開いてくださったのは、衆生の苦悩を取り除き救わんとする慈愛以外の何ものでもない。他仏は、衆生の仏知見、すなわち仏性を開示し、苦悩を救うことはできないのである。

だから、まず、自分の父母である釈尊に孝養すべきであると説かれる。孝養の手本として、武王と舜王の事例を挙げられるとともに、舜王の話は盲目を開くことが苦悩から救うことになった例として「開仏知見」へ関連させられている。

三徳の第三は師徳である。師徳とは、衆生を導き教化していく働きであり、正法を教えていく智慧の働きをさす。

釈尊は、現実に、この世界に応誕され、一代聖教を説かれた娑婆世界の本師である。80歳で入滅されてからも、その法身の舎利、つまり教法は正像末の三時にわたって衆生救済の力をあらわされたのである。末法と記されたのは、法華経を説き、その文底に南無妙法蓮華経を秘沈したからである。

ところが、阿弥陀仏、薬師如来、大日如来等は、この娑婆世界に現実に応誕され、衆生を救った仏ではない。あくまで、現実のわれらとは縁のない仏である。

さて、最後に、娑婆世界の一切衆生の様相を述べ、衆生の誹謗を堪え忍んで釈尊が救おうとされたことが示されている。

この娑婆世界は穢土であり、十方世界中でも最も劣っている所であり、あたかも国土中の最悪所である獄門のような所であるといわれている。

その理由は、十方世界の諸仏が十悪五逆を犯した者、誹謗正法の者を追い出したのを、釈尊はこの土に収容して救おうとされたからである、と。このような衆生であるから、三悪道や地獄に堕ちて罪をつぐなってから、この世界に生を受けたのであるが、前罪の余習があるために、ともすれば正法を謗じたり、智者を罵ったりして、また重罪を作りやすい傾向をもっている。身子(舎利弗)等の阿羅漢でさえ煩悩の余習が抜けきれないのであるから、凡夫が罪を犯しやすいのは当然であり、このため、ともすれば釈尊に対しても誹謗の心を起こすのである。

このような衆生の住む娑婆世界に出現され一切衆生の誹謗をもとがめず、凡夫の悪業をよく忍んで救済されるので、釈尊を能忍と申し上げるのである。

娑婆世界の衆生と釈尊とは、以上のような深い関係がある。

日蓮大聖人が、この点を強調されるのは、阿弥陀仏の極楽世界や薬師如来の浄瑠璃世界と対比され、苦悩の充満する娑婆世界こそが、釈尊に有縁の国土であることを示すためであり、したがって、ここでは穢土である娑婆世界の衆生にとって尊崇すべき仏が釈尊であることを示すにとどめられている。しかしながら、末法一切衆生にとって、究極の主師親三徳を具備された御本仏が久遠元初自受用報身であられる日蓮大聖人御自身であることは、開目抄等で明らかにされるとおりである。

 

 

 

第九章 釈尊を本尊とすべきを説く

此等の秘術は他仏のかけ給へるところなり、阿弥陀仏等の諸仏世尊・悲願をおこさせ給いて心にははぢをおぼしめして還つて此の界にかよひ四十八願・十二大願なんどは起させ給ふなるべし、観世音等の他土の菩薩も亦復是くの如し、仏には常平等の時は一切諸仏は差別なけれども常差別の時は各各に十方世界に土をしめて有縁無縁を分ち給ふ、大通智勝仏の十六王子・十方に土をしめて一一に我が弟子を救ひ給ふ、其の中に釈迦如来は此土に当り給ふ我等衆生も又生を娑婆世界に受けぬ、いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず而りといへども人皆是を知らず委く尋ねあきらめば唯我一人能為救護と申して釈迦如来の御手を離るべからず、而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし。

 

現代語訳

阿弥陀仏等の諸仏世尊は悲願を起こされて、心中では恥ずかしく思われたのであろうか、還ってこの娑婆世界にかよい、四十八願や十二大願などを起こされたのであろう。観世音菩薩等の他土の菩薩もまた同様である。仏には常平等の時は一切諸仏には差別がないけれども、常差別の時はおのおのの仏が十方世界に自分の国土を定めて有縁・無縁を分けられるのである。大通智勝仏の十六人の王子は十方世界におのおのが国土を定めてそれぞれ自分の弟子を救われるのである。その中で釈迦如来はこの土(娑婆世界)にあたったのである。我等衆生もまた生をこの娑婆世界に受けた。なんとしても釈迦如来の教化から離れるべきではないのである。ところが、人は皆、このことを知らない。委く尋ねて明らかにすれば、法華経譬喩品第三に「唯我れ一人だけが能く衆生を救い護る」とあるように、我等衆生は釈迦如来の御手を離れるべきではないのである。そうであるから、この土の一切衆生は、生死の苦をきらい、御本尊を崇めようと思うならば、かならずまず釈尊を木画の像に顕してこれを御本尊と定め、その後、力があるならば阿弥陀仏等の他仏にも及ぶべきである。

 

語釈

四十八願

阿弥陀仏が法蔵比丘として因位の修行をしていた時、自らの仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏によって示された二百十億の仏国土から選びとって立てた四十八種の誓願をいう。無量寿経巻上に説かれる。

 

十二大願

薬師如来が過去に浄瑠璃世界で菩薩道を行じていた時、衆生救済のために立てた十二の誓願。薬師瑠璃光如来本願功徳経に、自身の光明で無辺の世界を照らし、三十二相八十種好でその身を荘厳し、衆生を自分と同じ境界にさせる等、十二の誓願が説かれている。

 

観世音

観世音菩薩のこと。梵語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokite śvara)の音写が阿縛盧枳低湿伐羅で、観世音と意訳、略して観音という。光世音、観自在、観世自在とも訳す。異名を蓮華手菩薩、施無畏者、救世菩薩ともいう。法華経観世音菩薩普門品第二十五には、三十三種の身に化身して衆生を救うことが説かれている。

 

大通智勝仏の十六王子

大通智勝仏は三千塵点劫の昔、大相劫、好成国に出現し、法華経を説いた仏。法華経化城喩品に説かれる。出家以前に十六人の王子がいたが、成道後、四諦・十二因縁の法を説き、十六王子も出家した。二万劫の後、十六王子の請いによって八千劫の間、法華経を説く。この時、法華経を信受したのは十六王子と少数の声聞のみであり、ついに静室に入り八万四千劫の間、禅定に入った。その間、十六王子は八方に散って法華経を説き、おのおの六百万億那由侘恒河沙等の衆生を信解させた。これを大通覆講といい、この時、法を聞いた衆生は大通結縁の衆という。この十六王子の第十六番目が釈尊である。

 

唯我一人能為救護

譬喩品に「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」とある。日蓮大聖人が末法の救世主として、一切衆生を救おうと思われる大慈悲である。

 

講義

本章では、阿弥陀如来等の他土の仏・菩薩に対して、此土の娑婆世界有縁の仏である釈尊をこそ、本尊として尊崇すべきことを述べられている。

最初に、阿弥陀仏等の他仏が、「心にははぢ()をおぼしめして還つて此の界にかよひ……」とは、例えば、阿弥陀仏の住する極楽浄土は、この娑婆世界から西方十万億土を過ぎたところにあるとされるが、その国の衆生は一切の苦悩がなくて楽しみのみを受けているから極楽と呼ばれているのである。

また、薬師如来の住する浄瑠璃世界は、浄瑠璃浄土ともいい、娑婆世界から十恒河沙の仏土を過ぎた東方にあるという。その国土は清浄であり、もろもろの欲悪を離れているとされる。

したがって、それらの国土には救うべき苦の衆生がいないわけである。そこで、やむなく恥をしのんで娑婆世界に来て、四十八願、十二大願等の悲願を起こされ、それをかなえようとされたのである。

この精神のうえからは、この娑婆世界の衆生に対しても差別はなく「常平等」であるが、実際に救済しうるか否かということでは有縁・無縁によって差別が生ずる。とくに娑婆世界に生まれてくる悪業を背負った衆生は、阿弥陀仏等には全く縁がないうえに、仏の方も衆生の悪業に耐えられない。故に、たとえ、衆生が阿弥陀仏の悲願を頼りに、念仏を称え、浄土に往生しようとしても、阿弥陀仏はその願いをかなえさせることが不可能なのである。

阿弥陀仏が法蔵比丘の菩薩行の時に立てた四十八の誓願を頼りにしても、たしかに、その第十八願には念仏往生が説かれ、第十九願には来迎引接(らいごういんじょう)が説かれてはいるが、その十八願には「但、誹謗正法と五逆の者は除く」と明瞭に記されている。

この〝正法〟が阿弥陀信仰ではないことは、いうまでもない。なぜなら、この戒めは阿弥陀の名号を称えている人に、もし阿弥陀の名を称えても、正法誹謗の者は救えないといっているからである。〝正法〟とは法華経であり、末法においては三大秘法の南無妙法蓮華経である。

