是日尼御書
文永12年(ʼ75)または建治2年(ʼ76)の4月12日 54歳または55歳 是日尼
ぬ。さどの国よりこの甲州まで入道の来りしかば、あらふしぎやとおもいしに、また今年来って、なつみ、水くみ、たきぎこり、だん王の阿志仙人につかえしがごとくして、一月に及びぬる不思議さよ。ふでをもちてつくしがたし。これひとえに、また尼ぎみの御功徳なるべし。また御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にては、かならずゆきあいたてまつるべし。恐々謹言。
卯月十二日 日蓮 花押
尼是日
現代語訳
佐渡の国からこの甲州の身延まで、夫の入道が来たので、実に不思議だとおもっていたところ、また今年も来て、菜を摘み、水を汲み、薪を取りして、須頭檀王が阿私仙人に仕えたようにして、一ヵ月にも及んでいるのは、何と不思議なことであろうか。筆で書き尽くすことは難しい。これはひとえに、また、尼君の御功徳となるであろう。
また、御本尊を一幅書いて差し上げます。霊山浄土では、必ず行き逢いましょう。恐恐謹言。
卯月十二日 日蓮
尼是日
語句の解説
さどの国
新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
甲州
現在の山梨県。この南巨摩郡身延町に標高1148㍍がある。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・波木井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結ばれている。
入道
仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
なつみ
食用になる山菜を摘むこと。法華経提婆達多品第12には「王、仙の言を聞いて、歓喜踊躍し、即ち仙人に随って、所須を供給し、果を採り水を汲み、薪を拾い食を設け、乃至身を以て状座と作せしに、身心倦きこと無かりき。時に奉事すること千歳を経て、法の為の故に、精勤し給侍して、乏しき所なからしめき」とある。
だん王
須頭檀王のこと。釈尊が過去世に菩薩として修行した時の姿の一つ。正法を求めるために王位を捨て、1000年の間、阿私仙人に従って仏道修行をした。阿私仙人とは提婆達多の過去世の姿とされる。「日妙聖人御書」に「昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に千歳が間・阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせ給いて今の釈尊となり給う」(1215:07)とある。
阿志仙人
阿私は梵語。提婆品には釈尊が過去無数劫の昔、国王と生まれ、大衆のために王位を捨てて無上の法を求め、「誰か能く我が為に、大乗を説かん者なる。われ当に身を終わるまでに、供給し走供すべし」と誓った。その時阿私仙人がきて「我大乗をたもてり、妙法蓮華経と名づけたてまつる。もし我に適わずんば、当のために宣説すべし」といった。王はこの言葉を聞いて、歓喜して阿私仙人にしたがい、果を採り水を汲み、薪を拾い、身をもって牀座として、千歳の間一切を供養して、衆生のために妙法を求めて修行し。ついに成仏することができた。その時の王はすなわち釈尊であり、仙人は今の提婆達多である。この大権の聖者が、業因感果の理を示すために、みずから三逆罪をつくり、現身に地獄に堕ちたが、妙法の功力によって、天王如来の記別を受けたのである。
尼
普通は女性の出家者をいったが、在家のまま入道した女性をも呼んだ。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
講義
本抄は、弘安元年(1278)一説によると文永12年(1275)4月12日、日蓮大聖人が身延でしたためられ、佐渡の国是日尼に送られた御消息である。現存するのは断簡2紙のみで、全体の内容は不明である。
佐渡の国からはるばる身延の大聖人のもとに来て、菜を摘み、水を汲み、薪を取り、こまごまと大聖人の身の回りのお世話をする是日尼の夫君、入道殿の真心に対して、心から讃嘆の言葉を述べられているところである。
大聖人のもとには、家事全般を御弟子が交替で行っていたのであろう。はるばる佐渡から来た入道は、自分のできる最大の奉仕をしようという気持ちで、こうした細々とした仕事を心をこめてしたにちがいない。
そうした入道に対し「ふでをもちてつくしがたし」と、真心を賞でておられる。
「これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし」全部、妻である是日尼にも功徳として帰っていくであろうということである。
「又御本尊一ふくかきまいらせ候、霊山浄土にてはかならずゆきあひたてまつるべし」この御本尊を受持していけば、霊山浄土で必ずお会いできる。すなわち必ず成仏できるとの仰せである。それは御本尊こそ成仏のための根本の鍵であることを指南された御文でもある。