また、薬師如来の十二大願には、一切衆生の病気を治し、医薬を与えるという誓願が入っている。しかし、薬師如来も、この世界には無縁の仏であるから、娑婆世界の衆生に関してこの大願をかなえることは不可能なのである。

こうした仏だけでなく、観世音菩薩等の他土の菩薩についても同様である。彼らがどのようにこの娑婆世界の衆生を救おうとの誓願を立てようとも、娑婆世界の有縁の仏である釈迦如来にそむいている衆生を救うことはできない。他方の仏・菩薩は、娑婆世界においては、娑婆世界の仏である釈迦如来の行化を助けるという意味においてのみ、その力をあらわすのである。

法華取要抄に「有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く無縁の仏と衆生とは譬えば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向うが如し」(0333:07)とあるように、有縁の仏でなければ、その国土の結縁の衆生を救いえないのである。

釈尊も阿弥陀仏も同じく仏であるから、どの仏に願っても、衆生の苦しみを抜いてくれるのではないか、というのは謬見であることを知らなければならない。

仏には常平等と、常差別ということがあり、常平等とは、その本体としての真理は常に平等であるということである。いいかえると、諸仏の本体は、平等にして不変の真理それ自体であり、十方三世の諸仏に全く差別はない。しかし、これは、仏の普遍的側面だけであって、具体的に衆生を救済される面では、個別性があらわれてくる。仏であれば、釈尊でも阿弥陀仏でも同じであるという謬見は、仏の個別的側面を無視した観念論であり、暴論である。

諸仏は、現象世界では、それぞれの使命、力用に応じて個別性を発揮し、差別の法を説かれる。それぞれの世界の教主として、自分の世界の有縁の衆生と、他土の無縁の衆生とを差別されるのである。

その事例として、法華経化城喩品に説かれる大通覆講が挙げられている。大通智勝仏の十六人の王子は平等に法華経を聞いた。これは常平等の時である。

しかし、十六王子は、それぞれの国土におもむいて、その国の衆生を教化した。例えば、そのなかで、十六王子の九番目の王子は、西方におもむいて教化し、極楽世界の教主・阿弥陀如来となった。第十六番目の王子が、のちの釈迦如来で、この娑婆世界を担当され、教化した。したがって、娑婆世界の衆生である我々にとっては、釈迦如来が一貫した師となる。

法華経譬喩品に記されているように、釈尊は「唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」と宣言されて、宿業深い衆生を救済される仏であるから、娑婆世界の衆生は、釈尊を離れるわけにはいかないのであると仰せである。

法華取要抄にも「釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり、此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し」(0332:15)と述べられている。また天台大師の法華文句巻六上にも、娑婆世界の衆生と阿弥陀仏との関係について「西方は仏別に縁異なり、仏別なるが故に隠顕の義成せず、縁異なるが故に子父の義成ぜず」といい、それを受けて、妙楽大師は法華文句記巻七上に「弥陀・釈迦二仏、既に殊なる……況や宿昔の縁別にして化道同じからざるをや」と釈している。

以上のことから、この世界の一切衆生が、生死の苦しみを克服しようと願い、本尊を崇仰しようと思えば、まず、阿弥陀等の他仏でなく、釈尊を木画の像に造って御本尊とすべきであり、その後に、もし余力があれば阿弥陀仏等の他仏に及ぶべきである、といわれているのである。

しかし、「其の後力おはしまさば」といわれたからといって、阿弥陀仏等の造立を許されたわけではけっしてない。根本的にいかなる仏を本尊とすべきかについては、観心本尊抄等で明らかにされているのであって、本抄では、道善房の阿弥陀への執着を考慮されてこのように述べられたのである。したがって表現は、一往、阿弥陀の造立を許されているようでありながら実質は制止されていると考えなければならない。

本抄の後の個所にも記されているように、道善房は、阿弥陀仏を造り、その罪によって無間地獄に堕するかどうかを、日蓮大聖人に質問したことがある。地獄に堕ちることにおびえながらも念仏への執着が断ちきれなかったが、今ようやく、釈尊を崇めるようになったという。

そうであるならば、道理をつくして、釈尊への信仰を深めさせていけば、ふたたび、道善房は、無間地獄の悪業を積むとわかっている阿弥陀仏の造立などしないであろうという日蓮大聖人の御確信のことばと拝することができる。今後、退転することがないように、また、正法への信仰を一段と深めることができるようにとの、日蓮大聖人の旧師をおもう真心が、この御文のような表現をとらせたのではないかと拝察される。

 

而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし

 

本尊とは根本として尊敬するという意味であるから、それは、宗教において信仰の心を寄せる根本の対象となる。

日寛上人は、文底秘沈抄で「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く」といわれている。

故に、いかなる本尊を立て、信じるかということが、それぞれの宗派にとって最重要の課題になる。

日蓮大聖人の仏法における本尊は、久遠元初の自受用身如来即事の一念三千の南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇の大曼荼羅の他にはないのである。

「其の後力おはしまさば」と仰せられている弥陀造立のことについては、すでに述べたとおりであるが、では釈迦像を本尊とすることについてはどうか。大聖人の御正意はあくまでも曼荼羅の御本尊にあるが、佐渡以前においては、暫用還廃としての御教示があるのである。すなわち、相手の機根によって、しばらく釈尊の造像等を許されることはあるが、これは釈尊の爾前経と同じであり、後にはこれを廃するのである。

末法相応抄に記されているように「此れは是れ且く一機一縁の為なり、猶継子一旦の寵愛」のようなものであり、日蓮大聖人の御本意ではないのである。

本抄のこの御文も、権実相対の立場で阿弥陀仏を対破されるために、しばらく、釈尊の造像を許されたのであって、暫用還廃の意味は明らかであろう。

前述したように、道善房がこれまで阿弥陀仏を崇めてきたのを、今、ようやくその執着を断ち切って釈尊に帰依したので、その善根を称讃され、そのことによって師の信仰を一段と深めたいという日蓮大聖人の真心であったであろう。

また、日蓮大聖人の御境界からすれば、一体仏の当体も、一念三千即自受用身の本仏となっていることは、いうまでもない。

しかし、釈尊像の造立が日蓮大聖人の御本意でないことは、法華経本門寿量の教主である釈尊は、本已有善の衆生のための脱益の仏であり、末法の衆生は、釈尊とは結縁のない本未有善の者ばかりであるから、釈迦仏によっては救われないのである。故に、末法においては、釈尊を造立して本尊とはしないのである。

主師親三徳の縁の深い仏を本尊として崇めてはじめて救済されるのであるから、末法においては、久遠元初の自受用身が三徳具備の仏であられ、その御当体である事の一念三千の大曼荼羅のみを本尊とすべきなのである。

 

 

 

第十章 他仏を本尊とする誤りをつく

然るを当世聖行なき此の土の人人の仏をつくりかかせ給うに先ず他仏をさきとするは其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上世間の礼儀にもはづれて候、されば優塡大王の赤栴檀いまだ他仏をば・きざませ給はず、千塔王の画像も釈迦如来なり、而るを諸大乗経による人人・我が所依の経経を諸経に勝れたりと思ふ故に教主釈尊をば次さまにし給ふ、一切の真言師は大日経は諸経に勝れたりと思ふ故に此の経に詮とする大日如来を我等が有縁の仏と思ひ念仏者等は観経等を信ずる故に阿弥陀仏を娑婆有縁の仏と思ふ、当世はことに善導・法然等が邪義を正義と思いて浄土の三部経を指南とする故に十造る寺は八九は阿弥陀仏を本尊とす、在家・出家・一家・十家・百家・千家にいたるまで持仏堂の仏は阿弥陀なり、其の外木画の像・一家に千仏万仏まします大旨は阿弥陀仏なり、而るに当世の智者とおぼしき人人・是を見て・わざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只称美讃歎の心のみあり、只一向悪人にして因果の道理をも弁へず一仏をも持たざる者は還つて失なきへんもありぬべし、我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人・能為救護とはげませ給ふ、其の恩大海よりも深し其の恩大地よりも厚し其の恩虚空よりも広し、二つの眼をぬいて仏前に空の星の数備ふとも身の皮を剝いで百千万・天井にはるとも涙を閼伽の水として千万億劫・仏前に花を備ふとも身の肉血を無量劫・仏前に山の如く積み大海の如く湛ふとも此の仏の一分の御恩を報じ尽しがたし。
  而るを当世の僻見の学者等・設ひ八万法蔵を極め十二部経を諳んじ大小の戒品を堅く持ち給ふ智者なりとも此の道理に背かば悪道を免るべからずと思食すべし、

 

現代語訳

それなのに、今の世、聖行のないこの土の人々が仏像を造り画くのに、まず他仏を先にしているのは、その仏の御本意にも、また釈迦如来の御本意にも叶うはずがないうえ、世間の礼儀にもはずれている。それ故、優填大王が赤栴檀の木で刻んだのは釈迦如来の像であり他仏の像ではなかった。千塔王の画像も釈迦如来であった。

それなのに諸大乗経に依る人々は、自分の所依の経々が諸経に勝れていると思う故に、教主釈尊を二の次にするのである。一切の真言師は大日経は諸経に勝れていると思う故に、大日経で究極の仏として説く大日如来を我等の有縁の仏と思い、念仏者等は観無量寿経等を信ずる故に阿弥陀仏を娑婆世界に有縁の仏と思うのである。

当世はとりわけ善導・法然などの邪義を正義と思って浄土の三部経を指南とする故に、十の寺を造れば八、九の寺は阿弥陀仏を本尊とする。在家・出家を問わず、一家・十家・百家・千家にいたるまで持仏堂の仏は阿弥陀仏である。そのほか木画の像は一家に千仏、万仏もあるうち、大部分は阿弥陀仏である。それなのに、当世の智者と思われる人々はこれをみても、禍とは思わないで、自分の意に叶っている故にただ称美讃歎(しょうびさんだん)する心のみである。ただ全くの悪人で因果の道理をもわきまえず一仏をも受持しない者は、かえってこうした仏法の失(とが)をまぬかれることもあるかもしれない。

我等の父母である釈尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に遠ざけられた我等を「唯我れ一人だけが能く衆生を救い護る」と励まされるのである。その恩は大海よりも深い。大地よりも厚い。その恩は虚空よりも広いのである。二つの眼をくりぬいて仏前に空の星の数ほどそなえても、身の皮をはいで百千万枚、天井に張っても、涙を水として千万億劫の間、仏前に花をそなえても、身の肉と血を無量劫の間、仏前に山のように積み大海のように湛えても、この仏の御恩の一分も報じ尽くすことは難しい。

それなのに、当世の僻見の学者等が、たとえ八万法蔵を究め、十二部経を暗誦し、大乗・小乗の戒律を堅く持つ智者であっても、この道理に背けば悪道をまぬかれることはできないと思うべきである。

 

語釈

聖行

涅槃経巻11に説かれる菩薩が修行すべき五種の行法のひとつ。戒・定・慧の三学によって修する行をいう。

 

優填大王の赤栴檀

優填大王は釈尊在世の憍賞弥国の王。妃の教化によって釈尊に帰依した。赤栴檀は南インドの摩羅耶山に産するとされる赤銅色の栴檀。牛頭栴檀ともいう香木である。増一阿含経巻二十八には、ある時釈尊が母・摩耶夫人に説法するために三十三天に赴き、久しく閻浮提に帰らなかった。そのため王は悲しんで病気になったが、家臣に命じて牛頭栴檀で五尺の釈尊の形像を作ったところ、たちまち病気が治癒したとある。造仏の最初とされている。

 

千塔王の画像

マガダ国王舍城の影勝王が宝物の礼として千塔王のもとに釈尊の絵を描いて贈った故事。千塔王とは、古代インドの王で、根本說一切有部毘奈耶などに見られる勝音城の仙道王のこと。同経巻四十五には、ある時、仙道王が影勝王に宝甲を贈ったが、返礼とすべき宝に困った影勝王が行雨大臣と相談し、世界の宝であるとして釈尊の絵を描いて贈り物とした。はじめ仙道王は大いに怒ったが、後にそれが仏の像であることを知った王は、深く悔恨し、仏法に帰依するようになったとある。

 

観経

観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。

 

浄土の三部経

念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。

 

在家

①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。

 

出家

世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。

 

持仏堂

日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。

 

主師親の三徳

一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。

 

閼伽の水

閼伽は梵語アルガ(Argha又はArghya)の音写で水のこと。功徳水等と訳す。仏に供える水。「閼伽の水」と重ねていうことが多い。

 

千万億劫

量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。

 

無量劫

量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。

 

僻見

偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。

 

大小の戒品

大乗教と小乗教の戒律のこと。

 

悪道

三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。

 

講義

これまでの段で、末法における正法を示されるとともに、娑婆世界の一切衆生を救う三徳具備の仏を示されたのであるが、そこで今度は、諸宗が本尊に迷う姿を訶責されるのである。

すなわち、当世の状況をみると、大部分の人が釈迦仏を忘れて他仏を造像して本尊にしているが、これは、その仏の本意にも、釈尊の本意にも叶わないことであり、しかも世間の礼儀にもはずれていることであるといわれる。

釈尊を崇めないことが、釈尊自身の本意に背くことはいうまでもない。だが、そのことが、他仏の意にも叶わないとは、他仏にしても、この世界の衆生とは無縁であり、救済できないのだから、本尊として尊敬されても困惑するだけである。此土有縁の仏である釈尊を本尊にすることが、他仏の心にも叶うのである。

また、世間の礼儀にも反するとは、前述したように、まず自分の父母に孝養し、後に他人の親に孝養するのが順序である。国主の場合も同様である。そうした世間的常識からしても、この娑婆世界の三徳具備の仏を崇めるのが当然であるとの仰せである。そしてその例証として優填大王が釈尊の木像を造り千搭王が画像を贈られたことを挙げられている。

つぎに、これらの道理から当然、明白であるにもかかわらず、当世の人々が、依りどころとすべき経典に迷うが故に、本尊を誤ってしまっていることを指摘されている。

経典に迷う故に仏に迷い、真言師は大日如来を自分等の有縁の仏と思い、念仏者等は阿弥陀仏こそ、娑婆有縁の仏であると信じてしまっているのである。

とくに、善導や法然等の念仏の邪義がはびこり、浄土の三部経を指南とし、寺の本尊も、在家・出家が安置する持仏堂の仏も、ほとんど阿弥陀仏であり、その他、木画の像で一家に所有するものはほとんど阿弥陀仏であると、その誤りがいかに広く深く浸透しているかを指摘されている。

しかも、そうした誤りを正そうとせず、かえって称美讃歎している諸宗の邪見の学者の非を呵責され、深厚広大な釈尊の恩徳に報いるべきこと、それを忘れ、背いているならば、いかに仏法を学び修行しようとも悪道はまぬかれないと厳しく戒められている。

 

而るに当世の智者とおぼしき人人・是を見て・わざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只称美讃歎の心のみあり云云

 

世間の人々の誤りをいさめ、正しい仏法の修行へ導くのが、智者といわれる者の役割であるのに、逆に、彼等は、このことが世の大きな禍根であると思わず、ただ自分の意に合致しているということから称讃さえしているのである。

これらの智者と比べると、「一向悪人」つまり仏法を求める心もなく、仏など崇めもしない人間の方が、かえって罪はないのである。仏法を知らず、また求めもしない悪人の犯す悪は、世間的な悪行であって、釈尊への反逆ではない。つまり、たとえ五逆罪を造るような悪人でも、誹謗正法の罪は犯していないのである。

それに対して、智者、学者であっても、本尊に迷うなら、自ら地獄の悪業を造るのみならず、世の人々をも迷わして、無間地獄の業を造らせてしまうからである。

釈尊は、他仏によっては救われない衆生を、法華経譬喩品に記されるように「唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」との大悲願をおこされて救済される主師親三徳具備の仏である。故に、この娑婆世界の衆生にとって、釈尊の深恩は絶大であり、たとえ、我が生命をなげうって仏に仕えても、その深恩に報い切れないほどである。したがって、八万法蔵を究め尽くし、十二部経をそらんじ、また大小乗の戒律を持つほどの智者であっても、この三徳有縁の釈尊に反するならば、堕悪道はまぬかれないとの仰せである。

不知恩の輩は、人間の心をもたぬ畜生と同じであり、悪道はまぬかれえないのである。開目抄に、日蓮大聖人が「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり」(0215:09)と仰せのごとく、智者と思われる邪師は「才能ある畜生」となってしまっている。

末法における成道は、ただ南無妙法蓮華経の一法によるほかはないのである。

したがって、本抄の御文も、日蓮大聖人の元意からすれば、末法の衆生にとって三徳を具備された仏、すなわち日蓮大聖人の深恩を知らず、日蓮大聖人に反逆する諸宗の学者は、誹謗正法の重罪によって無間地獄をまぬかれないとの厳誡と拝すべきである。

 

 

 

第十一章 善無畏の堕獄を示す

例せば善無畏三蔵は真言宗の元祖・烏萇奈国の大王・仏種王の太子なり、教主釈尊は十九にして出家し給いき此の三蔵は十三にして位を捨て月氏・七十箇国・九万里を歩き回りて諸経・諸論・諸宗を習い伝へ北天竺・金粟王の塔の下にして天に仰ぎ祈請を致し給えるに虚空の中に大日如来を中央として胎蔵界の曼荼羅・顕れさせ給ふ、慈悲の余り此の正法を辺土に弘めんと思食して漢土に入り給ひ玄宗皇帝に秘法を授け奉り旱魃の時雨の祈をし給いしかば三日が内に天より雨ふりしなり、此の三蔵は千二百余尊の種子・尊形・三摩耶・一事も・くもりなし、当世の東寺等の一切の真言宗・一人も此の御弟子に非るはなし、而るに此の三蔵一時に頓死ありき数多の獄卒来つて鉄繩七すぢ懸けたてまつり閻魔王宮に至る此の事第一の不審なり、いかなる罪あつて此の責に値い給ひけるやらん、今生は十悪は有りもやすらん五逆罪は造らず過去を尋ぬれば大国の王となり給ふ事を勘うるに十善戒を堅く持ち五百の仏陀に仕へ給ふなり何の罪かあらん、其の上十三にして位を捨て出家し給いき閻浮第一の菩提心なるべし、過去・現在の軽重の罪も滅すらん・其の上月氏に流布する所の経論諸宗を習い極め給いしなり何の罪か消えざらん、又真言密教は他に異なる法なるべし一印一真言なれども手に結び口に誦すれば三世の重罪も滅せずと云うことなし、無量倶低劫の間作る所の衆の罪障も此の曼荼羅を見れば一時に皆消滅すとこそ申し候へ、況や此の三蔵は千二百余尊の印真言を諳に浮べ即身成仏の観道鏡に懸り両部灌頂の御時・大日覚王となり給いき、如何にして閻魔の責に予り給いけるやらん、日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候いて真言の秘教をあらあら習ひ此の事を尋ね勘うるに一人として答をする人なし、此の人悪道を免れずば当世の一切の真言並びに一印一真言の道俗・三悪道の罪を免るべきや。

 

現代語訳

たとえば、善無畏三蔵は真言宗の元祖であるが、もと北インド・烏萇奈国の大王である仏種王の太子であった。教主釈尊は十九歳で出家されたが、この三蔵は十三歳で太子の位を捨てて出家し、インド七十箇国、九万里を歩き回って諸経・諸論・諸宗を習学した。そして、北インドの金粟王が建てた法塔の下で天を仰いで祈り願ったところ、虚空の中に大日如来を中央とする胎蔵界の曼荼羅が顕れたのである。三蔵は、その慈悲心が盛んなあまり、この正法を辺土に弘めようと思い、中国に渡って玄宗皇帝に真言の秘法を授け、旱魃の時降雨を祈ったところ、三日のうちに雨が降ったのである。この三蔵は千二百余尊の種子と尊形と三摩耶について、一つとして明らかでないものはなかった。当世の東寺等の一切の真言宗の人々は一人としてこの三蔵の御弟子でない者はいないのである。

ところが、これほどの三蔵がある時、頓死した。すると数多くの獄卒が来て、鉄の繩を七重にかけ、閻魔王の宮殿に連れて行った、という。この事が第一の疑問である。どのような罪があって、この責めに値ったのであろうか。今生では十悪を犯したかもしれないが五逆罪は造ってはいない。過去を尋ねてみれば、大国の王となるべく生まれてきたことを考えてみると、十善戒を堅く持ち、五百の仏陀に仕えていたことになる。その人にどのような罪もあろうはずがない。そのうえ、十三歳で位を捨てて出家したことは、一閻浮提第一の菩提心というべきである。この一事をもってしても、過去、現在の軽重の罪は滅するであろう。そのうえ、インドに流布している経論、諸宗を習い究めたのであるから、どのような罪も消えないことがなかろう。

また真言密教は他の仏教と異なる法であって、手に一つの印を結び、口に一つの真言を唱えれば、それだけで、三世にわたる重罪も、滅しないということはないのである。さらに、無量倶低劫の長きにわたって作った種々の罪障も、この曼荼羅を見て祈れば一時に皆消滅するとさえいっているのである。まして、この三蔵は千二百余尊の印・真言を諳んじ、即身成仏を遂げる観法の道も鏡に映すように明らかに知っており、両部潅頂の時、大日覚王となったのである。このような人が、どうして閻魔王の責めにあうことになったのであろうか。

 

語釈

善無畏三蔵

06370735)。中国・唐代の真言密教の僧。宋高僧伝によれば、もとインドの烏萇奈国に王子として生まれ、いったん王位についたが、すぐ兄に位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺に行き、達摩掬多に従って密教を学んだ。開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられ、「大日経」7巻、「蘇悉地羯羅経」3巻等を翻訳し、「大日経疏」20巻を編纂した。

 

烏萇奈国

梵語ウディヤーナ(Udyāna)の音写。烏仗那・烏長那とも書き、園と訳す。北インド健駄羅国の北方にあった国。現在のスワート川流域にあたる。七世紀ごろには、スワート川をはさんで、千四百の伽藍と僧徒一万八千の多きを数えたといわれる。なお、大唐西域記巻一には烏仗那を訛って烏荼といったことが記されている。

 

仏種王

善無畏三蔵和尚碑銘によると、7世紀ごろの烏茶国の王。仏手王とも書く。真言宗の祖師・善無畏三蔵の父。釈尊の叔父。甘露飯王の後裔でもある。もと中インドの人であったが困難を避けて烏茶国に入り王となった。とある。

 

北天竺

インドの北部をいう。

 

金粟王

北インドの国王で、詳細は不明。一説には迦膩色迦王ともいわれる。大毘盧遮那経供養次第法疏巻上によると、善無畏が北天竺の乾陀羅城に入った時、この国の王が善無畏に帰依し、とくに供養法を聞いたので、善無畏は金粟王が建てた塔の辺で祈ったところ、たちまちにその供養法が空中にあらわれたという。そこで、善無畏はこの法を写して、一本を国王に、一本は自ら所持した、とある。

 

胎蔵界の曼荼羅

真言密教の根本である両界漫荼羅の一つ。胎蔵界を図顕した漫荼羅をいう。金剛界曼荼羅の智性に対して理平等実相法性を表したもの。大日経にもとづき、大日如来の菩提心が、母の胎内にたとえられる大悲によって増長し、一切衆生を救済する意味を図示したもの。漫荼羅や形式は多くの説があるが、現在、日本に流布しているものは、弘法が伝えたもの。大日如来が定印を結んで座す中台八葉院を中心として十二大院からなり、前後に四重、左右に三重の大院がある。

 

辺土

片田舎、①仏教発祥の地インドから遠く離れた日本のこと。②日蓮大聖人御生誕の地が日本の中心地である京都・鎌倉から遠く離れた地であること。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

玄宗皇帝

06850762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位07120756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509:16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。

 

千二百余尊

真言宗の本尊のこと。胎蔵界に500余尊、金剛界に700余尊があり、あわせて1200余尊となる。

 

種子

真言密教で、おのおのの仏・菩薩を梵語の一文字で表現したもの。一字一字に意味を持たせ、阿等の一字が無量の義を生ずるものを、草木の種子にたとえた語。諸尊に各種子があり、所具の徳をあらわしている。

 

尊形三摩耶

尊形とは尊貴なる人の形体という意で、諸仏・菩薩の尊い姿、尊容のこと。三摩耶は梵語サマヤ(samaya)の音写。三昧耶とも書く。真言密教で、平等・本誓・除障・驚覚と釈している。

 

東寺

50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。

 

獄卒

地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。

 

閻魔王宮

閻魔王の住んでいる宮殿。その住処について長阿含経巻十九には、閻浮提の南の大金剛山内に閻羅王宮があり、その規模は縦広六千由旬であると説き、また、大毘婆沙論巻一七二には閻浮提の地下五百由旬に閻魔王宮があり、一切の鬼神の住処であると説かれている。なお、その住処については諸説がある。

 

十善戒

正法念処経巻二に説かれている十種の善業道。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。十善戒とは、身口意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で十善道ともいう。即ち受十善戒経には「若し此の十善戒を受持し、十悪業を破り、上、天上に生じ、梵天王となり、下、世間に生まれて転輪王となり十善を教化す」とある。

 

菩提心

悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある

 

無量倶低劫

数えることのできないほどの長時をいう。無量ははかることができないこと。倶低は梵語コーティ(koi)の音写で、倶胝とも書く。数の単位で、千万・億または京と訳す。劫は梵語カルパ(kalpa)の音写で、劫波、劫跛とも書く。長時・大時等と訳し、きわめて長い時間の意。長遠の時間を示す単位として用いられる。

 

即身成仏

凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。

 

観道

観法の道のこと。真理を観ずる道。悟りを求める修行。

 

両部潅頂

金剛界・胎蔵界の両部の灌頂のこと。灌頂とは水を頭の頂に注ぐという意。元来は,インドの王の即位,立太子にあたり,大海の水を注ぐ儀式のこと。それが仏教に取入れられ,菩薩が最上の境地に入ろうとするとき,諸仏が智水を菩薩の頭に注ぎ,最上の位に達したことを認めること。

 

大日覚王

大日如来のこと。

 

講義

前章では、娑婆世界の一切衆生にとって、教主釈尊ほど縁が深く、大恩のある仏はいないことを明かされるとともに、当時の人々が法華経を根本にしないために、大日如来や阿弥陀仏等の他仏を本尊として、いかに教主釈尊の大恩を忘れているかを鋭く指摘された。

それを受けて本章では、教主釈尊を本尊とし、法華経を最第一とするという道理に背くならば、どれほど偉大な智者であっても、悪道に堕すことは間違いないと断言され、その典型的な実例として、真言宗の元祖である善無畏三蔵が獄卒に責められたことを挙げられている。ここでは、善無畏三蔵が頓死するまでの、常人の及ばぬ数々の事蹟と類まれな智者ぶりを紹介されていきながら、それだけの人物が何故に、頓死後に、獄卒より閻魔王宮に連れていかれ、獄卒の責め苦にあったのかと、疑問を述べられている。

この疑問に対する大聖人の答えは、次の章で明らかにされる。

 

 

 

第十二章 善無畏の堕獄の理由を明かす

日蓮此の事を委く勘うるに二つの失有つて閻魔王の責に予り給へり、一つには大日経は法華経に劣るのみに非ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は釈尊の分身なり而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり、此の謗法の罪は無量劫の間・千二百余尊の法を行ずとも悪道を免るべからず、此の三蔵此の失免れ難き故に諸尊の印真言を作せども叶はざりしかば法華経第二・譬喩品の今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護の文を唱へて鉄の繩を免れさせ給いき、

 

現代語訳

日蓮がこの三蔵の事を詳しく検討してみると、二つの誤りがあって閻魔王の責を受けたのである。一つには、大日経は法華経に劣るだけでなく、涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばない経であるのに、法華経より勝れているとした謗法の誤りである。二つには、大日如来は、釈尊の分身であるにもかかわらず、大日如来は教主釈尊に勝れていると思った僻見である。この二つの謗法の罪は、たとえ無量劫の間、千二百余尊の法を修行したとしても悪道をまぬかれることのできない重いものである。

それで、善無畏三蔵は、諸尊の印を結び真言を唱えても、この謗法の罪をまぬかれることができなかったので、法華経巻第二の譬喩品の「今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護」という文を唱えて鉄の繩をまぬかれることができたのである。

 

語釈

顕密二道

顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。

 

真言の秘教

真言宗の秘密の教え。大日如来を教主とする密教の教え。

 

閻魔王

閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。

 

分身

仏の化導する衆生はあまりに多く、一つの国土に収めきれない場合、他の国土に移し、仏自身も身を分かって、そこで化導する。これを分身散体の原理という。宝塔品の儀式において、仏は法華経の証明のために、多宝如来の十方の分身の諸仏がおのおの一人の大菩薩を率いて参集し広長舌相をもって法華経を証明するのである。

 

無量劫

量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)

 

講義

善無畏三蔵が閻魔の責めにあった理由を、教法(法)と仏(人)の二つの観点から明らかにされている。

その一つは、大日経は、涅槃経や華厳経、般若経等にさえ及ばない劣った経であるにもかかわらず、諸経典中最第一の法華経より大日経の方が勝れているとし、法華経を下した謗法のためである。これは「謗法の失」と仰せのように、正法たる法華経を誹謗した罪であり、教法の立場からの指摘である。

二つは、本来、教主釈尊の分身にすぎない大日如来を、教主釈尊より勝れた仏として立てるという本末転倒の誤れる見解を抱き弘めた罪である。これは、仏(人)の立場からの指摘である。

この二つの謗法の罪は、主・師・親三徳具備の教主釈尊を倒すとともに、その教主釈尊の出世の本懐を説いた法華経を下すのであるから、無間地獄に堕ちること間違いなき重罪である。顕謗法抄にも示されているように、五逆罪と誹謗正法(謗法)の二つが無間地獄に堕ちる極重罪である。なかでも、誹謗正法は、五逆罪よりはるかに重い罪であり、同抄で「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0448:13)と、謗法の恐ろしさを述べられている。

善無畏三蔵が五逆罪を造らなかったことは、前章で「今生は十悪は有りもやすらん五逆罪は造らず」(0887:02)と述べられているとおりである。したがって、最も重い誹謗正法こそが、善無畏三蔵の犯した罪ということになる。

法華経の譬喩品には「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……若しは仏の在世 若しは滅度の後に 其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん 経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん 此の人の罪報を 汝今復た聴け 其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん……」と、法華経誹謗の罪業が無数劫もの間、阿鼻獄(無間地獄)に沈む報いを受けることを述べている。この譬喩品の金言どおり、善無畏三蔵は頓死した後、閻魔王宮で獄卒に責められたのである。

ところで、日蓮大聖人が挙げられた二つのこと、すなわち、正法たる法華経を下したことと教主釈尊を仏として立てなかったことの二つは、結局は法華経誹謗の一つの罪に収まるとも考えられる。それは、本文中で、法華経を下したことを「謗法の失」といわれたのに対し、教主釈尊を大日如来より劣るとしたことを「僻見」といわれて、一往、区別されている。しかし、そのすぐ下の文で、二つの理由をまとめて「此の謗法の罪」とされているのも、ここからうなずけるのである。

そして、本抄の第十章の御文でも「而るを諸大乗経による人人・我が所依の経経を諸経に勝れたりと思ふ故に教主釈尊をば次さまにし給ふ」(0886:01)と述べられているように、結局、教主釈尊を本尊として立てるか、大日如来や阿弥陀仏を立てるかは、いかなる経をその依りどころとするかによって必然的に決まってくる。善無畏三蔵の場合は、まず、法華経より大日経の方が勝れているとの誹謗正法の罪を犯したために、必然的に、大日経の教主、すなわち、大日如来を仏として立てる結果になったというべきであり、この関係は、念仏宗も全く同じである。

ここから、日蓮大聖人が本抄において、冒頭から、まず法華経という経法の最高唯一性を力強く訴えられた後に、主・師・親三徳を具えた教主釈尊を本尊として立てるべきことを述べられた理由がわかるのである。

 

法華経第二・譬喩品の今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護の文

善無畏三蔵は、獄卒の訶責の中でこの文を唱えて鉄縄の責め苦をまぬかれたという。

 

何故に、この文を唱えて苦をまぬかれたかといえば、この文を唱えることは、法華経・釈迦仏に帰依することを表しているからである。

この文は、教主釈尊が自ら娑婆世界の一切衆生にとって主・師・親三徳を具備した仏であることを宣言したものとして著名である。すなわち「今此の三界は 皆な是れ我が有なり」の文が、釈尊の主の徳を、「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」の文が、親の徳を、「而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」の文が、師の徳を、それぞれ表している。

善無畏三蔵が、獄卒に責められる中で、この文を唱えて責め苦をまぬかれたということは、彼ほどの真言宗の大家でも、自らの立てた大日如来によっては救われなかったのであり、主・師・親三徳を具えた教主釈尊により救われたことを示すものである。それはまた「地にたう()れたる人は・かへりて地よりをく」とあるように、教主釈尊を倒した誤りが原因で苦の世界に堕ちたのであるから、そこから逃れる道は、ただ誤りを正して教主釈尊に帰依する以外にないことを善無畏は身をもって示したといえるのである。

なお、この譬喩品の文は、日蓮大聖人の元意の辺から読むならば、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人こそ主・師・親三徳を具えられた末法の御本仏であることを表しているのである。開目抄の「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)の御文と併せて確認しておきたい。

 

 

 

第十三章 善無畏以後の誤りを破す

而るに善無畏已後の真言師等は大日経は一切経に勝るるのみに非ず法華経に超過せり、或は法華経は華厳経にも劣るなんど申す人もあり此等は人は異なれども其の謗法の罪は同じきか、又善無畏三蔵・法華経と大日経と大事とすべしと深理をば同ぜさせ給いしかども印と真言とは法華経は大日経に劣りけるとおぼせし僻見計りなり、其の已後の真言師等は大事の理をも法華経は劣れりと思へり、印真言は又申すに及ばず謗法の罪・遙にかさみたり、閻魔の責にて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず直に阿鼻の炎をや招くらん、大日経には本・一念三千の深理なし此の理は法華経に限るべし、善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給いしを盗み取つて大日経に入れ法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり、譬えば人の下人の六根は主の物なるべし而るを我が財と思ふ故に多くの失出で来る、此の譬を以て諸経を解るべし劣る経に説く法門は勝れたる経の得分と成るべきなり。

 

現代語訳

ところが、善無畏三蔵以後の真言師等は、大日経は一切経に勝れているだけでなく法華経にも超過しているといい、或は法華経は華厳経にも劣るなどという人もある。此等は人は異なってもその謗法の罪は同じといえよう。また善無畏三蔵は、法華経と大日経とはともに大事にすべき経典であり、その深理においては同じものであると考えたが、印と真言については、法華経は大日経に劣っていると思った僻見だけであった。それ以後の真言師等は、その大事の深理についても法華経が大日経に劣っていると思っている。印・真言について勝劣を立てることは、いうに及ばない。こうして、彼等の謗法の罪は、ますます積み重なっていった。閻魔の責によって堕地獄の苦を延期できるとも思えない。ただちに阿鼻の炎を招くであろう。

大日経には、もともと一念三千の深理は説かれていない。この深理は法華経に限るのである。善無畏三蔵は、天台大師が法華経を読んで取り出された一念三千の深理を盗み取って大日経に取り入れ、法華経を荘厳するために説かれた大日経の印・真言を、大日経の勝れた部分であると思ったのである。したがって理についても、法華経と大日経とは同じであるというのは僻見である。真言・印契は大日経の勝れた部分であると思うのも邪見である。たとえば、下人の六根は主人のものであるべきである。それを自分の財産と思う故に、多くの誤りが出てくる。この譬えによって諸経を理解すべきである。劣る経に説かれている法門は勝れている経の得分となるべきなのである。

 

語釈

阿鼻

阿鼻地獄のこと。阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

一念三千

仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。

 

真言

真言宗で立てる真言のこと。真言は梵語マントラ(Mantra)の訳。密呪・密語とも訳す。仏の真実のことばの意。諸仏の本誓・徳・梵名などを示す秘密語。梵語で表したもので、これを唱えれば不思議の功徳があるという。三密のなかの語密にあたる。

 

印契

真言宗で立てる印契のこと。印契は梵語ムドラー(Mudrā)の訳。印相とも、たんに印ともいう。手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の悟りや誓いを表したものをいう。三密のなかの身密にあたる。善無畏三蔵は、印・真言があるから真言宗が天台法華宗に勝れているとの説を立てた。

 

六根

目・耳・鼻・舌・身・意のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。六根の対境にあたるものが、六境または六塵で、六根が六境と関係して生ずる感覚を六識という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。また生命には意根があるから、こわいとか楽しい等の意識を生ずるのである。

 

講義

本章は、善無畏三蔵以後の真言師達が、善無畏三蔵の謗法の罪に加えて、ますます、謗法罪を重ねていることを述べられているとともに、併せて、真言宗の邪義を破折されている。

真言宗の邪義には、前述したように、東密と台密という、二つの形態があり、ここでは、台密を主として破折されている。

東密とは、弘法大師空海が東寺と高野山を中心に立てた真言密経のことで、法華経を釈迦応身仏の説いた顕教の中に入れ、大日法身の説いた密経に比べてはるかに劣るとあからさまに下すものである。それは、空海が、法華経を「無明の辺域」「戯論」と嘲笑したことにも明らかである。

これに対して、台密は、日本天台宗の立てた密教である。最初、伝教大師最澄は法華経を根本に、絶待妙の立場から、密経をとり入れたが、円仁、円珍、安然と下るにともない、法華経と大日経は円理において一致するが、事相において大日経の方が勝れていると、〝理同事勝〟を主張し始め、さらに時代が下るにしたがい、ついには、理も事も大日経の方が勝れていると主張して、全く東密の考えと同じになっていくのである。本章で、大聖人が主として、台密の〝理同事勝〟の邪義を破折されているのは、旧師・道善房のいる清澄寺が円仁(慈覚)の再建になる房総第一の天台宗の名刹であり、台密の系統に連なる寺であったためと考えられる。

 

理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり

 

真言宗で説く〝理同事勝〟の邪義を端的に破折された御文である。

「理も同じと申す」とは〝理同〟のことで、法華経に説かれている二乗作仏・久遠実成・一念三千などの法理は大日経にも同じく説かれている、という主張である。

しかし、日寛上人が三重秘伝抄で破折されているように、例えば、二乗作仏についてみると、真言宗では「大那羅延力」の語を、こじつけて二乗作仏の依文としているのみである。ここには未来成仏の記別に必要な劫・国・名号がない。故に、二乗作仏が説かれているといっても全く実体がないのである。また、久遠実成についても大日経の「我一切本初」という文の〝本初〟を、寿量の義であるとしている。しかし、ここでいう一切の本初である「我」とは、隔歴の単法身 (法・報・応の三身が別々に説かれた中の法身)にしかすぎず、法華経如来寿量品で説かれる久遠実成の仏が三身円融・三身即一身の法身であるのに対して、歴然とした違いがある。こうして大日経には二乗作仏・久遠実成が説かれていないのであるから、一念三千の法理がないことは明らかである。

にもかかわらず、大日経にも一念三千の義があると主張したのは、盗作したからにほかならない。大聖人が、本章で「善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給いしを盗み取つて大日経に入れ」と述べられ、開目抄でも「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて」(0215:18)と述べられているとおりである。

このゆえに〝理同〟の義は全く僻見でしかないのである。

つぎに「真言印契を得分と思ふ」とは〝事勝〟のことで、大日経には、法華経にはない印契(印)と真言の事相が得分としてあるから、この点で大日経の方が勝れているとする邪義である。

これに対して、大聖人は「法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言」と簡単にしりぞけられている。印とは、仏・菩薩の悟りの内容を表示する手つきや器具のことで、真言とは、仏・菩薩の誓や徳を示す秘密語である。たしかに、大日経には印・真言が数多く説かれているが、それは、法華経の中に説かれていたものを荘厳するためのたんなる飾りにすぎない、と大聖人は破折されている。

さらに、文永元年(1264)の法華真言勝劣事では「法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり」(0123:17)として、二乗作仏・久遠実成を説かない大日経には成仏の義が成立しないことになり、印・真言の事相があるといっても、所詮、虚妄であり、内容のない飾り物にすぎないと破折されているのである。

 

 

 

第十四章 立宗以来の折伏を述べる

而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ、殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に禅宗・念仏宗の学者・蜂の如く起り雲の如く集る、是をつむる事・一言二言には過ぎず結句は天台・真言等の学者・自宗の廃立を習ひ失いて我が心と他宗に同じ在家の信をなせる事なれば彼の邪見の宗を扶けんが為に天台・真言は念仏宗・禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり、此れは日蓮を破する様なれども我と天台・真言等を失ふ者なるべし能く能く恥ずべき事なり。
  此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし。

 

現代語訳

さて、日蓮は安房の国・東条の郷にある清澄山の住人である。幼少の時から虚空蔵菩薩に願いを立て「日本国第一の智者にしてください」と祈っていたところ、虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現れ、明星のような智慧の宝珠を授けてくださったのである。その証拠であろうか、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗などの教義の大綱をほぼうかがい知ることができた。

建長五年のころから今年文永七年に至るまでのこの十六、七年の間は、なかでもとくに禅宗と念仏宗とを非難してきたので、禅宗・念仏宗の学者達が蜂のように群がり起こり、雲のように集まって騒ぎ立て攻めてきた。だが、これを論詰するのに一言二言で十分すぎるほどであった。

最後には、天台宗や真言宗の学者達までが、自宗の依って立つ教義における廃立の立て分けを忘失して、自分からすすんで他宗(念仏宗・禅宗)に同意し、あるいは在家の人々が信仰していることだからといって、念仏・禅の邪見の宗を助けようとして、思案をめぐらし「天台・真言は念仏宗・禅宗と同じである」などといって、日蓮を破ろうとするのである。しかし、真言宗・天台宗の学者たちのやり方は、日蓮を破るように見えるけれども、その実、自分自身の手で天台・真言の立場を失う者となっているのである。まことにまことに恥ずべき行為である。

このように、諸経・諸論・諸宗の誤りを弁え理解することができた事は、ひとえに、虚空蔵菩薩の御利益であり、旧師・道善御房の御恩なのである。

 

語釈

安房の国

現在の千葉県南端部にあたる古地名。房州とも呼ばれた。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の4郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同六6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。

 

東条の郷

東条郷は安房国長狭郡の内の一郷である。後、東条氏の興隆によって独立した一郡となったようである。日蓮大聖人は、承久4年(1222216日に安房国長狭郡東条郷片海に誕生された。

 

清澄山

千葉県安房郡天津小湊町(現在の千葉県鴨川市)の山。妙見山ともいい,標高は380㍍余り。安房国と上総国の境をなしていた。山上に清澄寺があり、日蓮大聖人はここで剃髪し、鎌倉、叡山等で修学後、建長5年(1253)にこの地で立教開宗された。

 

虚空蔵菩薩

梵語アーカーシャガルバ(Âkâśagarbha)の訳。智慧と福徳の二蔵が虚空のように広大無辺であるところから名づけられた菩薩。形像には諸説があり、その一つは蓮華座に坐して五智宝冠を戴き、右手に智慧の利剣、左手には福徳の蓮華と如意宝珠を持って描かれている。

 

念仏宗

阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。

 

廃立

釈尊一代聖教を説法の順序・説教の浅深などによって分類し、体系づけて勝劣を判別し、仮を廃捨して真実を建立すること。

 

御利生

衆生を利益すること。利益衆生の意味。

 

道善御房

(~1276)。安房国東条郷清澄寺の住僧。日蓮大聖人出家剃髪の師である。しかし、臆病であり小心であったようで、大聖人の教えが正しいとも思い、とくに晩年には法華経に帰依したが、地頭の権威を恐れて、念仏を捨て切れずに一生を終わったようである。死後、大聖人は師の恩を報ずるために報恩抄をしたため、同門の兄弟子である浄顕房・義浄房のもとへ送られている。

 

講義

本抄は、前章までに展開されてきた真言宗の破折に関連して、本抄を執筆された文永7年(1270)に至るまでの日蓮大聖人の御半生を簡潔に回顧されている。そして、そのすべては、虚空蔵菩薩の御利生と旧師・道善房の御恩の賜物であると述べられ、次の最終章で、師への報恩を諄々と語られるのである。

 

幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云

 

日蓮大聖人が幼少の時に虚空蔵菩薩に祈願されたことを回顧された御文は、本抄の他に二つある。すなわち

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(0893:06)。

「幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ」(1292:17)。

さて、虚空蔵菩薩とは、原名をアーカーシャガルバ(Âkâśagarbha)といい、その智慧、功徳、慈悲が虚空のように無尽蔵にあり、すべての衆生が求めるところのものを自在に与える能力があるところからこの名があるという。

日蓮大聖人が12歳の時に登られた清澄山の清澄寺には、この寺の創建者・不思議法師の彫刻と伝えられる虚空蔵菩薩が安置されていた。その菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と請願されたところ、明星のような智慧の宝珠を授けられ、それより一切経を拝見されたところ、一切経と日本国の八宗の勝劣をほぼ知ることができたと述べられている。この大聖人の幼少時の不思議な体験については、大聖人御自身、「十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」(1292:18)と述べられていることでもあり、私達凡愚の知る能わざるところである。

ただ、私達としては、十二歳という幼少時において「日本第一の智者となし給へ」と祈願された大聖人の仏法求道における目的感・使命感の壮大さに、末法の御本仏の御内証を拝するばかりである。

 

 

 

第十五章 恩師・道善房の法華経への帰依を喜ぶ

亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、然れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼義なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや、中中・山人・海人なんどが東西をしらず一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし、当世の道心者が後世を願ふとも法華経・釈迦仏をば打ち捨て阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず、一向悪人はいまだ仏法に帰せず釈迦仏を捨て奉る失も見えず縁有つて信ずる辺もや有らんずらん、善導・法然・並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人人は多生曠劫をふるとも此の邪見を翻へして釈迦仏・法華経に帰すべしとは見えず、されば雙林最後の涅槃経に十悪・五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れとこまごまと申して候いしかば此の人もこころえずげに思いておはしき、傍座の人人もこころえずげに・をもはれしかども其の後承りしに法華経を持たるるの由承りしかば此の人邪見を翻し給ふか善人に成り給いぬと悦び思ひ候処に又此の釈迦仏を造らせ給う事申す計りなし、当座には強なる様に有りしかども法華経の文のままに説き候いしかばかうおれさせ給へり、忠言耳に逆らい良薬口に苦しと申す事は是なり。
  今既に日蓮・師の恩を報ず定めて仏神・納受し給はんか、各各此の由を道善房に申し聞かせ給ふべし、仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり、当世・学匠等の法門は輭語・実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗・真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし、例せば此の道善御房の法華経を迎へ釈迦仏を造らせ給う事は日蓮が強言より起る、日本国の一切衆生も亦復是くの如し、当世・此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る、譬えば栴檀は伊蘭より生じ蓮華は泥より出でたり而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは糞犬が師子王をほへ癡猿が帝釈を笑ふに似たり。

  文永七年              日 蓮  花 押

   義浄房浄顕房

 

現代語訳

亀ですら恩を報ずることがある。まして人間においてはなおさらである。この師恩を報ずるために清澄山において仏の正法を弘め、道善御房を導こうと願ったのである。ところが、この人は愚癡であるうえに、念仏者である。とても、三悪道からまぬかれるとは思えない。しかもまた、日蓮の教訓を受け入れてくれる人ではない。そうではあるけれども、文永元年十一月十四日、西条華房の僧坊にてお会いした時、かの人(道善房)がいうのには「私は智慧がないので、高い地位に登用されることを望んでもいない。年老いて名聞を求めようとすることもないので、念仏の名僧をも師匠に立てない。世間に弘まっていることであるから、ただ南無阿弥陀仏と申しているだけである。また、私の心から起こったのではないけれども、何かの縁があって、阿弥陀仏を五体までもお作りした。これもまた、過去の宿習であろう。その罪によって地獄に堕ちるであろうか」と。

その時に、日蓮が心に思うには、師とあえて仲違いするつもりはないけれども、東条左衛門入道蓮智の事件によって、この十余年の間は、お会いすることはなかったので結局、仲違いしているようなものであるから、穏便の義をもって、穏やかに申し上げることこそ礼儀であるとは思ったけれども、生死の世界の習いは老少不定である。また二度とお会いすることも難しいだろう。私は、この人の兄の道義房義尚に向かっても無間地獄に堕ちるべき人といっておいたが、臨終はやはり思うようにいかなかったらしい。この人もまたそうなるであろうと哀れに思ったから、思い切って強く申し上げたのである。

「阿弥陀仏を五体作られたことは、五度無間地獄に堕ちなければならない。その理由は、正直捨方便といわれた法華経に、釈迦如来は我らの親父、阿弥陀仏は伯父であると説かれている。我が伯父を五体までも作り供養されながら、親父を一体も造られないのは、まことに不孝の人としかいいようがない。むしろきこりや海人などのように、東西を知らず、一善をも修しない者の方がかえって罪の浅い者なのである。今の世の道心のある者が後世を願いながら、法華経・釈迦仏を打ち捨てて、阿弥陀仏・念仏などは一瞬も捨てずに念じているのは、どういうものであろうか。ひとめ見たところは善人に見えるけれども、親を捨てて他人につくあやまちはまぬかれられるとは思えない。全くの悪人は、いまだ仏法に帰依していない一方、釈迦仏を捨てるようなあやまちもない。したがって縁があれば信ずることもあるだろう。善導・法然、ならびに今の世の学者等の邪義について、阿弥陀仏を本尊としてもっぱら念仏を称える人々は、多生曠劫を経たとしても、この邪見をひるがえして釈迦仏・法華経に帰依するとは思えない。それゆえ、釈尊が沙羅双樹の下で最後に説かれた涅槃経には、十悪・五逆罪よりもはるかに恐ろしい罪の者をとり挙げているが、それは、謗法闡提といって、二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒っている智者達の中にこそいるのであると説かれております」。

このように、こまごまと申し上げると、この人はあまり理解できないという様子でおられた。また、傍にいた人々もよくわからないという様子であったけれども、その後承ったところでは法華経を持つようになった旨聞いたので、この人は邪見を翻されたのであろうか。とすれば善人になられた、と悦んでいたところに、また、この釈迦仏を造られた事は、口ではいえぬほどの喜びである。その当座には厳しいように思えたけれども、法華経の文のとおりに説いたので、このように心を従われたのである。忠言耳に逆らい、良薬口に苦しというのはこのことである。

今やすでに日蓮は師の恩を報じた。きっと仏神もこれを納受してくださるであろう。おのおのこのことを道善房に申し聞かせてください。たとえ強い言葉であっても人をたすければ実語・輭語である。たとえ輭語であっても人を誤らせれば妄語・強言である。今の世の学者等の法門は輭語・実語と人々は思っているけれども、すべて強言・妄語である。仏の本意である法華経に背くからである。

日蓮が「念仏を申す者は無間地獄に堕ちる。禅宗・真言宗もまた誤った宗である」などというのは一見、強言のように思えるけれども実語・輭語なのである。たとえばこの道善御房が法華経を信受し釈迦仏を造られた事は日蓮の強言から起こったのである。日本国の一切衆生もまた同様である。今の世でこの十余年以前までは、もっぱら念仏者であったが、今では十人のうち一、二人はもっぱら南無妙法蓮華経と唱え、二、三人は両方唱えるようになり、またもっぱら念仏を申す人も疑いを抱いて、心の中では法華経を信じ、また釈迦仏を書いたり、造るようになった。これもまた日蓮の強言から起こったのである。たとえば栴檀は伊蘭より生じ、蓮華は泥より生え出るようなものである。

しかるに「念仏は無間地獄に堕ちる」といったことに反発して、今の世の牛馬のような智者達が日蓮の法門をかりそめにも毀る姿は、糞犬が師子王を吠え、癡かな猿が帝釈を笑うのに似ている。

文永七年              日 蓮  花 押

義浄房浄顕房

 

語釈

亀魚すら恩を報ずる事あり

中国・晋代の軍人であった毛宝が昔助けた亀に命を救われたという故事。晋書毛宝伝等にある。毛宝が、ある日、市場で白い亀を買い、しばらく大切に育てた後、川に放してやった。後、予州の刺史となって邾城を守っていた時、大軍に攻められ、城は陥落した。河岸へ逃がれ、河中に入って逃げようとした時、多くの者は皆沈んでしまったが、毛宝のみは、思い鎧を着ていたにもかかわらず、昔、放った亀があらわれて助けてくれたので、無事対岸までたどり着けたという。

 

東条左衛門入道蓮智

東条景信のこと。生没年不明。大聖人御在世当時の安房国長狭郡東条郷の地頭。強信な念仏者であった。大聖人の立教開宗以来、ことごとく大聖人に敵対した。文永元年(12641111日、故郷へ帰られた大聖人を小松原で襲い、弟子を殺害し、大聖人にも疵を負わせた。

 

生死界

悩み・苦しみの世界のこと。生死は一切衆生が繰り返す生・滅のこと。生死輪廻して解脱することのできない苦の境界をいう。

 

道義房義尚

生没年不明。大聖人御在世当時の安房国・清澄寺の住僧。道善房の兄、あるいは法兄といわれる。西堯房、円智房とともに大聖人に敵対した。

 

正直捨方便

法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。

 

山人

山中に住む賤しい身分のもの。きこり・やまびと・猟師。

 

海人

海や湖で魚介類を取ることを職業とする人。漁師。

 

多生曠劫

何回もこの世に生まれては死に、死んではまた生まれるというように、多くの生を受けて長い劫数を経ること。曠劫とは遠く久しき時間をいい、とくに過去に長い時間をいう。

 

雙林最後の涅槃経

雙林とは拘尸那城跋堤河のほとりの沙羅雙樹の木のこと。沙羅とは梵語で樹名、釈迦は一木二双四方八株の沙羅雙樹に四方を囲まれた中において八十歳の年の二月十五日に入滅した。そのとき沙羅雙樹がことごとく白くなり、あたかも白鶴のように美しかったという。それで沙羅林を鶴林ともいう。釈迦の入涅槃の時と処を象徴して、雙林最後といい、そのときの説法である涅槃経を雙林最後の涅槃経というのである。涅槃経は法華経の流通分にあたる。

 

謗法闡提

「謗法」とは、誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。「一闡提」とは、梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。

 

二百五十戒

「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。

 

三衣一鉢

僧が身につける三種の法衣と、物を乞う時に用いる鉄鉢一個のこと。僧のあるべき姿・行儀をいう。僧の生活が質素であるべきことを表示しており、僧の所有すべき限度をさす。なお三衣については経論によって諸説があるが、四分律資持記巻下等には①僧伽梨(大衣)、②鬱多羅僧(上衣)、③安陀会(中衣)とある。

 

実語・輭語

実語とは真実の言葉。妄語に対する語。輭語とはやわらかい言葉。意を尽くしている語。麤語、また強言に対する語。法華経方便品第二に「如来は能く種種に分別して、巧みに諸法を説き、言辞は柔軟にして、衆の心を悦可せしめたまう」とある。

 

栴檀

インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。

 

伊蘭

梵語エーランダ(Eranda)の音写。トウゴマ(唐胡麻)の一種。屍のような悪臭を放ち、その臭気は四十由旬の遠方にも及ぶといわれる。種子には毒分があり、油をしぼって下剤として使われるという。

 

師子王

ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

義城房

清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで浄顕房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。

 

顕房

清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで義浄房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。のちに御本尊をいただいている。

 

講義

日蓮大聖人の破折顕正の折伏弘教の活動が、旧師・道善房への報恩のためであることを述べられるとともに、旧師が法華経・釈迦仏に帰依したことにより、報恩が成就したことを心から喜ばれている。本抄の別名「師恩報酬抄」は、この大聖人の旧師を思う報恩の姿から付けられたものである。

前章で、大聖人は、とくに念仏宗・禅宗を中心に諸宗を論破されてきた建長5年(1253)より文永7年(1270)までの167年間を回顧されて、それがひとえに、虚空蔵菩薩の御利生と旧師・道善房の報恩の賜物(たまもの)であると述べられたが、本章では、旧師への報恩についてのみ記されている。それは、虚空蔵菩薩の御利生への報恩は、ある意味では、諸宗折伏によって法華経の正法を宣揚された不惜身命の実践の中で尽くされているからではなかろうか。なぜなら、虚空蔵菩薩が大聖人に授けた明星のような智慧によって、一切経と八宗の勝劣が明らかになったのであり、諸宗の勝劣を日本の既成仏教界に宣明することが、そのまま、虚空蔵菩薩の御利生を生かす道であったからである。それに対して、幼少時の大聖人を仏教に導き、虚空蔵菩薩にひき合わす縁になった旧師・道善房の場合は、道善房自身が謗法の邪義に迷っている凡夫である。

故に、大聖人は、その仏法上の誤りに目覚めさせ、成仏への正しい道へ導くことが、真実の報恩の行為であると深く確信されたのである。本章に「此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」と、述懐されているとおりである。

後に著された報恩抄では「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず……内典の仏経に云く『恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり』等云云」(0293:05)と、明確に、父母・師匠・国主の恩に報いる真実の道を述べられている。つまり、正法を究めるまでは、恩ある父母・師匠・国主等の心に随わず、世俗的な恩を捨てるほどの決意がなくてはならないし、そのようにして正法を究めたのちに、その正法の下に、父母・師匠・国主を導いていくのが、真実の報恩の道であるというのが、日蓮大聖人の終生変わらぬお考えであった。

どこまでも、出世間の仏法の真理を第一義にされ、そのうえで世間的な恩を大切にされる日蓮大聖人の厳しいまでの報恩の在り方に、私たちは信仰者としての生き方を学んでいきたいものである。

なお、本章で、日蓮大聖人が、文永元年(12641114日、西条花房の僧坊で、旧師・道善房に対面された場面を回想されているくだりがある。日蓮大聖人は、弘長3年(1263)に伊豆流罪を赦免になられて後、翌文永元年(1264)の10月には故郷・安房に帰られ、母親の重病を治されている。しかし、同1111日に、小松原で東条景信の襲撃を受けられて、門下の鏡忍房、工藤吉隆が討ち死にし、ご自身も額に傷を負われるという難にあわれた。

道善房との対面は、この小松原法難の直後のことであり、おそらく、西条華房の僧房に難を避けられ、傷を癒されていた大聖人を、師・道善房が見舞ったことにより久方ぶりの対面となったのであろう。

この時の対面で、大聖人は、阿弥陀仏信仰が堕地獄の因であること、法華経・釈迦仏を立てこれに帰依してはじめて救われることを、かなり厳しく道善房に諌言されている。大聖人御自身、〝強言〟といわれているように、厳しいものであったが、道善房を無間地獄に堕としてはならない、との深い慈悲と真実の報恩の一念から発せられたのであった。ついに、この大聖人の師を思う心に動かされて、道善房も、後に、法華経を受持し、釈迦仏を造立するに至るのである。このことを、日蓮大聖人は「今既に日蓮・師の恩を報ず定めて仏神・納受し給はんか」と喜ばれているのである。

 

仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ・輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり

 

強言は、強く厳しく相手に訴えていることばであり、輭語は、軟語で、柔らかくやさしいことばである。しかし、大聖人は、ことばが強いか柔らかいかは、たんに形式の上の事で判断すべきものではなく、あくまで、ことばにこめられた内容とそれを語る人の心によって決まるものであることを、ここで述べられている。

どれだけ強く相手の非を責めることばであっても、相手を深く思い、相手を救おうとする慈悲の一念から発せられたものは嘘のない実語であり、真の意味で、やさしく柔らかい軟語になるのである。

逆に、表面的には、いかにやさしく柔らかそうなことばで語っていても、相手を思う慈悲の心ではなく、無責任な冷酷な心から出たものであれば、結局、相手を傷つけ、不幸に陥れることになり、これほどの強言もないことになるのである。すなわち、大聖人のいわれる強言とは、相手の人生を狂わせ、不幸にすることばを指し、逆に、軟語とは、人を救い、地獄の責め苦を免れさせる慈悲のことばを指しておられるのである。故に「日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗・真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし」と仰せなのである。

ここから、私達は、大聖人の仏法における折伏の本義の一端をうかがい知るとともに、偽りの〝軟語〟の中に真実を見失い、人間不信を深めゆく現実世界にあって、慈悲の心で結ばれた、信頼の絆の確立を目ざしていきたいものである。

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